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義仲伝承地案内板 ~女性と子孫~

こちらの地図は、義仲館「伝承地案内板・巴と女性たち」の「女性と子孫分布図」に対応しています。ポイントをクリックすると詳しい情報が表示され、該当noteページへのリンクが入っています。

義仲と言えば巴というぐらい、カップルで語られることが多い二人ですが、義仲の周りにはほかにも女性がいました。

そのため「義仲の子孫がいた」という伝承がいろんなところに残っています。

なぜたくさんの女性が義仲の周りにいるのか?

「英雄色を好む」という言葉があり、義仲の周りに女性が多くいることから小説で女好きに描かれたものもありますが、義仲は女に目がないヤバイ男だった!わけではありません。

現代では夫婦は男女1対1と法律で定まっていますが、義仲の時代はそうではありませんでした。また、男女が結ばれて子供が生まれることの意味が違いました。他にも義仲の時代と今では違うことはたくさんありますが、一番はお金がまだあまり使われていないということです。現代では「人を多く集めて仕事をたい」と考えたら、お金で人を雇えばすみます。ではお金がない時代はどうやって人を集めたのでしょう。

「つながりのある人同士で助け合う」ことが、まず考えられます。

第二次世界大戦前後など、まだ農業が機械化されていない時代は、家族・親戚が助け合って田畑を耕していました。長野県では春と秋に農作業のために学校では「中間休み」があったほど子供も含めた家族で働くことがあたりまえでした。また農家だけでなく、商店でも家族・親戚が経営し、職人の技も家族・親戚で助け合い、引き継がれていました。

つまり家族・親戚はひとつの集団であり、家族・親戚が多ければ、日ごろ助け合える人は増え、事を成そうとするときに、お金という対価がなくとも多くの人をいっぺんに集めることができます

義仲などの「武士」が多くの妻を持つことは、多くの家族、自分のために働いてくれる人を増やすという目的があったのです。

また義仲を介して、妻の家族それぞれが親戚として結びつき、ライバル関係にあった家が仲間になったり、妻の家族側にも多くのメリットがありました。

後の時代の話になりますが、義仲の死後も妻の家族同士の結びつきは続き、鎌倉幕府崩壊の時に協力して北条時行の逃避行を助けています。鎌倉時代以前からのつながりが室町時代まで残っていたのです。

また、義仲とそっくり同じように婚姻関係による強大な武士団を作ろうとした人物がいました。源頼朝の父・義朝です。

残念ながら源義朝は平治の乱で殺されてしまいましたが、義朝が作った婚姻関係による武士団が、頼朝挙兵の際に大きな影響をもたらしました頼朝は父・義朝が作った基盤を引き継いだからこそ、関東の武士を次々と従え席巻することができたのです。義仲軍にも父・義賢の家臣団が参加し、最期の7騎には那和・多胡といった武士たちが残っていました。

武士たちにとって二代にわたって仕えたくなるほど「源氏」とは魅力的な主家だったのかもしれません。


1 山吹とその子供

義仲の周りにいた女性として、平家物語に巴と並んで登場するのが山吹です。山吹とその子供の伝承はこちらへ。

2 その他女性と子供

源平盛衰記に登場する葵、御伽草子に登場する唐糸をはじめ、伝承に残る女性たちと子供の伝承はこちらへ。

3 清水義高

義仲の子として義高(木曽義高・清水義高)が知られています。詳しい解説と伝承はこちらへ。

4 その他の子孫

義高以外の義仲の子、また子孫にまつわる伝承はこちらへ。