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義仲館
2021年3月12日 15:57
池田次郎忠康富山県小矢部市今石動町北陸(越中)武士倶利伽羅合戦の時、義仲が鳥居を見つけ、地元に住む池田次郎に「いかなる神をまつっているのか?」と聞いたという。
2020年12月25日 11:24
野尻富山県南砺市野尻北陸(越中)武士 石黒党倶利伽羅合戦前に越中から集まった武士の中に名前が見える。
2020年12月24日 10:38
宮崎太郎長康富山県朝日町宮崎北陸(越中)武士 宮崎党宮崎太郎長康は義仲軍の重要な武将で、倶利伽羅合戦の前哨戦である安宅の戦いで半死半生の傷を負うがよみがえり、北陸合戦を戦い抜き都へ上ってからも名が見える。義仲の死後も生き延び、長野県飯田市で亡くなっている。■宮崎城富山県下新川郡朝日町宮崎(JR越中宮崎駅3㎞50分)宮崎山は国境にある要害の地で、宮崎太郎が居館を構えていた。源平
2021年3月12日 15:27
南保二郎家隆富山県下新川郡朝日町桜町北陸(越中)武士 宮崎党宮崎太郎の弟。南保二郎の居館ではないかと推測される館跡がある。燧合戦、平家を追い落とす安宅の戦いで平家の侍高橋判官長綱と甥の入善小太郎が組みあっていた際、高橋の首を取った。その功を争い、義仲が見事な裁きを見せたエピソードがある。
2021年3月12日 15:31
入善小太郎安家富山県下新川郡入善町入膳北陸(越中)武士 宮崎党入善小太郎は宮崎太郎の嫡子。東大寺領入善庄は五〇〇年ほどにわたって営まれた。燧合戦、平家を追い落とす安宅の戦いで平家の侍高橋判官長綱と組みあった。その首をめぐって叔父の南保二郎と功を争い、義仲が見事な裁きを見せたエピソードがある。
2020年12月24日 15:19
向田荒次郎村高富山県高岡市福岡町下向田北陸(越中)武士 宮崎党宮崎太郎の弟。倶利加羅合戦で宮崎太郎と兄弟で依田氏らを案内して軍をすすめた。「越中志徴」によると荒次郎は向田にかかわる武士だという。
2020年12月24日 15:24
石黒光弘富山県南砺市・高岡市福岡町木舟古代礪波臣氏北陸(越中)武士。石黒党を率い、北陸合戦を戦い抜いた。もとは石黒庄を本拠地としていたが、元暦元年(1184年)北陸街道の南側に平城木舟城を築いた。それ以後も石黒氏が治めた。巴御前(および中原家)と親族関係があったという伝承がある。
2020年12月25日 11:51
高楯二郎光延富山県南砺市北陸(越中)武士石黒党か。倶利伽羅合戦の際、石黒「太郎光弘」と続いて高楯「次郎光延」と記されている。高楯城は石黒光弘が木舟城に移る前の館跡ではないかと推定されている。
2020年12月25日 11:32
泉三郎富山県南砺市和泉北陸(越中)武士 石黒党 倶利伽羅合戦で泉三郎の名が見える。「三州志」によると泉氏は和泉を本拠とする武士ではないかという。
2020年12月25日 11:55
太美七郎光能富山県南砺市太美(太美郷)石黒党倶利伽羅合戦で名が見える。義仲軍で参戦し、討死したという。
2021年6月20日 19:49
六動太郎光景林六郎光明の郎党。六動太郎光景の名が燧合戦で見える。六道寺は港津を備えた交通の要所として古くから開けていた。「越中志徴」によると村名はかつて六動寺という大寺があったことに由来するという。「源平盛衰記」によれば、寿永二年(1183)五月、源義仲が兵五万余騎を率い「六動寺の国府」に屯したという。
2020年12月25日 11:34
福満五郎富山県南砺市福光栄町福光北陸(越中)武士 石黒党石黒太郎光弘の舎弟だという。また福光には石黒氏の居城があったという。
2021年3月15日 09:28
富山県南砺市舘
2021年3月15日 09:31
富山県南砺市福光臼中