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越中武士

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池田

池田

池田次郎忠康
富山県小矢部市今石動町
北陸(越中)武士

倶利伽羅合戦の時、義仲が鳥居を見つけ、地元に住む池田次郎に「いかなる神をまつっているのか?」と聞いたという。

野尻

野尻

野尻
富山県南砺市野尻
北陸(越中)武士 石黒党

倶利伽羅合戦前に越中から集まった武士の中に名前が見える。

宮崎

宮崎

宮崎太郎長康
富山県朝日町宮崎
北陸(越中)武士 宮崎党

宮崎太郎長康は義仲軍の重要な武将で、倶利伽羅合戦の前哨戦である安宅の戦いで半死半生の傷を負うがよみがえり、北陸合戦を戦い抜き都へ上ってからも名が見える。義仲の死後も生き延び、長野県飯田市で亡くなっている。

■宮崎城

富山県下新川郡朝日町宮崎
(JR越中宮崎駅3㎞50分)

宮崎山は国境にある要害の地で、宮崎太郎が居館を構えていた。源平

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南保

南保

南保二郎家隆
富山県下新川郡朝日町桜町
北陸(越中)武士 宮崎党

宮崎太郎の弟。南保二郎の居館ではないかと推測される館跡がある。燧合戦、平家を追い落とす安宅の戦いで平家の侍高橋判官長綱と甥の入善小太郎が組みあっていた際、高橋の首を取った。その功を争い、義仲が見事な裁きを見せたエピソードがある。

入善

入善

入善小太郎安家
富山県下新川郡入善町入膳
北陸(越中)武士 宮崎党

入善小太郎は宮崎太郎の嫡子。東大寺領入善庄は五〇〇年ほどにわたって営まれた。燧合戦、平家を追い落とす安宅の戦いで平家の侍高橋判官長綱と組みあった。その首をめぐって叔父の南保二郎と功を争い、義仲が見事な裁きを見せたエピソードがある。

向田

向田

向田荒次郎村高
富山県高岡市福岡町下向田
北陸(越中)武士 宮崎党

宮崎太郎の弟。倶利加羅合戦で宮崎太郎と兄弟で依田氏らを案内して軍をすすめた。「越中志徴」によると荒次郎は向田にかかわる武士だという。

石黒

石黒

石黒光弘
富山県南砺市・高岡市福岡町木舟
古代礪波臣氏

北陸(越中)武士。石黒党を率い、北陸合戦を戦い抜いた。もとは石黒庄を本拠地としていたが、元暦元年(1184年)北陸街道の南側に平城木舟城を築いた。それ以後も石黒氏が治めた。巴御前(および中原家)と親族関係があったという伝承がある。

高楯

高楯

高楯二郎光延
富山県南砺市
北陸(越中)武士

石黒党か。倶利伽羅合戦の際、石黒「太郎光弘」と続いて高楯「次郎光延」と記されている。
高楯城は石黒光弘が木舟城に移る前の館跡ではないかと推定されている。

泉

泉三郎

富山県南砺市和泉
北陸(越中)武士 石黒党

倶利伽羅合戦で泉三郎の名が見える。「三州志」によると泉氏は和泉を本拠とする武士ではないかという。

太美

太美

太美七郎光能
富山県南砺市太美(太美郷)

石黒党
倶利伽羅合戦で名が見える。義仲軍で参戦し、討死したという。

六動

六動

六動太郎光景
林六郎光明の郎党。

六動太郎光景の名が燧合戦で見える。

六道寺は港津を備えた交通の要所として古くから開けていた。「越中志徴」によると村名はかつて六動寺という大寺があったことに由来するという。「源平盛衰記」によれば、寿永二年(1183)五月、源義仲が兵五万余騎を率い「六動寺の国府」に屯したという。

福満

福満

福満五郎
富山県南砺市福光栄町福光
北陸(越中)武士 石黒党

石黒太郎光弘の舎弟だという。また福光には石黒氏の居城があったという。

おさも

おさも

富山県南砺市福光臼中