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③木曽義仲相関図

 木曽義仲相関図は32枚のキャンバス80名を超える人物が描かれ、義仲にまつわる様々な事柄をイメージした風景とともに描かれています。
 「義仲館」は義仲を主人公にした施設です。他では見られない、義仲にまつわる複雑な人間たちの思惑を伝えられたら…と、アートの力を借りて目で見て感じられるように作成しました。


 相関図を見てみると、どんな人たちが描かれているでしょうか。
 衣装に注目してじっくり見てみましょう。

 「義仲のことは小説やドラマで知っている!」というあなたは
 どこにだれが書かれているか、探してみてくださいね。


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 小説や漫画のキャラクターでの義仲は、人間関係を削り落とされシンプルになってしまっています。平家物語でも広く手に取りやすい「覚一本」ではとてもすっきりまとめられてしまっています。

 義仲の人生は決して単純なものではありません。

 義仲は都の軍事貴族・源氏の血を引く子供として生まれました。本来であれば都に生まれ、都で育ち、貴族の娘と結婚して一生を終えたことでしょう。ところが源氏の中では兄弟ですら殺し合う、恐ろしい跡継ぎ争いが続いていたのです。その争いのために義仲は埼玉県で生まれ、長野県で育ち、戦をしながら北陸を駆け抜けて、に向かう、複雑な人生となってしまいました。

 しかも「源氏の子」は特別な存在義仲を利用して自分の地位を高めたい様々な人々が周囲に集まります。また義仲自身も、自分がよりよく生きるため、源氏の血を利用したといえます。
 義仲をめぐる人間関係は、地域が広く、登場人物とその思惑は深いのです。

■相関図に登場する人々

①源氏の人々・義仲の家族

源頼朝

源頼朝は鎌倉幕府を開き、武士の時代を作った人として社会の授業で取り上げられているので、肖像画に見覚えがある人もいるかもしれません。
頼朝と義仲は父が兄弟でいとこです。

源義経

源頼朝の弟です。義経は政治より戦の世界で生き、そして若くして命を落としました。兄が送った軍勢に討たれて。

源行家

源行家は義仲の叔父で以仁王の令旨を全国の源氏に届けました。口はうまいのですが行動が伴わず、戦では負け続き、頼朝に疎まれ義仲に助けられ都に共に入りますが、義仲の悪口をほかの源氏や後白河法皇に言いまくり、義仲の立場を悪くしていきます。義仲が平家と和平を結ぶと、平家の進路を邪魔し、最後まで義仲を困らせました。

志田義広

志田義広は義仲の叔父です。父を亡くした義仲にとって、どこか面影を感じさせる人物でした。志田義広は義仲に味方し、最後まで共に戦いました。

源氏の人々

義仲は代々鎮守府将軍に任じられた源氏の一員です。一族には歴史に名を残した人が多く、それぞれの子孫が誇りをもって生きていました。時には誰が一番正当な源氏の血筋なのかと争うこともありました。

清水義高・大姫

清水義高は木曽義仲の子。大姫は源頼朝の子です。
敵同士の家に生まれながら二人はひかれあい、永遠の愛を誓いました。義高は源頼朝の送った軍勢に殺されますが、大姫は死ぬまで義高を想い続けました。

海野幸氏
海野幸氏は義高を守る従者です。鎌倉から義高を逃がすために一人残り、犠牲になるはずでした。しかし源頼朝に取り立てられ、信濃武士の代表として鎌倉幕府で働くことになります。

義仲の母・小枝御前

埼玉県から長野県の木曽まで義仲を抱いてやってきました。馬には乗ったかもしれませんが、車も電車もない時代です。どれだけ大変だったことでしょう。木曽に到着し、中原兼遠に我が子を預けほっとしたに違いありません。

義仲の妻と子

義仲の妻とされる女性ははっきりしていません…様々な伝説がありますが、平家物語に登場する摂関家・藤原基房の娘が最も身分が高いため、歴史的には正妻とされています。

義仲の子供は何人かおり、子孫の方がたくさんいらっしゃいます。

 

②義仲の敵

笠原頼直

中野市を中心に勢力を持ち、都で戦が起きた時には北信濃の武士を率いてかけつけ戦いました。残念ながら信濃国では何度も義仲に負けて、新潟県の山奥で一族と静かに余生を過ごした伝承があります。

平泉寺斉明

平泉寺斉明は北陸の僧兵で平家と義仲軍を比べ、敵味方を状況によってのり変え続け自分の価値を高く売り込みました。

鼓判官平知康

鼓判官は都の貴族で後白河法皇に取り入り平家・義仲・頼朝をほんろうしました。

③都の貴族たち

後白河法皇

後白河法皇は本来天皇にも、法皇にもなるはずがない人でした。そのため若いころは喉がつぶれるまで歌を歌い、身分にかかわらず趣味を同じくする者たちと集まり楽しく過ごしていました。跡継ぎになるはずの親族が亡くなり奇跡的に位につきました。その時から人が変わってしまいました。自分の権力にどこまでも執着するようになったのです。

以仁王

以仁王は後白河法皇の子で、源平合戦のきっかけとなった令旨を源氏に出した人物です。経験が全くないのに自ら鎧をまとい、合戦にも参加しました。残念ながら平家に討ち取られ志半ばで世を去りますが大きな影響を歴史に与えました。

八条女院

八条女院は後白河法皇の妹で、一時期天皇候補になった優れた女性です。男性であれば間違いなく天皇になっていたことでしょう。父・鳥羽天皇は女院の実力を認めて自分の財産をすべて譲りました。平家が政治を思うままにしていた時も、女院はその財産を使い、源氏や平家と対立した人々、身寄りのない人を助けました。しかし財産がありすぎて、片づけは苦手だったようです。

北陸宮

北陸宮は源平合戦のきっかけを作った以仁王の子です。都の貴族が共に北陸に逃げ延び、義仲に預けられました。義仲は以仁王がいなければ源氏が挙兵することもなく、平家の世が続いていたはずだと考え、北陸宮が天皇になるのがふさわしいと考えていました。

④義仲の恩人

中原兼遠

中原兼遠は義仲を育てた木曽の人物です。
兼遠がいなければ義仲は歴史上に名前を残すことはできませんでした。しかし、どんな地位の人物だったのかはっきりわかっていません。自分の名声より義仲を立派に育てることを大事に考えた証拠なのではないでしょうか。

金刺盛澄

諏訪社は武芸に秀でた神をまつる神社で、武芸を競う神事を行っていました。大祝は弓矢の名手で、射抜いた動物たちが神にささげられていました。
父を亡くした義仲を諏訪社大祝・金刺盛澄は中原兼遠と共に援助していました。娘を嫁がせ、女子が生まれたと伝えられています。

斎藤実盛

義仲の命の恩人です。元は源氏に仕えていましたが、義仲の父が殺されたことをきっかけに平氏に仕え、最後まで平氏の軍で戦いました。

⑤義仲の仲間達


巴は日本史史上最強ともいわれる女性です。義仲と恋人だったとも、男女の関係はなかったともいわれます。謎の多い女性です。

木曽四天王

木曽義仲に従った武士の中でも優れた4人を木曽四天王と呼びます。今井兼平・樋口兼光・根井行忠・楯親忠です。
中原兄弟の二人と、長野県佐久地方の滋野一族の二人です。

手塚光盛と手塚別当

義仲の最期の五騎は、義仲・今井・巴・手塚光盛・手塚別当でした。二人の手塚氏は諏訪大社の関係者です。また手塚治虫先生の先祖としても知られています。

大夫坊覚明

大夫坊覚明はすぐれた僧侶になるために修行をしていました。文章を書く才能は飛びぬけたものがあり、その実力は知られていました。一方で強い正義感と好奇心があり、都を牛耳る平家に対して批判的な文章を記して追われる身となりました。その後義仲の軍勢に加わり、さまざまな文章を残しますが、延暦寺に手紙を送ったのち、いったん姿を消してしまいます。義仲の死後は、義仲の子を連れて各地を放浪したという伝説や、箱根山に僧として潜入し頼朝に追われた記録が残っていたり、有名な僧に弟子入りした後、長野市に寺を立てたり波乱万丈な一生を送りました。

信濃武士

義仲を支えた信濃の人々は武士、寺、神社、さまざまな背景を持っていました。義仲をまっすぐ見つめ、戦のアイデアを出し合い、共に信濃を守りました。

北陸武士

義仲が長野県での戦に勝利すると、北陸の武士が仲間にしてほしいと駆け付けました。普通の武将なら偉そうにふるまうところを、義仲は北陸武士たちに馬をプレゼントしました。当時の馬は超高級品です。北陸武士たちは感激して義仲に忠誠を誓い、共に戦い抜きました。

女武士・葵

葵御前は義仲と共に戦った女性で、倶利伽羅合戦で亡くなったとされています。長野市の善光寺に関わる女性だったとみられます。

兼生尼

兼生尼は富山県南砺市に住み、義仲や戦で亡くなった人々を弔っていたそうです。
武士は名字を地名からつけたのでバラバラですが、名前は同じ漢字を使い一族の連帯感を強めました。今井・樋口・落合に共通する文字は何でしょうか。

■義仲の生涯をたどるイメージ画




 



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