義仲戦記44「乱麻を断つ 法住寺合戦」
その男は全ての者を唖然とさせていた。
義仲勢もそうだったが、法住寺御所に集められている約一万二〇〇〇名の者らも同様にその男を眺めていたのである。
寿永二年十一月一九日、早朝。
この日は一幕の喜劇と共に明けたのであった。
夜が明ける前に第二軍を防衛の為に残し、六条西洞院の邸を出陣した義仲勢七〇〇〇騎は、義仲の指示の許、各軍はそれぞれの道程を経て法住寺御所に至ると、その法住寺殿西の門の築地の上に鼓判官平知康が立ち、これを待ち受けていた。
しかしこの知康、法皇より大将軍に任じられ合戦の指揮を命じられていた筈だが、何故か鎧を纏わずに兜だけ被って右手に矛を待ち、左手に金剛鈴という鈴を持ち、これをりんりんと鳴らしつつ屋根の上で踊っていたのである。
本人的には舞っているつもりなのだろうが。
とにかく、
(何をおっ始めたんだ?このオッさん・・・)
と、敵も味方も唖然としていた訳だが、程無く笑いが起こり始めた。
それは失笑と嘲笑が混ざり合ったもので、この知康の様子を見ていた者全員が、呆れ返って笑うしか無い、という心境だったのである。
が、その様な空気は文字通り舞い上がっている今の知康の感知するところでは無く、得意満面の知康は矢を一本引き抜くと、芝居がかったクサい仕草で、
「憐れな義仲よ!今!この矢で痴れ者たるお前の首を射てやろう!」
言い放つと、その矢を咥えて気障なポーズをキメている。
その似合わなさが更に皆の失笑を呼んでいる事に知康は気付かない。
幸せな男である。
しかし法皇方の武士や貴族、またここに詰め掛けている僧侶らは、
(こいつが大将軍か? おいおい、こんなんで大丈夫が?俺ら・・・)
と不安を感じながら、あらためてこの様な者を一軍の大将軍に任じ、全軍の指揮を命じた後白河法皇の、人を見る眼の無さと、この様な者しか近臣にいないという不幸に思い至ると、暗澹たる気持ちになっていた。
が、彼らがそう思っていたとしても時既に遅く、もはや戦端が開かれるのは時間の問題なのであった。
そしてこの戯画のクライマックスが来る。
知康が更に声を張り上げたのである。
「聞け!十善帝王に対し奉り弓を引こうとは、よくもそこまで思い上がったものよ!
古は宣旨を読み上げただけで枯れた草木も花を咲かせ、実を結び、悪鬼悪神すら平伏して従ったという!
これが十善帝王の御威光と言わずに何と言おうか!
お前達が射た矢は返ってお前達の身体に突き立ち、我らの射る矢はその矢尻を取り去って射たとしても、お前達の鎧を突き通す事は疑い無い!
そしてお前達の引き抜く太刀は、お前達の身を斬る事のとなり、我らの太刀は悉くお前達の首を断つだろう!」
と知康が絶叫した時、ぱらぱらと雨粒が落ちて来た。
すると知康は、この程度の事で天佑神助と勘違いしたのか、更に激しく鈴を打ち鳴らすと、
「賊を撃ち払うは今! 皆の者! 射よーーっ!」
号令を掛けた。
すると御所の内側から塀越しに矢が飛んで来る。
時にはならず者らが投げる石や礫も。
が、塀の内側から言ってみれば盲撃ちで射る矢が当たる筈も無く、見当違いの方向へとばらばらに飛んで行くだけであった。
この詰まらぬ小芝居を無言で耐えていた義仲は、馬上でサッと右手を上げると、新熊野方面から御所西門の義仲勢本隊第五軍に合流していた搦手第七軍大将四天王筆頭樋口兼光は素速く火矢に火を灯して番える。
すると第七軍の軍勢二〇〇〇騎の将兵達も次々と火矢を灯して番えた。
「世迷言は他でほざくが良い。
これより本物の戦いというものを見せてやろう」
義仲は冷たく言うと、右手を前に振り下ろした。
と同時に第七軍の火矢が一斉に放たれた。
その火矢は法住寺殿北の御所の屋根に突き立つ。
折から天候が崩れ出し、小雨が降り出していたのだが、風が激しく吹き付けていた事もあり、御所に突き立った火矢は瞬く間に猛火となって燃え上がったのである。
「第三軍は西表の門より御所内に突入!
第四軍はこのまま西表の門外に留まり逃げ出して来る敵を待ち構えろ!
第六軍は東瓦坂より東門を入り御所内に攻め掛かれ!
第七軍は南西の門外に布陣!
第一軍及び第五軍本隊は北側から北門を抜け御所に攻め掛け、敵を南側に追い詰める!
行くぞっ!」
「「「おおおおおっ!!!」」」
義仲の号令が掛かると、七〇〇〇騎の軍勢は四手に分かれるや、その鋭い牙を剥いて御所に襲い掛かって行った。
法住寺御所北殿からの炎と煙りは今や、大空を覆う程に満ち、その燃え盛る火焔と共に総大将義仲率いる第五軍と第一軍は北から御所内に攻め掛かる。
時を同じくして第三軍が西から、第六軍が東から御所に突入した。
こうなると御所内に犇めいていた一万二〇〇〇名以上もの有象無象の輩らは南側へと退避するしか方法が無い。
そしてその南側の南西の門には第七軍二〇〇〇騎が待ち構えている。
「・・・御所に火を掛けおった・・・」
立ち昇る炎と煙を茫然と見上げていた後白河法皇は、震えながら呟いていた。
義仲がここまでやるとは夢にも思っていなかった法皇は、今更ながら戦闘現場の真っ只中にいる事の恐怖が身体に這い上がって来たのである。
と、思い出した様に、
「鼓判官は!知康はどうした!何をやっておる!」
何かに当たり散らす様に怒鳴る。
「そ・・それが、敵が火矢を放って以後は、行方が掴めず・・・」
近臣の一人が口ごもりながら言い訳をした。
「何じゃと!大将軍がおらんで誰が指揮を執るのじゃ!」
地団駄を踏むように再び法皇が怒鳴り付ける。
と、
「陛下。ここ南殿も危のう御座ります。
今は鼓判官などに構っている時ではありませんわ。
至急、退避なされませんと」
丹後局が落ち着いて法皇を諌めた。
が、その丹後局とて義仲が迷う事無くいきなり御所に火攻めを掛けて来るとは予想していなかった。
せいぜい御所を武装した騎馬武者で取り囲み、小競り合い程度の衝突の後に和議なり折衝なりを申し込んで来るものと思っていたのである。
その丹後局の予想は外れた。
義仲は彼女が思っている程、甘くも無かったし、度胸の無い男でも無かった。しかし、彼女が漠然と感じていた“危険な男”ではあったのである。
丹後局は初めて武将という者の怖さ、戦さというものの恐ろしさを感じていた。
いくら“法皇第一の寵臣”と渾名され、その政治的権力を振るって来た彼女でも“剥き出しの力”の前には無力だ、という事を痛感しなければならない事に怒りすら覚えていた。
しかしこれが乱世なのである。
これまで朝廷内で法皇の権威と寵愛を背景に、政治活動を愉しんでいた時とはまるで原理が違うのである。
武力が政治的紛争の最終的な解決手段である、という事を苦い思いと共に思い知らされた悔しさはあったが、今はその様な事を悠長に考えている暇は無い。
丹後局はとにかく法皇を避難させる為に動かなければならないのであった。
「誰か!御輿の用意を!法皇陛下が御行なされます!
至急!御輿の用意を!」
悲鳴に近い声で丹後局が指示した。
いや、それは正に悲鳴であった。
彼女にしてもこの恐ろしい場所からすぐにでも逃げ出したかったからだ。
と、
「御所の北門、西門、東門より敵が侵入!
しかし我が方の者達はこれに抗す事敵わず、既に逃げ出し始めております!」
近臣が告げて寄越した時、法皇と丹後局は身体の芯から震える程の恐怖に襲われた。
人数だけは一万二〇〇〇以上と立派なものではあったが、本物の武将とそれに率いられた歴戦の兵達の前には全く無力であった事も思い知らされたかたちとなってしまった。
それでも丹後局は、
「さあ!お早く!南の門から退避しましょう!お早く!」
法皇の手を取ると、引き摺る様にした連れて行く。
その美しい顔は蒼白となり、その声は震えていた。
「そこの武士!我らと共に法皇陛下の護衛に付け!」
「何処へ参られますのか?!」
「南西の門外が開いておる、との事!この門より御所を脱出する!」
「いけません!それが敵の狙いと思われます!」
仁科盛家が声を張り上げて、近臣に反対した。
さすがに仁科は、義仲の意図を正確に把握している。
北・西・東の三方向から攻め掛かり、意図的に南だけを開けて置く事で、脱出口を一つだけに設定しておけば法皇や主上の足取りを捕捉する事が容易となり、しかも南側の門外に軍勢を多く布陣させて置く事でその確保を図る、との義仲の真の狙いを。
「南へ行けば敵に法皇陛下を捕らえられてしまう事となります!
ここは北へ向かうが得策というもの!」
仁科は必死に言い募る。
「馬鹿を申すな!真っ先に北門より敵が侵入して来たのだぞ!
それに今、北殿は猛火に曝され近寄る事は危険だ!」
「だからこそです!今なら北門に敵が待ち受けている事は無いでしょう!
多少の危険は伴いますが、一気に炎を突っ切り北門より脱出すれば、その後、法皇陛下が捕われの身とならずに逃げ切る事も可能となります!」
仁科は法皇が御所から脱出したその後の事まで考えて言っていたのだが、気が動転している上にこの様な非常事態に接した事の無い近臣は北側より襲い掛かる火焔の勢いに恐れをなし、
「うるさい!陛下を危険に曝す訳には行かん!いいから付いて参れ!」
ヒステリックに叫ぶと、考える事をやめて走り出す。
すると御輿の行列がそれに続いた。
仁科は舌打ちすると振り返り、
「村上どの!こうなれば仕方無い!
我らも陛下の護衛に付き、南西の門へと向かう!」
「解った!が、南西の門には敵が待ち受けている事でしょうな!」
村上義直も当然、義仲の遣り方を熟知していた。
仁科は大きく頷くと、
「まず間違い無く!」
応じ、郎等を引き連れて御輿の行列に付き従って行った。
「これは良い事を聴いた・・・」
近臣と仁科・村上の遣り取りを南殿の縁の下の物陰に身を潜めて聴いていた大将軍鼓判官知康は、ほくそ笑みつつ辺りを見回しながらそっと姿を現すと、急ぎ足で御所内にある池に向かい、迷わずその身をざぶんと水に沈めた、と思うと再び池から這い出し、今度は一目散に走り出した。
炎の燃え盛る北の方向へと。
鼓判官は義仲勢が火矢を用い戦端が開かれるや、もう私の手に負えん、とばかりに姿を眩まし、御所から逃げ出す機会を伺っていたのであった。
しかも既に先程の装束を脱ぎ捨て、一般貴族の平服の着替えまで用意していたところを見ると、この男は初めから大将軍としての職務を全うする事など考えてはいなかったのであろう。
更にこの男の口車に乗って火遊びを始めてしまった法皇の事など、どうなろうと知った事か、とばかりに己れ一人の安全だけを考え、この男は総てを放り出して隠れる様に逃げ出したのであった。
無責任という言葉以上の卑怯な振る舞いを犯したこの男を、あろう事か大将軍に据え、当代最高の武将たる義仲に対するなど、正気の沙汰とは思えない法皇であったが、その怯懦という言葉を体現した様なこの男にすら見捨てられてしまったのだ。身から出た錆とも言えるが、同情を禁じ得ないとも言える。
こうして法皇方の大将軍が一早く姿を眩まし、逃亡した事で御所内に犇く法皇方の者らは指揮する者が消えた事で、その混乱ぶりは一層拍車が掛かったのである。
鼓判官が大将軍としての重責を果たしていたところで、事態は好転する事など無かったが。
しかし、法皇からの呼び出しに応じてこの法住寺御所に参集していたお歴々の高位の者達の方こそ、堪ったものでは無かった。
法皇からの呼び出しである以上、来ない訳にはいかなかったが、彼らとて義仲が本気で御所に攻撃を掛けて来る、とは思っていなかった訳で、どこか戦さ見物染みた気軽な気持ちでいたのであろう。
そうでなければその身にも危険が及ぶ様な事は忌避する筈であるし、御所に来る事を避けていた筈だ。
だが、義仲勢が火矢を射掛けて来た時、彼らは戦さごっこを見物する筈が、リアルな戦いに巻き込まれている事を覚らざるを得ない状況にその身を置いている事に恐怖した。
そうなると彼らの出来る事は一つに限られる。
つまり逃げる事だ。
こうして法皇・主上から女官・高僧・貴族・近臣・武士・悪僧・乞食法師・ならず者そして大将軍に至るまで、この法住寺御所に集められた全ての階層の者らは、貴賤を問わず逃げ出す事となったのである。
こうして早々に一万二〇〇〇名を数えた官軍は瓦解したのであった。
この纏まりも無く、最終的な政治的意図すら不明なこの雑多な集団を官軍と呼ぶのであれば。
一部の武将達は未だ抵抗を続けていた。
が、その抵抗が止むのも時間の問題であった。
「ええい!馬だ!馬を用意しろ!」
天台座主明雲大僧正が怒鳴り散らしていると、園城寺長吏円恵法親王は焦りながらあたふたとやって来る。
「こちらに馬の用意が!明雲大僧正!こちらに!」
「おお!では共にここを出るとしよう!」
明雲大僧正は応じると、悪僧らが牽いて来た馬の手綱をひったくり、攀じ登る様にして馬に跨ると、
「悪僧ども!私と法親王どのを御護りするのじゃ!」
強引に命じると、円恵法親王と共に悪僧らを引き連れ、手近な門から脱出しようと馬を一気に駆けさせた。
「其方は誰か!名乗らねば射る!何者か!」
門を駆け出ると前方から誰何されたが、明雲大僧正は馬を更に駆けさせる。大僧正は名乗るつもりなどさらさら無く、馬を駆けさせる事でその返答とした。
「ならば仕方無い」
西門を固めていた第三軍大将楯親忠はそう呟くと、既に引き絞っていた矢を放った。
「!」
その矢は過たずに大僧正の胸に突き立ち、大僧正は馬から振り落とされる様に落馬した。
これを見た法親王は慌てて手綱を引き、馬足を緩めると、
「せっ拙僧は園城寺長吏円けぇ!」
と名乗ったところで、左耳の後ろ辺りを射られ、馬から崩れ落ちた。
「園城寺長吏と名乗ってやがったな。
じゃ奴が円恵って法親王サマか?親忠」
第四軍大将根井小弥太は弓を下ろしながら傍らの弟に訊く。
「でしょうね。これで“君側の奸”の二人は討ち取った事になります。が」
「ああ。だが鼓の野郎がまだだ」
小弥太は厳しい眼付きで御所の門を睨んでいた。
「ただ今、西表の門を固める第三軍大将楯どのから伝令が届きました!
天台座主明雲大僧正及び園城寺長吏円恵法親王を討ち取られた、との事です!」
「良し!では私は五〇〇騎を引き連れ、義仲様の援護に回り、その後は南西の門へ向かう!この東門は五〇〇騎の兵で固めろ!
では光盛!後は任せた!」
第六軍大将今井兼平は部隊を二つに分けると、義仲の許へと駆け出した。
程無く、兼平の馬の前方に牛車が一台停まっている事に気付くと、
「御車より出て参られよ!」
鋭く声を掛ける。
すると牛車の前に架かる簾が巻き上げられ、乗車していた者が姿を見せた。
「戦場なれば馬上から失礼する。名乗られよ」
兼平が厳しく問い掛けると、
「拙僧は仁和寺御室、守覚法親王と申す」
「御室の御車だったとは」
兼平は表情を幾分緩め、馬を牛車に近付けると、
「先程、我らは天台座主及び園城寺長吏円恵法親王二名を討ち取って御座います」
告げた。
すると御室は顔を蒼白にし、驚きと恐れの入り混じった眼を大きく見開き、しばし絶句していた。
兼平はそんな御室を少し安心させる様に僅かに笑みを浮かべると、
「しかし御室は法皇陛下の皇子にして今回の策謀とは無縁の御方。
同じく円恵法親王も陛下の皇子にあらせられますが、今回の策謀に深く関与されておられた以上、見過ごす訳には参りませんでした。
我らとて無関係な者に徒に危害を加える事はありません」
それを聞いた御室は、地獄で仏に出逢えた様な安堵の表情を見せる。
「これより西表の門に向かって下されば、ここを脱する事が出来るでしょう。御室の事は門外に布陣している我らの将に連絡をしておきます。
さ。行かれよ」
兼平はそう告げると馬の向きを変えて駆け出す。と、
「御心配なさらずとも我らは法皇陛下や主上に危害を加えるつもりはありません!では!」
最後にそう付け加えると、炎と煙が充満する方向へと振り向く事無く駆け去って行った。
「義仲様!あれを!」
第五軍大将巴御所こと戦う美少女が馬上で叫んだ。
義仲は反射的に巴に眼をやると、戦う美少女は弓を持った左手で、ある方向を指差している。
義仲がそちらを見ると、御所内に設けられた池に船が浮かんでいる。早くもそれを見て取った郎等達が矢を番えようとした時、
「待て!この御船に座すは主上である!
何の故あって主上に弓を引こうとするのか!」
「国王が御座して座す御船ぞ!」
船の上の者らが叫び声を上げた。
と、
「矢を射てはならん!あの船にこそ我らが行方を訪ねていた主上が御渡りになっておられる!」
義仲が一喝する。
続けて、
「御船を岸にお着け下され!これよりは我らが護衛し奉る!」
御船に向かって声を掛ける。
が、なかなか御船はこちらに戻って来ようとはせずにただぷかぷかと池に浮かんでいる。
義仲と巴は顔を目合わせ苦笑すると、
「大将以外の者は馬より降りて恭順の意を示せ。
そうして居れば向こうからやって来るだろう」
将兵達に穏やかに告げた。
将兵達が命令通りそうすると、程無く御方は義仲の待つ岸へとゆるりゆるりと漕ぎ出した。
「・・・やはりな・・・」
仁科はそう呟き、急いで法皇を載せた御輿の行列に戻ると、
「南西の門外には敵が待ち構えております!その数およそ二〇〇〇騎程!
この上は我ら護衛の武士が敵に攻め掛かり何とか突破口を拓く他に手段は無いと存じます!」
悲壮な覚悟を決めてそう進言した。が、当の近臣らや貴族、武士らはお互いに顔を見合わせるばかりで一歩もそこから動こうとはしていなかった。
戦いの修羅場を潜った経験の無い彼らにとっては仕方の無い事である。
しかも近臣らや貴族の者らは武士では無いのだ。
恐怖で身が竦んでいる彼らを溜め息交りに一瞥した仁科は、村上に眼をやると、
「こうなったら我らだけで攻め掛かるとしよう。どうだ村上どの」
「・・・それしかあるまい。それに我らと郎等達が撃って出る事で、彼らもつられて攻撃に移るかも知れんからな」
村上は“彼ら”と口にした時、怯え切っている近臣らを顎で指し示した。
続けて自嘲気味に呟く。
「しかし自分を討つ者らが昨日までの味方とはな・・・」
「そういう巡り合わせだったのでしょう・・・」
仁科も眼を伏せて囁いた。
その表情は哀しげでありながらも、過ぎ去った時間を、いや、共に戦って来た者達を懐かしむかの様に僅かに綻んでいた。
と、仁科は瞬時に感傷を振り切ると立ち上がり、
「私と村上どのは郎等を引き連れ、突破口を拓く為これより撃って出ます。皆はその間に何としても法皇陛下を御護りし脱出して下さい」
指示すると太刀を引き抜き門へと向かって行く。
村上も同じく太刀を抜くと、
「続けっ!」
号令を掛けるや、村上と仁科と郎等達は一斉に走り出し、門外へと撃って出て行った。
「射よ!」
門から兜を真深く被り、太刀を振り翳して走り出て来た一団に向かい、第七軍大将樋口兼光は一斉斉射の命令を下した。
第七軍の放った数百の矢は、的確に命中して行き、三回目の一斉斉射が止んだ時には、既に門から走り出てきた者らの中で立っている物はいなかった。
すると門の内より幾つもの輿を担いだ行列が現れると、それが列を組んで門の築地の壁沿いに急ぎ足で進んで行く。
この輿を護ろうというのか、輿担ぎの者や悪僧、または武士の様に見える者や貴族らが、手に手に刀を持ち、それを振るいながら逃げる様に輿に付いて行く。
兼光はその様子から輿に乗っている者が誰なのか解った気がした。
そして最後にもう一度だけ命じた。
「射よ」
と。
悪僧や武士、そして貴族ら数人が射られると、輿担ぎの者らは輿をその場に置き捨て、這々の態で逃げ去って行く。
兼光は馬より降りると置き捨てられた輿の一つに歩を進め、輿のすだれを引き上げる。と、
「無礼者!法皇陛下に対して弓を引くとは!」
その輿には女官が一人乗っているだけであった。
兼光はその女官の眼をじっと見詰め、丁重ではあるが力を込めた抑えた声で問う。
「法皇陛下は打ち捨てられた御輿の一つに座されるのですね」
気丈にも睨み返していた女官だったが、兼光の静かな迫力に気圧されたのか彼女は視線を外すとそのまま黙り込む。
兼光もそれ以上、問う事はせずに次の輿の簾を引き上げた。
そこには僧形の老人が一人、諦め切った様子でへたり込んでいた。と、
「この行列は法皇陛下の御幸である!過ちを犯してはならん!」
逃げ出さずに残っていた一人の貴族が声を上げた。
この僧形の老人が後白河法皇その人だったのである。
兼光は無言で首肯くと、軍勢に振り返って命じた。
「千野!御車の用意を致せ!至急だ!」
「了解!」
第七軍大将千野光広は応じると、郎等を数人引き連れて御所に入って行く。
それを見送った兼光は第七軍全軍に向かって声を掛けた。
「我らは法皇陛下を確保した!
義仲様も主上を伴い既にこちらに向かっておられる!
これより各所に散っている各軍もここへ集結するだろう!
これで状況はすべて終了した!
これ以後は刃向かって来る者に応戦する以外の全ての戦闘を禁ずる!
逃げたい者には手を出す事無くそのまま逃してやれ!良いか!」
「「「「おおおおおっ!!!」」」」
兵達が応じた雄叫びは小雨がぱらつき、煙が棚引く御所の空にこだました。
法皇や女官らの保護を郎等らに命じ、己れの馬のところに戻ろうとした兼光の足元に、先程、門より撃って出て来た武士らの骸が横たわっている。
その者らを見るとも無く見ながら歩を進めていた兼光の足が止まった。
馴染み深い顔を見た様な気がしたからだ。
気のせいでは無かった。
そこに倒れていたのは身体中に矢を受けた仁科盛家だったのである。
彼は既に絶命し、死の門を潜って旅立った後であった。
兼光は素早くその周辺を視線を移すと、少し離れたところに探していた者の変わり果てた姿を見出した。
村上義直であった。
彼ももう呼吸をする事無く、矢を受けて凍り付いた様に倒れ込んでいる。
もはや二人は動く事は無い。
兼光はその場で、昨日までの僚友に短く黙祷を捧げると、表情を変える事無くその場を静かに立ち去り、再び馬に跨った。
しかし、気が付くと兼光の視線は二人の骸に投げ掛けられていた。
その兼光の様子を先程の女官が、じっと見詰めている。
しかしその眼の奥には激しい復讐の念が燃え激っていたのだが、無表情で突き刺す様な視線を送る彼女の事を気に掛けている者はこの場には誰一人いなかった。
だが、この丹後局と呼ばれる女官はいつまでもその怨念に満ちた視線を兼光に注いでいた。
「義仲勢は既に法皇陛下と主上を拘束し、他所へ移そうとしている、と!」
「・・・そうか・・・ではこれ以上戦っていても無意味であろうな・・・」
法皇方の近江源氏錦織義広の報告に、源蔵人仲兼が溜め息を吐きつつ答えた。彼らは法住寺御所内で戦っていたのだが、急に敵義仲勢の姿が少なくなった事に不審を感じ、錦織が情報収集に当たっていたのであった。
「七条大路に布陣していた摂津源氏の多田行綱どの!
八条大路方面の比叡山の悪僧ら!御所東門の美濃源氏!
北門の園城寺法師ら!総て逃亡しているそうです!」
「・・・これまでだな。では我らも逃げるとしよう。
錦織どのはどちらへ向かわれる?」
仲兼は今度こそ大きな溜め息を吐くと尋ねた。
「北の粟田口へ向かい、そこから生国の近江へと。仲兼どのは?」
「何とか迂回して南の伏見方面へ出るつもりだ。
河内まで行きたいが、取り敢えず宇治まで逃げようと思う」
「ご無事で」
「お互いな。では」
法皇方に付いた者らの中で、最後まで抵抗を続けていた武士が数名の郎等を連れ、逃げ落ちて行った。
こうして法住寺御所に於いての戦闘は終結した。
だが、七条大路の末辺りでは未だに冗談めいた戦いが続いていたのである。
七条大路に防衛の為布陣していた法皇方の摂津源氏多田行綱の軍勢が、御所から炎と煙りが上がって程無く、もう義務は果たした、とでも言う様に逸早く逃亡を図った事から、事前に鼓判官知康が配置していたならず者らが七条大路の北から南に面する家屋の屋根に上り、あろう事か味方である筈の摂津源氏の軍勢に対し投石による攻撃を始めてしまったのである。
彼らならず者らは事前に『御所より逃げて来るであろう義仲勢に対し、容赦無く石礫を食らわせてやるが良い。追討令を持つ我らは官軍である。である以上、賊徒どもを殺す事は国家に対する忠義である』との鼓判官の有り難いお言葉、もしくは合法的な殺人許可を頂いていたので、七条大路を逃げて行く味方を、賊徒と勘違いし攻撃に及んでしまったのであった。
こうして御所内の戦闘が終結したにも関わらず、ここ七条大路ではこの様な呆れた闘いがまだ続いていたのである。
しかしさすがに御所より立ち上る炎や煙りが下火になって来ると、御所内での戦闘が終わった事を悟った多田行綱は、率いる部隊全軍に退却命令を出し、今度こそ逃亡に成功したのであった。が、その全軍退却の時にも相当な被害を出しての逃亡劇となってしまったのであった。
ともあれ、法皇方のお歴々の高位高官の中でも、この法住寺御所から無傷で脱出に成功した者もいたのである。
それは前摂政藤原基通その人である。
この基通は都落ちする平氏一門の隊列からの脱出を成功させた奇跡の御人であるが、この時も彼は前日から法住寺御所に参内していたにも関わらず、義仲勢が御所に攻め寄せる直前に、御所から逃れていたのであった。
その危機を嗅ぎ分ける鼻の良さ、或いは危機を回避する能力の高さには呆れると共に驚愕するしか無い。
強運の星の下に生まれ付いたのであろう。
とにかく戦場となる直前に御所から逃亡する事に成功した基通は、一路、宇治にある別邸に避難する為に向かっていたのだが、その途中で先程の源蔵人仲兼の主従に出逢うと、この仲兼主従に護衛をさせて、無事に宇治の別邸富家殿に逃げ込む事にも成功したのである。
彼はどこまで運が強いのだろうが・・・
「津幡隆家。お前は御室守覚法親王を仁和寺にお送りしてくれ。
山本義経どの。主上をこれより御坊城殿へお移しするように。
明日には閑院殿へ御幸させ、以後そこを仮御所とする。
楯。お前は法皇陛下を五条東洞院摂政亭の内裏にお移ししてくれ。
そしてこれより以後、主上と法皇陛下の守護は責任を持って我らが行なう」
義仲の指示に、名指しされた三名は無言で首肯く事をもって応じた。
彼らはそれぞれ郎等と二〇〇騎程の軍勢を従え、命じられた任務を果たす為、本陣である御所南西の門前から出発して行く。
「残りの者は消火と戦没者の遺体の搬送に当たってくれ。
消火には御所内の池の水を使用。
遺体の安置場所は御所内の庭園とする。では、掛かってくれ」
「「「「おおおっ!!!」」」」
義仲の指示に将兵達が短く応じた。
これは勝鬨の声では無かったのだが、息を潜めて事の成り行きを見守っていた京の住民や貴族らは、これを勝鬨の雄叫びと受け取った。
そして彼らはその雄叫びで、義仲勢が法皇方に勝利した事を知ったのである。
こうして戦いは終わった。
後に法住寺合戦と云われる、合戦にまで至る事の無かった戦いが。
これは後白河法皇がその近臣と有力二大寺院の高僧らを抱き込み企てた『乱』であった。
である以上、言い直すとしよう。
こうして後白河法皇による寿永二年十一月一九日の乱は終わった。
と。