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馬と牧


十世紀初めに作られた『延喜式』には官牧(国で作った牧場)が書き残されています。

「左右馬寮」の官牧があったのは4か国・32牧

甲斐(山梨県)・武蔵(神奈川県北部~東京都~埼玉県東部)・信濃(長野県)・上野(群馬県)

「兵部省」の官牧は17か国・27牧

駿河(静岡県)・相模(神奈川県南部)・武蔵(神奈川県北部~東京都~埼玉県東部)・安房(千葉県南部)・上総(千葉県中部)・下総(千葉県北部~東京都東部~埼玉県東部~茨城県南西部)・常陸(茨城県北東部)・下野(栃木県)・伯耆(鳥取県中部・西部)・備前(岡山県東南部・兵庫、香川県の一部)・周防(山口県東南部)・長門(山口県西部)・伊予(愛媛県)・土佐(高知県)・肥前(佐賀県・長崎県)・肥後’(熊本県)・日向(宮崎県)

信濃には「望月の駒」と呼ばれて都の貴族に大人気だった馬の名産地・望月牧をはじめ、山鹿牧 ・塩原牧 ・岡屋牧 ・平井弓牧 ・笠原牧 ・高位牧 ・宮処牧 ・埴原牧 ・大野牧 ・大室牧 ・猪鹿牧 ・萩倉牧 ・新治牧 ・長倉牧 ・塩野牧などの16牧が置かれていました。


左右馬寮の32牧のうちの半分が信濃の国が占めているというのは、全国的にみても、とてもよい馬の産地だったことがわかります。

もともと、馬は大陸から4世紀ごろに持ち込まれ、軍用・輸送用・農耕用などに活用するため、国の指導のもと飼育・繁殖されました。その後、力を持った豪族が自分の牧場を作ってさらに馬を増やし始めたのです。

牧にはそれを管理する人がいます。しかも何人もの人が必要です、また馬を管理するためには馬を乗りこなす必要もあるでしょう。

こうして、牧には大勢の人が集まり、馬の扱いに慣れた人は弓矢を取り武士に成長していきました。長野県では牧それぞれに武士団が発達し、特に望月牧を中心とする「滋野一族」は、佐久の広い盆地に広がって大きな勢力を持つようになりました。特に海野氏は中原兼遠と結んでいたという系図も残されています。




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