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その時 木曽殿の動きは #15

解説
C O M E N T A R Y

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大河ドラマ「鎌倉殿の13人」に合わせ義仲陣営を「説明」
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【監修】義仲館P 西川かおり

都の義仲(1183年7月末~9月)

 都に入ってから転落していくかのように描かれることが多い義仲の様子ですが、詳しく見てみましょう。

1 「相伴源氏」現る
 
義仲の軍勢はもともと信濃・上野国、北陸地方の武士で構成されていました。この軍勢は義仲と共に横田河原・倶利伽羅・篠原を戦い抜き、義仲と信頼関係で結ばれていました。これらの武士たちと地域住民の義仲に対する信奉は大変深いものがあり、富山・石川・福井には義仲軍勢のほのぼのとした伝承(通った道、ご飯を食べた、お酒を飲んだ…などなど)が現在まで伝わり、義仲にまつわる寺社が多く存在します。
 しかし、北陸地方の武士たちは平家による厳しい支配と北陸追討軍による略奪にあっており、義仲に近い武将たちよりはるかに平家および都に対する恨み・憎しみを持っていました。

 義仲は都での平家との全面対決を防ぐため、一か月様子を見ていますが、その間に、治承寿永の内乱の前期において平家に敗北している「近江」「美濃」「尾張」などの源氏が集まってきました。彼らを「相伴源氏」と呼びますが、義仲とはそれまで共に戦ったこともなく、面識があったとしても薄いものだったでしょう。しかし源行家は1181年の墨俣川の戦いで共闘するなど、彼らをよく知っており、義仲の都入りに合わせて同行するよう呼び掛けていました。義仲は「来る者は拒まず去る者は追わず」というポリシーで首尾一貫していますが、「相伴源氏」に対しても同行に際し条件を出すなどのことなく、揃って気持ちよく都入りし、都の警護を公平に分担し、協力しようとしました。ところが、源行家が自分が優位に立ちたいがゆえに義仲への悪口を相伴源氏に吹き込み、関係は悪化していきました。

2 「北陸宮」問題

 
義仲の京での一番の失策は「皇位継承問題」に介入してしまったことでした。義仲のもとでは源平合戦のきっかけとなった令旨を発した「以仁王」の子・北陸宮が保護されていました。以仁王は挙兵して命を落としましたが、何の後ろ盾もなしにこうした行動ができるはずはありません。また、北陸宮が頼朝ではなく義仲を選び保護を求めたのにも理由はあるはずです。こうした背後関係は平家物語作品中で語られておらず、当時の史料からも今のところ確かめられてはいません。

 しかし、義仲が「以仁王の令旨で平家が都から去ったんだから、そのお子さんが次の帝でいいんじゃないかって俺思うんすよ!」と気楽なノリで口走ったことを貴族たちが拡大解釈したのでなければ、いきなり北陸宮を天皇に推挙することは発想からしてありえないことであり、背後にいた陣営が義仲に行動するよう働きかけていたのではないでしょうか。



3 乱暴狼藉問題

 平家物語における義仲の失策としては「乱暴狼藉」があげられます。これは非常に難しい問題でした。義仲にとっては「予期不能」の出来事だったからです。
 義仲は信濃国から挙兵し北陸を進軍しましたが、その間「正義の戦い」を繰り返していたのです。つまり、他者を侵略するためではなく、守るための戦いです。信濃国は自分の領地であり、攻めてきたのは越後の軍勢です。義仲に敵対した人々もいましたが、笠原氏ですら家を二つに分け片方が義仲に従っていたため、戦の後、所領を奪われることなくそこに住み続けています。義仲は敵対した人を惨殺するようなことは一切しませんでした。

 その後北陸に進軍しますが、北陸は義仲の大事な武将たちの所領です。彼らを守るために進軍した義仲軍は「略奪行為をしようという発想」自体がありません。戦いの結果得た敵の土地については寺社に寄進していますが、そうすることで通行許可や兵糧米などを得ていたようです。進軍した地域におびただしく存在する寄進を受けた寺社、具体的には滋賀県の百済寺の伝承などから伺えます。

↑ 地図内に黄色で表示されているのが寄進された寺社です。

 しかし問題は、義仲のもとに集まってきた人々です。前述したように北陸の武士たちは直接平家軍に領地を蹂躙され、大きな被害を受けました。また挙兵に至る前も平家から派遣された役人に不満を持っていました。都に対する暗い感情は義仲と全く異なっていたはずです。また、相伴源氏率いる軍勢は直接平家と戦い、墨俣川で敗北しています。こうした価値観の違いに義仲は気が付くことなく、気前よく自分の軍勢に加えてしまっていたのです。 「義仲軍が乱暴狼藉を働いた」と聞いて初めて、義仲はそうした人々の鬱屈した感情に気づき、対策を行ったことが義仲本人の発給書などからうかがえます。しかしすでに悪い噂は都中に充満してしまっていたのです。


略年譜

H I S T R Y
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義仲をたどる
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久寿元年(1154年) 誕生

久寿2年(1155年)8月16日
大蔵合戦で父を討たれ、信濃へ

〇中原兼遠に養育される


保元元年(1156年)7月11日 保元の乱
海野ら信濃武士団は後白河法皇方(源義朝・平清盛など)に参戦
平正弘は敵対する崇徳上皇方(源為義など)に参戦

平治元年(1160年)12月9日 平治の乱
ほとんどの信濃武士が参戦せず

●仁安元年(1166年) 元  服

〇諏訪社に婿入りし娘が生まれる

〇承安3年(1173年)?
嫡男・義高生まれる
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治承3年(1179年)
仁科氏・覚園寺(大町市)千手観音開眼供養
善光寺(長野市)炎上
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治承4年 (1180年)
4月
以仁王の挙兵

 9月7日
市原の合戦


義仲依田城(上田市)へ

9月11日
菅冠者自刃

10月13日
義仲上野国へ。上野国府周辺の混乱をおさめ、
父・義賢の家臣を味方に加える。
その際に様々な武士への安堵状を作成したのか、
北信濃の武士・藤原資弘への下文が現存する

12月24日
義仲信濃へ戻る


養和元年(1181)年

4月15日
義仲、笠原行連に安堵下文発給

6月13・14日
横田河原の合戦

養和の飢饉が起こり、源平合戦は一時中断
義仲軍では北陸武士が城を作り守りを固める

寿永二(1183)年
3月
頼朝の信濃侵攻

4月
北陸追討軍発進
燧合戦

5月
倶利伽羅合戦

6月
篠原合戦

7月
延暦寺を味方にする

7月28日
義仲入京










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