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 暗闇に浮かび上がる炎の群れ。義仲の戦というと、炎のイメージがあります。もっとも知られている戦が倶利伽羅合戦だからでしょうか。

★燃えていたのは牛の角!?倶利伽羅合戦

倶利伽羅合戦は、1183年旧暦5月に起きました。場所は、富山県と石川県の県境にあたります。義仲の軍勢5万騎に対し、平家の軍勢は10万騎。石川県から富山県へ侵入しようとする平家の軍勢は、二方向から富山県に向かって攻めてきます。能登半島の志雄山・北陸新幹線のトンネルが山を貫く倶利伽羅峠です。義仲は県境の富山県小矢部市に布陣し、平家の半数で立ち向かうため、軍勢に加わっていた富山・石川の武士たちを信じて、地元の人しか知らない高低差の激しい峠の地形を生かした夜襲作戦を立て、勝利しました。


数に劣る義仲軍が時間と地形を味方につけ平家軍を壊滅させた戦いは、夜襲に使われた松明の炎のように熱をもって人々に伝えられました。

倶利伽羅峠から遠く離れた、長野県辰野町の小野神社では、合戦に参加していた地元の武士の活躍と義仲の勝利を祝って松明を燃やしたそうです。それから現在に至るまで、御柱祭の時には、牛の形に松明を組んで燃やします。850年以上続けられています。



また木曽町の「らっぽしょ」をはじめ、他にも各地で行われる「義仲に関わる地域の祭」では炎を使った催しものが取り入れられていることが多く、いつしか義仲の戦=炎というイメージが定着しています。

義仲が合戦で「牛の角に松明を付けた」というのは、源平盛衰記に書かれています。実際に起こった出来事なのか創作なのかはわかりませんが、義仲軍の勢いを感じさせる描写です。


★火矢を打ち込んだ!法住寺合戦

1183年旧暦11月に京都で起きた法住寺合戦では、院や敵になった源氏がたてこもる法住寺に向けて火矢を放ち開戦しています。

こちらは夜襲ではありませんが、冬の暗い雲の下、乾燥した風にあおられて燃え広がり、恐怖のあまりたてこもっていた兵があっというまに逃げ出したといいます。


★火打城は燃えていないけれど…

1183年旧暦4月に福井県で起きた燧合戦は「火打合戦」とも書きます。こちらは燃えてはおらず地名です。

義仲に従う北陸の武士たちは6000騎。京都から北陸に進んでくる平家を迎え撃とうとしています。なんとその数は10万騎。ケタが違います。

少ない数で平家を食い止めるには。地元福井の人が地形を生かした作戦を立てたのです。大雨であふれてしまう二つの川の合流地点をわざとせき止め、ダムを作ってしまったのです。そしてダムを見下ろす山の上に城を設けました。それが火打(燧)城です。

この城を舞台にした戦は、平家の大軍におののいた平泉寺斉明という武将の裏切りによってあっけなく終わりを迎えてしまいますが、北陸合戦の「口火」を切った戦いと言えます。




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