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その時 木曽殿の動きは #8

解説
C O M E N T A R Y

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大河ドラマ「鎌倉殿の13人」に合わせ義仲陣営を「説明」
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【監修】義仲館P 西川かおり

 長野市で起きたとみられる「市原の合戦」に勝利した義仲は、千曲川の上流、上田市の「依田城」に本拠地を移し、長野県東部に広く勢力を持つ滋野一族を配下に加え、さらに群馬県西部に進出しました。また、義仲が依田城に移ったころ、伊那谷の菅冠者は思いがけない敵によって滅んでしまいます。

1 依田城に義仲が居住したのはいつ?

 「市原の合戦」以降義仲が上田市丸子にある依田城に居住したのは状況的に確実かと思われます。しかし、木曽町日義地区には気になる情報があります。中原兼遠の菩提寺・林昌寺に残る「海野兼保の娘が義仲の妻である」と言う伝承です。日義地区は戦国時代に栄えた「木曽氏」と関係が薄く、後世の影響をあまり受けていない点も見逃せません。
 「海野兼保」が果たして何者か?という大問題もあるのですが、「海野氏」は滋野一族、上田市のお隣、東御市に本拠地を持つ武士です。
 海野氏は幸親・幸広・幸氏の三代にわたって義仲に仕え、海野幸氏が義仲の子・義高に対してみせた献身ぶりは乳兄弟かのようです。義高の母がだれか?は源平盛衰記ですら明言しておらず、はっきりしたことはわかりません。仮に母が義仲の妻とされる海野氏だとしたら、その出生時(挙兵から12年ほど前)から木曽義仲が海野氏と関係していたことになり、依田城への居住は市原の合戦後より大幅にさかのぼる可能性があります。
 あくまで、可能性、ロマンですが。
 ちなみに、海野幸氏は(ネタバレになりますが)のちに鎌倉御家人として信濃国を代表する人物の一人になっていきます。そのため「海野氏は義仲の親族」とした方がよかったのかもしれません。

2 菅冠者討たれる!

 木曽谷と山々を挟んで隣り合う伊那谷を押さえていた平家方の武士、菅冠者は義仲陣営と併存していたのですが、義仲が依田城に移ったころ、思いもよらない軍勢の襲撃を受けます。それは山梨県からやってきた甲斐源氏です。
 鎌倉幕府編纂による歴史書「吾妻鏡」によると、義仲が市原の合戦を行ったのは9月7日。その翌日、北条時政が使者として甲斐国へ向かいました。「甲斐源氏と共に信濃へ向かい、降伏しないものはうち亡ぼせ」と頼朝に命じられていました。しかしそれに先んじて、武田・一条ら甲斐源氏は菅冠者を討つために信濃へ侵攻していて、9月10日には諏訪社上社近くに宿営していました。
 諏訪社には上社と下社があり、上社は現在も山梨県から長野県に入る幹線沿い、下社より山梨よりにあります。上社近くに兵を止めたのは、諏訪社の武士団の動きを見定めるためだったのかもしれません。
 夜が更けたころ諏訪社上社大祝・篤光の妻が宿営地にやってきて「夫が諏訪大明神が源氏に味方する夢を見た」と知らせました。武田・一条は戦をしかけるタイミングを神が知らせてくれたと考え、すぐに出発しました。そして伊那郡に到着し、大田切の城を包囲すると、菅冠者は戦うことなく館に火を放ち自刃したというのです。
 勝利を収めた甲斐源氏は上社と下社に戦勝を祝い寄進したのち、さらに信濃国の凶悪な者たちを討って甲斐国に戻り9月15日には北条時政が訪ねてきたのを迎え入れたとされています。

 「吾妻鏡」には、鎌倉幕府の正当性を高めるため虚実入り混じっている部分があることが知られています。これらのエピソードも日付も含め他の史料がなく確かめようがありませんが、義仲が市原合戦の寸前まで木曽にいたのだとすると、不自然さが際立ちます。

①義仲と甲斐源氏が連携しており、信濃国で戦うべき敵を分担した
②義仲が依田城に本拠地を移しており、その隙を狙って甲斐源氏が南信州を勢力下におさめようとした

のどちらの可能性も考えられます。

 源平合戦を語る上で、頼朝・義経・義仲が源氏の中でも特に知られており、「平家物語」や「吾妻鏡」で義仲が不当な描かれ方をされているととらえられることが多いのですが、それ以上に不当な扱いを受けているのが甲斐源氏ではないでしょうか。管冠者追討も、富士川の合戦も、甲斐源氏側による記述がないため、頼朝の戦果の添え物にされてしまっている印象です。


略年譜
H I S T R Y
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義仲をたどる
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久寿元年(1154年) 誕生

久寿2年(1155年)8月16日
大蔵合戦で父を討たれ、信濃へ

〇中原兼遠に養育される

保元元年(1156年)7月11日 保元の乱
海野ら信濃武士団は後白河法皇方(源義朝・平清盛など)に参戦
平正弘は敵対する崇徳上皇方(源為義など)に参戦

平治元年(1160年)12月9日 平治の乱
ほとんどの信濃武士が参戦せず

●仁安元年(1166年) 元  服

〇諏訪社に婿入りし娘が生まれる

〇承安3年(1173年)?
嫡男・義高生まれる
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治承3年(1179年)
仁科氏・覚園寺(大町市)千手観音開眼供養
善光寺(長野市)炎上
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治承4年 (1180年)
4月
以仁王の挙兵

 9月7日
市原の合戦


義仲依田城(上田市)へ


9月11日
菅冠者自刃







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