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その時 木曽殿の動きは #9

解説
C O M E N T A R Y

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大河ドラマ「鎌倉殿の13人」に合わせ義仲陣営を「説明」
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【監修】義仲館P 西川かおり

依田城から群馬県西部に進出した義仲。群馬県と義仲はどのような関係があるのでしょうか。


1 義仲の父・義賢

 義仲の父・源義賢は「秩父」氏の婿となったため埼玉県との関りが深いイメージがありますが、群馬県高崎市にも館跡があります。

 源義賢は都で帯刀先生という役職についていました。これは皇太子の近衛隊長…例えるなら「ベルサイユのばら」のオスカルのようなポジションで、ビジュアルも優れていなければつくことができませんでした。当時の源氏は平氏に圧され都での存在感が低下していたため、義賢の美貌が役職を引き寄せたのであれば、源氏再興への細い希望の光だったといえます。この時点では源義賢が鎮守府将軍・源頼義から続く河内源氏の跡継ぎとして認識されていました。
 しかし、源氏は義に厚い血脈で、代々家臣の罪をかぶって職を失っているのですが、例にもれず義賢も正当性のない罪に問われた家臣を助けるため失職してしまいます。
 その後義賢は摂関家のリーダー藤原頼長に気に入られ深い関係になり、その引き立てで能登に赴任するのですが、厳しい税の取り立てに苦しむ人々を目の当たりにしたのか、税を納めることを拒否し、これまた罷免されてしまいます。
 都に戻ると弟たちが帯刀先生を歴任しており、義賢は地方に活路を見出そうと、北関東に勢力を持つ秩父氏の招きを受け、多胡庄(群馬県高崎市吉井町)に館を構え、地元の人々を家臣に加えました。都にいる弟たちは義賢を慕い、特に源頼賢は兄弟であるにもかかわらず親子の契りを交わしたほどでした。
 そういう人物であったためか、義賢に従った多胡周辺の家臣たちは、義仲が群馬県に現れると、こぞって仲間に加わりました。しかも義仲の死の直前まで付き従っています。
 源氏同士の争いで二歳の義仲を残して殺された義賢。家臣たちは言い残された願いをずっと持ち続けていたのでしょうか。


 
2 上野国府の争い?

 義仲が群馬県に進出した直接の理由は治承4年に起きた上野国府の勢力争いで援軍を要請されたためです。
 吾妻鏡10月13日に「義仲が、亡父・義賢のあとに倣い、信濃国を出て上野国に入った。すると住人が次第に従うようになってきたので、足利俊綱からの妨げがあっても恐れることはないと命じたという」とあります。

 「足利」というとのちの尊氏など、源氏をイメージしてしまいますが、源平合戦の時代には源氏の流れをくむ足利氏と、藤原秀郷の流れをくむ足利氏、二つの家がありました。俊綱は藤原秀郷の子孫で、栃木県足利市に住み、平家方についていました。隣の群馬県には新田氏という源氏の名家がありました。義仲とは6親等程の比較的近い親戚ですが、こちらも平家に仕えていました。
 以仁王の挙兵の際、足利俊綱は戦功をあげ、その恩賞として上野国司と新田庄を望み平家に認められました。ところがそれに対し、「足利俊綱だけずるい!」と仲間たちが大もめ。足利俊綱が平氏に取り入って恩賞を独り占めするなら、俺たちは源氏に味方する!となったのでしょうか、吾妻鏡9月30日に「上野国の府中の民家を源氏に属するものが住んでいたと称して、足利俊綱が焼き払った」と書かれています。
 新田氏は、新田庄が恩賞として足利俊綱に与えられてしまったのですが都にいました。これら北関東の騒動のためか、平家の命を受けてか、群馬県に戻ってきます。しかし戦うことなく山間部にある寺尾城に引きこもってしまいます。
 そこに義仲が信濃からやってきて、足利俊綱と対立した人たちを保護し、しばらく滞在し12月24日に戻っていきました。頼朝の威風を感じたため…と吾妻鏡にありますが、雪で峠を越えられなくなる前に動いただけかもしれません。
 新田氏はひきこもりを続け、頼朝からの手紙も無視しました。しかし、親族を頼朝方と義仲方それぞれに味方させました。義仲軍勢には源氏の流れをくむ足利家から矢田義清が加わることになります。


略年譜
H I S T R Y
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義仲をたどる
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久寿元年(1154年) 誕生

久寿2年(1155年)8月16日
大蔵合戦で父を討たれ、信濃へ

〇中原兼遠に養育される


保元元年(1156年)7月11日 保元の乱
海野ら信濃武士団は後白河法皇方(源義朝・平清盛など)に参戦
平正弘は敵対する崇徳上皇方(源為義など)に参戦

平治元年(1160年)12月9日 平治の乱
ほとんどの信濃武士が参戦せず

●仁安元年(1166年) 元  服

〇諏訪社に婿入りし娘が生まれる

〇承安3年(1173年)?
嫡男・義高生まれる
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治承3年(1179年)
仁科氏・覚園寺(大町市)千手観音開眼供養
善光寺(長野市)炎上
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治承4年 (1180年)
4月
以仁王の挙兵

 9月7日
市原の合戦


義仲依田城(上田市)へ

9月11日
菅冠者自刃

10月13日
義仲上野国へ。上野国府周辺の混乱をおさめ、
父・義賢の家臣を味方に加える。
その際に様々な武士への安堵状を作成したのか、
北信濃の武士・藤原資弘への下文が現存する

12月24日
義仲信濃へ戻る







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