義仲戦記45「鎌倉の胎動」
後白河法皇による乱は、法皇方に多くの死者を出した。
法皇の親族や近臣、貴族、高僧を始め悪僧ら、それと武士らがその犠牲者となったのである。
乱の翌日、十一月二〇日。
五条河原に法皇方として戦い、命を落とした者らの首級が晒される事となった。
その数およそ一〇〇名以上。
その中には比叡山延暦寺天台座主明雲大僧正、園城寺長吏円恵法親王らこの度の乱で主導的な役割を果たした高僧を始め、近江中将高階為清、越前守藤原信行ら法皇の近臣、そして義仲勢の入京に便乗して上洛した美濃源氏の伯耆守光長、判官光経父子といった武士まで含まれていた。
この日、五条河原に赴いた義仲はこれを検分し、一人一人を記録させていたが、この記録作業を終えたところで足を止めた。
「・・・?・・・」
「いかがなされましたか?」
怪訝な表情でいる義仲に四天王筆頭樋口兼光が問い掛ける。
「いや。今、検分した中にはいなかった。あの鼓の名人が」
「その様です。申し訳ありません。鼓判官を討ち洩らした事に関しては」
「謝罪するには及ばん。あの名人には乱の責任を取らせたかったが、実を言うと彼の事など今まで忘れていた」
「まぁああしたお調子者の得意技には必ず逃げ足の速さってのがありますからねぇ。その事は義仲様だって痛い程、解ってありましょう?」
記録を付けていた覚明が意地悪そうにニヤリと義仲の顔を覗き込む。
義仲は額に手をやると溜め息を吐いた。
暗に新宮行家の事を言っているのである。
覚明は続けて、
「鼓判官には逃げられましたが、今回の事で法皇も多少は懲りたでしょうからねぇ。もう当分は武士相手に喧嘩を売る様な真似はしなくなるでしょうよ」
「覚明の言う通りです。法皇も取り巻きの近臣から遠ざけられた以上、もうこれまでの様な策謀めいた事は実行したくても出来なくなりましたから」
覚明と兼光が口々に言うと、義仲の表情も幾分柔らぐ。
「そう願いたいものだ。ではでは今からその法皇の許に参るとしよう。
新たな人事の御裁可を得なければならんからな」
義仲はそう告げると馬に跨がる。
ふと辺りに眼を向けると既に多くの住民が五条河原に詰め掛けていた。
人の首を晒す、という行為を義仲が行った事の真意は、別に己れに刃向かった者らへの復讐として実行した訳では無い。
梟首にはそう言った側面も無いでは無いが、その本当の理由は、今回の騒動は法皇が企てた乱である、と規定し、それを社会に対し表明する為に行った事であった。
そしてそれに加担した者を罪人として処断し、この者らを梟首する事によって、この度の乱は終結した、と宣言した訳である。
これら一連の流れはその騒動により不安定化した社会を正常に戻す為の言って見れば、手続き、に近い役割を当時果たしていた訳で、殊更、義仲がその武力を誇った訳でも無ければ『オレに刃向かった奴の末路はこうだ!』と世間に見せしめにして脅し付けた訳でも無いのである。
社会を不安定化させた責任は誰かが負わねばならないし、小規模とは言え武力衝突にまで至ってしまった以上、その責任は敗れた側が負う事になるのである。当時はそういう時代であり、またそういう社会通念が存在していたのだ。
もし義仲勢が敗れていたとしたら当然、法皇方がこの様に義仲勢の首級を晒していた事だろう。
後世、義仲のこういった行為だけを見て“武力を誇り驕り昂って増長を極めた悪なる非道な荒武者”というレッテルを貼られる事になる訳だが、その様な単純なものでは無い。
繰り返すが、これは乱の終結を世に知らしめ、その乱に加担した者に刑罰を課す事で社会を正常に戻した、という政治的行為以外の何物でも無いのであった。
兼光と覚明が馬に跨がると、義仲は彼らを引き連れ五条東洞院摂政亭内裏へと馬を進めた。
後白河法皇と接見する為に。
そしてこの日の午後、新たな人事が発表された。
松殿藤原師家、摂関藤原家の氏の長者に。
更に、内大臣に就任した、と。
この事は貴族公卿らに驚きを持って迎えられた。
松殿師家はその名からも判る通り松殿基房の子息で、まだ十二歳という年齢だったからだ。
それまでの摂関藤原家の氏の長者は基通であった。
平氏都落ちとこの度の乱に於ける奇跡の脱出を成功させた彼である。
当然、この人事の裏には師家の父、松殿基房がいた。
彼は義仲と連携する事で、中央政界に返り咲く、という念願を叶えた事になる。義仲の後押しがあったのは言うまでも無い。
「今後、義仲どのは基房どのと協力して全ての事に当たる、と。
それは良い。
何事も以前関白太政大臣であった基房どのと合議の上、政権を運営して行く事になれば政治は安定する事となりましょう」
右大臣九条兼実が安堵した様に笑みを浮かべて言った。
“松殿師家、摂関家氏の長者と内大臣に就任”の報が内外に発表された翌日、十一月二一日。
松殿基房は弟の九条家兼実の邸を訪れ、今後の事を話し合っていた。
「しかしこの度の乱には呆れ返るばかりです。
法皇自ら乱を起こし世情を乱すなどあってはならない事。
義仲どのはこの不徳極まる君[後白河法皇]を戒める天の使いである、とも言えます」
しみじみと兼実が口にした。
彼は義仲に対して阿諛追従した訳では無い。
法皇の無軌道ぶりを苦々しく思っていた反動からその様に思っての事であった。
「そうお思いであれば、どうだ兼実どの。我らと共に政務を」
松殿基房が誘いを掛ける。
この兄弟は不思議な事にお互いを呼び捨てにせず、どのを付けて呼び合っている。これは兄弟とは言え、その政治的役職が必ずしも兄の方が高い訳でも無い事からそうしていたのだろう。
他人行儀と言えばそれまでだが、親兄弟だけで無く、甥や姪の方が地位が高い事もしばしばある摂関藤原家の者にとっては、こうしたやり方が当然のものとして実行してされていた。
実際、これまでの氏の長者はこの二人の兄の息子近衛基通[奇跡の脱出王]であり、彼らの甥にあたり、彼らの妹の育子は二条天皇の妃なのである。
肉親に対し、どの、様、を付けて呼び合う事など当たり前な階層に、彼ら一族は属しているのである。
「もし義仲どのが善政を行なうのであれば、私も喜んでその申し出を受けましょうが、今のところどうなるかは神仏のみが知るところです。
である以上、今回、私は政権には加わりません」
きっぱりと兼実は断った。
義仲の事を見直したとは言え、一時の感情の昂りに流される事の無い老練な政治家は一線を越える事は無かった。
未知なるものへその身を投じる様な事は、彼の様な保守的な政治家はしないものなのである。
この誘いを断られた松殿基房の方も、別に気を悪くする事無く、頷いている。
時に政治的競争者となり、時に政治的対立者となりつつも日本の政治と歴史を牽引して来た摂関藤原家の兄弟としては、行く道が違う事も当然の事としていたのである。だからと言って一族兄弟の仲が悪い訳でも無く、現にこうして兄基房は弟兼実に意見を求めているのである。
「この度は師家どのの氏の長者、内大臣への御就任並びに基房どのの政界復帰。おめでとう御座います。
これを後押しして下さった義仲どのへも使者を遣わし御礼を尽くしておく事にします」
「そうしてくれるか兼実どの」
基房が破顔して応じた。
「しかし基房どのが朝廷の役職に就いた訳では無いのですから、今後義仲どのと話し合いつつ政権を担当する、と言ってもその限界はあるのでは無いでしょうか」
「義仲どのがいつか暴走する事になる、と?」
「そこまでは申しませんが、先の清盛の例もありますれば、基房どのには良く良く慎重に手綱を取られますよう」
兼実が視線を合わせながら念を押した。
「うむ。しかし心配には及ばんよ、兼実どの。私には秘策があるからな」
「秘策、と?」
基房はより一層破顔すると、
「秘策とは言い過ぎであった。近いうちに兼実どのの耳にも届こう。
それを楽しみにして下され。それでは」
言うや、首を傾げている兼実に一礼すると邸を去って行った。
「その様な事を私に申したところで仕方無かろう」
源九郎冠者義経の返答は、宮内判官公朝と藤内左衛門時成の二人を唖然とさせた。
この二人は法皇の近臣である。
法住寺御所での戦いに法皇方として参加したものの、運良くそこから逃れたが、京へ戻ることが出来なくなっていた。
そこで尾張国熱田神宮「愛知県名古屋市熱田区]大宮司の許に身を寄せていた頼朝の代官である義経の許を訪れ、京で起きた法住寺御所での一件を事細かに経過を追って事情説明していたのであった。
が、二人が熱弁を奮い事情説明が終わったとき、それがどうした、と言わんばかりに義経は冷淡に対応したのであった。
義経の頭の中には“平氏打倒”の四文字しか無い様で、何であれそれ以外の事柄に付いては総て兄上の頼朝が考える事である、という風に彼は思っていた。
義経としては己れの信条に従って対応したに過ぎない。
そして呆然としている二人を前に更にこう言い放った。
「私が兄上に使者を遣わしても良いが、この一件は当事者であるお前達が直截、鎌倉へ赴き兄上に訴えた方が良い。
兄上が問い質された時、使者では答える事が出来ずに不審な点が残るだろうからな」
ご尤も。その通りである。
しかし死地から命からがら脱出し、それでも何とか尾張国まで辿り着いた者らに対する言葉としては全く暖かさを欠いていた。
義経という武将は別に冷たい男では無い。
しかし彼は己れが認めて慕い、また己れを認めて慕ってくれる者以外の人間に、時としてこうした冷淡としか思えない態度を取るのである。
そうした彼の性格の一端が表れただけなのだろう。
正直な男なのだ。
武将としてもこれ以後の働きが示すように有能な者である。
しかし彼は“優れた武将”という者は戦場で手柄を上げ勝利する事が全てである、と単純に思い込んでいる素朴な男だった。
“優れた武将”が戦場以外の場所では、政治家或いは統治者としての資質が問われる、という重要な事を理解することの出来ない武士でもあった。
とにかく、頼朝の代官たる義経にそう言われてしまった以上、公朝と時成の二人は鎌倉に赴かざるを得ない。彼らは義経に一礼すると退出し、熱田大宮司の邸から出て行こうとした。
「お待ち下さい」
二人を呼び止める声が掛かる。
公朝と時成が同時に振り向くと、先程、義経の傍らに控えていた者が後を追って来る。
と、
「私は中原親能と申し、頼朝様に仕えている者です。
お二人が鎌倉へ下向されるのならこの書状をお持ち下さい」
「これは?」
親能が差し出した書状を受け取りながら公朝が問う。
「頼朝様に御目通りされるよう私が書いた紹介状の様なものです。
九郎どのがそうされる様にお二人に勧めた事情をしたためておきました」
親能は笑顔で応じた。
「これは有難い」
公朝と時成は顔を見合わせて首肯いている。と、
「中原どの、と申されたな。もしかして京で何か役職に?」
「はい。以前は朝廷に出仕しておりましたが、今は頼朝様の許で」
「そうであったか」
公朝は、納得、という感じで何度も頷いている。
その顔には、やはり朝廷に出仕していた者は配慮が行き届いている、と言っている様であった。
「それに京からこの尾張までは大変な思いをされた筈。
どうか本日はここにお泊まり下さい。
大宮司どのにはその旨をお伝えし部屋を用意させて御座います」
親能が言い添えると、二人は顔を見合わせていたが、直後に満面の笑顔になると、
「かたじけない。いや、正直を申すと京を出てこれまで、先を急ぐ事しか考えずに来たものでろくに寝てもいなかった。
我らにとってはこれ以上無い申し出というもの」
公朝が、助かった、と礼を言う。
「では、こちらに」
親能が邸内に促すと、二人は悦んで付いて来る。
「それとお二人が鎌倉へおいでになる時、我らの郎等を一五騎程、護衛としてお連れ下さい。その様に申し付けておきますので、出発の際には私に声を掛けて下さいますよう」
「何から何まで。中原どの、御礼のしようも無い」
二人は神妙に頭を下げた。親能は寝所に案内し、
「何か食事を運ばせます。では」
笑顔で告げて寝所を後にする。
そのまま郎等のところへ向かい、五人程の屈強な郎等を選ぶと、
「今からお前達は鎌倉に戻りこの書状を頼朝様に届けろ。至急だ」
命じて懐から分厚い書状を取り出して渡した。
これは公朝と時成が義経に説明した法住寺御所に於いての一件を事細かに書き記したもので、二人が鎌倉へ到着する前に事情を報せておいた方が良い、と親能が判断したのである。
義仲と法皇が対立した挙句、御所に於いて武力衝突にまで至り、その結果、法皇は義仲の手に落ちた、などと云う大事件は一刻も早く頼朝に伝えなくてはならなかった。法皇の近臣公朝・時成の二人から報される前に、事件の概要を頼朝が知っておいた方が良いのは、情報というものの重要性を認識してしている親義には当然の処置であった。
「では、行け」
郎等らに命じると、彼らは無言で首肯き出て行った。
程無く、馬の蹄の音が駆け去って行くのを耳にした親能は一つ首肯くと、今度こそ公朝・時成の為の食事の用意を申し付けに向かった。
この中原親能は、頼朝の腹心大江広元の兄で、実は広元よりも先に頼朝に仕えていたのである。弟広元も優秀だが、この兄親能もなかなかの才能を持っていたらしく頼朝の信頼は厚かった。
そこで、頼朝の代官として義経が指名された時、軍事的センスは有るが政治的センスの欠片も無い義経に任せる事に不安を感じていた頼朝が広元の進言を受け、この中原親能を謂わば“お目付役”として同行させたのである。
そして中原親能は期待されていた仕事を熟したのであった。義経は、自分の周囲にいる者達が、この様に彼を見ている事など夢にも思っていなかった。
☆
逢うまでは不安に押し潰されそうになっていた。
本音を言えば、嫌で嫌で堪らなかった。
考えれば考える程、どうして父がその様な事を言い出し、自分に強要して来るのか理解出来無かった。
そして、その様な境遇に追い詰められた自分を憐れむ事しか出来無いのが悲しかった。
しかも耳に入って来る噂では、信じられない程の野蛮な人であり、その教養は低いか、まるで無いように云われ、得意な事は唯一、戦さで暴れ回る事だけ。
更にその乱暴な気質は戦さ以外の場所でも遺憾無く発揮され、この京でもそれは変わる事無く、剰え、御所に襲い掛かるや火を放ち、法皇や主上に矢を引く、という前代未聞の不祥事を引き起こした、と耳にした時には、その様な恐ろしい人がこの世に、いや、この京にいる事が信じられなかった。
しかも、それ以上に信じられない事が、他ならぬこの自分に降り掛かって来るとは思いも寄らなかった。
その事を父から聞かされた時、眩暈がしたのを憶えている。
眼の前が真っ暗になったのか真っ白になったのか判断出来無い程の眩暈だった。
それ以来、今日この時まで鬱々とした日々を過ごしていたのであるが、いざその時が近付いて来ると手足が震え、動悸が高まり、冷や汗すら滲んで来て、息が詰まりそうな程の感覚が呼吸を速くしていた。
過度な緊張が齎らす不快感と、身体の変調に耐え切れず、もうどうにでもなれ、と自暴自棄の感情に後押しされ、その顔を上げて、眼の前に佇む者を眼をした時、信じられない気持ちは頂点に達した。
「・・・嘘・・・」
自分が呟いた事すら自覚していない彼女は、何か自分が騙されているのではないかと、心の何処かで疑っていた。
一度、安心させておいてから、奈落の底に突き落とされるのではないか、と。
何故なら眼の前の者は、彼女が噂をもとに想像していた者とまるで違っていたからだ。
という事はこの者は違う、別人である、と彼女は自分に言い聞かせていた。
ぬか喜びなどするまい、と。
彼女は騙されるものか、と思っていたのであるが、その眼は瞬きせずに眼の前の者にじっと注がれたままであった。
と、
「初めて御目に掛かります。源義仲と申します」
眼に写る者がそう口にした時、彼女はもう一度呟いていた。
「・・・嘘でしょう・・・」
と。
事の起こりはこれより数日前の事。
父の松殿基房が彼女に言った事に始まる。
父は娘にこう告げたのであった。
「伊子。お前の婿が決まった。朝日将軍伊予守源義仲どのだ」
寝耳に水、とは正にこの事。
彼女はこの時、眩暈に襲われたのであった。
それも無理は無い。松殿基房の娘伊子は物心付いた時から天皇の妃となるべく育てられ、関白太政大臣であった父基房も、母も、周囲もその様に期待し、いつしか伊子自身もその様になるであろう事を自然と受け入れて成長していたのであった。しかし彼女が十三歳の時、父松殿基房が平清盛に失脚させられ、流罪とされると彼女の運命も激変した。
京で一番との評判を取っていた美貌の彼女であったが、父が失脚すると、それまでは彼女とお近付きになろうとしていた若い貴族らが、一斉に彼女から離れて行き、誰も見向きもしなくなった。
彼女は幼いながらも人の心の残酷さや、期待は往々にして裏切られるという事を、身をもって理解するしかなかった。
そのせいか多少疑い深い性格になっていたが、その美しさには更に磨きが掛かり十七歳となった現在は、まるで咲き誇る花と見紛うばかりの美貌の持ち主に成長していたのである。
伊子は別に結婚する事を告げられた事に驚いた訳では無い。
その相手が彼女を驚愕させたのである。
何しろその相手の噂は事ある毎に耳に入って来たし、その内容はと言えば酷いものばかりであったから、彼女で無くともショックだった筈だ。
である以上、伊子はその相手と顔を合わせる日が来る事を怖れた。
一時は漠然とではあったが、死すら思い描いた。
それ程、憂鬱な事だったのである。
だから今、その悪名高い噂の主である義仲を初めてその眼にした時、自分の眼を疑い、更に周囲に騙されているかの様に感じたのだ。
何しろ眼の前に佇む義仲と名乗った者は、穏やかそうな笑みを湛えて優しげな眼で柔らかな視線を投げ掛けて来る落ち着きのある美しい殿方だった。
つまり伊子は眼の前にいる者を、見目麗しく感じの良い男、と思ったのである。
これは彼女が想像していた人物像とは真逆であり、正に彼女にとって想像を絶した事であった。
信じられない思いで、茫然と義仲から眼が離せないでいる伊子に、義仲は更に声を掛けてより一層彼女を混乱させる様な事はせず、ただ優しく微笑み小さく目礼し、ふっと視線を外して、
「伊子どのも突然の事で戸惑われている御様子。
今日のところはこれにて戻る事とします。
近いうちに再び挨拶に訪れますが、宜しいですか、松殿」
基房に向けて義仲が言った。
「そうさせて頂けるとこちらとしても有難い。
この様に混乱している娘を見るのは初めてです」
松殿は幾分恐縮しつつ、それでもほっとした様に応じた。
「では失礼します」
義仲は基房と伊子に頭を下げ、静かに立ち上がると、もう一度、礼をして退出して行った。
伊子はその緩やかで優雅な立ち居振舞いを、先程までの切迫した様な息苦しい動悸とは違う、別の昂まりから来る甘やかな動悸を感じながら見惚れ、義仲が去った後も、この胸の動悸は治まる気配を見せる様子は無かった。
翌日、再び義仲と伊子は顔を逢わせ、この席で正式に義仲は松殿基房の娘伊子姫を娶る事何が決定した。
つまり義仲は松殿基房の婿となったのである。
この婚姻により義仲と基房はより一層固い強力関係を構築した事となった。
謂わば政略結婚であるが、摂関藤原家の姫が政略以外での婚姻関係を結んだ事など、殆ど無い以上、例外的な婚姻とは言えない。
ただ例外というのであれば、その相手が上皇・天皇・皇子の様な皇室関係者や有力貴族、または平氏一門の者では無く、武士で源氏の義仲であった事である。
源氏の武将と摂関家に姫が婚姻した初めての例となった訳だ。
さて、この事が事実として都に拡まると、その住民らはまたしても噂の種を得て流言蜚語を撒き散らす事となった。しかも義仲に関する事で良い噂が流れる筈も無く、その内容は敢えて記さないが、酷い内容だったのである。
そのうわさを聞き付けた宰相中将源通親は、噂を頭から信じ込んだりはしない男だったが、解消出来無い不愉快さを抱えながら京の大路を牛車に乗り、ある場所へと向かっていた。
そのある場所とは丹後局が所有している邸の一つであり、今後の事を相談する為、丹後局が通親に連絡を付けて呼び寄せたのであった。
「法皇陛下の御様子はいかがですか」
「ええ。変わりが無い様には見せておられますが、塞ぎ込んだり、物思いに耽る事が多くなって、その事を私ども女官達は心配しておりますわ」
「そうでしょうな。しかし丹後どのを始め女官や女房達だけでもお側に仕える事が許された事は何よりです」
「とは思いますが、いつまでも今の様な幽閉が続けば陛下とてお歳です」
通親と丹後局は途切れる事無く話しているのだが、溜め息が多くなるのはどうしようも無い。
この二人とて法皇と主上を幽閉され、その上、仮御所の警備を厳重にされている現状は八方塞がりと言えるものだったからだ。
その事に二人は苛立ちを覚えていたが、非凡な政治的嗅覚とバランス感覚を併せ持ったこの二人は感情を抑制する事にも長けていたので表面上は落ち着いた会談となっていた。
「ただ朗報、と言って良いかはまだ判断出来ませんが」
と前置きした通親は幾分表情を緩めると続けた。
「あの日、法住寺御所から逃れた近臣が数名、頼朝の代官九郎義経の許に向かった、と報告を受けました。
代官一行は現在、尾張に滞在し京に入る機会を伺っているらしく、京の動きに眼を光らせていると思われます。という事は」
「鎌倉に今の京の現状が伝わるのは時間の問題ですわね。
そうなれば鎌倉どのも遂に重い腰を上げる、と?」
「そうせざるを得なくなる筈。
関東の軍勢が来れば状況を一気に覆えす事が可能となります。
既に頼朝には義仲の追討を命じてありますし、頼朝としても法皇陛下を賊徒の手から救い出すという大義名分を手に入れる事が出来ますから」
丹後局はそれを聞くと、初めて笑みを浮かべた。
が、少し考え込むと、
「そうなるのが順当というところですわ。
とは言え、そうならない事もあり得ます。
鎌倉どのがいつまで経っても京に来る気配を見せない場合にはどうなさるおつもり?」
そうなって欲しくは無い、最悪の予測を口にした。
「そうなれば別の道を行くだけの事です。
一番手っ取り早いのは義仲と手を組む事です」
通親は事も無げに最悪の想定で応じた。
と、
「ふふふ。貴方らしいわ。その節操の無さが、私と同じなんですもの」
「気に入らない相手とでもいくらでも上手くやれるものですよ。
いつかはその者を失脚させる手段を考えながらであれば」
「そうですわね」
丹後局が意味ありげに応じると、少し睨む様にして通親に視線を送りつつ問う。
「気に入らない相手、と仰いましたが、確かに私は以前から義仲の事をそう思っておりますが、通親どのはそうは思っていなかった筈ですわね。
それが今は気に入らないと仰る。義仲との間に何かあったんですの?」
図星を突かれた通親は、不意に笑いだすと、
「ははははは。丹後どのは相変わらず鋭い。
隠し事など出来ませんな。
と言って別に義仲と事を構えたわけではありません」
お手上げ、という感じで続けた。
「つまりは私個人の意趣を義仲に感じているだけの事ですよ」
丹後局は、?と首を傾げて表現している。
「義仲が松殿基房の姫を娶った事は知っておられるでしょう」
「聞いています。何でも京一の美貌の持ち主の姫だと」
「私はこの姫を以前から狙っていたのですよ。
松殿が失脚流罪となって恋敵が減った事を悦んでおりましたが、その姫を義仲めが」
「横からいきなり掻っ攫ってしまった訳ですのね。それはそれは」
丹後局がくすくす笑いながら言い添える。
「これは私にとっては立派な意趣ですから。
義仲にはいつかきっとこの意趣返しを、と近頃思い始めた訳です」
「さすが節操無しの通親どの」
心から愉しそうに丹後局が応じると、
「お褒めに預り、光栄の至り」
通親は平伏して大袈裟に道化て見せた。
「まあ。ふふふ」
丹後局は可笑そうに笑いつつ通親を見ると、彼も視線を送って来た。
その視線が交わると、二人はお互いの眼に共犯者の光を見た事に頼もしさを感じていた。
☆ ☆
「義仲め・・・遂にやりおった・・・」
書状を読み終えた頼朝は低く呻いた。
彼としては義仲が京で行き詰まる事を望み、そうなる事を待ち望んでいたのだが、まさかここまで派手な事をやるとは思っていなかったのである。
それは頼朝の呻き声にも如実に表れていた。
頼朝にとってほくそ笑んでいてもおかしくはなかったが、彼の表情は苦いものに満ち、怖れすらその口調に滲んでいた。
頼朝は中原親能からの書状から顔を上げると、ひたすら無言で彼を見守っていた腹心の二人の片方に書状を渡した。
受け取った梶原景時は素早く書状に眼を通す。
時折、その眼が驚きに見開かれたが、程なくして読み終わると、書状を大江広元に回した。
広元は頼朝と景時の様子から、ある程度は書状の内容を予測していたと見え、淡々と書状に眼を通す。広元が書状を畳み始めた時、
「・・・行かねばならんな・・・京へ・・・」
絞り出す様な頼朝の呟きに、腹心二人は顔を上げる。
そこには苦虫を噛み潰した様な表情の頼朝が無言で佇んでいた。
頼朝にしてみれば、義仲が御所に攻め入り後白河法皇や主上[後鳥羽天皇]を幽閉した事で、確かに義仲追討の大義、つまり法皇と主上を救出し義仲を討つ為に起つ、という明文を手に入れた事になるのだが、いざこうなって見ると、義仲はその気になれば法皇を操り、どの様な院宣でも発する事が出来るようになったわけで、その政治的立場を強化したといえる。
しかも北関東の情勢は相変わらず不安定であり、陸奥の藤原秀衡の許へ出奔する武士の流出が止まらない今の現状では、軍勢を率いて上洛する事に、頼朝が不安を感じるのは当然の事であった。
つまり軍勢を率い上洛した頼朝の留守に、秀衡が鎌倉に襲い掛かる、という事も考えられる今の状況では、軽々しく動く事は出来無いのである。
しかし、ここで義仲追討を躊躇い、状況を傍観する事は、義仲の政治的立場を更に強化させてしまう事に繋がる以上、頼朝にとっても苦渋の決断を迫られているのである。
「直ちに御家人らに出陣の通達を出せ。
この上は私、自らが軍勢を率い上洛する」
「お待ち下さい」
頼朝の命令に間髪入れず広元が止める。
頼朝は冷たい視線を向けたが、それでも首肯くと無言で先を促した。
「畏れいります」
広元は平伏して礼を述べると、
「私もここは動くべき、と思います。
しかし頼朝様が鎌倉を出陣し軍勢を率いて行く必要は無いのです」
広元の言葉に、頼朝と景時は意表を突かれ、眼を見開いて広元を見詰めた。
「頼朝様が鎌倉から出る事が無ければ、陸奥の秀衡とて軽々しく動く事は無いでしょう。
それに万一、秀衡の軍勢が南下して来た時には、頼朝様を中心に御家人達が結束してこれに対抗する事が出来ます。
であれば上洛する軍勢の大将軍には御舎弟蒲冠者範頼どのを任じ、これを送り出す事が最善の選択だと思います」
広元が言い終わると、頼朝と景時は眼から鱗が落ちたかの様な顔を見合わせている。
「うむ。広元どのの言う通りだ。それであれば軍勢が出陣した後、この鎌倉の背後を心配する必要は無くなる」
何度も頷きながら景時が言った。
頼朝も束の間、沈思していたが組んでいた腕を解くと、
「つまり私が鎌倉に居る事が秀衡に対する最大の牽制となる訳だな。
良かろう。広元の申し出を良しとする。
上洛する軍勢の大将軍は範頼・義経の両名を任じ、これを率いさせる。
が、範頼はまだしも、義経の行動には眼を光らせておくに越した事はない。
九郎の言動や振る舞いには私も危惧を感じる事があるのでな」
頼朝が告げると二人は平伏した。
「下総・武蔵・甲斐・駿河の武士らに出陣の命令を伝え、準備を急がせろ。
軍勢は六万騎の動員を目指す」
「そうなれば上洛軍に馳せ参じる武士が遠江・三河・尾張・美濃それに京周辺の国々からも加わる事となるでしょう。
まず六万騎は超えるものと思われます」
景時が付け加えると、広元も大きく頷いた。
「兄親能からの報告では、義仲勢は既にその軍勢が一万騎を割っております。義仲を叩くのであれば充分過ぎる兵力でしょう。
それに今回の一件で義仲はその政治的力量の限界を露呈しております」
「ほう。限界な。続けろ」
「はっ。この度の乱を引き起こしたのは後白河法皇御自身です。
乱の責任を問うならばその法皇を流罪にし、主上「後鳥羽天皇]を廃すぐらいの思い切った処罰を断行しなければならないところですが、義仲はそれをせず幽閉するに留めました。
私から見れば彼の遣り方は甘い、と言わざるを得ず、それを断行してこそ朝廷や京の公卿らに対して武士の存在を認めさせる事が出来るのです。
もし義仲がその様にしていたら我らとて状況を見極める為、この様に早く軍勢を派遣する事を躊躇っていたことでしょう。
しかし義仲がこれを断行しなかった事で、その政治的限界を露呈したのです。である以上、我らはその甘さを突き、彼を討伐する機会を得ました。
これは千載一遇の好機と言っても過言ではありません」
流れる様に広元が答えた。
頼朝はじっと広元に視線を注いでいたが、薄く笑みを浮かべると、
「法皇を流罪、主上を廃す、か。頼もしいな広元。
お前の様な者が義仲の部下にいなかった事は幸運だったのかも知れん」
広元に対して、頼朝らしい賛辞を送った。
「この機に義仲を討ち果たし、東国の支配権を確立する」
頼朝が宣言すると同時に、景時に対し意味ありげな視線を送る。
「承知しております。明日にでも」
景時は、万事お任せを、とでも言うかの様に平伏し応じた。
「明日、御家人らを集合させろ。その場で出陣を皆に告げる。良いな」
「はっ」「はっ」
景時・広元は揃って応じると一礼し、頼朝の居室から退出して行った。
頼朝は独りになると無表情になり眼を閉じる。
と、程なく彼の肩が小刻みに震えだした。
それは嗤いを堪えている様にも見えたが、何か不安に慄いている様にも見えた。
「義仲は増長した挙句、遂にその横暴を極め、御所に火を放ち、法皇陛下と主上を幽閉するという暴挙に出た。
これを看過する事は義仲の愚行に手を貸す事となろう。
私はここに法皇陛下より命じられた義仲追討の軍勢を派遣する事にした。
これは法皇陛下の上意であり、義仲を討伐する事はこの私に与えられた使命である、と考える。
そこで蒲冠者範頼、並びに私の代官として先行している九郎冠者義経を大将軍とし、全軍で六万騎を擁する軍勢を京に向けて出陣させる。
準備の出来た者は直ちに京へ向かえ。
遅くとも本日より三日後には全軍の出陣を完了させる事とする。以上だ」
鎌倉の政所に頼朝の声が響く。
勢揃いしている御家人らが一斉に平伏すると、頼朝は立ち上がり退出して行った。
残された御家人らは、早くも出陣の準備の為に帰邸する者、同僚と言葉を交わす者、または自分の役目に戻る者と様々だったが、その場で着座したまま拳を握り締めて先程まで頼朝がいた上座を睨み据えている者がいた。
梶原景時が近付くと、
「上総介広常どの。
今回の出陣に関して頼朝様が相談致したい事がある、と仰っておられます」
耳打ちした。
上総介広常はじろりと景時を一瞥すると、
「ほう。今更この私に何の相談がある、と?」
皮肉交じりに広常が応じた。
この上総介広常は、挙兵した直後に敗北し海を渡って安房国[千葉県南部]まで逃げ延びて来た頼朝を援け、その配下の二万騎の軍勢を従え、頼朝の鎌倉入りを成し遂げさせた、言わば頼朝の大恩人とも言うべき武将で、鎌倉内部でもその功により隠然たる勢力を誇っていた。
しかし広常は常日頃から頼朝の関心が関東では無く、京や朝廷の方に向いている事を苦々しく思っており、頼朝が軍勢を率いて上洛しようとするのを、これまで幾度も反対し、これを断念させて来たのであった。
広常はこう思っていたのだ。
『我らが関東で勢力を伸ばしている事を朝廷すら止める事は出来無い。
であるのに何故、関東の事では無く、朝廷の事ばかり見苦しい程、気にしておられるのか』
と。
つまり『京の朝廷の事など放って置け!』と。
その様に考えている広常が、今度の出陣に関しても反対の立場であるのは当然で、段々と頼朝が言う事を聞かなくなり、己れが蔑ろにされて来ている事に不満と憤りを感じていたのであった。
「さ。そこまでは。しかし頼朝様はこう仰られておりました。
広常どのには本心を聴いて頂きたい、と」
景時は立ち上がると奥の別室へ広常を促す。
広常は立ち上がりつつ横眼で景時を蔑む様に一瞥すると、
「本心、な。良かろう。案内するが良い」
腹立ち紛れに横柄に景時に命じると、広間を抜け廊下を景時の後に続いて進んで行く。
景時は突き当たりの一室を指し示しながら、小声で世間話でもするかの様に、
「頼朝様とて広常どのの御恩を忘れる様な事はなさるまい。
本心ではこう思われている事でしょう」
囁きつつ戸をからりと開けて控えた。
広常はもう一度、景時に見下す様な視線を送ると、室内に一歩踏み出す。
「?」
広常は一瞬、己れの身体に受けた衝撃の意味が判らなかった。
「!」
次の瞬間、己れの胸から太刀の切っ先が飛び出しているのを眼をした時、息の詰まる様な感覚と共に全てを理解した。
「これが頼朝様の本心です」
景時が冷たく言いつつ、広常の背中から深々と突き刺した太刀を引き抜いた時、支えを失った広常の身体はその場に崩れ落ちた。
景時は仰向けに斃れている広常を、何の感情も伴わない眼でしばらく見降ろしていた。
広常の驚愕に見開かれた眼が動かず、瞬きを止め、呼吸すら止まるまでの短い間。
程無く、広常の身体はその総ての活動を停止し、動いているものと言えば、その身体から溢れ出る血が床に拡がって行くだけになった時、
「景時さま。広常の嫡子能常、討ち取って御座います。
骸は既にこの侍所へと」
雑色[ぞうしき。頼朝の諜報機関とも言える侍所の一部所]の郎等らが忍び寄って報告した。
「今から侍所を一時閉鎖する。誰も中に入れてはならん」
郎等らに命じつつ景時は太刀を鞘に納めると、室を出て今来た廊下を戻って行った。
頼朝の許へ任務を完遂した事を報告する為に。
こうして鎌倉に於いて、上洛軍の派遣に最後まで反対していた上総介広常とその嫡子能常を粛清した頼朝は、京へ軍勢を出陣させた。
その数およそ六万騎。
遂に頼朝はその政治的野望を遂げる為、自らの配下の軍勢を動かしたのである。
しかし、いくら北関東の情勢に対しての不安と、その不安の元凶である陸奥の藤原秀衡を牽制する為とは言え、部下だけを行かせて頼朝自身は鎌倉に居残るというのは、いかにも彼らしい遣り方であった。
彼は己れの力量を正確に把握していたのだろう。
それは己れには政治的センスはあるが、軍事的センスが無い、或いは足りない、という事を。
こうした頼朝の姿勢を怯懦である、と斬って棄てるのは簡単であるが、頼朝の身になって考えて見れば、こうする事も止むを得なかったのである。
頼朝は強大な勢力に囲まれているからだ。
背後の秀衡は言うまでも無く、出陣した軍勢の行く手には義仲が京を押さえており、更にその先、西海には復活しつつある平氏がいるのである。朝廷や法皇から東国の支配を認められたとは言え、頼朝にはまだまだその政治的野望の実現の為に払い退けて行かねばならない敵が多数存在していたのであった。