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義仲戦記52「約束の場所」

五騎の一角が崩れた。

先頭を駆けていた家包の馬に矢が命中し、乗っていた家包もろとも馬が横様に倒れたのである。


「私に構わず行って下さい!」


家包はよろけながらも直ぐに立ち上がると、駆け続けている四騎に叫んだ。
義仲・兼平・巴・光盛は、家包に目礼を送り返答とした。

と、
「私は上野の多胡次郎家包!私を討ち取り手柄にするが良い!」

家包は叫びつつ太刀を振り翳して敵に斬り掛かって行った。


だが、関東勢はこれに応じず、十五騎の騎馬武者か家包を取り囲むと、その武士らは馬から降り、家包に飛び掛かって来た。

家包は太刀を撃ち込んだが躱されると、全方向から武士らに掴み掛かられ、捕らえられてしまったのである。


「何故だ!何故、私を討ち取らん!お前らも武士であろう!」


家包が押さえ込まれもがきながら叫ぶと、一人の武士が、

「多胡どの。お前と那波広純どの、そして巴御前の三人は、鎌倉どのより特に生け捕れと厳命されている。
だが、どうやら那波どのは姿が見えず、味方の搦手の軍勢の者らに討たれてしまったらしいな」

諭す様に言うと、家包は何故自分が捕らえられたのかを理解した。


巴御前の事は理解に苦しむが、那波と多胡といえば上野[群馬県]の有力な豪族であり、名目的には頼朝の支配圏の中に組み込まれている関東の上野だが、実質的にはその半分以上は義仲の勢力範囲に属し、その義仲の上野支配の中核を担っているのが那波・多胡の両豪族なのである。

その為、この二つの豪族を己れの支配体制に組み入れ、名実共に上野を支配し、それによって不安定な北関東に睨みを効かせる為、頼朝は広純・家包の二人を生け捕ろうとしたのだ。

頼朝はこの戦さの後の事まで考えて、その政治的判断を行なっていたのである。だが、この様な政治的判断が伴う命令を重く受け止めず、些細な事と思い、部下の武将らに徹底させていなかった義経の搦手の軍勢は、広純を討ち取ってしまっていたのである。

ここにも義経の政治的センスの無さの一端が垣間見られるが、大手の範頼はこの頼朝の命令を、大手の軍勢に徹底させていた事で、家包はこうして捕らえられてしまったのだ。

とかく地味な範頼だが、こうした政治絡みの実務は誠実に果たしていたのである。



「畜生!畜生ーーッ!」


家包はその人生で初めて悔し涙というものを目蓋から溢れさせながら、思い切り叫んでいた。

義仲や、信頼し共に戦い抜いて来た者達と果てるという願いが叶えられず、こうして身体を押さえ付けられ、生け捕られている己れの無様さを呪い、そして無念さを噛み締めながら・・・






義仲・兼平・巴・光盛の主従四騎は脇目も振らず爆進していた。
すると、その時。
新たに三〇騎程の敵が後方より追い縋って来ると、右斜め後方から義仲主従に突っ込んで来た。


(まずい!)


隊列後方の光盛は、この新手に対応し隊列の間に敵を割り込ませない為に、前方の義仲と右前方の巴との中間に、己れの馬を付けるべく少し右側へ移動する。

と、
(何だこいつら?おかしい。
左に回り込んで義仲様を狙って来ない・・・
っ!そうか!こいつらの狙いは巴か!)


光盛は気付く。
が、その時には敵の先頭にいる二騎の武士が、巴に組み付こうと手を伸ばしていた。

戦う美少女は慌てずにそれを躱した。
が、鎧の大袖の下段を掴まれる。

と、大袖を掴んだ武士がニヤニヤと口元を歪めると、

「オレは武蔵の恩田八郎師重!
巴ェ!鎌倉どのの命によりお前ェを生け捕ってやる!」

ガラガラ越えで吠えた。

戦う美少女は、スッと無表情になり全てを凍り付かせる様な冷気の籠った眼で恩田を一瞥すると、逆に恩田の手を掴み、腕を捻り上げて落馬させようとした。

が、
「!」


もう一騎、突進した来た武士に、巴はその長く美しく艶やかな髪を鷲掴みにされていた。


「私は遠江の内田三郎家吉と申す!
鎌倉どのからは無傷で捕らえよとの厳命により、手段は選ばずにやらせていただく!」

端正な顔を醜く歪め、内田も薄ら嗤いをその整ってはいるが知性の欠片も窺う事の出来ない顔に貼り付けて、言葉を飾り着けて名乗りを上げるつつ、更に巴の髪を強引に引っ張る。

一見、優男に見える内田だが、大力の持ち主というのは本当らしく、力任せに髪を手繰り寄せようとしていた。


戦う美少女の顔が上に向かされた。


後ろから髪を掴まれて引かれているので、そのかたちの良い顎が上がり、白く綺麗な喉元が見えた。


その瞬間、手塚太郎光盛の中で何かが弾け飛んだ。


考えるより疾く太刀を持ち替えると、内田と名乗り、巴の髪をその薄汚い手で掴んでいる奴の兜を右腕に巻き込むと、左手に掴んだ太刀でその首を斬り落とす。



その一瞬の間、光盛は秘められた自分の大切な想いを踏み躙られた様に感じていたのである。



それは怒りであった。




(そうか。俺は今、怒っているのか)
そういう思いが後から来た。

が、その間も動きは止めてはいない。
薄ら嗤いを貼り付けたままの内田の首を投げ棄てると同時に、巴の髪を掴んでいた首を失った内田の身体を馬から蹴落とし、巴の鎧の大袖を掴んでいる恩田と名乗った大男の腕を狙い太刀を振り下ろし、これを斬り落とす。

と同時に、恩田の首も跳ね飛んでいる。
見ると戦う美少女が太刀を跳ね上げていた。

光盛は巴の横に馬を割り込ませて、恩田のこれも首の無い大きな身体を馬から蹴落としながら、


「大丈夫か!巴!」
声を掛けると、


「有難う光盛。まったく最低な奴らね。男の風上にも置けない。
女の髪を掴んで手柄を立てようとするなんて。
武士の誇りもあったもんじゃ無いわ。アレで侍のつもりなのかしら」


怒ってもいたが、ほとんど呆れた様に言っている彼女は普段の戦う美少女戻っていた。

ほっと息を吐きつつ馬を並べて横眼で巴を見ていた光盛は、ふと風音が聴こえた気がして、気になった右側の方へ何気なく眼を向けると、


「!」


恩田と内田の引き連れていた郎等らが全員、弓を引き絞りこちらに鏃を向けて狙っているのが見えた。


(しまった!)



気付くと同時に、
「矢が来る!伏せろ!」




光盛は叫びつつ身体を右側に捻り、手を横に上げ馬上で身体を拡げた。



「!!!」



衝撃が来た。
身体中に。

太刀で何度も突き刺されている様に感じる。
その音が身体の内側から直截、響いて聴こえる。

身体が後ろへ持って行かれるのを必死で堪えた。

と、




「光盛!」





(聴こえてるよ、巴。悲鳴みたいだ。何だよ、耳元ではそんな声出して)

声がした方に眼を向けると、すぐ近くに戦う美少女の顔。

(どうした巴。哀しそうな表情をして。
何かあったのか?君はいつでも楽しそうにしていないと。
その方が似合ってる。
でも、もしそれが辛くなったら、いつでも俺に聴かせて欲しい。
君の不安も怒りも哀しみも喜びも全て俺に分け与えて欲しい。
頼む。頼むよ。巴)



取り留めの無い想いが噴き出して来る。
が、はっと我に返る。

光盛は半分寄り掛かる様に、馬上で巴に身体を預けていた。
その身体には矢が十本以上突き刺さっていた。
そんな光盛を横から支えている巴が叫ぶ。


「光盛!大丈夫?!光盛!」


「ああ。まだ行ける」


光盛は軽く応じたつもりだったが、それは相当な気力を必要としていた。


(何だ?一瞬トんでたのか?俺は)
少し頭がはっきりして来た。

随分、色々と考えていたような気もするが、どうやら一瞬の事だったらしい。


全身の痛みに堪え、手を強く握ってみると、まだ太刀は掴んでいた。
が、鎧の内側の服の中で血が噴き出しているのが、何故か自分で判った。
それも何ヵ所も。


「済まん。巴」


急いで態勢を元に戻そうとした時、全身に激痛が襲った。
これを気力だけで堪えて自分の馬にしっかりと乗ると、もう一度、戦い美少女に視線を戻し、


「巴。支えてくれて有難う」

光盛が優しく礼を言った。

息が苦しい。


「莫迦!光盛、貴方こそ!貴方こそあたしを庇ってくれたんでしょ!」


戦う美少女は泣き出しそうな顔で怒っている。


(ああ。何だ。怒った顔も素敵じゃないか。しかし、莫迦はひどいな)

光盛は酷く穏やかに巴を見詰めている。
しかし、自分に残された時間がもうすぐ終わりそうな予感がしていた。
急がなければ、力が、いや、生命が尽きる前に。

光盛は大きく息を吸い込んだ。

が、咳き込みそうになるのを必死で堪え、告げた。



「巴。これまで色々有難う。愉しかった」



と同時に光盛は馬の進路を右方向に変え、巴、義仲、兼平から離れて行くと、矢を射込んで来た三〇騎の敵の真ん中目掛けて突き進んで行く。



「駄目!光盛!光盛!」



戦う美少女の叫び声出して遠くなる。

光盛は太刀を構え直し、馬上で名乗ろうとした時、身体の中から何かが逆流し、大量に血を吐いた。
が、そのままの勢いで前だけを向き、敵を睨み付け、その敵に馬ごとぶつかって行った。



(これが信濃の手塚太郎金刺光盛の戦い方だ!巴。俺は君の事を)



そこまで考えた時、光盛の首筋に何かが叩き付けられる様な衝撃が奔った。
手塚太郎金刺光盛は、二度と還れぬ世界の扉を開け、旅立って逝った。



義仲主従から、また一騎、大将が姿を消した。











巴、兼平、義仲の三騎だけが生き残った。

そして、この時、関東勢大手の第五陣を突破していたのである。
遂に義仲主従の前に立ち塞がるのは関東勢大手総大将率いる七〇〇〇騎の本陣のみとなった。

その敵本陣は遠くに見えるだけで、まだ距離があった。

そして今まで突破した来た敵の第一陣から第五陣の軍勢は、大軍である事が災いしてか、反転して攻勢に出る事が出来ずに、未だ義仲主従を追って来る気配が無かった。

と、
「義仲様。敵の軍勢が少なくありませんか?
確か以前に報された情報だと敵の大手は三万五〇〇〇騎という事でしたが」

「この打出の浜に天海している敵はおよそ二万五〇〇〇騎というところだ。
だが情報が不正確だった訳でも無かろう」

「どういう事です?」

「おそらく私が北陸へ逃れる事を想定し、琵琶湖西岸の唐崎・穴太辺りに一万騎程を派遣して布陣させている筈だ」

「北陸へ抜ける路を押さえていた訳ですか。
我らを袋の鼠にしようと。手堅いですね。敵の総大将範頼は」

「確かに手堅い。だが軍勢を分けてくれた事で好機が生じた。
これで私の真の狙いを実行出来る」

義仲と兼平が何か話し続けているのを、巴は何か遠くの出来事の様に感じながら、聞くともなく聴いている。



戦う美少女は、光盛の死に衝撃を受けていた。



しかし、話し続けている義仲と兼平も沈んだ口調になっている。
当然だ。



掛け替えの無い者がまた一人、眼の前で死んで逝ったのだから。
しかし、義仲と兼平はその哀しみに必死で抗い、最期の希望に賭けようとしていたのである。

それが義仲の真の狙い、であった。






義仲は急に、これまで見た事の無い様な思い詰めた真剣な眼で戦う美少女に向き直ると、穏やかに告げた。

「巴。私はお前を死なせたくは無い。直ちにこの戦場から離脱してくれ」

一瞬、何を言われたのか理解出来なかった。
理解したくなかった。

いや。理解は出来るが、納得したくはなかった。

巴は、はぁ?という表情のまま、馬上で固まった。

だが、頭の中では内なる巴が、何人も義仲の告げた言葉に対し激烈に反論していたのである。



(ちょっと待ってずっと一緒だったのに今更何を言ってあたしは嫌!納得出来ないてか何であたしだけ逃げそれはあたしが女だからなのそんな事言われてもその女を武将として扱ってくれたの義仲様じゃ邪魔なのあたし一緒に死にたくないって事一人で逃げるなんて冗談じゃ最期まで義仲様の許を離れたく死なせたく無いってどういうあたしは義仲様と一緒に死義仲様だからこそ共に死それが駄目なのそれだけがあたしの小さな望みなのにそれすらも許されない片時も離れる言葉無く戦いの時もそうでない時も今義仲様を見捨てるだいたいどこに居場所があるの逃れても行き場なんか小さい時からそうだったあたしの願いはどうな嫌絶対嫌そんなこと出来る訳あたしは付いて行見届けたい最期まで死を義仲様にそんな事言われ納得しな嫌一緒に死絶対共に最期まで決めてるのあたし逃げ無)


僅か数秒の間に巴の内ではこの様な想いと感情が噴き出し混ざり合っていた。
混乱といえば混乱であるが、一つの強い感情が現れてはいた。



つまり、義仲の告げた事に従うつもりは無い、という事だ。



そんな想いが眼に表れていたのだろう。
義仲は彼にしか出来ない優しい笑顔を見せると諭す様に言葉を重ねた。



「これも私の我が儘だ、巴。だが私の願いでもある。それでも嫌か?」

巴は、ぐっと詰まった。

これまで巴は自分の想いや願いや望みよりも、義仲の想いや願いや望みの方を優先して来た。


それが巴という人だった。
それが巴という生き方だった。


彼女は今、迷いを覚えていた。
それは義仲と自分のどちらの願いを優先させるか、で。


本音は絶対に離れたくはない。
本音は絶対に最期まで共にいたい。

しかし、それは自分の願いの方を優先させてしまう事になる。
それは巴では無い。


巴の外見をした違う巴になってしまう。


(一体どうしたら・・・光盛・・・)


何故か胸の鈍い痛みと共に光盛の事が頭に浮かぶと、



『何言ってるんですかぁ。
義仲様の望む事を実現する為にあたし達麾下の武将はいるんですよ?
私達だって好きで義仲様に従ってるんですから謝るコトなんて何も無いですよ。そぉよねぇ光盛?』

自分の口にした事が甦る。
確かにそう言ったし、そう思っていた。

そして今でもそう思っている。



義仲の望みの為に全てを擲つ、という事は彼の望みを自分の望みとして生きる事。


義仲の為に死ぬ事では無いのかも知れない。
少なくとも義仲は巴が死ぬ事を望んでいない。

思考が堂々巡りしだした時、先程から心の何処かに引っ掛かっていたが事が思い出された。
はっ、と我に返る。


(そうだ!さっき義仲様は大事な事を仰っていた!
確か、好機が生じた、とか、これで真の狙いを実行出来る、とか!)


そこまで考えた巴は、あっ、とある事に思い至った。
それが表情に表れてしまったのだろう。
義仲は大きく首肯くと、


「そうだ巴。
私が今日、味方の将兵の犠牲を省みず勢多に向かったのは、兼平にもう一度逢いたい、という私の我が儘。

もう一つは、

敵本陣を目指し突破に次ぐ突破を繰り返す事で、
いまの様な空白の時と場所を創り出し、敵に気付かれる前に、
巴、
お前を逃れさせる、というもの」




「では・・・始めから私を逃れさせる為に・・・」




信じられない、という顔で巴が呟く。

(・・・卑怯ですよ・・そんな言い方

・・これであたしが嫌だって言ったら・・

みんなの・・光盛の死も無駄ってコトに
あたしがしてしまうコトになるじゃないですか・・

ひどいですよ・・義仲様・・ずるいよ・・駒王丸・・・)




泣きたい気持ちなのに涙が一向に湧いて来ない事を不思議に感じていた巴だったが、彼女は解ってしまったいた。

彼女の何処かで、義仲様の願う通りにしようかな、駒王丸の望む事ならそうしてあげたっていい、と納得し掛けている自分がいる事を。


その事に気付いた巴は、闘う美少女に戻って義仲の眼を真っ直ぐに見据えて告げた。



「正直、納得なんて出来ませんケド、それが義仲様の、我が儘を通したい、という願いなら、その願いを叶えるのがあたし達の仕事ですから」



(嫌だ!そんなの!あたしは駒王丸と一緒にいたいの!
それがあたしの我が儘なの!
そうしたっていいじゃない!どぉして駄目なの!)


しかし心の中ではもう一人の巴が悲鳴を上げている。

いつしか巴の呼吸が速くなっていた。

強烈な感情を抑え込んでいるのである。



それは痛ましい姿とも言い換える事が出来るが、戦う美少女はそれでも精一杯、虚勢を張ったのである。




他でも無い、彼女が心から愛する人の為に。




義仲は慈しむかの様な目で巴を見詰めながら、馬を横に並べると左腕を差し伸べ彼女を抱きしめると耳許で囁いた。


「生き永らえて欲しい・・駄目だな・・
もっと伝えたい事、感謝したい事があるというのに・・
言葉にならん・・・」

巴は眼を瞑り、義仲の吐息と心音とを感じながら、その美しい鈴の様な声を心の奥に刻み付けるかの様に黙って聴いていた。


いつまでもこうしたいたい、という想いが再び強くなって来た巴は、自分の方から思い切って身体を離すと、今まで傍らでずっと見守ってくれていた兄兼平に笑みを浮かべて目礼し、義仲に視線を戻し、


「さようなら」


囁く様に一言だけ告げると、敵の姿が無い南の方向へと馬を駆けさせた。





巴は自分がどんな表情で、さよならを告げたのか、今、どんな表情では馬を駆けさせているのか分からなかった。

自分では決断したつもりだったが、馬を疾らせたその時から後悔の思いが自分の中に芽生えた事に当惑しつつも、何処かそれも当然だ、と達観している自分もいる。


おそらくこの後悔の思いは生きている限り、
ふとしたときに自分を襲い、苦しめるだろう事を予感して。



だが、戦う美少女は一つの事だけは自分に課していた。
この様な別離の時に泣いたり、振り返る様な事はしない、と。

そして巴は、この自分に課した掟を護り通して、
愛する者達の許から去って行った。



ただの一粒の涙も浮かべずに。
ただの一度も後ろを振り返らずに。



本当は姿が見えなくなるまで見送っていたかったが、去り行く巴が一度も振り返らずに去るのを見て、逆に巴に己れの未練を叱られた様な気がした義仲は、馬の向きを北に変えると駆け出した。

兼平を従えて。


遂に主従二騎のみとなった義仲と兼平だが、北に向かって馬を進めているのは、少しでも敵を自分達に引き付け、巴が逃れるのを援護する為でもあった。



こうして義仲は己れに課し、また課された役目を総て果たし終えると、

「何だか急に鎧が重くなった様に感じる。
普段はその様に感じる事はないというのに」

乳兄弟であり、幼馴染みであり、親友であり、腹心である兼平に、ぽろりと本音を吐露した。


兼平はこれを聴き驚いた。


内容にでは無く、その口調に。



弱気になって寂しげな口調なら解るが、そうでは無く、実に愉しげな口調で言っているのだ。
それはあたかも何かから解放されたかの様な響きと安堵を伴っていた。
兼平は初めて理解した。


あるじがどれ程の重責と重圧をその双肩に担っていたのかを。


その事を理解したしたいたつもりでいた己れの至らなさを。


そして総てを終え、総ての重責と重圧から解放されたあるじが、今、何を望んでいるのかを。



「私にはまだ矢が七本残っております。
我らの軍の吉数の七です。

この七本の矢で敵を防ぎますから、
義仲様はあそこに見える粟津の松原の松の中で御自害なさって下さい」



兼平はあるじに路を示した。
死出の路を。

それがあるじの望んでいる事であると信じて。


そして主従二騎は馬を駆けさせ、粟津松原へ向かって行く。

と、
「私がここまで来たのは巴の事と

共にお前と同じ場所で果てようと思っていたからだ。
別れ別れになって討たれるよりも、
離れずに敵と戦い討ち死にしよう。兼平」

言いながら義仲は馬を並べようとする。

死を望む義仲の心は解った兼平だったが、その方法に於いて主従の考えに微妙な違和が生じていた。


義仲は共に一所で討死する事を望み、
兼平はあるじが自決するまで敵を防ぎその後に果てたい、と。


この義仲の気持ちは、兼平にとって最高の悦びであった。


正に幼い頃の約束通りなのだから。
しかし同時に最大の恐れともなっていた。

それは、もし兼平が先に討死した場合、義仲の最期を看取る事が出来ず、もし義仲が先に討死した場合は、最期を見届ける事は出来るが、敵にあるじの首を挙げられるという、兼平が最も見たく無い光景を眼にしてしまう事を忌避する感情とが二律背反となって兼平を責め立てていたのである。


と、蹄の音が聴こえて来る。
敵の一団に見つかったらしい。

ここで兼平は己れの心情に素直に従う事にした。

五〇騎程の敵がこちらを発見して向かって来ているという切迫した状況でもあったが、やはり愛するあるじ義仲が敵の名もない郎等らの手に掛かるなどという事を是が非でも避けたかったからである。


これは巴の髪を敵に掴まれた時の光盛の感情とほぼ同じものだったと言って良い。



“秘められた自分の大切な想いを踏み躙られた”
かの様に思うあの怒りの感情の事だ。


兼平は正直に告げた。

「私は義仲様が敵の郎等らに討たれるところなど見たくはありませんし、それ以上に『日本国当代最強の大将軍を討ち取った』などと聴きたくもありませんし、我慢も出来ません。
今はただただあの松葉へお入り下さい。御願い申し上げます」

懇願した。
本音だった。

だから説教染みた事などと言える筈も無かった。

義仲はじっと兼平を見詰めていたが、ふと目許を緩めると、


「そうしよう」


兼平の言葉に素直に従うと、兼平をその場に残し粟津の松原目指して駆けて行った。



その後ろ姿を見送っていた兼平の眼に一瞬、
馬を駆けさせているのが今の義仲では無く、
幼い頃の駒王丸が馬を駆けさせている様に映った。

兼平は驚いて瞬きすると、その姿は大鎧を纏う義仲の姿に戻っている。


ふっ、と口許に笑みを浮かべた兼平は、馬の踵を返し近付いて来る敵に向き直ると、





「世に名高い朝日将軍及び征東大将軍源義仲麾下の四天王に名を連ねる信濃の今井四郎兼平である!
我が首を討ち取り鎌倉どのに見せるが良い!
であれば私も久々に鎌倉どのにお会い出来よう!参る!」




高々と名乗りを上げ、敵に向かって駆け込んで行った。










義仲は不思議な感覚に捉えられていた。
粟津松原に入った義仲は、馬が進むに任せてただその背に跨っている。

が、何故か以前に三日間ほど熱に魘され寝込んていた時に見たであろう夢の事を思い出すでも無く思い描いていたのであった。


眼が覚めた時すら思い出せなかった夢を、今となっては更に思い起こす事など出来なかったが、夢の中で囚われている時の感情だけははっきりと思い出す事が出来たのである。

それは、


振り向くな、振り返ってはならない、



と思い込まされ
強迫観念の様に義仲を縛り、
振り返りたいのに振り返れずに懊悩し迷い苦しむ、
という揺れ動く感情だった。




この様な夢の中での感情の揺れが、今、何故想い起こされるのだろう。
義仲は忘我の中でゆるゆると考えながらも、落日の夕陽に照らされながら、松の樹影の中を進んで行く。






兼平は七本目の矢を、最後に残った矢を射た。

矢を受けた敵は落馬する。
これで七騎。
兼平は七本の矢、全てを敵に命中させていた。

これで矢を射尽くし弓を棄てると、太刀を引き抜き誰彼構わずに斬り掛かる。


兼平を囲んでいるのは総て敵なのである。


遠慮する事など無いし、始めからそうするつもりも無い。
兼平は正にこの時、四天王であった。

仏敵が幾千、幾万、いや幾億と精舎に襲い掛かって来たとしても、精舎の門を護り抜き仏敵の侵入を許さないという四天王の本領が発揮されているかの様な兼平の戦い振りであった。

敵はこの様な兼平に恐れをなし、太刀で斬り掛かろうとはせず、周りを取り囲んで何度も一斉に矢を射たが、その矢は全て鎧を貫通する事は出来ず、致命傷を与える事が出来ないでいた。

神掛かった驚異の戦いをしている兼平に傷を負わせる事が出来る者は、この敵の中には存在していなかった。





ぱきっ、と音がした。
と思った時には既に馬は深い泥田に嵌り込んでいた。

泥田に張っていた氷に馬が足を踏み入れ、その氷が割れた音だったのである。

義仲は、はっと我に返ると泥田から抜け出る為、鞭で打ったり鎧を蹴ったりして何とか馬を操ろうと試みていたが、その時、何故以前に見た夢の事などを思い出していたかその理由を悟った。



義仲は振り返りたかった。
振り向きたかった。


だから、それを禁ずる様な夢の事を思い出していたのである。


何故か。



何故、振り返りたいのか。

振り向きたいのであろうか。



その理由は唯一つ。





兼平の事が気掛かりだったから。
兼平の事が心配だったから。
兼平の身を案じていたから。

(兼平、兼平、兼平、兼平、兼平)

馬を泥田から抜け出させる事に苦労している様に見える義仲だったが、最も苦心していたのは、彼の心に沸き起こる乳兄弟への想いを抑える事が出来無い事だった。


(兼平!兼平!兼平!兼平!兼平!)


義仲はその想いに抗し切れず、夢の中でもそうした様に禁を破った。






「!」






だが、
意を決して兼平の無事を確かめようと振り返った義仲の眼に映った光景は、
兼平の姿では無く松の葉の上に拡がる夕日に染められた橙と蒼が混ざった空の色だった。





(あの夢で見た光景はこれであったのだろうか・・・
それとも・・・別の・・・)



義仲はその光景に見惚れた直後、その意識が途絶えていた。






義仲は振り返った瞬間、追い駆けて来た敵の放った矢を射られた。
額の真ん中を。

矢を受けた反動で義仲の頭は後ろに振られて空を仰ぐ事となった。

その義仲の頭が今度は、がくりと前に振れると、義仲は馬の首に凭れ掛かる様に俯せで倒れ掛かった。
時を置かず、義仲に矢を射た武士の郎等が二人すぐさま駆け付けて来ると、馬にしなだれかかっている義仲に、喰らい付く様に襲い掛かる。






「我は三浦の石田次郎為久!世に名高い朝日将軍義仲を討ち取ったぞ!」




その声を耳にした時、兼平は反射的にその声のした方に視線を移してしまった。

そこには彼の最も眼にしたく無いものが現実として存在していた。








彼が己れの総ての忠誠と献身を捧げ、共に幼少の頃より歩んで来た愛する者の変わり果てた、もうその口からあの美しい鈴の音色の様な声が発せられる事の無い無惨な姿が。


彼が総てを捧げた者の顔の額には矢が突き立っていたが、その美しさは些かも損なわれてはいない。

しかし今やその顔の下には身体が失われ、
その代わりに切っ先を突き刺した太刀がその首を支えている。

その太刀を高く掲げている騎馬武者の傍らに、彼の愛する者の身体が馬にしなだれかかる様にして、動く事無く佇んでいた。




兼平は、終わった、と感じた。





愛する者を討った武士や、愛する者の首を斬り落とした郎等らの事など、もうどうでも良かった。

愛する者を殺した相手に対する怒りや復讐の感情すら、今の彼には湧いては来なかった。


ただ、終わった、と感じている。



全ては失われ、総てが終わりを告げたのだから。

もはやこの世界は彼にとって生きるべき何らの意味も価値も見出す事の出来無い単なる灰色の環境に一変していた。

そして彼は、彼に残されたただ一つの事を果たすと決めた。


彼と彼の愛する者との間で誓い合った
誰にも犯す事など敵わない聖なる約束を。






「全ては終わった。
関東の者どもよ見るが良い。我が国一の剛の者たる証を示してやろう」

何の感情も抑揚も無い口調で兼平はそう告げた。
が、その眼からは細い一条の流れが夕日を受けて煌めいていた。



(義仲様。今すぐそちらに参ります)



と、彼は太刀の切っ先を己れの口に差し入れると、馬から真っ逆様に飛び込んだ。


敵が見ている中で。
太刀に貫かれて。
四天王今井四郎兼平は、愛するあるじを待たせる事無く、その後に続いた。

即死、であった。









義仲は斃れた。
討ち取られた形となったが、そうでは無い。

義仲はその優しさの為に斃れたのだ。

乳兄弟であり友である兼平を気遣うその優しさに突き動かされ、
振り向かずにいれば当たる事の無かった矢をその額に受けて。


義仲は死す時もまた義仲そのものであり、
その大いなる優しさに殉じて斃れたのであった。


そして兼平もまた、自害したのでは無い。

この冷静な蒼い炎の武将が最期にとった行動は
壮烈な自死の形を呈していたが、
これは誓いを果たす、という
兼平の決意が形となって現れたに過ぎない。


義仲が優しさに殉じた様に、
兼平もまた約束に殉じたのである。

この二人の間に結ばれた聖なる約束はこうして果たされた。

近江国粟津松原。
この地は二人の聖なる約束の場所となった。









沈む直前の夕日を背に受けながら、前方に長く延びる騎馬と自分の影を追い掛ける様にして駆けていたが、気が付くとその影は消え、周囲は既に夜の帷が降り始めている。

しかし巴御前は馬足を緩めず、吐く息が白く弾み、後ろに流れて行くのを感じつつ、馬の駆け行くままに任せていた。

ひたすら前だけを見詰めている巴であったが、その美しい瞳には何も映ってはいない様に風景は通り過ぎて行く。


どれ程、駆けたのか分からなくなった頃には、すでに辺りは暗闇を包まれ、見上げた夜空の下に山並みが黒々とその稜線を際立たせていた。

いつの間にか馬は駆ける事をやめて、ゆったりと歩を進めている。

巴は無表情のまま、眼だけは大きく見開いて夜空を見るとも無く見上げながら馬に揺られていた。




頭に浮かんで来る事と言えば、全て取り留めの無い事ばかりで、しかもその全てが上滑りしながら霧散して行き、まともに思考する事を拒むかの様に次々と浮かんで来ては消えて行く事柄を、ただ遠くから眺めている事しか今の巴には出来なかった。

感情の何処かが麻痺し、それでいて直視しなければならない現実の扉を開ける事を拒んでいる自分に気付きながらも、何もする気にならず、身体すら動かす事を厭い、ただただ虚空を見上げている。


と、身体の揺れが収まる。
馬が足を止めたのだ。


巴は空を見上げたまま一つ大きく息を吐き出す。

ゆっくりと顎を引きながら頭を元に戻した時、右眼の端に何かを捉えた。
ゆっくりと視線をそちらに移す。


その瞬間、巴の瞳孔は大きく開き、その身体は馬上で固まっていた。


声を出す事すら出来無い。
そこには、巴の馬の轡を取っている者がいた。


だが、その者は俯いたまま、じっと手綱の片方を掴んだまま動かない。



辺りは暗闇だというのに、はっきりとその者の姿は浮かび上がり、しかも巴にはその者が誰なのかすら判る。


(どのして・・・貴方が・・・ここに・・・いる筈・・・無い・・・)


混乱し声が出せない巴は瞬きすら忘れ、その者から眼を離す事が出来ずにいた。



と、それ程遠くない前方で松明を掲げた騎馬武者の一団が現れると、松明の灯りが蹄の音と共にこちらに向かって来る。
かと思われた時、その一団は右に折れ、連なって遠去かって行く。

息を潜めその松明の灯りの列を眼で追いながら耳をすませていた巴が、ふと視線を戻して見ると、既にその者の姿は忽然と掻き消え、馬は何事も無かったかの様に歩き出す。



巴は、その者が今までそこに存在した事に混乱しながら辺りを見回すと、前を見た所で再び眼を大きく見開いていた。



馬に跨った美少女がこちらを見て驚愕している。



彼女とは長い付き合いだった『きみ』を見て。

『きみ』自身、何故再びこの世界にいるのか解らなかったが、
『きみ』は自分が今、この場所にいる事の意味を知っていた。
『きみ』は右腕を肩まで上げると真っ直ぐ北の方角を指差す。
その方角には敵の軍勢がいない事を『きみ』は知っているから。

そしてもう一度、美少女を見た『きみ』は首肯いて見せる。

そうする事が、美少女の背中を押し、
彼女を幾らかでも勇気附ける事が出来ると『きみ』は思ったから。

すると『きみ』の存在は希薄になって行く。
その姿が維持出来なくなる事を、当然の事の様に受け入れている『きみ』の耳に、聴き慣れた美少女の声が優しく届いた。



「ありがとう。心配掛けたわね。でも、もう大丈夫よ」



『きみ』は消えつつある恍惚の中で
美少女の囁きにも似た甘い声を感じている。



「戦う美少女は今日で終わり。明日からは巴として生きて行ってやるわよ」




涙声だった事に今度は『きみ』の方が少々驚いて最期に巴を見る。
と、その勝ち気で純粋で真っ直ぐな気性を映し出す鏡の様な瞳から、大粒の涙が零れ落ちていた。


『きみ』は巴を泣かせてしまった事に心を痛めながらも、巴の口調が悪戯っぽく、それでいて力強いものだった事に安堵しながら、巴を見詰め、巴は涙を零しつつそれでも笑顔を見せてくれた後、何かを断ち切るかの様に馬を駆けさせて行った。




その時『きみ』は何かが弾けた様に感じたのを最期に、
この世界から別れを告げた。

『きみ』の指し示した方へと巴が向かうのを、
薄れ行く自我の何処かで感知しながら・・・