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義仲戦記32「平家追討」

「平氏が京を捨て、入れ替わって入って来た源氏らに、私が最初に命じた事が蔑ろにされておるのは気に入らん」

寿永二年九月一五日。この日、御所殿上の間では朝廷の公卿らが集まり、後白河法皇御臨席のもと、会議が開かれていた。が、その冒頭、左右大臣の挨拶もそこそこに、御簾の内側から法皇の不満の御心の表明がなされた。

いきなりの法皇の発言に、この場に集っている参議の公卿らは一瞬面食らっていたが、こうした事に慣れている左大臣経宗は落ち着き払い御簾に向かって一礼すると、

「畏れながら、平氏一党に関する追討の件に御座いますな」

「うむ。その後どうなっておるのじゃ」

御簾の内からその御自慢の声が良く響いて来る。

「それに関して、義仲、行家両名の連絡役である高階泰経から報告があります」
左大臣経宗が促す。

「はっ。先日、新宮蔵人行家どのから平氏追討の折には、是非その宣旨[公式の命令書。公文書]を行家一人に賜りますように、との事で御座います」

法皇第一の側近を自負する高階泰経が頭を下げたまま報告する。

「何?あの道化者は己れ一人で平氏を追討するつもりか?」

呆れ半分、笑い半分の口調ちなりながら法皇が応じると、公卿らは一斉に溜め息混じりの苦笑いに包まれた。

公卿らも当然、この動乱の状況に於ける行家の行動履歴やその能力くらいは承知していた。それもほぼほぼ正確に。

つまり、行家には書状の伝達[配達業務。デリバリー]や、その気が無かった他者を口車に乗せてその気にさせる[客引きやセールス。またはスカウトと称した違法行為]事には向いているが、その責任を取るつもりなど最初から皆無で、しかも武士の嗜みとしての合戦[戦闘行為]となると勝利した試しが無く、一旦不利と感じると逸早く己れのみで逃走を図る様な者であり、あまつさえ現在の市中警護[警備業務。人的セキュリティ]すら満足に務まらない事を考え合わせると、行家に平氏追討を命じるなど公卿らにとっては笑い話にもならない下手な冗談としか思えないのであった。


「はあ。そのつもりの様に見えます・・・」

泰経は、自分の事では無いのに、まるで自分が嘲笑されているかの様な身の置き所が無い心地で、顔を上げる事が出来ずにか細い声で応じた。
恥ずかしかったのである。
泰経はこの様な報告をしなければならない事態に追い込んだ行家を恨んだ。

しかし何故、急に平氏追討を自分のみに命じて欲しい、などと行家が言い出したのであろうか。
それにはやはり行家らしい動機があったのである。


 九月に入ってからこの京では実に様々な噂や風聞が乱れ飛んでいた。
 元々、京は人口密度が高く井戸端会議的コミュニケーションが発達していたせいか、色々な噂が発生しては、それがすぐに全市に拡散するという街なのである。と言うより都市というのはそういう場所なのであろう。そして九月になってから行家の耳にもその噂が幾つか聞こえて来たのである。

曰く“この度、義仲には北陸、山陰両道の支配権が与えられるらしい”

曰く“この度、義仲には全国にある法皇の御領地の支配権が与えられるらしい”等々。

 しかし、噂はあくまでも噂でしか無く、当然、何ら根拠のあるものでは無かったがは行家にとっては聞き流す事の出来ない種類の風聞ではあった。


「何故じゃ!このままではこのワシと義仲の差が開いて行くばかりじゃ!
いかん!いかんいかん!!義仲の好きにさせてはならん!
ココは一発このワシが西海に赴き、平氏を一捻りしてやって、このワシという存在を朝廷に知らしめる必要があろう!
おお!良い考えじゃ!さすがワシじゃ!
よぉ〜し来た!アがって来た!
早速、高階どのから朝廷に取り次いで貰おうかの!
おーい!誰ぞ急いで高階どのを呼んで参れ!
急げよ!ふはははは!
その気になったワシを見せ付けてくれるワ!見ておれ義仲め!」

と、何の根拠も無い噂にノさられその気になった行家は、泰経を呼び付けてこの事を朝廷に申し出させたのであった。

しかも行家にとって腹の立つ事に、聞こえて来る噂は全て義仲に関するものばかりで、行家に関する噂など一つも立たなかったし聞こえて来なかった事が、より一層彼を憤慨させていたのだった。


だが京の住民達も解っていたのである。
誰が状況を動かせる事が可能なのかを。
誰がプレイヤーで誰がそうで無いのかを。

である以上、その“状況を動かせるプレイヤー”に噂が集中してしまうのは当然の事であった。

だが、この種の風聞は住民だけで無く、貴族や公卿すらも巻き込み、これ以後も京で見たら飛んで行く事となる。


「はっはっはっ。泰経、何もお前がそう縮こまる事もあるまい」

愉快そうに法皇が言うと、泰経はホッとした様に顔を上げる。
と、咳払いをした右大臣九条兼実が、表情を引き締めて御簾を見詰めながら発言する。

「行家の申し出、いかがなさいますか」

「御簾を上げよ」
法皇が命じると、するすると音も無く両側から御簾が巻き上げられた。

「行家の申し出、実に殊勝な事である」
法皇が朗々と告げると、公卿らは一斉に頭を下げて応じた。

「さて・・・」
遠くを眺める様な風情で言葉を止めた法皇を、殿上の間に集まった者達はじっと見詰め、次の言葉が発せられるのを待っていた。






 この年の七月二十五日、旧都福原[兵庫県神戸市]を目指し京を去った平氏一門であったが、その後の約一ヶ月半以上にわたる期間は、武家とは言え既に京の貴族と化していた彼らにとっては“心細い”どころでは無く、正に“お先真っ暗”という言葉が相応しい程の暗澹たる心持ちであった事であろう。

 しかも一門の本拠地である京の六波羅に火を掛けて捨て去って来た彼らにはもう本拠地、言い換えるならば帰るべき場所、すら無いのであった。この寄る辺を失いその寄って立つ足元すらも覚束ない不安に押し潰されそうになりながら彼らは先ず福原に向かったのである。

 福原は清盛により一時遷都が強行された地であり、平氏一門にとっても別邸[別荘]を営んでいた慣れ親しんでいた地ではあったが、京へ首都が戻されてから既に三年近い月日が経過し、その間ほとんど捨て置かれていた福原の荒廃ぶりは、一門の者達を嘆かせるには充分な程、荒れ果てていた。

 彼らは瓦に草や蔦が生え茂る傾いた高殿に内裏を置き、安徳天皇を迎え、苔むして簾が落ち、屋根が破れ月の光と夜の風が差し込む邸で、虫の鳴き声を耳にしながら夜を過ごしたのであった。

 翌日、彼らはこの福原も放棄する事を決定。荒れ果てた内裏、高殿、邸に火を掛け、鎮西[九州]の太宰府に向けて、船で瀬戸内海に漕ぎ出したのである。

 一門は二十日間程、船に揺られた後、八月一七日には無事に筑前国[福岡県]に到着し太宰府へと入る事が出来た。久々の上陸に浮かれたのか、それとも京を遠く離れ敵である源氏の姿が見えない事に気を良くしたのかは判らないが、平氏一門はこの後、隣国の豊前国[大分県]の宇佐八幡宮を参詣した。
 これはおそらく全国の八幡宮の総本社に出向き、源氏に対する戦勝祈願の為であったのだろうが、逃亡した先で物見遊山をしていると、見えない事も無い。武家とは言え優雅な事である。実に“貴族”平氏としての一面が垣間見える。

 その後、太宰府に戻って来た一門を待っていたのは
『豊後国の住人 緒方三郎維義。
平氏追討の院宣に従い、平氏一門に対して挙兵。
既に進軍し太宰府へと迫っている模様』
という凶報であった。

 平氏追討の院宣は既に西国の全ての国に出されてはいたが、これまでほとんど顧みられる事は無かった。が、鎮西に於いて初めてこの院宣に応えた物が出現したのである。これを受け平氏は鎮西各国にいる親平氏の豪族らに呼び掛け、味方に付く様に要請したが、原田大夫直種ら少数の武士らがこの呼び掛けに応じただけで、ほとんどの鎮西の武士達はこれに応じず、逆に緒方維義の平氏追討に呼応し、攻め寄せる気配を見せていた。

 こうなると、今まで自分達の現状とこれからの行く末を嘆き、事ある毎に詩歌を詠んでは涙にくれ、自己憐憫の快感にどっぷりとは浸り切っていた“貴族”平氏も、その様な気持ちの良い事だけをしている場合では無い、と覚らざるを得なくなる。

 平氏一門は素速く行動した。武家平氏として。

 彼らは早急に鎮西から退去する事に決し、一門を二隊に分け、先発隊を新中納言平知盛が率い長門国[山口県西部]彦島に水軍の根拠地を築くべく先行させ、後発隊を総帥平宗盛が率い安徳天皇を護衛しながら太宰府を出発し、陸路で筥崎八幡宮、香椎宮、宗像神社を参詣しつつ遠賀川の河口芦屋城を経て柳浦[現状の門司]を目指した。

 平氏方の軍事総司令官であり、先発隊を率いた知盛は時間を無駄にする事無く、すぐさま長門の彦島を制圧すると、大船を一〇〇叟余り徴発し、後発隊が御所を構えた柳浦に向かった。一門はここで合流を果すと、大船に分乗し四国讃岐[香川県]の屋島を目指し、再び瀬戸内海へと漕ぎ出して行ったのである。こうして緒方維義の追撃を振り切り、鎮西脱出を見事に果たした平氏一門は、この時、紛れも無い武家平氏であった。

 が、屋島へと出発する前夜、一つの凶事が平氏に起こった。
 左中将平清経の死、である。

 清経は、清盛の長男重盛の三男で、三位中将維盛、新三位中将資盛の弟であるが、平氏の中でも貴族的傾向の強い小松殿家[重盛ファミリー]の兄弟の中で、おそらく最も貴族的な気質を持った者がこの清経であった。彼は都落ちの時、愛する妻と共に行こうとしていたが、妻の両親の強硬な反対に遭い、泣く泣く妻を京に残し己れ独りで一門と行動を共にしていた。彼は孤独に苛まれ、京からも、そして鎮西からも追い出された事で、前途を悲観し、思い詰めた結果、海に身を投げたのである。

 清経は武士としては生きる事が出来ない者であった。であるが故に、貴族としてその生涯を終わらせたのであろう。

 皆が寝静まった晩、船の屋形からそっと出で、冴えた月影を頬に浴びながら横笛を奏でた後に。

この事は一門にとっては悲しい事であった。

 清経にとっても無残な事であったが、他方で救いでもあったのだろうか。
だが、平氏としてはここで歩みを止める訳には行かなかった。

 悲しみに暮れていたかったのであろうが、そうしているだけでは状況は好転して行かないし、何もせずにいれば、追い詰められ滅亡してしまうだけであるから。


 平氏一門は出航した。
 戦う為に雄々しく東へと舵を切る。自分達の運命を切り拓き、残された幸運を勝ち取る為に。


 武家として戦い抜く覚悟を決め、安徳天皇を擁し意気揚々と大船団を連ねて東進して行く平氏一門の姿を見た瀬戸内の豪族達は、未だ平氏の命運が尽きた訳では無い事を眼の当たりにするや、続々と平氏方に協力を申し入れ、一門が屋島に御所と本拠地を構えた九月の中頃には、瀬戸内海に面する長門[山口県西部]、周防[山口県東部]、安芸[広島県西部]、四国全域を勢力圏として従え、淡路[淡路島]を伺いつつ旧都福原への侵攻の機会を狙っていた。

現在、西国はこの様な状況になっていたのである。

平氏は逃げたが、死んではいなかった。
京から落ち、鎮西太宰府まで逃げ、そこからも逃げ出した平氏ではあったが、僅か二ヶ月余りでは勢力を立て直し、再び福原や京へと帰還する逆襲が始まっていたのである。

 その平氏を見限り、更に安徳という天皇が登極しているにも関わらず、強引に後鳥羽を天皇に据えた後白河法皇は当然の事であったが、平氏方の復活とそれに伴う底力を見せ付けられた形となった京の公卿らにとっては、平氏の動向を無視して政治的決断を行うなど出来る筈も無かった。が、既に平氏一門が京を去った直後に全国へ向けて平氏追討の院宣を出してしまっている以上、今更これを覆せる筈も無く、後白河法皇は以前にも増して、平氏追討の完遂を源氏に、つまり義仲に迫っていたのである。




「・・・行家では役不足、というところであろうな」
法皇は眼を閉じ、息を吐き出す様に言った。

「ではやはり義仲に御命じになる、と?」
右大臣九条兼実が応じた。

「うむ。平氏に対抗出来るのは義仲しかおらん」

「そうですね。しかも軍勢と共に義仲をこの京から追い払う事も出来ますからね」

ここで法皇と右大臣兼実の遣り取りに、宰相中将源通親が割って入って来た。
と、兼実は一瞬、冷たい眼になると通親を見下す様に一瞥した。
本心など口に出す必要は無い、とでも言いたげに。

通親は恐縮した様に右大臣に目礼を返すと、兼実は眼を閉じて応じた。

まだ若いな、と表情で語っている兼実らを横目に、通親は自分の演技が成功した事に満足していた。

まだまだ若いうっかり者、と思わせ油断させておいた方が、彼らの足元を掬う時に都合が良い事を計算しての“ワザと”なのであった。

それはさて置き、
「淡路まで狙って来ておるとなると、これ以上は、平氏の好きにさせる訳にはいかんな」
左大臣経宗が場を引き締めるかの様に厳しい口調で言う。

「その事よ。なればこそ」
法皇は幾分、眉を顰めて続ける。

「顔を合わせる度に追討を急かしておったが、義仲はのらりくらりと言い逃れ一向に動こうとはせん。
だが平氏が西海で勢力を盛り返している現在、義仲も動かざるを得ん筈だ。今こそ義仲を出陣させる好機である。
何だったら節刀[追討命令に従い、出陣して行く大将軍にも賜る太刀]を下してやっても良い。必ず出陣させ、追討に向かわせるのじゃ」

公卿らは深々と頭を下げる。
了解しました、との意思表示であった。

「では高階泰経。義仲に強く追討を命じろ。
この期に及んで了承しない時には構わん、義仲を御所に連れて参れ。
法皇陛下の仰る様に節刀を与えてやれば、義仲とて今度こそ出陣を拒む事など出来まい」

左大臣経宗が命じると、泰経は、はっと頭を下げ退出しようとしたが、ふと、

「畏れながら。行家には何と?」
忘れかけていた事を思い出すと、法皇に御伺いをたてた。

「放っておくが良い。泰経が報せてやらずとも、いずれあの者の耳に届こう」

法皇は既にこの議題に興味を失ったかの様な、投げやりな様子で言うと、御簾を下げさせると同時に、殿上の間からいそいそと出て行った。

また今様のお稽古なのであろう。
見送っていた右大臣兼実はかろうじて溜め息を押し殺すと、

「解散する前に、もう一つ重要な事を義仲に命じておく事がある」
公卿らを見渡して言った。と、

「平氏が持ち去った神器の事、ですよね?」
通親が問い掛ける様に応じる。

「そう。神器の京への還御。これは平氏追討と並んで重要な案件だ。
一日でも早く、いや一刻も早く、この国に神代より伝わる宝重を取り戻さなくてはならない」

兼実は頷きながら言うと、公卿らも硬い表情で大きく首肯く。
兼実はちらりと御簾の向こうに眼をやり、


「法皇陛下も絶えずこの事を思い悩まれ、御心痛の御様子」

台詞は丁重だが、その表情と口調には隠し切れない皮肉が込められていた。思わず苦笑した左大臣経宗だったが、

「確かに神器の件は最重要とも言える。
我らの代でこれを失うような事などあってはならない」

神器の件に思い至ると真剣な表情となり、高階泰経に向かって重ねて厳命した。

「義仲にも早期に神器返還を実現する為、くれぐれも慎重に運ぶように命じておけ。
でなければ武勇自慢の猪武者義仲のこと、神器など知った事か、と考え無しに暴れられでもしたら、返還はもとより下手をしたら神器は悉く海の藻屑と成り果てる様な事になってしまうからな。
その様な事は絶対にさせてはならん。良いな」

「はっ」 

泰経は短く応じ、一礼して退出して行くと、公卿らももう一度、御簾に向かって一礼し殿上の間から退出して行った。



「へえ〜。ソレが追討使の大将軍に賜る節刀ってやつですか」

細長い桐の箱を抱えて、法住寺御所から六条西洞院の邸に戻って来た四天王今井兼平と義仲を出迎えたのは、野次馬の様な覚明の声であった。
苦笑いを浮かべて首肯いて応じた衣冠束帯[御所に出仕する際の公式の服装]姿の義仲に、

「って事は平氏追討の命令を断り切れなかったって事ですよねぇ」

口許にニヤリと不敵な笑みに浮かべて覚明が重ねて訊ねる。

「まったく。戦さとなるとそうやって眼を輝かせるとは・・・腐っても僧侶ではないのか、覚明」
渋い顔で嗜める兼平に、

「まぁ腐っちゃいるけど、腐り切ってはいないつもりだからなぁ。大目に見てくれよ四天王今井兼平どの?」

「・・・お前に四天王とか、どのとか言われると腹が立って仕方が無い・・・」

片目を瞑って軽く応じた覚明を睨み付けながら、兼平が呟く。
続けて、
「お前相手に無駄話をしている暇は無い。急いで武将達全員苦笑い集合を掛けろ」
腹立ち紛れに、殊更強く兼平が言うと、

「もう皆、集まってるよ。お前こそ無駄な事をしてないで、早いとこ義仲様を皆のところへ案内した方がいいぜ。兼平どの?」

「くっ・・・ムカつく・・・」

ギリギリと箱を抱えたまま歯軋りしている兼平の肩に、そっと手を置き笑顔で先を促す義仲を見た瞬間、兼平の中に湧き出していた不愉快な感情は蒸発していた。

「さ。参りましょう、義仲様」
先程とは一転して、穏やかで優しげな顔になると、兼平は覚明を無視するかの様に歩き出した。



麾下の武将達は目敏く兼平が抱えている細長い箱に眼を留める。
と、すぐさま箱の中身とそれが意味するところを理解した一同は、揃って息を飲んだ。
すると義仲らがまだ座に着こうとする前に声が掛かる。

「もう義仲様のアタマの中では軍勢が分けてあるんすよね。
聴かせて下さいよ」
四天王根井小弥太である。
その眼は期待に煌めき、表情はと言うと、不敵どころでは無く、満面の笑みであった。

「・・・お前もか、小弥太・・・」
溜め息と共に兼平が呟く。
覚明といい小弥太といいまるで餌を前にした時の犬の様な表情になるものだ、と呆れている兼平に、

「ああ?何のコトだ?兼平」
小弥太はちらりと眼を向けて言う。

そんな遣り取りを愉しげに見ながら腰を下ろした義仲は穏やかに告げた。


「今回も、以前と同様に我が軍の吉例を踏襲し軍勢を七つに分ける」

騒ついていた室に、ぴしりと秩序が復活した。
武士にとって戦いに出陣するという事が最重要である証左であった。
皆、緊張はしていないものの、幾分の昂揚感と共に、あるじである義仲の次の指令を静かに待ち受けていた。


「第一軍、二五〇〇騎。大将、海野幸広、高梨高直」

「はっ!」「はっ!」

「第二軍、二五〇〇騎。大将、矢田判官代義清、仁科盛家」

「はっ!」「はっ!」

「第一、第二軍総勢五〇〇〇騎を搦手の部隊とする。
搦手の総大将は海野幸広。副将を矢田義清に任せる。良いな」

義仲は交互に海野と矢田に視線を送ると、二人は無言で力強く首肯く。

「第三軍、二〇〇〇騎。大将、津幡隆家、楯親忠」

「はっ」「・・・はっ!」

隆家の返事が一拍遅れた。
まさか俺が第三軍の大将?・・・だと?と顔全体で言っている様な隆家に、義仲は頷いてやると、すっと視線を移して言った。

「越後中太能景。お前も第三軍に配属されている。
隆家を補佐してやってくれ」

「はっ!!」
誇らしげに能景が大声で応じた。

「第四軍、二〇〇〇騎。大将、根井小弥太、落合兼行」

「はっ」

落合は落ち着いて応じ、小弥太はと言えば返事の代わりに右の拳を左の掌に、ぱしっと叩きつけ、上機嫌に笑みを浮かべている。やってやるぜ、という事なのだろう。

「第五軍、二〇〇〇騎。大将、巴御前、山本義恒」

「はっ」「はっ」

「第六軍、二〇〇〇騎。大将、今井兼平、手塚光盛」

「はっ」「はっ」

「第七軍、二〇〇〇騎。
この第七軍には大夫坊覚明、那波広純、多胡家包、志田三郎先生義憲どのが加わり本隊となる。

そして第三、第四、第五、第六、第七軍総勢一万騎を大手の部隊とし、大手の副将を今井兼平、第七軍本隊と大手の総大将は私が執る事とする。
この大手、搦手の総勢一万五〇〇〇騎の兵力をもって平氏追討に征く」



「「「おおおおおっ!!!」」」



腹の底から響き渡る唸り声で、麾下の武将達は応えた。
閑かな昂奮が湧き立っている一同をを見渡して、一つ頷いた義仲は続けた。


「四天王筆頭樋口兼光は、この京に留まり引き続き治安の回復に務めて貰う事になる。それと」

「何か京で変事何起こった時には、すぐに義仲様に報せます。御心置きの無きよう」

兼光は、心配無用とばかりに義仲に全てを言わせず、請け負った。


「京に残留する部隊は我が軍からは一万騎。
これを樋口兼光が指揮し、錦織義広の近江勢も七〇〇〇騎程、京に残留し京中守護を務めて貰う」

「・・・はっ」
錦織は幾分残念そうに応じる。
まだ若武者と言っても良い年齢の彼は、やはり合戦に於いて活躍したい本心を隠せないのだろう。
その不本意そうな様子を苦笑いを浮かべて見ていた父親の山本義経が、

「近江勢の指揮、頼んだぞ」
息子に声を掛けてやると、
錦織は父親のを見返し、
「お任せ下さい」
気持ちを切り替えて応えた。


義仲はぐるりと一同を見回すと、顔を上げ、

「出陣は明日。九月二十日の正午。
第一軍から順に出陣し、摂津へと向かう。以上だ」


「「「おおおっ!!!」」」


武将達は声を合わせて応えると、明日に控えた出陣の準備の為、慌ただしく退出して行く。義仲はその様子を頼もしく見送っていた。
が、
「諸将らに神器の件を告げなくて良かったのですか?」
耳許で兼平に囁き掛けられた。

「今は言う必要は無かろう」
「しかし万が一・・・」

兼光が尚も言おうとした時、ふと周りが気になり眼をやると、他の四天王、落合、巴、光盛、覚明の七人が、義仲と兼光を取り囲んでいた。
どうやらこの六人には兼光の囁き声が聴こえていたらしい。


犬の耳よりも地獄耳だな、兼光は溜め息を吐きながら何か諦めた様に六人を見回すと、ほとんどの者から、じとっと睨み返された。
覚明だけは相変わらずにやにやしているが。

と、
「そうだな。お前達には先に告げておこう。だから兼平をそう睨むな」

義仲が冗談めかして取りなすように声を掛けると、全員はその場でどっかりと車座に腰を下ろし、兼平を見詰めている。
兼平は観念した様な仕草で眼を閉じ、腰を下ろすと続けた。

「しかし万が一にも神器を喪う様な事態に至ってしまうかも知れません。
戦さになれば怒涛の連続です。そこでは何が起こるか判らないんですよ」

「その心配は当然の事だが、平氏の立場に立って考えてみろ」

義仲は兼平の懸念には一定の理解を示したが、逆に皆に向けて問い掛ける様に言った。


「・・・あ。そうか。心配無いわ」

一瞬考え込む様子をした戦う美少女が、何かに気付くと明るい表情で言った。

「私が平氏方だったら、是が非でも神器と幼い安徳天皇だけは護り徹すでしょうね。例え戦さになったとしても」

「そりゃそうだろ。だから神器を取り返すのが難しいってハナシをしてんじゃねェのか?」
小弥太が呆れた様に言う。

「だからぁ。取り返さなくてもいいんだってば」
巴が、当然とでも言う様に答えると、


「はあっ?」


四天王、落合、光盛も訳が判らずポカンとしている。

「巴の言う通り。無理に力ずくで取り返す事は無い、というのが私の考えだ。今は平氏に預けておく方が、神器は失われずに済む」
義仲が穏やかに告げる。

「し・・・しかし朝廷からは一日も早く、と・・・」
絶句しながら兼平は言い添える。

「神器には関して朝廷が望んでいる事は二つ。
一つは兼平の言った様に一日も早く神器を還御させる事。
もう一つは、神器を一つでも失う事無く、全て取り戻す事。
この二点だが、私の見たところ公卿らは一つめの点に重点を置いているが、私は二つめの点の方が重要である、と心得ている」

「・・・つまり神器の早期返還には拘らずに、長期的に還御の方策を図る、と?」
兼光が考えながら問う。

「そう。一日も早く、などと焦って事を運び、平氏方を追い詰めでもしてみろ。彼らは力ずくで取り返されるくらいなら、いっその事幼い天皇も神器も絶対に渡さん、と最悪の選択をしてしまう事もあり得る。
そう思わないか?」

「・・・確かに平氏の身になって考えっと、追い詰められりゃ俺だってそうするかもな・・・」

「そうですね。敵に渡すくらいなら、いっその事、と・・・」

落合兼行が小弥太の呟きに同意した。

「成程・・・義仲様のお考えは、我らが神器を取り返す、では無く、平氏に神器を返還させる、という事なんですね?」

光盛がようやく合点が行った、という感じです尋ねると、戦う美少女はうんうんと笑顔で首肯いている。

「であれば神器を喪う事はあるまい。何しろもし一つでも喪う様な事にでもなれば、祖先はもとより後代の者達に対しても顔向けが出来無くなる」

「まぁその方が賢明でしょうねぇ。後から生まれて来る奴らに、この時代の武士の甲斐性を示しておくのもアリっちゃアリです」

覚明らしく皮肉に言うが、賛成している様子ではある。
続けて、
「公卿のお歴々や更にその上のやんごとない御仁には、せいぜい気を揉んでいて貰いましょうかねぇ」

底意地悪く嘲笑を浮かべる覚明を、お前武士じゃ無ぇじゃん坊主じゃん、と呆れながら、

「神器の件は解りました。けど、明日出陣ですよね?
節刀も賜り、追討令に従い平氏と戦う事になると思うんですが・・・」

楯が、来たる平氏との一戦を念頭においておずおずと義仲に訊ねる。

「心配はいらん。これまで通り全力で当たれ」

義仲は破顔し答えると、一転して表情を険しいものにした。

「平氏方は正に背水の陣と心得てこれからの戦いに臨んで来るだろう。
以前は退いても帰れる京の六波羅があったが、今は帰れる場所は無く退いたらそこで終わりなのだからな。
確実に平氏は今までより強く、そしてしぶとく戦いを挑んで来る筈だ。
これまでの平氏の印象を捨ててくれ。
でないと思わぬ失策を冒す事となり、敗北を招く事になるかも知れん」

義仲の言葉に、皆真剣な眼で小さく頷く。

「だから先程の話しとは矛盾する様に聴こえるかも知れんが、神器の事など合戦に臨む時には忘れろ。
余計な事を考えずに、今まで通りただ勝利する事のみを考え、行動してくれ」


「「「はっ!」」」


「勝利を重ねたその先に、神器の件の解決がある筈だ。心置き無く戦いに集中して欲しい」

義仲は指示すると、一人一人と視線を合わせていく。

と、
「そっか。だからこの事を全員の前では仰らなかったんですね」
巴が納得した様に言うと、

「・・・確かに兵や諸将達におかしな消極性を与えてしまいかねない事柄ではあるな・・・」

「もぉ。また心配性?光盛は仕方無いわねぇ」
巴が笑い飛ばす。

「今から勝った後のコトを色々考えても意味無いでしょう?
そんなの勝った時に考えればいいだけだし。
今、考えなきゃならないコトは、どうすれば戦さに勝てるかってコトだけ。解った?光盛」

上眼遣いで念を押す様に言う巴に、笑みを浮かべ両手を挙げて降参の意を示した光盛。

「思い返して見れば、京に入る前から義仲様は常に相手との話し合いを望んでおられた。
それが頼朝であれ、平氏であれ、比叡山であれ、朝廷であれ、な」

兼平が腕を組んで呟いた。

「そうであれば、いたずらに平氏方を追い詰めてしまう様な事も無い、か」

「ま。そう言うコトだ忠親。まァ俺は相手が誰であれ手加減なんてしねェ。ヤるとなったら思いっ切りぶつかって行くだけよ」

「単純でいいわねぇ。時々小弥太が羨ましくなるわ」

溜め息混じりに巴が言うと、皆が笑いに包まれる。

「まぁ義仲様は平氏の滅亡なんか望んじゃいませんからねえ。
俺はそうなっても一向に構わないんですけど。
要は平氏の方から神器を返してくれる様な状況に持って行く為に戦い、そうなりそうな時に話し合いを行う、という訳ですよねぇ。
合戦する前に平氏宛てに書状でも送りますか?」

覚明が他人事の様に尋ねた。

「いや。無駄だろう。朝廷からの返還命令も黙殺した平氏だ。
今、私が書状を送ったとしても何の効果も無い。
しかも鎮西からは追い出されたとは言え、山陽、四国に於いて勢力を復活させた彼らの戦意は上がっている。
であれば必ず戦さを仕掛け、更に東へと侵攻しようとするだろう。
それに追討される側が生き残る手段は一つしか無い」

義仲は答えた。

「我らがそうした様に。追討軍と戦い、これに勝利する、という事ですね」

後を引き継いだ兼平が呟いた。

「そう。そして勝利を重ねようと更に戦さを仕掛けて来る。
だから次の一戦は重要だ。
平氏の意図を挫き、彼らがまだ冷静に判断出来る間に、何としても話し合いに持ち込まなければならない。
神器返還の為にも。

気を引き締めて臨んでくれ。
今までの戦さの中で一つでも敗北していたとしたら今の私は無かった以上、全ての戦さが重要であったが、もしかしたら次の一戦が、これまで戦って来た中で最も重要な戦いになるかも知れん」

何やら遠い眼をして予言めいた事を言う義仲の言葉に、四天王以下、巴御前、落合兼行、手塚光盛はあらためて、あるじの双肩に掛かる重い責任を思い遣り、その重責を少しでも自分が肩代わりする事が出来れば、との思いを胸に無言で首肯いた。

義仲は最も信頼する麾下の武将達に笑顔で応じると、

「話しが長くなってすまん。明日の準備もあるだろう」

立ち上がると皆を促して、この義仲勢の中でも中核を成す武将達だけの会議を終了させた。

解散し、退出して行く武将達の背に、感謝を込めた視線を送る義仲を、そっと横眼に捉えつつ、巴は四天王らと共に室を退出して行った。



こうして義仲勢の出陣は決定した。
京からの出陣である。
わずか三ヶ月前には、平氏方の追討軍と死闘を繰り広げていた義仲勢が、今後は逆に追討軍となり平氏を討伐する為に。

義仲が入京した直後、平氏追討の院宣をを受けてから、一ヶ月以上引き伸ばした末の出陣であった。