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その時 木曽殿の動きは #5

解説
C O M E N T A R Y

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大河ドラマ「鎌倉殿の13人」に合わせ義仲陣営を「説明」
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【監修】義仲館P 西川かおり

動乱の信濃国

 なぜ信濃国が、平家に支配されず独自の道をたどっていたのかには、源平合戦にいたる歴史そのものが複雑に影響しています。

 794年にはじまった平安時代は藤原氏が摂政・関白になって政治を行う「摂関政治」が長く続きましたが、1086年に白河上皇が「院政」をはじめ、政治の中心が院へと移りました。
 政権を取り戻そうとする摂関家と院の対立、摂関家内、天皇家内の骨肉の争い、院に仕える貴族などさまざまな人々が、目的に応じて結びついては離れ、大変不安定な状態が鎌倉時代になるまで100年ほど続くことになります。

 院政の初めころの信濃国は平氏の勢力下にありました。院を助けて政治を行った院近臣は摂関家と縁の薄い官位の低い貴族が多く、その中に平氏を姓とするものが多くいたのです。都から役人として派遣された平氏は地元の豪族と結び安曇郡を中心に勢力を広げていきました。1179年に立派な千手観音を作らせた仁科盛家が「平氏」を名乗ったのは、そうした婚姻関係が関係しているとみられています。

 義仲が信濃に逃れてきた1155年ごろは、平正弘が安曇郡の矢原庄、筑摩郡の麻績御厨、水内郡の高田郷、市村郷を領有し、その親族が荘官を務め、北信濃に一大勢力を誇っていました。
 ところがこの平正弘は平清盛とは姓が同じだけの大変遠い親戚で、1156年に起きた保元の乱で平清盛と敵対し、敗北、所領を奪われて流罪となりました。
 保元の乱、平治の乱を通じて平清盛は都での地位を高めていき、多くの国を手中に収めますが、信濃国は平家とは関わりの薄い院近臣が国主となっています。平清盛としては信濃に残る平正弘の親族をむやみに刺激したくないという考えがあったのかもしれません。


「平家」によって所領を失った平正弘の子。
「源氏」に父を討たれ信濃国にやってきた義仲。

義仲は「源氏の子」として中原兼遠、諏訪社を味方に勢力を伸ばしていきましたが、平正弘の子は平氏の名を伏せ、地方武士として生きていくしかありませんでした。


略年譜
H I S T R Y
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義仲をたどる
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●久寿元年(1154年) 誕生

●久寿2年(1155年)8月16日
大蔵合戦で父を討たれ、信濃へ

〇中原兼遠に養育される

☆保元元年(1156年)7月11日 保元の乱
海野ら信濃武士団は後白河法皇方(源義朝・平清盛など)に参戦
平正弘は敵対する崇徳上皇方(源為義など)に参戦

☆平治元年(1160年)12月9日 平治の乱
ほとんどの信濃武士が参戦せず

●仁安元年(1166年) 元  服

〇諏訪社に婿入りし娘が生まれる

〇承安3年(1173年)?
嫡男・義高生まれる
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治承3年(1179年)仁科氏・覚園寺(大町市)千手観音開眼供養
治承3年(1179年)善光寺(長野市)炎上
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☆治承4年 以仁王の挙兵