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横田河原合戦

〇日時 養和元(1181)年6月13日

〇場所 長野市南部

〇兵力
 義仲3000~5000騎 VS 越後平氏(城氏)1万~6万騎


兵力差がありましたが、地元の地の利を生かした作戦で義仲軍が勝利しました。井上光盛(須坂市)が赤旗を使った作戦を提案したことが大きいです。


〇詳細な展開と伝承(展開は主に延慶本による)

①城氏が新潟県妙高市関山を越え、信濃へ侵攻を始める

・「源平盛衰記」では兵を三手に分け群馬との県境三国峠からも進軍したという。新潟からは、信濃川からと糸魚川市方面からとみられる。





②義仲は東御市白鳥河原に長野県千曲川流域の武士・群馬県西部の武士を勢ぞろいさせる。

・北は善光寺平、南は佐久穂町まで広く信濃武士が集まった。




③義仲は兵を分け、麻績・更埴の山間部からも横田地域を囲むように進軍させたようだ。





④木曽四天王・楯六郎が、上田市岩鼻にある千曲公園から長野方面を見て、城氏の進軍を確認、義仲に伝令を出し、さらに北上する。



⑤楯が千曲市武水別神社で祈りをささげているところに義仲合流、長野市方面へ進む。

・信濃源氏・井上光盛が奇策を義仲に提案する。


⑥城氏は村に火を放ったりしつつ、横田に陣を取る。


★戦火にあった寺社



⑦義仲は千曲市雨宮付近で自ら先頭に立って戦い、機を見計らう。



★戦火にあった寺社もある。



⑧井上光盛が平家の赤旗を掲げ、仲間を装って城氏の陣に接近する。


⑨井上氏が赤旗をかなぐり捨て白旗をあげたのを合図に義仲軍が一斉に本陣に攻め込む。


⑩本陣を攻められ、城氏の軍はバラバラになって逃げだす。


⑪義仲軍勢は北に進み、長野市川中島・更科斗女神社付近で勝どきをあげる


⑫義仲軍勢はさらに北に進み、新潟県に至り、城氏に越後国府を明け渡させた。


★そのあと、城氏はどうなった?

★笠原氏はどうなった?

市原の合戦から義仲にライバル心を燃やし、何度も挑んできた笠原頼直。横田河原の敗戦後の姿は平家物語では語られていません…が!伝承ではしっかりその後が残っています。


■参考文献

平家物語(覚一本・流布本・延慶本・長門本)・源平盛衰記・玉葉・吾妻鏡


〇平家物語

覚一本・流布本

大変あっさりした記述。しかも展開自体が異なる。井上光盛が作った赤旗7つを7つに分けた軍勢がそれぞれ持ち、城氏の陣へ攻め込む展開。

〇延慶本・長門本・源平盛衰記

戦の展開は詳しく、ほぼ同じだが、延慶本・長門本と源平盛衰記が採用している武士のエピソードに違いがあるので興味がある方は原文を。

★横田河原合戦は、日時が資料によってまちまち。
A 治承5(1181)年6/13.14 史実→玉葉
B 史実に沿っているが明らかな日にちを示さない→延慶本・長門本
C 養和2(1182)年9/2~9 平家物語の展開のために日にちをずらす→流布本・覚一本
D 寿永元(1182)年10/9吾妻鏡の展開のために日にちをずらす→吾妻鏡