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義仲戦記10「安宅合戦②」1183年5月

矢を射た後、素速く次の矢を箙[えびら。矢を収める道具]から抜き取りながら、周りを見回した時、味方の武将が敵の矢に射られたのが見えた。

「!」

思わず目を見開き、

「宮崎どの!」

稲津新介実澄[越前の武将]は悲鳴に近い声をあげた。
宮崎長康[越中の武将]が落馬したのだ。
敵の集中攻撃を受けて。
稲津新介は、急ぎ宮崎の許へ馬を近付け、馬を降り、宮崎のところへ駆け寄ると、

「私に構うな・・・新介どの・・・」

苦しそうに宮崎が言っている。見ると、身体中に矢が突き立ち、左脇と左鎖骨、その他手や足にも矢が直接、鎧の隙間から突き刺さっていた。

「宮崎どの!」

新介は宮崎を抱き起こそうとした。名を呼ぶ事しか出来ない。が、

「私に構うな・・・新介どの・・・
 戦え・・・た・た・・か・・・え・・・・」

宮崎は呪文に様に繰り返し、意識を喪った。


「宮崎どのーーーーーーっ!」

新介は叫んだ。
それはもう悲鳴だった。


↑ 義仲の生涯が歌でわかる!「夜明けの将軍」
 これを見れば「義仲戦記」の現在地もばっちり☆


 林光明[加賀の武将]、稲津新介、藤島助延[越前の武将]、石黒光弘[越中の武将]、仁科盛家[信濃の武将]ら一五〇〇騎の林隊は、平氏方追討軍大手の軍勢七万騎の追撃を躱しつつ、何とか宮崎長康、斎藤太[越前の武将]、富樫入道仏誓[加賀の武将]、落合兼行[四天王の樋口兼光、今井兼平の弟。信濃の武将]らの宮崎隊一〇〇〇騎と再合流を果たした。

 一方、平氏方追討軍も、大手[本隊]と搦手[別働隊]の軍勢が合流し、その数、実に十万騎。北陸勢の武将達は二五〇〇騎対十万騎の戦いを開始しようとしていた。

 ここ加賀[石川県]安宅[小松市]の地を、血戦の地と定めて。


「我らは、この俤川の中州、安宅に本陣を構え平氏方を迎え撃つ!」

北陸勢の総大将とも言うべき宮崎長康が、安宅の本陣で諸将を前に言った。続けて、

「先程、義仲様の本隊から伝令が届いた。
義仲様は現在、五万騎の軍勢を率いて越中[富山県]に入られた。そのまま海沿いの道を進軍し、こちらに向かっておられる!あと数日で我らに合流するだろう!」

言い終わると、この場に居る諸将らの顔に笑顔が浮かぶ。

「いよいよ義仲様が来られるのですね!」

稲津新介が、連戦の疲れも見せずに明るく言った。


「そうなれば、こちらが義仲様と共に大反撃する事が出来るな!平氏の奴らに!」
石黒も勢い込んで言う。

「だが、その前に眼の前の戦さだ」

林がいつも通り冷静に言うと、その場の空気が、ぴしりと引き締まった。

林は続けて、
「我らの軍勢では平氏方の侵攻を止める事は出来無い。が、侵攻の速度を遅くする事は出来る。戦っては退きながら時間を稼ぎつつ、戦場を移動させ、義仲様との合流を図る」
皆に作戦を指示した。

「今までと同じですね」
斎藤太が言うと、

「そう言う事だ。我らは徹頭徹尾それだけをやっているんだからな」

富樫仏誓が応じると、諸将全員が無言で頷いた。

そして最後に、
「キツい戦さになるだろう。が、斎藤太どのの言う通り、今までと同じ事をやるだけだ。生き延び、戦いつつ後退し、義仲様と合流する!
死に急いではならない!皆!いいな!」

宮崎が気を引き締めて叫ぶと、

「おおっ!」

皆が応じた。腹の底から声を出し。気合いを入れて。




敵の平氏方が兵を繰り出して来た。
ざっと見たところ、その数およそ一万騎程。
それでも味方の全兵力二五〇〇騎の四倍である。


「川を渡らせてはならん!ここで出来るだけ食い止める!
射よーーーーっ!」

宮崎が号令をかけると同時に、何百という矢が放たれた。
安宅での戦さが始まったのである。


☆ ☆




激戦になった。
戦う前から判ってはいたが、北陸の諸将や兵達にとっては、無限に新しい敵が向かって来る、という感覚であった。

平氏方は兵の数では圧倒的に有利なので、その利を活かした戦い方をして来る。つまり、北陸勢と戦っている先頭部隊に大きな損害が出る前に、次々と部隊を入れ替え、疲れていない新しい兵を差し向ける、という戦術である。

これは北陸勢にとっては堪らない。
しかも北陸勢には、換えの兵など無く、全軍で戦いっぱなし、という状況に追い込まれてしまったのである。だが、北陸勢は奮闘していた。互角には戦っていたのだ。

しかし開戦から三時間が経ち、さすがの北陸勢にも疲れが見え始めた時、北陸勢の総大将とも言うべき宮崎長康が、敵の矢に倒れたのであった。


新介の悲鳴を聞いた林が駆け付けて見ると、意識の無い宮崎を新介が抱き抱え、その周りを宮崎の郎等らが護っている。

と、
「宮崎どのが・・・」
林を見るなり新介が蒼い顔で言った。

林は急ぎ、宮崎の顔に耳を付け、頸筋の脈を探る。
と、
耳には荒い呼吸音が聴こえ、指には脈動を感じた。

(生きている!)

林は最悪の事態にはならなかった事を悟った。

が、このままでは北陸勢の総大将を失ってしまう。
一瞬で対応策を考えた林は、

「宮崎衆!集まってくれ!」
と宮崎の郎等を呼び寄せ、

「宮崎どのを護り退却してくれ!
そして、宮崎どのと一足早く義仲様と合流しろ!
何としても宮崎どのを生きて義仲様の許へ!頼むぞ!」
指示した。

林が周りを見ると、稲津新介の他に落合兼行がここに来ていた。

「丁度良かった!
新介どのと落合どのは、宮崎どのを護り、一足先に義仲様の許へ行ってくれ!」

「そんな!私もここで戦い・・」

言い掛けた新介を途中で引き止めた者がいた。
その者は新介の肩に手を置き、新介の眼を見つめ、真剣な眼で首を横に振った。落合兼行である。

「宮崎どのが倒れられた今は、林どのがこの北陸勢の総大将です。
総大将の指示には従いましよう。新介どの」

静かに、しかし断固とした口調で言った。
新介が口惜しそうに眼を伏せ俯く。その様子を見ていた林が、

「助かる。落合どの。
五〇〇騎を率いて、二人は今直ぐ義仲様の許へ!後はこの私に任せてくれ!」

林は言いつつ馬に乗った。
そして新介、落合の二人を交互に見ながら、

「宮崎どのの事。頼む!」

頭を下げると、馬を駆けさせ激戦の中へと消えて行った。
その後ろ姿を見ていた新介と落合は、一度、眼を見合わせ頷く。
意識の無い宮崎を郎等らが馬に乗せ、宮崎と郎等の二人乗りになった馬を部隊の中心に据えたのを確認すると、

「我らは宮崎どのを護り、これより義仲様の許へ向かう!」
馬に乗った新介が叫んだ。

「一刻も早く義仲様と合流する!後ろは振り返るな!続けーーーーっ!」

落合が先頭になり叫ぶと、五〇〇騎は駆け出し、この安宅の戦場から離脱した。

(新介どのを離脱させる事が出来て良かった。
あの新介どのの様子では、一人で敵に突っ込んで行きそうな感じだったからな。ただでさえ裏切り者の斎明[新介のいとこ。今は平氏方の軍勢にいる]を自分の手で討ち果たす、と気負っているからな。
しかし、こちらも兵らの体力が残っているうちに退却しなければならん)

林は馬を駆けさせ矢を射ながらも、頭の中では冷静に考えている。
新介、落合が離脱して一時間程。

(今は敵の侵攻を食い止めている。退却するのを遅らせようか・・・)
少し迷っていた時、

「林どの!石黒どのが負傷した!」

藤島が報告して来た。
これを聞いた林は、もう迷わなかった。

「判った!これより全軍退却する!私の本拠地の林城へ向かってくれ!
先頭は富樫仏誓どのに任せる!藤島どのは石黒どのを護りつつ退却!
仁科どのと斎藤太どの、私は殿[しんがり。部隊の最後尾]で退却を援護する!」

指示し、郎等を各将に伝令として走らせた。

「了解した!では林どの、後ほど!」

藤島も言いつつ石黒のフォローの為に馬を駆けさせた。
だが、やはり敵の前面からの退却は難しい。
北陸勢は退却、と言うより、逃亡、と言う感じで退いて行った。

 平氏方は、またしても余裕なのか、ナメているのかは分からないが、ここでもしつこく追い縋る様な事はしなかった。しかし、進軍の速度は遅いが、確実に前進して侵攻して来るのである。そのやり方は北陸勢にとって不気味なものに見えていた。

「よお!林どの!今からでも俺を味方に加えてくれるかい?」

津幡隆家が陽気に言った。

二五〇〇騎で戦った安宅の戦さだったが、宮崎の護衛に五〇〇騎を振り分け、しかも戦さで半数を喪い、林城に退却して来た時には、約一〇〇〇騎に減っていた北陸勢であった。しかも総大将である宮崎長康は半死半生の手傷を負い戦線離脱。勇猛な武将である石黒光弘も負傷し、暗い気分で林城に入城した北陸勢を、場違いな陽気さで迎えたのは加賀の武将、津幡隆家であった。

「津幡どの!来てくれたのか!有難い!」
林が珍しく感情を昂ぶらせている。
表情も明るい。

と、
「今頃来おって恩を着せるつもりか?」
富樫仏誓が、ぶつぶつと苦い顔で皮肉を呟いた。

「まあそう言うなって。仏誓のオッさん」
津幡が軽くいなすと、

「オッさんとは何だ!オッさんとは!」
仏誓が顔を赤くして激昂し、二人は口喧嘩を始めた。


この津幡と富樫と林は、加賀[石川県]で領地が隣り合っているのである。三人は以前からの顔見知りであった。しかし津幡と富樫は、何故か昔から顔を合わせると必ず口喧嘩を始めるのである。仲が良いのか悪いのか。しかし口喧嘩以上のゴタゴタになった事は無いので、おそらく仲は良いのだろう。喧嘩する程仲が良い、と言う事なのか。
それはさて置き、

「津幡どのはどのくらい兵を率いて来たんだ?」
林が訊くと、
口喧嘩をしつつもこれを聞いていた津幡は、仏誓の顔の前に手のひらを突き出し、まるで、おあずけ、とでもする様に仏誓を黙らせ、

「俺か?俺は津幡衆を五〇〇騎程連れて来てるぜ」
答えた。
その仕草に一層激昂した仏誓が、

「隆家ッ!拙僧は犬では無い!お前のその態度は何だ!・・・」
言い募るのを、

「まぁまぁ仏誓どの」
林が諫め、

「これで我らは一五〇〇騎。もう少し戦えそうだな。津幡どの、礼を言う」
頭を下げた。と、

「・・・井家範方どのはどうした。何か言っていなかったか?」
仏誓が低い声で、津幡に訊いた。

「おゥ。それなんだがな仏誓のオッさん。
井家のおやっさんは、源氏にも平氏にも味方しねェって言ってたぜ。おやっさん頑固だからさ。こりゃ敵にもならねェけど、味方にもならねェぞ」
津幡が答えた。

井家範方は津幡隆家と同族で、隆家にとっては言わば本家の頭領、と言ったところである。

「そうか。井家どのが、そう決めたのなら仕方が無い」

林が溜め息をつきながら言う。
正直、井家範方が味方してくれないのは痛い。
今の北陸勢にとって一人でも多く兵が欲しい時だからだ。
そんな林の考えを読み取った様に、

「だから俺が来た。これで義仲どのが来るまでは何とかなるんじゃねェか?」

口許にニヤリと笑みを浮かべて津幡が言った。
続けて、
「あと数日の辛抱だ。もうすぐなんだろ?義仲どのが到着するのは」

「はっ!お前の口から辛抱なんて言葉が出るとはな。隆家、あと一つ言っておく。拙僧は仏誓のオッさんでは無い。これからは入道仏誓様と言え」
仏誓が厳かに宣言すると、

「判ったよ。入道サマのオッさん」
津幡が軽く切り返した。

☆ ☆ ☆


 北陸勢が林城に入城し、新たに津幡勢五〇〇騎が参加した次の日には、平氏方追討軍は林城を攻撃していた。林城は堅牢な備えの城であったが、平氏方追討軍には平泉寺長吏斎明がいるのである。この男は燧ケ城の戦いの最中までは、北陸勢の総大将を務め、北陸での対平氏の為の防備の全てを知り尽くしている男なのだ。
 林城は一日保たなかった。総大将林光明は自分の本拠地の城を放棄し、富樫の城に移る事を決定。北陸勢はその日のうちに富樫の本拠地、富樫城に入城した。しかし夜が明けてみると、富樫城も平氏方追討軍に囲まれ、攻撃を受けた。
 支え切れなくなった北陸勢は、富樫城も放棄。だが、この後は北陸勢の拠点になる城が無かった。つまり籠城戦が出来なくなったのだ。これからは野戦[会戦]をするしか無い。


北陸勢は追い込まれたのである。


「全軍!撃って出ろーーーーっ!」
林が号令をかけた。

「おおーーーーーーっ!!」
北陸勢一五〇〇騎は平氏方の先頭部隊に突撃して行った。

富樫の本拠である富樫城を退去した北陸勢は、津幡の領地の井家庄で、平氏方に対し野戦に撃って出た。しかし一五〇〇騎対十万騎である。これまでは籠城戦だった為に兵力の差は、ある程度補うことが出来たが、野戦ではそうは行かない。単純に言って十五人で千人の敵と戦う計算になる。つまり一人で六十六人を相手にしなければならないのだ。そんな事は考えるまでもなく不可能である。だが、北陸勢は勇敢に戦っている。

しかし、
「林どの!俺の郎等が二〇〇騎は討たれた!まずいぞ!我らはもう全軍で一〇〇〇騎ぐらいしかいない!」
津幡が報告して来た。

戦闘が始まって一時間。北陸勢は早くも兵力の三分の一を、この一時間で喪ってしまった。

(野戦に撃って出たのは無謀だったか・・・私の失策[ミス]だ・・・)

林は苦い思いを噛み締め、自分の失敗を認めざるを得なかった。

(であればこれ以上、兵を討たれてはならない!)
退くしか無い、のである。

「仁科どのは先頭で、富樫どの、斎藤太どの、藤島どのの部隊を率いて撤退してくれ!」
林は仁科に指示する。と、

「林どのは!」
仁科が叫んで訊き返した。

「私は津幡どのと殿[しんがり]に付き、味方の撤退を援護する!仁科どの!皆を頼む!」
林がじっと仁科の眼を見て命じた。


「判った!林どの!津幡どの!御武運を!」

仁科は言いつつ馬の方向を変え、

「撤退する!これより義仲様の許へ向かうぞ!来い!」

仁科が号令をかけると七〇〇騎程の軍勢は、馬足を速めて撤退しだした。


林と津幡の三〇〇騎が最後尾から、この撤退を援護する為にその場に残り、味方の撤退する様子を見ながら、

「御武運を、か。縁起でも無ェ。俺はまだ義仲どのに逢った事が無ェんだ。噂の義仲どのに逢うまでは死んでたまるかよ」
津幡が不敵に笑いつつ言うと、

「そうだ。必ず義仲様の許へ辿り着いてみせる。生きてな」
林も力強く応じた。

「行くぜ!林どの!」
「ああ!」

津幡と林は三〇〇騎を率い、敵の先頭部隊に突っ込んで行った。


死んでたまるか。
生きて辿り着いてみせる。

二人は言った。
強がりでは無く、本心として。

だが、敵の攻撃は熾烈を極めた。数十分の戦闘で、早くも一〇〇騎以下にまで討ち減らされた。
林と津幡は郎等に命じた。


「逃げろ!もういい!もう応戦するな!逃げろ!」

と。
しかし平氏方の追撃は今回に限ってしつこく、また激しかった。林と津幡は部隊の最後尾で馬を駆けさせ、降って来る矢を躱しながら、

(駄目だ。追撃を振り切れん)

(ヤベぇ。俺ここで終わるな)

同時に思った。
二人は馬を駆けさせつつ横にいるお互いの眼を見た。そこには半ば以上の諦めと、未だ燻り続けている闘志とが見て取れた。

(津幡どの。私は敵と戦って死にたい。逃げる途中で追い付かれ、討たれたくは無い)

(林どの。奇遇だな。俺も同じ事を考えていたんだ。なら一緒にヤろうぜ。最期にな)

何故か二人はお互いの考えが解った様に感じた。もしかしたらお互い相手の眼の中に、自分の思いが映し出され、それを見ただけなのかも知れなかった。

だが、二人は解り逢えた様に感じた。
そう信じた。

二人は同時に太刀を引き抜き、左手で手綱を引き、馬を反転させた。
もう一度、二人は眼を合わせた。


(行こうか。津幡どの)
(付き合うぜ。林どの)

そして眼を離し、こちらに向かって来る敵を見つめ、馬を進めようとした。


その時、敵の平氏方の先頭部隊に右横から攻撃を掛け、突撃して行く軍勢が現れた。

「!」
「!」

二人は驚いた。だがもっと驚いたのは平氏方であった。
平氏方の先頭部隊は不意を突かれ、壊乱しつつバラバラに後方へ退いて行く。しかし、平氏方は後方の部隊が前に出て追撃しようとして来る。

林と津幡は呆気に取られ、

(何だ?どこの軍勢だ?)

同じ事を考えていると、


「馬鹿者共が!見ておったぞ!隆家!光明!
お前ら今、何かを諦めたじゃろ!」


怒声が降って来た。
反射的に声のした方を見た二人は、

「井家のおやっさん!」
「井家範方どの!」

同時に叫んでいた。

と、
「諦めるくらいなら始めから戦さなどするな!馬鹿者共が!」

更に罵声を浴びせられた。
二人を怒鳴り付け、叱り付けたこの武将は井家範方。津幡とは同族で加賀の有力な武将である。

「何をボーっとしとるんじゃ!馬を駆けさせろ!
戦場で止まる奴があるか!」
井家が怒鳴る。

我に帰った林と津幡は馬の方向を変え、井家範方の軍勢と合流した。



「井家どの。どうしてここに?貴方は平氏にも源氏にも味方しない筈では・・・」

林が井家の横に馬を付け訊いた。
と、

「おお!儂は源氏にも平氏にも付いた覚えは無いわい!」
井家が胸を張って答えた。

「おやっさん。じゃあ何で・・・?」
津幡も馬を近付けて来て訊いた。


「そんな事は決まっておる!
 この井家の庄は儂らの領地じゃ!
儂らの領地に勝手に攻め込んで来た奴は誰であれ、儂にとっては敵じゃ!
解ったか!」

更に声を張り上げ井家は怒鳴った。
と、
井家は急に、ギロリと林と津幡を睨み付け、

「隆家!光明!お前ら先程、死ぬつもりじゃったじゃろ!
平氏方に突撃して
最期に武将として一花咲かせてやろう、とか思ったじゃろ!
馬鹿者!お前らには百年早いわい!」
叱り付けた。

更に、
「隆家!お前この間、儂のところに来た時に、義仲どのと共に戦う、とか言ってたじゃろう!それが何じゃ!義仲どのに逢いもしないうちに、ここで諦めるのか!まったく!」

ボロクソ言っている井家。
が、
その通りであったので二人は言葉を返す事が出来ずにいた。

と、
「じゃからな。ここは儂に任せろ。これは儂の、いや儂ら井家衆の戦さじゃ。二人は生きて義仲どののところへ行くがいい」

急に穏やかな声に変わり、諭す様に井家は言った。
はっと二人は顔を上げ井家を見ると、そこには優しい表情で穏やかに見返す井家がいた。

「井家のおやっさん・・・」
「井家どの・・・」
急に胸に何かが込み上げて来て、咽喉が詰まって呟くのが精一杯の二人。と、井家は再びギロリと二人を睨み付け、

「お前らは生きて義仲どのと共に戦う、と決心して、その為に戦っておったんじゃろ!だったらその決心を折るな!枉げるな!覆すな!それが覚悟じゃ!解ったか!」

再び叱り付ける。
と、
後ろから矢が飛んで来た。

どうやら平氏方の先頭部隊が混乱を鎮めて近付いて来たのである。考えて見ればここは戦場で、しかも敵に追撃されている最中なのだ。のんびり反省会[と言っても一方的に井家がダメ出しして怒鳴り付けていただけであるのだが]をしている場合では無かった。


「馬を左に向けろ!回り込んで敵の横から突撃じゃ!行くぞ!」

井家が郎等に大声で指示し、矢を番えながら左に馬を向けて行く。井家勢は三〇〇騎で一斉に左に進路を取る。

「隆家!光明!今じゃ!お前らは早く撤退しろ!」

連続で矢を射つつ井家が怒鳴る。

林と津幡は一瞬、眼を合わせ頷いた。
その二人の眼には、もうどこにも諦めの色は無かった。

怒鳴り付けられ、叱り付けられ、しかもボロクソに言われて何か憑き物が落ちたらしい。眼が醒めた、と言い換えても良い。
二人の心には再び前向きな闘志が満ちていた。林と津幡は馬を直進させ、井家勢と進路を変えた。と、

「ここからが我ら大人の戦さじゃ!
 我ら井家の意地を見せてやるわい!
 行くぞ!」
井家が叫ぶ。

「おおおーーーーーーっ!」

井家勢が応え、平氏方の先頭部隊に突っ込んで行く。


その声を聴きながら、別方向に馬を進めた林と津幡は振り返らなかった。


(井家どの。有難う。そして済まない。この恩は決して忘れん。有難う)

林は前だけを見て、一心に馬を駆けさせた。
戦さの喧騒が遠退いていく。

と、鼻が、つんとなり目頭が熱くなった。
が、懸命に堪えた。涙を流すまい、と。

(井家のおやっさん。こんな俺らの為に。馬鹿はあんただよ、おやっさん。済まねぇ。そして有難うな)


津幡も馬を駆けさせつつ、眼が潤みそうになるのと戦っていた。
林が一瞬だけ、横の津幡を見た。
津幡は前だけを睨み付けながら、怒った様な表情であった。が、その眼は真っ赤になっていた。


林光明は、その刹那、津幡隆家の眼を見た事を、何故か見てはいけない事の様に感じた。そして何も言わず、眼を前だけに向け馬を駆けさせた。
自分の馬の駆ける音と、横の馬の駆ける音だけを聴きながら。

(どうやら無事、撤退したようじゃな。まったく手間をかけさせおって。仕方の無い奴らじゃ)
井家範方は思っていた。
顔には微笑みを浮かべて。
だが、
その顔には血が幾条も流れていた。

しかも、
その身体には矢が数え切れない程、突き立っている。
鎧の隙間から直接身体に刺さっている矢も数え切れない。
馬を何度、乗り換えたのかも数え切れなかった。

井家が荒くなる呼吸を鎮めながら周りを見ると、三〇〇騎いた味方の軍勢は、主従合わせてわずか四騎にまで討ち減らされている。


(思い切り良くヤられたもんじゃのう)

井家は苦笑い、と言うよりむしろ楽しそうな表情であった。
しかし、平氏方は攻撃を止めない。
井家勢を全滅させるまで攻撃の手を緩めるつもりは無いらしい。

(平氏の士気は高いのう。こりゃ義仲どのも苦労するじゃろう)

ことさら他人事の様に思いつつも、指は箙[えびら]の矢を探り、残りの矢を確認している。矢は二本残っていた。

矢を引き抜き弓に番え弓弦を引き絞りながら、


(隆家。光明。
 後の事は総てお前らに任せたわい。

 この北陸の地を。加賀を頼むぞ!)

想いつつ矢を射た。
敵の先頭の武士に当たり、落馬させたのを見つつ、最後の矢を番え、

「最期の突撃じゃ!行くぞ!」
井家範方が叫ぶと、

「おおっ!!」

三騎の郎等らが、野太い声で応じ、井家を先頭に右、左、後ろに馬を付け、四騎で敵に突進して行く。

井家が最後の矢を射た。と同時に弓を投棄て、太刀を引き抜く。矢が敵に当たったのを確かめた刹那、


「!」


頭を後ろに持って行かれた。物凄い衝撃に首が上を向く。
その反動で前に、がくんと首が落ちる。
井家は下を向いたまま眼を開けると、左側が全く見えない。
と、
熱い様な感覚が顔の左半分を襲った。

見える方の右眼に映ったのは、
自分の右眼の至近に矢が突き立っているのが見えた。
井家は自分の左眼に敵の矢が直撃した事を覚った。

しかし落馬してはいなかった。
井家は荒い息を吐きながら顔を上げた。

馬が駆けるたびに、左眼に突き立っている矢の傷の痛みが、全身を駆け抜ける。


「うあああああーーーーーーっ!!!」


井家は、傷の痛みと、闘志と、怒りと、意地と、総ての感情と感覚を雄叫びに変え、太刀を振り翳し、平氏方の先頭部隊に襲い掛かった。

(まだじゃ!まだまだ儂は斃れんぞ!)

この気合いと共に。

そして、井家範方が右眼で最期に見たものは、自分に向かって放たれた幾百という敵の矢であった。



(隆家!光明!加賀を!)



ここまで想った時、何かと衝突した様な衝撃と共に、井家範方の眼の前は真っ暗になり、痛みも、光も、苦しみも、意識すらも途切れた。

井家範方は逝った。逝ってしまった。
彼の軍勢、井家衆三〇〇騎と共に。



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