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義仲戦記40「緊迫の三日間」

「義仲様がお倒れになられた事は、この場に居る者達以外には絶対に漏らしてはならん。各自の郎等らにも、だ。良いな」

義仲麾下の武将達にとって眠れない夜が明けた十一月七日の早朝、四天王筆頭樋口兼光は昨夜この場に集まっていた者達を前にして口火を切った。

「でなければ京の政局に多大な影響を与えてしまう事となってしまう。
ただでさえ噂や風聞を真に受け付和雷同してしまう貴族らが、この事を知ったとすれば一体どの様な事になるか想像も付かん」

兼光の言葉に諸将達は首肯く。


寝所に臥せっている義仲を巴御前と覚明に任せ、他の主立った武将達は今後の事に付いて話し合っていたのであった。

「今の我らの責務は兵達の動揺を抑え、義仲様の御回復を心の中で祈る事だ。重ねて厳命する。他言は無用だ」

兼光が念を押した。
その後を受けた四天王根井小弥太が、

「そーゆー訳で俺達は何事も無かった様に通常営業しなきゃならん。
市中警備も院中警護もだ。
ただし義仲様を訪ねて来る使者や貴族らは追い返せ。
理由は嘘でも何でもいい。
とにかくお会いになれません、と繰り返せ。そうすりゃ奴らは引き下がる」

指示すると、再び諸将達は頷く。
彼らはせめてあるじが身体を休めている間は極力、物音を立てないようにと心を配っていた。
確かに小さな事である。
だが、そのあるじを気遣う暖かい心根は何物にも代え難いものである事を、彼らはその行動で示していた。

と、
「院中警護については義仲様の代わりに今日から楯親忠と私が一日置きに御所へ詰める事となる。
この六条西洞院の邸の警備は手塚光盛。行家の邸萱の御所の監視は落合兼行。あとの者達は小弥太の言う様に普段通り与えられた任務を熟してくれ。以上だ」

四天王今井兼平が会議をシメると、諸将達は無言で足音を忍ばせる様にして広間から退出して行った。

秘密は集団を結束させる。
元々、纏まりのある義仲勢だったが、そのリーダーが倒れるに及んだ時、彼ら麾下の武将達は軍団として結束し、この義仲不在の危機を乗り越える為に一致団結したのであった。

程無く、六条西洞院から院中警護の為に四天王楯親忠が、行家の監視の為に落合兼行が、京中警護を統括する小弥太が、そして市中警備の任務に就いている武将達が無言で出動して行った。

その姿は正に危機に立ち向かう軍団のそれであり、彼らの発する緊迫感に住民らは圧倒されていた。



「覚明。義仲様の容態は?」

兼光は書院に姿を現した覚明に気付くと、書類を書いていた筆を止め尋ねると、覚明は厳しい表情でかぶりを振りつつ、

「まだ意識は戻ってない。熱も下がらんし呼吸は浅いままだ・・・」

「・・・そうか・・・」

兼光は筆を置くと、

「兼平はどこにいる?俺の代わりに義仲様の看病を頼みたいんだ。
あいつ薬草とかにやたら詳しいからさ。けど姿が見えないんだよ」

覚明が辺りを見回しながら訊く。

「ああ。光盛と共にこの邸の警備にあたっている。
じっとしては居られないんだろう」

「まぁねぇ。こういう時は身体を動かしていた方が余計な事を考えずに済むからなぁ」

「そう言うお前はどうなんだ?覚明」

兼光が意味ありげな視線を送ると、覚明は苦笑しつつ、

「俺も兼平と同じさ。いや、皆とかな?
余計な事を考え始めるとド壺に嵌って来る」

正直に白状すると、

「なぁ。義仲様の看病は交代制にしないか?
今、外に出張っている大将連中も気が気じゃ無い筈だし、義仲様の容態も自分の眼で確かめる事が出来る。どうだ?兼光」

「そうだな。良い考えだ。今日の午後から交代で行う事としよう」

兼光が笑みを浮かべて頷く。

と、
「こうなってみると女ってのは強いなぁ」
覚明が息を盛大に吐き出して言う。

「巴の事か?」

「ああ。夕べから枕元で、じっと義仲様を見守ってる。
俺ら男連中じゃ、ああは行かんよ」

「だが巴だけに負担を掛ける訳には」

「しかしなぁ。休めって言っても義仲様の側を離れないと思うがなぁ、巴御前は」

「・・・だろうな・・・」

巴に関して兼光と覚明は同意見であるらしく、溜め息と共に呟く。

と、
「じゃあ今から交代制にしよう。巴御前の補佐に兼平を付けるからさ。
その後は俺も事務仕事に精を出す。コレでいいよな?兼光」

返事も聞かずに覚明が書院をそっと飛び出して行く。
兼平を探しに行ったのだろう。
兼光は笑顔になると筆を取り、書類に眼を落とした。




陽の光りが薄く柔らかく注ぐ寝所で、浅く速い息遣いをしている義仲の顔をじっと静かに見詰めている巴は、自分でも不思議に思う程、落ち着いて看病出来ている事に驚いていた。

昨夜、眼の前で愛する人が崩れ落ちる様に倒れるのを眼にした時には衝撃を受け、どうして良いか分からない程、動揺してしまっていたのであるが、こうしていると何故か不安な気持ちが去り、先程から過去の事だけが心に浮かんで来る。


それもここ何年かの戦いの記憶では無く、遠い過去の子供の頃の追憶が。

思えば巴の思い出す事の出来る最も古い記憶にすら、駒王丸[義仲の幼名]が登場するのである。


随分と長い付き合いよね、巴は口許に笑みを浮かべながら、その美しい瞳に言葉にならない切ない想いを込めて、眼を閉じたままの義仲に視線を注ぐ。

と、何かに気付いた巴は左手で右の袖を押さえると、右手に持った布を義仲の額に滲んだ汗を、流れる様な美しい所作でそっと拭う。

巴はもう一度、その閉じられた義仲の瞼に眼をやると、少しでも早く瞼が開く事を望む自分と、少しでもこのまま穏やかな時間を過ごしていたいと願う自分がいる事を、ほんの少しだけ後ろめたい思いと共に感じていた。


それは戦う美少女にとっては“二人だけの贅沢な時間”だった。

だが、彼女にとっての至高の時が終わりを告げている事を、彼女の耳が教えてくれた。



密やかに近付いて来る足音の気配を捉えたからだ。
その滑る様に忍ばせて来る足音が兼平のものである事も、この耳聡い戦う美少女は聴き分ける事が出来ていた。






この日、法住寺御所は騒ついていた。
別に何かが起こったという訳でも無く、何か特別な儀式が執り行われる訳でも無い。普段通りの日常である筈なのであった。

だがこの日の御所は落ち着かない雰囲気に支配されていたのである。

貴族や公卿らは浮き足立ち、何人かで寄り集まっては何事かを囁き合い、それが一段落したと思ったら、また別の集団が寄り集まり囁き合う、という様な事が御所の至る所で行われていたのであった。

一体何故、貴族らはこの様な事をしているのか。

それはこの日、院中警護にあたる筈の義仲が、御所に姿を見せなかったからである。


この任に就いている武将達は皆、出仕していたが、義仲だけ出仕していない事は、公卿ら貴族に驚きと不審と、噂と風聞を醸成する材料として受け取られた。

右大臣九条兼実も、出仕している武将達の中に義仲の姿が無い事を確認すると、居並ぶ武将を眺めつつ、


(確か義仲だけ出仕しておらん・・・
これはおかしい・・・今までどの様に不快な噂を流されても律儀に出仕しておったというのに・・・
これは貴族や行家辺りの悪口、いや陰口に嫌気が差し出仕しておらん、という事なのか?・・・)

不審に思っていると、回廊の近くを兜を抱え鎧を纏った院中警護の一団が通って行く。


「これ。そこの者」

九条兼実がその一団に声を掛けると、頭目と思われる武将が振り向き、近付いて来ると片膝をついて礼をとった。
すると後方に控えた者達もその場で片膝をついて頭を垂れる。その恭しくも機敏な武士達の所作に満足を覚えつつ兼実は鷹揚に尋ねた。

「私は右大臣九条兼実じゃ。其方は院中警護の者だな。
本日、左馬頭義仲どのの姿が見えんが、何か聞かされておるか」

「はっ。私は左馬頭義仲の配下、信濃の楯親忠と申します。
本日はあるじ義仲より“其方が院中警護として出仕致せ”と命じられたよしに御座います。お尋ねの理由についてはいささか」

「ふむ。理由は申さなかった、という事か」

「はっ」

「では左馬頭どのは六条西洞院の邸におるのじゃな」

「おそらくは各国に宛てる書状を作成しておられるものと」

「ほう。書状な」

兼実の眼が光る。
この際、義仲の動向と情報を得ていた方が良い、と判断した兼実は一歩踏み込んで鎌を掛けた。

「それは陸奥の藤原秀衡に宛てたものであろう」

「さ。そこまでは。私の聞き及んだところでは大和興福寺及び比叡山延暦寺に対し書状を送る、としか」

「ふむ。鎌倉からの代官に対応する為、であるな」

「そう思われます」

上手く躱された兼実だったが、彼の得ていた情報通り義仲が京周辺の有力寺院との結び付きを強めようとしている事だけでも、確証を得られた事は上出来だった。幾分、気を良くした兼実は、ふと、この打てば響く様に気持ち良く返答する武将に興味を持つと、

「左馬頭どのの配下には四天王と呼ばれる者らが居ると聞く。楯よ。其方もその四天王の一人なのか?」

「はっ。畏れながら私もその様に呼称されております」

「ははは。四天王に御所を護って貰えば安泰というものじゃ。お?どうした楯。私の顔に何か付いておるのか?」

兼実は、己れの顔をじっと見詰める楯を揶揄う様に見咎めると、

「大変失礼致しました。右大臣様は晩年に良き師に巡り逢われる事となりましょう」

楯はさらりと事も無げにそう予言する。

「はて?師、とな。其方は占いもするのか?」

「いささか。いや、お時間を取らせ詰まらぬ事を申し上げてしまいました。私はこれより警備の任に戻りたいと存じます。では」

楯は立ち上がり、もう一度深々と一礼すると、武士の一団に戻って行く。
突然の事に呆気に取られていた兼実だったが、


(不思議な事を申す武士よな・・・ああした武士もいるとは・・・)


と思いつつも、その予言の内容にはそれなりに満足しつつ、去り行く楯の背を眺めていた。
九条兼実が楯の予言通りその運命の師と逢った時には、この時の楯の予言の事など忘れてしまっていた。だが九条兼実が心から尊敬し、帰依する事になる浄土宗の開祖、法然とは数年後に出逢う事となるのである。


とにかく行家の様に口を開けば他人の悪口や陰口だけを言い、身分の高い者に対する時には阿諛追従だけを口にする武士らに、ほとほと嫌気が差していた兼実にとって、楯との遣り取りは武士という者に対する偏見を正す事に幾分、役立つ事になった。

しかし楯にしても、何もぺらぺらと義仲勢の内情を漏らした訳では無い。楯は有力寺院に書状を送った程度の事は喋っても構わないと考え、そうしたのである。

しかもそれを聞いた兼実が、やはりな、という表情をしたところを見ると、おそらく事前に得ていた情報の確認をしただけである事も、楯は見通している。


伊達に義仲四天王と渾名されている訳では無いのだ。

誰に対しても、どの様な状況にあっても臨機応変に身を処する事が出来るくらいは気が効いている武将が四天王と称されるのであるから。


しかし、義仲が御所に出仕しなかった事の影響は小さいものでは無かった。義仲が、いや、義仲だけが出仕しなかった事で、またも貴族社会の中に噂や風聞が乱れ飛ぶ事となってしまったのである。

しかも市中警護にあたっている義仲勢の普段よりは緊迫した雰囲気を眼の当たりにした民衆らや貴族らは、この事を義仲の不出仕と結び付けて様々な噂を作り上げては拡散させていったのである。



曰く
『再び西海へ平氏追討に向かう為、出陣の準備をしているのではないか』
曰く
『いや。鎌倉から上洛して来る使者を襲撃するつもりだ』

この程度の噂であれば公卿らや貴族も安心していられたが、風聞というものは“伝言ゲーム”なのである。その内容は時を追う毎にエスカレートして行き、不穏な様相を帯び始めるまで時間は掛からなかった。

その不穏な風聞とは、

曰く
『以前よりその確執が噂されていた義仲と行家が先日の誣告の件で遂に袂を別ち、これまでの鬱憤を晴らすべく義仲勢が行家に襲い掛かる』
曰く
『行家を討ち果たした義仲勢は、その勢いを駆って法皇とその側近、朝廷の重臣らにも襲い掛かるつもりだ』

と。


噂や風聞とはそれを口にする者達の隠された不安や恐れなどが反映されるものであるが、それと共に無意識的な願望や期待もそこには反映されてしまう。

とは言え、それを口にした者達が流血を望み、戦乱を待ち望んでいた訳では決して無い。逆に京に於いて、近日中にその様な戦乱が勃発してしまう事を極度に恐れていた事の証左と言える。

ともあれこの不穏な噂が法皇の耳に届いた時、彼はその噂を“予測され得る最悪の事態”と受け取った。

このまま何もせずに事態を静観していたら、必ずその様になってしまう、と。



そこで法皇は、その様な事態に到る事を回避する為、何らかの対策を取らねばならなくなったのであった。

「新宮備前守行家どの。法皇陛下に於かれては、其方の陛下に対する忠義の心を褒め称えられ、この度、晴れて平氏追討を備前守行家どのに命じられた。謹んでこれを受けるが良い」

左大臣経宗が高らかに告げると、

「はは〜〜〜〜〜っ!!」

大袈裟に這いつくばった行家は、院宣を両手で捧げ持つともう一度、床に額を擦り付ける様に平伏した。

と、
「聞くところによると平氏は西海でその勢力を拡大させておる、とか。
備前守である行家どのが追討に赴く事は当然の事であると同時に、左馬頭どの[義仲]でさえ成し遂げる事が出来なかった平氏追討を行家どのであれば達成出来ると、陛下は御考えの御様子であった」

右大臣兼実の言葉を、行家は平伏したまま聴いていたが、その顔にはアブナい嗤いが浮かび、眼はギラギラと輝いている。


(法皇も朝廷の公卿らも漸くワシの凄さが解って来たと見える!
そうじゃ!このワシであれば平氏追討など軽くしてのけて見せるワイ!
義仲などこのワシの足元にも及ばん!その事を思い知らせてヤる!
見ておれ!では西海で平氏を軽くヒネって来てやろうかノ!)

この様に行家が自分の中で盛り上がっていると、

「法皇陛下よりの御命令は即日、出陣致せ、との事である。
遅くとも明日十一月八日には京から出陣を完了せよ。
出来るな、備前守どの」

左大臣経宗は“法皇陛下よりの御命令”という無茶を当然の事として命じた。

行家は思わず頭を上げ、口を大きく開けてポカンとしていたが、出来るな、と念を押されてしまった以上、出来無いとは言い難く、更に先程、義仲と比較されて自尊心と対抗心を刺激されていたので、

(義仲は命じられてもぐだぐだと言い逃れてすぐには出陣しなかったノゥ!ワシは青二才とは違うのじゃ!ヤってヤる!違いを見せ付けてヤるワイ!)

「はは〜〜〜っ!御命令通り、明日には出陣致します!」

後先考えずに請け負うと、もう一度平伏した後、院宣を両手で捧げ持ったまま後退り、御所殿上の間から退出して行く。

さすがに明日には出陣を終わらせなければならない以上、だらだらと時間を無駄にしている暇は無かった。

普段の行家であれば参内するとなると、少しでも長く御所に居続けられる様に無駄話を長々と、まぁ主に、というか常に義仲に対する陰口であるが、喋り続けるのが常であったが。

行家の退出と同時に殿上の間の御簾が巻き上げられた。

と、
「今日は早く帰りおったな。忙しい事で何よりじゃ」

法皇がのんびりと言うと、殿上の間には公卿らの忍び笑いが起こった。

「しかしこれで京の中での喧嘩騒ぎにはなるまい。
そうとも知らず自分から悦んで厄介払いされるとは。
あの道化者が少し羨ましくなった」

法皇は安堵の表情で辛辣な事を言った。

「皮肉に気付いた様子も無かったですからな」

右大臣兼実が相槌を打ちつつ冷笑を浮かべた。
法皇は愉しげに頷くと、

「そこがあの道化者の良いところよ。
院宣を両手で捧げ持ちつつ頭を床に擦り付ける様な器用な真似は、あの道化者にしか出来ん」

行家の先程の様子を思い浮かべて嗤いながら言った。

「そうですね。しかもその院宣は以前義仲に対して発したもので、別に備前守に対して新たに発布されたものでも無いですし」

宰相中将通親が言い添えると、公卿らの間に更に忍び笑いが起きた。

と、
「今日はこれまでじゃ。儂もこう見えて忙しい身じゃからの」

一仕事終えた、と全身で表現している様な法皇が告げると、右大臣兼実の眉間に少しだけ皺が刻まれたのを通親は見逃す事は無かった。
が、公卿らは一斉に平伏すると、御簾が降ろされ法皇がいそいそと退出して行った。

「では失礼する」

右大臣兼実が言いつつ真っ先に退出して行くのを合図に、公卿らも解散して行った。

と、
「お待ち下さい。丹後どの」

唯一人その場に居残っていた宰相中将通親が小声で御簾の内を声を掛ける。

「御簾にお近付きなさって」
丹後局も囁く様に応じると、通親は御簾に近付き単刀直入に訊いた。

「法皇陛下はこれから誰と会われるのです?」

「大夫尉平知康どのら陛下の御取り巻きの皆様ですわ」

御簾越しに丹後局の囁き声が良く聞こえる。
丹後局も御簾に触れそうなところに居るのであろう。

「あの鼓判官か・・・」

通親は舌打ちしそうな程、顔を顰めて呟く。
彼は誰も見ていない所では表情を繕う事無く、表情を露わにしている。

「何やら私の居ない所でこそこそと相談事をなさっておいでですわ。
私が言うのも何ですけれど中級以下の貴族の皆様を集めて、それは愉しそうに」

下級貴族出身の丹後局が己れの事を笑う様に皮肉を言った。
が、通親はそれには構わずに話しを続ける。

「ここのところ陛下と義仲の対立が表沙汰になった事で、貴族らが急に陛下のお側に群がって来た事は承知しております。
だが、この者らは対立を利用し、あわ良くば立身出世を図ろうと、愚かな事を陛下に吹き込み始めるかも知れません」

「さすが通親どの、私も同じ事を心配していましたわ」

「まぁ対立を利用して己れの権威や権力を強めようとしている私や丹後どのと同じ様なものですが」

通親も自分自身を笑い飛ばすと、
「ふふ。その通りですわね」
丹後局も愉しげに応じた。

「しかし鼓判官程度の者は陛下が後ろ盾となっていると勘違いし、どの様な事でも出来る、と信じ込み過剰に自信を深めると、何を仕出かすか分かりません」

「そうなると万一の時は陛下の身に危険が及ぶ、とこう仰りたいのですね」

「御判りが早い。その通りです。
ですから丹後どのには常に陛下のお側を離れる事の無いよう、お願いをしておきたいのです。もし、万一の事が起こった時には」

「あの時の様に陛下を御護りして欲しい、という事ですわね」

“あの時”というのは治承三年[一一七九]十一月の平清盛によるクーデターの事を指す。


この時、後白河法皇は清盛によって鳥羽殿に幽閉されたが、近侍として法皇に細やかに奉仕し、その信頼と寵愛を得たのが丹後局その人なのであった。

彼女はその時に夫である平業房を殺されている。
しかしこれ以後、彼女は権力の階段を登り、その中枢へと駆け上がって行く事になるのである。

「はい。その様な事態に至る事が無ければ、と思っているのですが」

「解りました、通親どの。その様に致しますわ」

「有難う御座います。この様な御願いをしなければならぬとは心苦しい限りです。先程の事にしても」

「備前守行家どのの出陣の事ですわね」

「はい。どうせ鼓判官辺りの浅知恵でしょうが」

「まぁ。良く御判りになりますわね。
確かに鼓の大夫どのが申し上げておられましたわ。陛下の前で得意げに」

これを聞いた通親は頭を抱えて溜め息を吐いた。

「通親どのの御心配も無理ありませんわ。あの程度の思い付きを“策”などと申している鼓どのには私も頭を痛めております」

丹後局も溜め息混じりに言った。



 確かに京での義仲と行家の衝突という事態は、行家を西海に出陣させる事で回避させたつもりかも知れないが、これは噂や風聞を本当に起こり得る事と軽々しく信じ込んだ事から行家を遠ざけたのであって、この衝突が起こらない可能性を想定していない実に下らない思い付きである事をこの二人は言っているのである。
 義仲と行家の対立だけであれば、この思い付きでも効果はあるだろうが、法皇も義仲と対立している状況でこの思い付きを実行してしまうと、義仲の擁する武力に対抗出来る唯一の在京の武力を手放してしまう事になるのだ。つまり法皇の武力として行家の持つ武力を行使させる、という選択肢を自ら放棄したに等しいのである。
 これは京を戦乱から守るつもりで、実は法皇を大変危険な状況に追い込んでしまう事になる。何故なら行家が京から去る事で、法皇の行使出来る武力が無くなり、義仲も行家が去る事でこの対立が解消されれば、この京に残されるのは、義仲の擁する武力と、その義仲と法皇との対立のみ、となってしまうからである。そしてその様になってしまった今、通親と丹後局は法皇を護る為にこうして密談をしているのだ。
 しかもこの二人は自分が寄って立つ権威・権力が結局は後白河法皇その人が存在する事で成り立っている事を冷静に理解している。つまり法皇に何かが起きた時、自分の立場が危うくなる事を熟知しているからこそ運命共同体として法皇の御身を案じているのであるが、この二人の見るところ、鼓判官大夫尉平知康やその周辺の“法皇の御気に入りの寵臣”と謳われる者らは、法皇を利用しつつも己れが危うくなれば法皇を見捨て、己れの保身や責任回避に奔る様な者らと認識されているのである。つまり、言う事だけは立派な口先だけのお調子者、という事だ。一言でいえば『チャラい奴ら』。


こうした者らが法皇の周辺を我が物顔で屯している現状に、二人は危機感を覚え、その危機感を共有している事を確認すると、通親は気を取り直し、

「申し訳ありません。私とした事が。
過ぎた事を悔やんでも仕方ありませんからね」

御簾の向こう側にいる丹後局に詫びると続けた。

「とにかく鎌倉の頼朝が軍勢を引き連れて上洛するまでは何としても陛下の御身を護って行かねばなりません。鼓判官らの軽挙に載せられる事の無いよう陛下の事を御見護り下さい」

「元よりそうするつもりですわ。通親どのには腰の重い鎌倉どのの早期の上洛を実現なさいますよう、何とぞ御願いしますね」

「はい。では失礼致します。丹後どの」

通親が礼を言うと、御簾の向こうの気配が遠去かって行くのが判った。





「何!行家が平氏追討に向かうだと!」

思わず声を荒げてしまった事に気付いた兼光は、ふと義仲が臥せっている寝所の方向に眼をやりそのまま無言でいたが、寝所に何事も無いと判断すると小さく安堵の吐息を洩らす。
が、瞬時に表情を改めると弟の落合兼行に視線を戻した。

「参内していた行家が南殿萱の御所に戻って来た直後、炊事の煙りが幾条も立ち上り、探らせましたところ、平氏追討の為、西海に出陣するとの事。
郎等らを集めて院宣を見せびらかしたそうですから、まず間違いの無い事でしょう」

南殿萱の御所、つまり行家の邸を監視していた落合兼行が落ち着き払って報告すると、

「こうしては居られん!直ちに郎等らに命じ第一軍から第六軍までの大将を広間に集合させてくれ!院中・市中警護の大将もだ!急げ!」

口調は鋭かったが、それでも小声で命じた兄兼光に、弟兼行は無言で一礼すると、

「義仲様の看病にあたっている者以外は、ですね」

兄をちらりと見つつ確認すると、兄は思わず苦笑し、

「巴は呼ぶ事は無い。それよりも義仲様の看病に専念させたいんだ」

答えると、兼行は無言で頷き書院を出て行った。



「まさかなぁ。法皇があの自称大将軍を本当に大将軍に任じるとは。
正気の沙汰とは思え無ェぜ」

呆れた、呆れ果ててシマイマシタ、とでも言いたげに小弥太が呟く。
この正直過ぎる感想に諸将達も苦笑いを浮かべて首肯いている。

しかし、何であれ状況が動き始めてしまったのである。
しかも誰であれ平氏追討に向かう者が指名され出陣して行く以上、義仲麾下の武将達は、何もせず、座して事の成り行きを見守る事など出来はしなかった。

と、
「先程、この邸に松殿基房どのの使いが書状を携えて来た。
その書状によれば朝廷が行家に平氏追討を命じた事は事実らしい。
しかも明日には出陣を完了させる、との事。
これは松殿が右大臣九条兼実卿から齎された情報だ。
兼行の報告と併せて考えれば、行家が追討大将軍に指名され西海に向かう事は疑いようの無い事実、という事になる。その上で」


兼平が皆を見渡しつつ詳細な状況を説明した。
そして最後に兄の兼光に視線を送ると、頷いた兼光はその後を受け、

「我らと平氏との今後の同盟関係を更に深化・発展させて行く為、これらの情報を平氏に至急、届ける事としたい。何か異論があるなら申し出てくれ」

方針を告げた。
と、

「心配すんな兼光。誰もお前の提案をチクリだなんて思っちゃいねェ。
あの自称大将軍の方が勝手に敵に回ったんだ」

ニヤリと笑いながら小弥太が言った。

「そう。同盟関係にある平氏に対する我らの当然の義務、と心得てますよ」

楯も頷きながら応じると、一同も無言で首肯いた。

「明日出陣するというなら時は一刻を争う。
正確な情報を記した書状を携えた早馬をすぐにでも出発させなければ」

光盛が心配性の彼らしく言う。

「覚明」
兼光は祐筆を呼ぶ。

「後は署名するだけだよ」

追討使派遣の経緯と行家に関する情報を簡潔に書き記した横長の紙をひらひらさせながら覚明が応じる。
兼光は覚明の仕事の速さに苦笑しつつ指示した。


「では以前に平氏方と会談した時に同席、または平氏方へ派遣された者達の連名で書状を送りたいと思う。
義仲様の署名が無い事に平氏方が不審を抱く事になるかも知れんが、書状の内容自体は事実であるし、数日の内に行家の軍勢が彼らの前に現れる以上、我らの誠心も裏付けられる事となろう。
義仲様の御身体の不調や容態に関しては」

「そんな事、一言も書いちゃいないよ」

覚明が当然、という風に応じる。

兼光は頷くと覚明から書状が受け取り一通り眼を通し、今井兼平・根井小弥太・楯親忠・手塚光盛の四名に署名させると、郎等ら四騎を早馬として書状を持たせて出発させた。

向かうは平氏方との窓口となっている備前国三石の宿。
行家が追討使として京を発つ一日前の事であった。




「ヨシ!我らは院宣を奉じて西海の賊徒平氏一党を討伐に向かう!
神仏の御加護は官軍である我らの上にあり賊徒である平氏一党を討ち果たすであろう!では出陣じゃ!」

翌十一月八日早朝。どんよりと暗く厚い雲が空を覆い、日の出を迎えた後も仄暗い空気の中、辺りに新宮行家のがらがら声が響いた。
ここに行家は何度目かの大将軍就任となり、しかも法皇の御指名を受け、曇天の中その表情だけは晴れがましく堂々と南殿萱の御所から出陣して行った。
しかしその率いる軍勢はと言えば総勢五〇〇騎に満たず、小弥太の言い草では無いがこの程度の軍勢で平氏追討に向かうなど正に“正気の沙汰とは思えない”事であった。

しかし兼光が平氏方に宛てた前日の書状では、行家の軍勢の総数は“およそ三〇〇騎程”と予測して平氏方に報せたのであるが、その数よりは上回った事になった。行家も焦って軍勢を掻き集めたのであろう。
こうして行家は京から出陣して行ったのである。

義仲が倒れて二日目の事であった。

義仲麾下の諸将達は、この日も通常通りその与えられた任務を熟していたが、心の中では不安と闘わねばならなくなっていた。

それは彼らのあるじが一向に眼を覚ます気配が無く、熱も下がらずこの二日間、臥せり続けている事にじわじわと憔悴の思いが膨らんで来たからである。
諸将達はこの曇天の中『もしこのまま義仲様が熱病に冒され、眼を覚ます方無く、病に斃れる様な事にでもなれば・・・』との不吉な考えが浮かんで来ては、それを振り払っていたが、気が付くとまたその様な考えに苛まれていたのであった。

そして自らの気持ちを奮い立たせようと空を見上げるのであるが、その暗く重い灰色の雲がゆっくりと移動する様を眺めては、配下の郎等達に気付かれ無いよう小さな溜め息を吐く、という事を繰り返していた。

こうして諸将達は時が経つと共に倍化して行く不安と抑圧[ストレス]に晒されながら、二日目の夜を迎え、そしてまた眠れぬ夜をまんじりともせずに過ごすしか無かったのである。





彼は追い掛けられていた。
誰に? いや、判らない。

彼はその世界の法則に縛られ、振り返る事を禁じられていたからである。

そしてその世界にいる以上、彼は強迫的に振り返る事を自分に対して禁じていた。

とにかく彼は何者かに追い掛けられ、その者から逃れる為に振り返りたくなる欲求を抑え込み奔り続けていたのである。

しかし不思議な事に、自分の足で奔っているのか、馬を駆けさせているのか区別が付かない。

全身を動かして懸命に走っている様にも思えるが、その通り過ぎる風景の速さと視点の高さは、まるで馬に跨っている様でもある。

が、

その息遣いは荒くなる一方であるのは、自身が走っているのであろうとも受け取れた。

その間も彼の頭に鳴り響いているのは『振り返ってはならない』との声であり、この声も男の声なのか女の声なのか判らず、それ以上に、知っている声である様な気もするが、全く知らない声である様にも感じるのである。

どれ程そうした逃亡劇を演じていたのか判らないが、既に身体が重く、思う様に前に進めなくなり、息も絶え絶えになりつつあった時、彼の前進は止まった。


何かに嵌った。

足掛かりを得ようと踏み込むが、その足は重く思う様には動いてくれず、同じ様に両手で何かを掴もうと振り回すが、その腕は空を切るだけで、何かを掴み取る事も出来なかった。


このままでは沈み込んでしまう、との焦燥感に呑み込まれながら、身体の疲労と、打ち付ける心臓の鼓動、肺が張り裂ける程の速い呼吸が限界に達した時、彼は頭の中に響く声が後方から掛けられている事に気付いた。


この時、彼は自分自身に課し、禁じていた行為を実行しようと決意した。



が、そう決意した途端『振り返ってはいけない』という声が先程よりも増して強く響き、頭が割れそうな程の音量と圧力を伴って彼に襲い掛かった。


彼は両手で頭を抱え込み、内側から破裂するのではないか、と不安に感じる程の痛みに耐えながら、じりじりと上半身を後方に向け、その苦痛の為に硬く閉じていた瞼を一気に解放した。

彼は自分が眼にした光景を、束の間、理解する事が出来なかった。




確かに何か見た筈であったが、その光景は瞬時に消え失せると同時に、こちらを覗き込んでいる大きな瞳が、彼の眼に飛び込んで来たからであった。

彼は自分の心臓が、どっどっどっと速過ぎる鼓動を打っている事を感じると、まるで呼吸をする事を思い出したかの様に大きく息を吸い込むと、盛大に息を吐き出した。

そうする間も、彼は眼の前にある大きな瞳を凝視し続けていたのだが、その瞳を縁取る辺りが潤みを帯びて来たのをただただ眺めていた。


と、
「義仲様が眼を覚まされた!」

小声で囁く歓喜を帯びた馴染み深い声が耳に届くと、義仲は無意識にその声を持つ者の名を呟く。

「・・・兼平・・・」

そう口にした義仲は、自分を見詰め涙ぐんでいる者の頬に右手も添え、

「・・・巴。何を泣いている?・・・」

優しく声を掛けると、巴と呼ばれた美少女は、義仲の差し出した手を両手で包み込む様にして頬に押し当て、瞳を閉じると、

「お戻り下さり安堵致しました」

涙がぽろぽろと零れ落ちるのも構わず、小さく囁いて応えた。

しかしその義仲の手を包み込む巴の両手は震え、言葉では言い表す事の出来無い溢れる感情を義仲に伝えている。

その時になって自分が仰向けで横になっている事に気付いた義仲は、心臓の動悸が治まるのを待って身体を起こそうとすると、


「いけません義仲様。まだ横になっていて下さい」

兼平に止められると、義仲な素直に従い再びその身を横たえた。たったそれだけ身体を動かす事にも苦労した事に、驚きを覚えた義仲は枕元に集まっている巴・兼平・光盛・多胡家包らに視線を移して行くうちに、朧げながら自分の身に起きた事に思い至る。

身体中が怠く、関節が鈍く痛み、冷や汗が滲んで体調が芳しく無い事を自覚せざるを得なかったからである。と、義仲はハッと我に返ると、

「今日は何日だ」

誰とも無く問い掛けると、

「九日です。十一月の九日」

光盛が答え、巴が言い添える。

「三日間も眠っていたんですよ?」

零れる涙を拭き、笑顔で応じる巴の眼は真っ赤になっていた。それは涙眼である事にもよるが、それ以上に殆ど眠らずにこの三日間、看病をしてくれただろう事に義仲は気付くと、

「有難う、巴。心配を掛けた」

詫びる様に感謝の言葉を口にした。
その様子を無言で見守っていた兼平に、

「義仲様の意識が戻られた事を報せて来ます。皆、待ち侘びていた事でしょうから」

多胡家包が笑顔を覗かせて声を掛けると、いそいそと寝所から退出して行く。兼平も笑みが浮かべると安心した様に息を吐き出しつつ、

「何か召し上がる事は出来ますか?」

義仲に尋ねる。

「そうだな。正直食欲は無いが何か入れておかなくては回復が遅れる。軽いものを」

「承知しました。用意させます」

兼平が応じて腰を上げた時、広間の方からどっと歓喜の声が沸き上がったのが聴こえた。あるじが目覚めた事を聞いた諸将達が慶びを爆発させたのである。

とは言え、当の義仲は未だ本調子では無く、全快した訳では無いのだ。兼平は額に青筋を立て広間の諸将達を怒鳴り付けようと一歩踏み出した時、

「広間の連中には俺が注意しておく。兼平は義仲様の食事の用意を」

兼平の肩に手を置き、光盛が笑い掛ける。

「頼む、光盛」

兼平が応じ、二人は寝所を出て行った。

光盛と兼平は気を利かせたのである。

巴が義仲と二人きりになる為に。


それはここ三日間、文字通り寝ずに義仲の看病を誠心誠意務めてくれた戦う美少女に対する感謝の思いの表れであった。

そしてまた巴も、この様にさりげなく気を利かせてくれる二人の背に感謝の視線を投げ掛けていた。

巴は二人が出て行くと、頬に添えられた義仲の手を上掛けの中にそっと戻すと、彼の額に手を当てる。汗ばんではいるものの熱は随分と下がっているのが判る。その事に再び安堵していると、

「眼を覚ます直前、夢を視ていたんだがな・・・」

義仲は仰向けです眼を閉じながら呟く。
巴はこくんと首肯き聴いていた。

「とても苦しかった感覚と、何か重要な光景を最後に視たと思うんだが、今となっては全く思い出せん」

言い終わると義仲は瞼を開ける。
巴は黙ってその美しく長い髪を揺らして頷く。

「思い出そうとする程、その光景や感覚が逃げて、いや、霧消してしまう」

義仲は遠い眼をして呟いていたが、ふと笑みを浮かべると、

「済まない。取り留めの無い事を話した。
それより、巴は大丈夫なのか?寝てないのだろう?」

「そうなんですケド。心配で当然そうなりますよ。
どの道、寝ようと思っても寝られなかっただけですし」

巴も笑顔で応じると、

「今夜は良く眠れそうです。
あ〜ぁ、義仲様の夢の続きを視る事が出来ればなぁ。そうすればあたしが義仲様に夢の出来事を全てお教えする事が出来るのに」

半分、いや八割程の本気を滲ませて戦う美少女がボヤく。
そんな様子に義仲は吹き出す。

「ははっ。しかし巴は夢で視た事を憶えているのか?」

「そうですねぇ。眼が覚めた時には大体憶えていますよ?
義仲様の様に視た夢を思い出せないって人は多いですが、あたしは視た夢は必ず憶えていますね。でもさすがに二日もすれば忘れちゃいますケド」

「それは羨ましい」

「そうですかぁ?
逆にトンデモ無い夢を視てその全てを憶えてるって方が嫌なものですケド?あたしは眼が覚めたら忘れてるっていう方が羨ましいですケドね」

「そのトンデモ無い夢の話しが聴きたい気もするが」

「ええ〜?何てコト言うかなぁ。話せるワケ無いじゃないですかぁ」

巴はぎくっとしながら頬を染めて義仲を睨み付けた。
義仲は心から楽しそうに破顔している。と、

「義仲様。食事の用意が出来ました」

「速っ!」

兼平が御膳を持って寝所に入って来る。
巴は思わず驚きの声を上げた。

気を利かせたつもりの兼平であったが、彼も義仲の側に居たかったのである。速攻で用意を整えて戻って来た訳だ。

こうして戦う美少女にとってのささやかな至福の時間は終わりを告げた。



「本日、法皇陛下御臨席の公卿会議が開かれ、この席で鎌倉からの代官・源九郎冠者義経どのら五〇〇騎の入京を認めない事と決定されました。伊予守義仲どのには、その様に了解しておいて下さい」

翌十一月十日。六条西洞院の邸に朝廷の使者が遣わされ公卿会議の決定を伝えた。

「解りました」

義仲は穏やかに応えて一礼した。

昨夜、意識を取り戻した義仲は、兼平の用意した食事を摂ると再び深い眠りについた。そして今朝方、眼を覚ますと、熱はすっかり下がり、食欲も戻っていた事もあり早々に通常の職務に復帰したのであった。

だが、やはり三日間も高熱に苛まれた義仲は幾分やつれ、ほっそりとした印象になったが、これに気付いていた者は麾下の武将達だけであり、法皇や朝廷の公卿らで気付いた者はいなかった。

しかし元々精悍な風貌の義仲が、更に研ぎ澄まされて美しさすらその風貌に加わった事だけは京の貴族らも認めざるを得なかった。

こうして、義仲が高熱を出し寝込んでしまった事を、公卿らに対し完全に隠し通した事で無用の混乱を引き起こす事無く、義仲麾下の武将達に与えられた試練の三日間は終わったのであった。


しかし、義経率いる五〇〇騎の使者は京に入る事を認めない、との法皇の確約を得る事に成功した義仲だったが、前言撤回・いい加減・気分による・朝令暮改をその政治的理念としている法皇の確約など、何の保証にもならない事を、嫌という程、義仲は理解していた。