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その時 木曽殿の動きは #3


解説
C O M E N T A R Y

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大河ドラマ「鎌倉殿の13人」に合わせ義仲陣営を「説明」
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【監修】義仲館P 西川かおり

以仁王の挙兵と木曽義仲

 都で後白河法皇と平清盛が対立し、清盛が勝利した結果、平家が全国の多くの国(現在でいうところの県)を支配するようになりました。しかし信濃国(長野県)は院の近臣だった国司がそのまま任用され、平家に対する悪感情が高まることなく、平穏な日々が続いていました。ところが、「平家打倒」を呼び掛ける以仁王の挙兵が信濃国に思わぬ影響を及ぼすことになります。
 以仁王の挙兵を鎮圧するために動員された平氏軍の中には、笠原平吾頼直に率いられた長野県北信地方の武士が数多く参加していました。それに対する以仁王と源頼政の軍勢には木曽義仲の兄が参加していたのです。

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(笠原神社/笠原氏の本拠地にある)

 木曽義仲の兄は源仲家といい、都で生まれました。父・源義賢が武蔵国(埼玉県)で殺された時も都にいて難を逃れ、義賢の弟・頼賢に保護されたのではないかと考えられます。それもつかのま、保元の乱で頼賢が殺され、寄る辺なき身となってしまいました。
 源頼政は身寄りのなくなった子供を不憫に思ったのか仲家を引き取って我が子と共に育てました。同じ「源氏」を名字にしていますが、11親等ほど離れたとても遠い親戚です。
 そのため源仲家は頼政に恩義を感じており、頼政が以仁王と挙兵する時、息子をともなって参加し討死しました。


 

木曽義仲と兄・仲家がどのくらい連絡を取っていたのかは、何の史料も残されていないためわかりません。ただ、同じ「仲」の字を使っていることから、義仲の元服時に交流があったことは確実ではないかと考えられます。

画像2

(石清水八幡宮/義仲が元服したと伝えられる)

 義仲の兄が以仁王陣営にいたことを、もし笠原平吾頼直が知ったなら大変な脅威だったことでしょう。「兄を殺した恨み」を建前に義仲に攻め込まれるかもしれないからです。しかしそのような情報が笠原・義仲両サイドにもたらされていたかは史料がなく、想像するしかありません。



略年譜
H I S T R Y
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義仲をたどる
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●久寿元年(1154年) 誕生

●久寿2年(1155年)8月16日
大蔵合戦で父を討たれ、信濃へ

〇中原兼遠に養育される

●仁安元年(1166年) 元  服

〇諏訪社に婿入りし娘が生まれる

〇承安3年(1173年)?
嫡男・義高生まれる
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★以仁王の挙兵 


漫 画
C O M I C
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4コマ漫画「木曽義仲の基礎知識」より
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平家物語の木曽義仲橋合戦

長野県木曽町「広報きそまち」連載→書籍義仲館で販売
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