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義仲戦記46「予期せぬ障碍」

「何だと!それは本当か!」

「はい!間違いありません!
解官された者の詳細はこれに!」

朝廷の役人が書類を差し出す。
右大臣九条兼実は引っ手繰る様にして書類を掴み取ると、彼らしく無い荒々しい手つきで紙を一気に広げるや、瞬きする事を忘れた様に見開かれた眼で読み進んで行く。

そこにはこの日、官職を解任された者らの名が列記されていた。

中納言藤原朝方を筆頭に、参議右京大夫藤原基家、太宰大弐実清、大蔵卿高階泰経、右大弁平親宗、右中将播磨守源雅賢、右馬頭資時、肥前守康綱、伊豆守光遠、兵庫守幸綱、越中守親家、出雲守朝経、壱岐守知親、能登守隆経、若狭守政家、備中守資定、大夫尉平知康、以下衛府二六名の名が延々と書き連ねられている。

一通り眼を通し終えた兼実は大きな溜め息を吐くと、その手から書類がはらりと落ちた。


「松殿基房どのに任せていたら大変な事に・・・」
茫然と兼実が呟く。


十一月二八日。朝廷の役人、公卿らの間に激震が走った。公卿以下四十四人の者が大量に解任されたのである。

しかしこの措置は前代未聞の事では無かった。

過去に一度だけ、公卿以下四十四人が一斉に解任された事があるのだが、それは平清盛が後白河法皇との対立の果てに、法皇を幽閉した後に行われた措置であった。

義仲は今日、その前例を踏襲した事になる。

だが、幾ら前例が存在するからと言って、やはりこの大量解任劇は公卿らを驚愕させるにたる大事件であった。
そして彼ら公卿らは悪夢が再現されるのではないか、との怖れを抱きながら息を潜めている。

その“悪夢”とは清盛が政治の頂点に君臨した様に、今度は義仲がそれに取って代わる、ということだ。

そうさせぬ様に、兼実は松殿基房に釘を打っておいたのであったが、現実にはこうなってしまった事に兼実は頭を抱えたい思いでいた。

しかし、この列記された者の名を見ると、名と官職が記されている者は全て後白河法皇の取り巻きの近臣であり、この度の法皇の乱に関係する者ばかりであった事に、兼実は幾分の安堵を感じると共に、自業自得だ、と斬り捨てる思いもそこには同居していた。

それは法皇を唆し、その気にさせ、乱にまで至らしめた今回の事態を心から憎んでいた兼実としては当然の思いではあった。
と同時に、この様な大量解任という些か政治的バランスを欠いた措置にも、この保守政治家兼実としては賛成する事は出来なかったのであるが、更に摂関藤原家に連なる者としての兼実には看過出来無い事柄が書類に記されていた事に彼は不快の念を募らせていたのである。

それは前摂政近衛基通[奇跡の脱出王]が相続していた家領や所領八十八カ所を、事もあろうに義仲に賜る、と記されていたからだ。

確かに義仲は松殿基房の姫伊子を娶り、松殿の婿になったとは言え、彼は歴とした源氏の武将であり、摂関藤原家の出身では無いのだ。

その摂関家の一族が代々守り抜いて来た家領、つまり財産を義仲に持って行かれるなど、到底肯けるものでは無かった。

その事もあってか、乱の終結時には義仲に対し好意的であった兼実は、再び義仲に不審の眼を向ける様になったのである。

兼実の個人的感情はどうあれ、これ以後、義仲は着々と京での地歩を固め、新体制を確立する為に矢継ぎ早にその政策を実行して行く事となる。




「平氏方より使者が遣わされて来た。それによると去る十一月二七日、播磨国室坂山に於いて新宮行家率いる追討軍と交戦。これを撃滅した。と連絡が入った」

義仲が告げると麾下の武将達は、おおお、と歓喜の声を上げた。

「平氏方は近日中には讃岐の屋島から福原に本拠地を遷す為、現在、福原の再建とその周辺に城塞を構えている、という事だ」

四天王筆頭樋口兼光が言い添える。

「て事は、平氏方は播磨まで勢力圏を回復したって訳か。ところで大将軍ドノは一体どうなったんだ?」

四天王根井小弥太が訊ねる。

「平氏方によれば、追討大将軍たる行家を討ち果たす事は叶わなかった、と」

「ちっ!どうせまた真っ先に逃げ出したんだろうよ。アイツらしいぜ」

四天王今井兼平の答えに、小弥太は舌打ちし吐き捨てる様に応じた。

「とにかくこれで平氏方が京に帰還する為の障碍は取り除かれた事になる。義仲様が仰っておられた『平氏方の年内の帰還』に目処が付いた訳ですよね?」

四天王楯親忠が訊くと、

「早ければ、な。そこで本日、私は旧平氏方の所領八十六カ所を私の所領とする様に法皇に願い出た」

義仲の返答に光盛が応じる。

「平氏方が京に帰還した暁には、その八十六カ所の所領を元の平氏方に戻すおつもりなのですね」

「その通り。おそらくここ二・三日の内に旧平氏領を賜わる事となろう。これを平氏方に復した時、我らと平氏の同盟は更に強固なものとなり得る。その為の準備というところだ」

「あの〜ひとついいですか?義仲様が役職を兼任された事は当然とは思いますケド」

巴御前こと戦う美少女はそう切り出すと、続けて疑問を口にした。

「左馬頭、伊予守だけで無く院御厩別当に就任されたのはどうしてです?」

「先日、法皇の側近四十四名の役職解任を行っただけでは心配だった,という事だ。今後、先日の乱の様な事を法皇に企図させない為に、私自身が院御厩別当としてその身辺を厳重に警戒するに越した事はあるまい。左馬頭に付いては折を見てこちらから辞すつもりではあるが」

「今、法皇サマは五条東洞院摂政亭の内裏に御滞在されてますよね?ならいっその事、法皇サマをこの六条西洞院に御連れなされば良いのに」

あっけらかんと戦う美少女が言うと、諸将達は驚きに眼を見張った。

「て事はココが御所となり内裏になるってか。スゲェ事を思い付くな」

小弥太は、マジか巴、とでも言いたそうに応じると、

「ははは。巴には私の考えている事が解るらしい。いずれ近い内にその様にするつもりだ。
これで完全に法皇とその側近や取り巻きの連中との接触を断つ」

義仲は笑みを浮かべると告げた。
続けて、

「法皇には少し厳しい処置となったが、これで乱の再発を予防する事は可能となった。京も少しは落ち着きを取り戻す事だろう。
西国の平氏方に付いてもその帰還を待つばかりとなった上は、私が対応を迫られている事柄は一つしか無い」

「・・・鎌倉の頼朝への対応、ですね・・・」

兼平が厳しい表情で呟いた。

「そう。しかし私は源氏同士が相撃つ様な事は今でも無意味だと思っているし、この考えは今も変わらない。
だからこそ以前、頼朝が信濃に侵攻した折、子の義高を鎌倉に送る事で戦いを避けた経緯もある。
私がこれから頼朝への対応で行なう事は、戦いを回避する為の対策を打って行く事しか無いだろう」

義仲の考えや想いはブレてはいない。

それを実現させる為に、彼はあらゆる努力と犠牲を払って来たのである。
そしてその先にある、戦乱の無い世界を招来する、という悲願の為に。

「・・・そぉゆぅ事なら頼朝に対して有効な手段は、鎌倉や関東そのものを逆に包囲するしかありませんねぇ」

今まで黙っていた覚明が溜め息を吐きながら言う。
諸将達も無言で首肯いた。

「私もそう考えている。が、どこまで出来るかは判らない、というのが正直なところだ。取り敢えず法皇には頼朝に対する追討の院宣と、陸奥の秀衡に対し頼朝追討に関する院庁下文を発していただくよう働きかけてはいるが、それが発給されたとしてもどれだけの効果があるかは疑問だ。少しでも何らかの牽制か、或いは時間稼ぎにでもなってくれれば、と思っている」

義仲は冷静に判断している。
頼朝追討の院宣を義仲が得たとしても、その頼朝は既に義仲追討の院宣を得ている以上、何の意味も成さない事もあり得るのだ。

しかもお互いに発給された院宣を奉じて相撃つなど、これ程馬鹿らしい事は無いのである。
そこで陸奥の秀衡を巻き込み、背後から頼朝或いは関東全域を牽制しようと試みているのである。

が、これも秀衡が動かなければその効果も薄い。

義仲自身もこれだけでは有効な対策では無い事を自覚していた。

「そこで我らとしては一日も早い平氏方の京への帰還を実現させる為に力を尽くして行く事となろう。
それが果たされた時、我らと平氏方の同盟を世に知らしめる事となる。
そうなれば京を押さえた我らと平氏に対し、頼朝とて徒に武力を用いる事に二の足を踏むだろうし、秀衡も何らかの行動を起こさざるを得なくなるだろう」

義仲の言葉を頭の中で検証しながら諸将達は首肯いている。

「覚明。平氏宛ての書状の用意だ」

「いつでもいいすよ」

覚明は既に筆を持って紙を広げていた。

「平氏方へは今回の乱の前後の事情を詳細に報せる。
公卿らの解官及び、現在我らが構築している新体制の事も全て書き送って良い。その上で、平氏方が京に帰還した後、旧平氏領を譲渡する用意がある事も。とにかく一日も早い京への帰還をお待ちしている、と」

「そりゃ少し長くなりますねぇ」

さらさらと凄い速さで書き進めている覚明が、手元から眼を上げずにのんびりと応じていた。




「ほぉ。義仲どのもやるではないか」

「はい。一度に四十四人の解官といえば、父上が為した事と同じに御座います」

一門の総帥平宗盛の感嘆に軍事総司令の弟知盛が応じた。



この時、平氏一門は既に讃岐の屋島から福原に本拠を遷していた。

備中水島、播磨室坂山と二度の合戦に連勝した平氏は、その勢いを駆って平氏が拓いた追憶の地、福原を奪還した。
時を置かずに本拠を福原に遷したのは、やはり京へ一日も早く帰還したい、との一門の悲願を思えば当然の事であった。

その福原へ戻って来た平氏方を更に喜ばせる書状が、京の義仲から届いたのであった。

「しかも今回解官された法皇の近臣の連中は、我ら一門が京に居った時には、我らに媚び諂い、我らが去った後は掌を返し、源氏源氏と浮かれる様な奴らだ。自業自得だな」

一門の長老格である門脇宰相教盛[清盛の三番目の弟]が言った。

「しかも近衛基通[奇跡の脱出王]が摂関家の氏の長者から引き摺り下ろされるとは、我らを裏切り京に引き返した報いじゃ」

平大納言時忠[清盛の妻時子の兄]は言外に、ざまぁ見ろ、と言っている様である。

「しかし法皇も懲りない御人よ」

薩摩守忠度「清盛の一番下の弟]が呆れた様に呟く。
と、

「確かに。父上の権勢を目障りに思い、これを掣肘しようとした時、逆に手痛い目に遭っているのいうのに」

「結局は義仲どのも法皇の手に負える様な者では無かった、という事ですよ、兄上」

知盛が兄宗盛の言葉に付け加えた。続けて、

「とにかく我ら一門にとって京への帰還の道が開けたのです。
義仲どのも我らの旧領の返還を約束されている以上、もはや迷う必要などありますまい」

知盛は一門の公達を見渡しながら力強く告げた。
誰もが京へ戻れる事への期待をその眼に宿しつつ、大きく首肯いている。

知盛は力の込もった視線を兄宗盛に向け

「総帥。いかがです?」

「ふむ。私もその様に思う。
とにかく京へ戻る事が先決だ。
政治的な事などは帰ってしまえばどうにでもなろう。我ら一門は主上[安徳天皇]と三種の神器を奉じて一日も早く京への帰還を目指す」

総帥宗盛が宣言すると、公達及び女官・女房達が集うこの広間には、歓喜と期待と興奮が入り交じった明るい騒めきが訪れた。

皆、笑みを浮かべている。

なかには眼頭を押さえ、込み上げて来る涙と感情を抑えようとしている者まで。

総帥宗盛も幾分、眼に光るものを滲ませながら告げた。

「本日は十二月五日。
我ら一門は十五日後の十二月二十日に晴れて京に帰還する事とする。
皆はその時に備え、準備に怠りの無いように」

おおおおおっ

と公達・女官・女房・家人達が歓喜の声で一斉に応じた。

と、
「では京に帰還する時の御幸の行列の先頭は三位中将維盛どの[清盛の嫡男重盛の長男]・新三位中将資盛どの[維盛のお父さん]お二人に任せたい」

知盛は思い遣る様に小松殿家[重盛ファミリー]の二人に声を掛けると、指名された維盛は眼を大きく見開き、弟資盛と顔を見合わせている。

京を去ってからというもの維盛は鬱々と日々を過ごしていたのである。

塞ぎ込んでいる時に考える事といえば、京の事、そしてその京に残した愛する妻と子供達の事だけであり、その想いは募る一方だったのだ。
そうしているうちに弟清経の自死が更に維盛を追い詰めていた。

しかし、殆ど諦め掛けていた京への帰還が、この様に早く、しかも突然に実現しそうになるなど、この広間にいる者のうち維盛一人だけが、まさかそんな、と信じられない思いでいたのである。


が、知盛からあらためて御幸の行列の先頭を命じられた事で、維盛の胸にじわじわと、京へ戻る事が叶う、との実感が少しずつ湧いて来たのであった。


「・・・はっ・・はい!お任せを!」

溢れ出す思いと感情と闘いながら、ようやく応じた維盛に、

「六代どの「維盛の嫡子]と夜叉御前[六代の妹]が待ち侘びておる事だろう」

総帥宗盛も声を掛けると、維盛はもう応える事が出来なかった。

抑え付けていた感情が一気に噴き出し、嗚咽を堪えるのが精一杯だったからである。

「御幸の先頭!
しっかりと務めて見せます!」

感極まった兄に代わり、弟の資盛が気負って返答すると、広間に集まっていた者達の間に温かい笑いが起こっていた。




この平氏一門の決定は、すぐさま京の義仲へと報された。

そして義仲は十二月二十日の平氏一門の帰還に備え、着々と政策を打って行った。



十二月三日。
義仲は参内し、法皇に頼朝追討令を発するように要請。更に法皇の警固を厳重にする。

十二月五日。
義仲は法皇より旧平氏領を賜わる。
十二月十日。義仲、丹波国[京都府中部及び兵庫県南部]を知行する。
同日。義仲、左馬頭を辞し、従五位上に。
法皇を五条東洞院摂政亭内裏より遷し、六条西洞院に内裏を構える。

十二月一二日。
比叡山延暦寺、大衆決議を行ない、義仲との対立を解消する事を決定。

十二月一三日。
京に『義仲と平氏の和平が成立し、二十日または新年には平氏が京に帰還する』という噂が流れた。が、これは義仲が意図的に情報を流して拡散させた事により、少なくとも年内は流言蜚語がなりを潜めた事は、一定の効果があったという事だろう。

十二月一五日。
義仲は頼朝に対する牽制の為に、陸奥の鎮守府将軍藤原秀衡に、頼朝を討つよう院庁下文を下した。



こうして義仲は、二十日の平氏帰還に向けて地均しとも言える作業を行ないながら、その到着を待っていたのである。



そして待望の十二月二十日。



この日、平氏一門は京に姿を現す事は無かった。





「何!阿波[徳島県]と讃岐[香川県]の在庁官人が謀叛だと!」

「はっ!既に軍船一〇艘程に乗り込みこちらに向かって来ております!」

「畜生!昨日まで我らと轡を並べていたというのに!官人どもは主従の約定を裏切ったという事か!」

門脇宰相教盛が郎等の報告に、怒りを込めて叫ぶ。

「こんな時に!父上は先に福原へ向かって下さい!ここは」

越前三位通盛も叫ぶと、

「いや。父上と兄上こそお先に福原の主上と一門の許へ。ここは私が引き受けますよ」

能登守教経はのんびりと言い放った。

その表情には笑みすら浮かべていたが、その眼には獰猛な獣の様な危険な光が輝いていた。



十二月二十日に京への帰還を目指す平氏一門は、福原で着々とその準備を行なっていたが、それまでの本拠屋島を閉鎖する為に、門脇宰相教盛父子を派遣させていたのだが、屋島から平氏一門が去ると、それまで平氏に従っていた在庁官人らが急に掌を返し、平氏の教盛父子らに襲い掛かろうと企て、それを実行に移したのであった。

これは以前、法皇が西国諸国にばら撒いた院宣、平氏追討令を今になって決行しようと阿波と讃岐の国府に勤める在庁官人らが決起した事による。

教盛父子らが屋島での作業を終えて、四国を離れ備前国下津井[岡山県倉敷市南端。鷲羽山の西にある港。この北に水島がある]に滞在し、福原に戻ろうとしていた時、この謀叛の報せが齎されたのであった。

「良かろう。
が、お前が勝ってから儂らは福原に戻るとしよう。主上や宗盛どのに事の次第を伝えねばならんからな」

父教盛が言うと、子教経はニヤリと笑い、

「そういう事なら一人も洩らさず討ち取って見せますよ」

言い放つと、小舟を用意させてそれに乗り込むと、家人達を率い三〇艘程の小舟と共に出撃して行った。


平氏一門にその人あり、と謳われる猛将能登守教経率いる小舟の軍勢は、自分達より大型の軍船一〇艘に襲い掛かると、激しく攻め立てて程なく勝利を納めたのであった。

在庁官人らは戦端が開かれ激烈な攻撃に曝されるや、すぐに退却して行ったのであるが、その方向は四国では無く、淡路国へと逃げたのである。


在庁官人らは平氏に対して兵を挙げる前に、前もって淡路に住む源氏に話しを通していたのであった。

そこで彼らは戦いで不利に陥った時、淡路福良の港[兵庫県淡路島南部。鳴門海峡に面した港]に逃げ込み、ここにその淡路の源氏が砦を築いて平氏方を待ち受けていた。

この源氏と名乗る者達は、故六条判官源為義[義仲・頼朝・義経の祖父]の末子と自称し、加茂義嗣・淡路義久と名乗っていたが、そうであるなら頼朝の父義朝・義仲の父義賢・志田義憲・新宮行家の弟、という事になる。

しかし末っ子の行家の下に弟がいた事は確認出来無い。


という事はやはり為義の末子を自称するこの二人は、その血筋を詐称していたのであろうか。

それはともかく、在庁官人らはこの自称為義の末子二人を頼ったのである。
が、激しく追撃を掛ける能登守教経の前に砦は陥落し、一日で戦闘は終結したのであった。


平氏方が討ち取った首級は一三〇以上。
その中には加茂義嗣、淡路義久の二人も含まれていた。

どうやらこの二人は戦況が不利に陥っても逃亡する事無く、最期まで戦い抜いたのであろう。さすがは為義の末子を自称するだけの事はある。

正真正銘為義の末子である行家に、彼ら二人の爪の垢でも煎じて飲ませてやりたくなる。



局地的な戦闘は終わり、門脇宰相教盛父子は福原へと戻り、事の顛末を報告してこの一件は終わった。

この小規模な平氏に対する叛乱が、京への帰還に影響を及ぼす事無く早々に決着が着いた事に、平氏方の首脳陣は安堵していた。


そして京へ出発する予定日の二日前、またも平氏に凶報が舞い込む事となった。


「伊予[愛媛県]の河野四郎通信が安芸[広島県西部]の沼田次郎と連携し謀叛を起こしました!」

そこで平氏方は越前三位通盛を阿波国花園へ、能登守教経を讃岐の屋島へと派遣した。

すると河野通信はすぐさま安芸へ渡り、沼田次郎と合流し沼田城で平氏方を待ち受ける。

が、能登守教経は何無くこれを撃ち、河野通信は取り逃したものの沼田次郎を降伏させ、この叛乱を鎮圧したが、この立て続けに勃発した平氏に対する叛乱により、西国・西海での反平氏の機運が高まり、叛乱的な行動が活発化してしまったのである。


平氏にとっての悪夢は続く。


淡路の住人安摩六郎忠清という武士が平氏に背き、大船二艘に兵糧や武具を満載して京へと出航した、との報に接した平氏方は、今や叛乱鎮圧のスペシャリストとなった能登守教経を派遣。
これを阻止し和泉国[大阪府南西部]吹飯の浦まで追撃を敢行。

そこに紀伊国[和歌山県]の武士、園辺兵衛忠康が安摩忠清に加勢したが、能登守教経はこれを撃破。

度重なる叛乱のほぼ全てを、配下の軍勢のみで鎮圧して回っていた猛将能登守教経が福原に戻って来たのは十二月一三日の事であった。



もはや二十日に京へ帰還する、という計画は水泡に帰したのである。



平氏の首脳部としても叛乱鎮圧は能登守教経に任せ、それ以外の一門の公達らと主上が先に京へ帰還する、という考えも無い訳では無かったが、この様に西海・西国で叛乱が多発している現状では、本拠地福原を出て危険な御幸を幼い主上に強いる事など出来る筈も無かったのである。

平氏一門は確かに京への帰還を優先順位の最上位に置いていたが、それ以上に主上の安全を第一命題に掲げていた彼らには、やはり多発する叛乱の全てが平定されない限り、福原に留まらざるを得なかったのであった。



こうして十二月二十日、平氏方が京に帰還するという一門にとっての悲願は果たされる事無く、この日は過ぎ去って行った。



それは義仲の思い描いていた構想に、暗い影を落とす事となるのであった。

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