見出し画像

頼朝の信濃侵攻

〇寿永2(1183)年3月上旬ごろ
〇長野県北部?

〇頼朝十万余騎vs 義仲三千余騎

〇史実として確認できない戦いだが、吾妻鏡に清水(木曽)義高が鎌倉にいたことについて詳しい記述があり、頼朝と義仲の間でなんらかのやり取りはあったのだろう。

平家物語によると義仲が依田城(上田市)にいたところ、頼朝が10万余騎で信濃へ向かって侵攻してきた。義仲は新潟県との県境・熊坂山に陣を取る。
頼朝は善光寺に到着。戦はせず使者を介したやり取りで、頼朝が「叔父を差し出すか義高を差し出すかえらべ」と提案。義高が鎌倉に行くことになったというもの。


〇詳しい戦の展開(主に長門本による)

①叔父・源行家が頼朝に不満を抱き千騎で義仲のもとへ来る。


②甲斐源氏・武田信光が「義仲は平重盛の婿になって頼朝を討とうとしている」と頼朝に報告する。

③「外出にはよくないと暦に出ています」と老輩がいさめたが、頼朝は「先祖の奥州攻めで先手を打って勝利した前例がある。『敵が定まったらすぐ動くべき』という格言がある」といってすぐ兵を準備した。

④義仲はこれを聞いて国中の勇士を率いて新潟県に入り関山(=熊坂山)を固めた。


⑤頼朝は武田信光を先頭に武蔵・上野を通り、碓氷峠についたときには八か国の武士が集まり十万余騎になった。さらに信濃を進み、アズサ川の端に陣を取る。


⑥義仲は「頼朝と争っても平家を喜ばすだけではないか。源氏は親を討ち子を殺し同士討ちして勢いを落としてしまった。同じことの繰り返しでまた平家の世になってしまうではないか」といって頼朝と敵対するに及ばぬといって、頼朝に使者を出し書状を届けた。

そこには「頼朝は長男の流れなので大将軍と仰いでおります。次男の流れである私は平家を攻めようと思う志が深いだけです。なぜ私を攻めようとするのですか?」と書いてあった。

⑦頼朝は無視した。再び「神明に誓って義仲は申しております」と書状が届いたので頼朝は驚いて、記憶力の良い家臣二人(天野・岡崎)に自分の言葉をそのまま覚えさせて義仲に伝えさせた。

⑧「義仲が平家と結ぶと聞いたのでそれを確かめに来た。また行家の言葉を聞いて頼朝を敵視されては困るので行家を渡すか、それができないなら息子を鎌倉に渡すように」という内容だった。

⑨義仲は家臣を集めて相談したところ、滋野党の根井(佐久市)小室(小諸市)は息子の義高を頼朝へ渡すように言った。今井兼平は父・義賢の仇が頼朝の兄に殺されているのだから、親の仇ではないか。いずれ戦をすることになると思うので、今雌雄を決してしまうべきといった。

⑩義仲は「義仲は乳兄弟の意見ばかりを重視していると武将たちに思われるのは困る。」といって、義高を鎌倉に送ることにした。

⑪義高は笠懸を母や乳母に見せて安心させた。二人の使者と共に鎌倉方へ行った。


⑫義高と幸氏は道すがら和歌を詠んだ。

⑬この戦のきっかけとなった武田の話は、義仲に婚姻関係を断られた恨みから、頼朝との関係を悪くさせようと考えた虚言だった。

⑭義仲は優秀な武士の妻たちを集めて、清水義高を鎌倉へ送ったことで戦を避けた話をした。妻たちは夫が犠牲にならずに済んだのは義仲のおかげと感謝した。


■参考文献

平家物語

【覚一本・流布本】

ほぼ同じ内容で、あらすじ程度の記述。

【長門本】

とても詳しい。上記「詳しい戦のあらまし」は長門本による。

義仲の軍勢の数の記述はなし。

いつ起きたのかの具体的な日時はなく、「去比より」とのみ。

頼朝が陣を置いた川の名前が「佐樟川」とある。

【延慶本】

〇去比より(位置としては2月末の記事と4月初めの記事の間。)
長門本とほぼ同じ。⑤の川の名前の訂正、⑥・⑦、⑭の文章表現の簡略化・省略の表現から長門本を参考に後から加えたような印象
⑤佐樟川➡樟佐川あずさとルビあり※このページの川名は延慶本を参考としカタカナで記述。
⑥⑦義仲から書状は送っていないが義仲の意図をどこかから聞いている。頼朝から先に連絡が来る
⑪なし
⑭義仲のセリフ・妻たちのセリフが簡略化されている


【盛衰記】
〇同年3月のころより
さらに文章の精選が進む。⑭が②の時点で開示されている
長門本の無駄が排され、義仲のセリフも義高の行動も美しい。
頼朝は碓氷峠を越えたがすぐ帰る

②➡①➡③➡頼朝一度信濃へ入るが、すぐ戻る➡今井・樋口「富部・太井に城構えて城を構えて戦いましょう。負けるはずがない」という➡⑤➡頼朝鎌倉に帰ろうと兵を進めるが、武蔵国青鳥野で陣を取り、天野・岡崎を呼び、使いを出す➡⑧・⑨「この冠者とは今井四郎兼平が妹の腹なりけり。されば木曾が乳人子を思うて儲けたる子、生年11にぞなりける」とある➡⑩⑪➡⑭

※義高の母について書かれているのは盛衰記のみ。巴とは書かれていない。