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①天の声

私は征東大将軍木曽義仲!

 義仲館を入ると、あでやかな鎧姿の義仲と巴がまず目に入ります。旧義仲館から引き継がれた展示です。
 リニューアルオープンにあたり、義仲からの挨拶が聞けるようになりました。そこで木曽義仲を知っている人は「なんで義仲は征東大将軍になったと言っているんだろう?」と思うかもしれません。
 実は木曽義仲が征夷大将軍なのか、征東大将軍は長い間歴史学の議題の一つで、それが最近になって当時の文献が発見され、結論付けられたのです。


「征夷大将軍」といえば?

 あなたは「征夷大将軍になった人の名をあげてください」と言われたら誰を思い浮かべますか?

徳川家康

徳川慶喜

足利義満

足利尊氏

源頼朝

 みんな社会の教科書で太字の人たちです。それぞれ史料も豊富に残り、征夷大将軍であることは疑いありません。


 木曽義仲も、平家物語の中では征夷大将軍になっています。

 しかし、同時代を生きた九条兼実の日記では「征東大将軍」と書かれていたのです。

貴族の中でも大変位が高かった九条兼実の日記は、長い間多くの人が読むことができない貴重なものでした。そのため平家物語の「木曽義仲は征夷大将軍になった」という内容が江戸時代まで人々の共通認識でした。

 また、江戸時代の一番偉い人は武士の頂点「将軍様」。「征夷大将軍」です。

義仲が後白河法皇のもとに集まった貴族や武士と法住寺合戦で戦い、勝利して政治を握ったのだから「征夷大将軍」になったに決まっている…と疑問に思う人もいませんでした。

しかし、「征夷大将軍」というのは鎌倉幕府で源頼朝が任じられるまで、大変に珍しい官職だったのです。


征夷大将軍ってどんな仕事?

という字をつかう熟語を思い浮かべてみると「遠征」「征服」などがあることに気が付きます。遠くに攻めていくような雰囲気のある漢字ですね。

という字は現在はあまり使いませんが、歴史好きの人なら「尊王攘夷」という四字熟語が浮かぶかもしれません。「尊王攘夷」は幕末に流行した思想で「天皇制を復活させて、外国人を追い払う」というものです。夷は外国人・日本国に害をなす野蛮人というような意味があります。かつては東北から北に住んでいて、日本国の朝廷に従わない人たちを荒夷(あらえびす)と呼んだこともありました。

「征夷大将軍」が源頼朝より前に使われ、最も有名なのが奈良時代末期の792年に任じられた坂上田村麻呂です。まさしく東北に進軍して、朝廷に抵抗し独立国のようになっていた蝦夷を従属させる戦果をあげました。東北は朝廷と対立しなくなったため「征夷」は必要なくなり、征夷大将軍の名称も長い間使われませんでした。

その後平安時代には940年に平将門の乱という大きな戦がありましたが、将門は関東地方で挙兵したため、追討するための司令官も「征夷」ではなく「征東大将軍」でした。関東のことを「東国」というからです。


奈良時代に定められた「大将軍」の官位

 つまり「征夷大将軍」が一まとまりの言葉として意味を持って使われだしたのは、鎌倉幕府からで、本来官位として重要なのは「大将軍」のほうだったのです。

「大将軍」は大きな戦の際に大軍を率いる司令官として、将軍の上に置かれる特別職で、奈良時代の政治・律令制度で定められ、征服する相手によって「征夷」「征東」「征隼人」などが使い分けられました。

義仲が「征東大将軍」だったというと、「征夷大将軍の頼朝より偉くないのか」と残念な声が聞かれますが、征服する行先が違うだけで、どちらも「大将軍」です。

なぜ義仲が「征夷」でなかったのかは、関東の頼朝を追討することを目的とし、東北の奥州藤原氏は追討の範囲でないことを明確にするためだったのかもしれません。