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その時 木曽殿の動きは #13

解説
C O M E N T A R Y

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大河ドラマ「鎌倉殿の13人」に合わせ義仲陣営を「説明」
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【監修】義仲館P 西川かおり

源頼朝の信濃侵攻と義高の鎌倉行き

 大河ドラマでは北条義時らが信濃を訪ねてくる展開になっていましたが、平家物語では頼朝が軍を率いてやってきたことになっています。
 ただ、その年の記述が抜け落ちている吾妻鏡はもとより、同時代の史料では確認することができず、実際に起きた出来事なのか、またその規模などはわかりません。


↓ 平家物語諸本を検討した詳細はこちらの別ページにまとめてあります。


1 二人の叔父が義仲のもとへ

 大河ドラマでは登場人物に限りがあるためか省略されていますが、源行家だけが木曽義仲のもとに来たのではなく、茨城県に本拠地を持つ志田義広という叔父も一緒でした。
 志田義広は義仲の父・義賢が帯刀先生を辞めたあと、その位についたようで、志田先生義広とも呼ばれます。しかし、都での生活に早々に見切りをつけ、茨城県稲敷市の志田に本拠地を構え移住していました。保元・平治の乱にも参加しなかったようです。あくまで地元密着で静かに過ごしていた義広ですが、以仁王の令旨を源行家にデリバリーされてから源平合戦に巻き込まれていきます。
 吾妻鏡によると、志田義広は頼朝が勢力を拡大するのを良しとせず、それを攻めるために兵をあげたように書かれています。野木宮合戦と呼ばれ、頼朝に調略されていた小山氏に敗北してしまいます。しかしこの合戦は起きた時期、そのきっかけなど歴史学者の間で見解が分かれ、はっきりしない戦いです。また、義広が義仲の父・義賢と親しかったととらえて、義仲と早いうちから連合していたという仮説もあります。
 そのあたりも今回大河ドラマに義広が登場しない理由かもしれません。

2 義高の鎌倉行きをめぐり行われた「会議」 

 義仲の子・義高の鎌倉行きをめぐっては、義仲軍勢の意見は分かれたため会議の場が設けられました。「どうせいつか戦うことになるんだから、今戦えばいい」と「義高を鎌倉に送ったほうがよい」という激論が交わされました。

 「どうせいつか…」は義仲の乳兄弟・今井兼平から
 「鎌倉に送るべき」は滋野一族(特に小室光兼)から

それぞれ出されたものです。
 義仲は「今井は乳兄弟でつきあいが長く、小室は新たに軍に加わった者だ。義仲が古参を尊重し、新参を軽視すると誤解されては困る」と小室の意見を取ったとされています。その結果、義仲軍に加わったばかりの北陸武士まで「義仲様は自分たちの意見もきちんと聞いてくれる」と感動したようです。
 しかし、この滋野一族は新参かというと、そうでもないのです。
 義仲の本拠地・木曽町日義地区にある中原兼遠の菩提寺林昌寺の伝承によると、義仲の妻が海野氏だったと書かれています。海野氏は滋野一族です。
 義高の母が誰かは、源平盛衰記にすらはっきり書かれていないためわかりませんが、海野氏の娘は有力候補の一人です。また義高に乳兄弟のように身近に使えた従者は海野幸氏で、少なくとも義高の成育にあたって海野氏=滋野一族が深い関係があったことは確かでしょう。
 だとすると、滋野一族は義仲のために、敢えて身内を鎌倉に送る決断をしたとも言えます。


略年譜

H I S T R Y
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義仲をたどる
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久寿元年(1154年) 誕生

久寿2年(1155年)8月16日
大蔵合戦で父を討たれ、信濃へ

〇中原兼遠に養育される


保元元年(1156年)7月11日 保元の乱
海野ら信濃武士団は後白河法皇方(源義朝・平清盛など)に参戦
平正弘は敵対する崇徳上皇方(源為義など)に参戦

平治元年(1160年)12月9日 平治の乱
ほとんどの信濃武士が参戦せず

●仁安元年(1166年) 元  服

〇諏訪社に婿入りし娘が生まれる

〇承安3年(1173年)?
嫡男・義高生まれる
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治承3年(1179年)
仁科氏・覚園寺(大町市)千手観音開眼供養
善光寺(長野市)炎上
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治承4年 (1180年)
4月
以仁王の挙兵

 9月7日
市原の合戦


義仲依田城(上田市)へ

9月11日
菅冠者自刃

10月13日
義仲上野国へ。上野国府周辺の混乱をおさめ、
父・義賢の家臣を味方に加える。
その際に様々な武士への安堵状を作成したのか、
北信濃の武士・藤原資弘への下文が現存する

12月24日
義仲信濃へ戻る


養和元年(1181)年

4月15日
義仲、笠原行連に安堵下文発給

6月13・14日
横田河原の合戦

養和の飢饉が起こり、源平合戦は一時中断
義仲軍では北陸武士が城を作り守りを固める

寿永二(1183)年
3月
頼朝の信濃侵攻

4月
北陸追討軍発進
燧合戦