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義仲戦記50「運命の日 破」

“一月十八日。

行家討伐軍。
河内長野石川城を陥落させ石川判官代蔵人家光を討ち取る。
が、新宮行家の逃亡を宥し、現在、紀伊國名草へ向け追撃中。軍勢一〇〇〇騎は無事。”


“本日二十日。

宇治方面軍壊滅。
第二軍大将長瀬判官代義員・第三軍大将楯親忠・第四軍大将及び搦手総大将根井小弥太行忠討死。

関東勢搦手二万五〇〇〇騎は宇治川を渡河し現在、京に向け北進中。既に木幡・伏見まで侵攻。”


“本日二十日。

勢多方面軍壊滅。
第五軍大将志田三郎先生義憲・山本義経討死。
第六軍大将及び大手総大将今井兼平、現在その消息を掴めず安否・行方共に不明。
関東勢大手三万五〇〇〇騎は瀬田川を渡河し現在、京に向け西進中。既に追分を越え山科まで侵攻。”



続々と齎される情報は全て耳を塞ぎたくなる様な凶報か、それに近い内容であった。

唯一、行家討伐軍だけがある程度の戦果を上げてはいたが、それにしたところでこの一〇〇〇騎の軍勢が京から離れた紀伊國へ向かっている事は、やはり義仲にとっては一つの凶報と言えたのである。

そして幾ら行家を追い落とし、平氏方の御幸が再開され京への帰還が成ったとしても、今日の差し迫った危機には到底、間に合わないのである。
もはや宇治方面、勢多方面の防衛線が破られた以上、京が戦場と化してしまうのは時間の問題であった。


事ここに至り、義仲の希望はその殆どが絶たれた事となったのである。


義仲に残された希望は三つ。
一つは、京を戦乱に巻き込まない事。
一つは、平氏をこの戦いに巻き込まない事。
そして最後の一つは・・・・・



「皆は馬を用意し、いつでも出陣出来る態勢を整えていてくれ」


ここ三日程、独りで私室に籠る事が多く、偶に顔を見せたとしても、その表情には厳しさと沈痛さが漂い、何かを懸命に耐えているかの様な張り詰めた雰囲気を纏っていた義仲だったのである。

更に今日になって先の凶報を立て続けに聞かされた後、その顔には血の気が失せ、正に蒼白と言って良い程の顔色になり、僅かに朱が差しているのはその唇のみという、壮絶なまでに綺麗で、また手を触れた途端、罅が入り崩れ去ってしまうかの様な儚さと相まって、一種異様な程の凄絶な美しさを放出させ、近寄り難い雰囲気を醸し出していた義仲であったが、ようやく今は落ち着きを取り戻し、普段通りの穏やかさで告げたのであった。


六条西洞院御所に残っている諸将達が最も驚いた事は、次々と凶報か舞い込むにつれ、義仲はその本来の落ち着きと穏やかさを少しずつ取り戻して行った事であった。

追い詰められ、希望が一つ一つ絶たれて行くと共に、義仲は義仲らしさを増して行き、逆に言うと、苦難が、危機が彼を見舞う毎に、恰も彼は彼だけが持つ光を輝かせて行く様であった。

その苦難を我がものとし、苦難を苦難と捉えず、さらりと乗り越えているかの様な義仲に、麾下の武将達は瞠目していたのである。


これが義仲という人間が持つ靭さなのであった。


しかしこの比類ない靭さと限り無い優しさの両方を併せ持つ義仲の心は、傍目から見る程、落ち着いていた訳では決して無い。



当然だ。



義仲はその信頼する四天王や股肱の武将達に出陣を命じ、その結果、立て続けに五人もの大将と出撃させた四〇〇〇騎以上もの将兵とを共に喪い、あとの一人の大将は安否も行方も不明なのである。

義仲の心の中には後悔や自責の念、そして埋めようの無い空虚感が渦巻き、荒れ狂っていたのであった。

だが義仲はその千々に乱れた思いや感情に翻弄される事無く、立ち止まる事をせずに、一歩を踏み出したのである。

大鎧を纏い、太刀を帯び、矢を背負って、兜を脇に抱えた義仲は、そのまま武将達をそこに残すと広間を出て行く。


「義仲様。いずこへ?」


追い縋る那波広純が声を掛ける。

と、
「挨拶だよ。お暇の」

軽く振り向き義仲は横顔で答えた。

その眼には何の感情も表れてはいなかったが、口許には笑みが浮かんでいた。




義仲がそこに足を踏み入れると、その場に居た者らはまるで鬼か死神が己れの許にやって来た様な、怖れと不安の入り混じった眼で、入って来た武将を見上げていた。

義仲はその中心まで進み、着座すると丁重に深々と平伏した。

「朝日将軍よ。いよいよ儂を連れ去りに来たのか」

既に巻き上げられていた御簾の下から後白河法皇がその自慢の声を掛ける。
それを聴いた居並ぶ女官や僧形の近習らは息を呑んだ。


遂に来るべきものが来た、との緊張感が皆の身体を固くしていた。


近日来、京や六条西洞院御所内裏に於いて、ある噂が猛威を極め、人々の口に上っていた。
それは今まで何度も流布しては、その都度、消えて行った。

『義仲は法皇を連れ去ろうとしている。北陸へ。いや近江へ。
いやいや西海の平氏の許へと』

といういつもの変わり映えしない内容のもので、関東勢が京に迫って来るに従ってこの噂は、恰も真実のものとして法皇や近習、女官、或いは公卿らや貴族に受け止められ語られていたのであった。

である以上、義仲が内裏殿上の間に姿を現した時、彼らは義仲を不吉な何かの使いと思い込み、怖れを抱いた眼を向けたのである。

その中には丹後局もいた。
彼女はその美しい切長の眼に幾分の余裕と大部分の嫌悪を表出させて、じっと義仲を見据えていた。

と、平伏している義仲の肩が震えている事に丹後局は気付き、ほんの僅か眉を顰めて義仲を見続けていると、少しずつ義仲が上体を起こし顔を見せた時、

「ははははは!
いや失礼した。まこと宮廷という所は噂や流言というものを真実の事と思い込む悪い癖がお有りと見える」

大笑いしている義仲を一同はぽかんと眺めていた。
他でも無い丹後局も口を開けたまま、袖で口許を覆う事を忘れ、唖然としている。

と、
「ほほぉ。愉しそうだな、朝日将軍よ」

義仲の様子に興味を持ったのか、法皇は身を乗り出して尋ねた。

「前々から幾度となく申し上げていた通り、私は法皇陛下を北陸や近江や西海へなどにお連れするつもりはありませんし、その様な事を考えた事もありません。それとも」

義仲は当然の事、と言わんばかりに答えると、破顔したままの笑顔で、


「陛下はいずこかへ行幸なさりたいので?」


冗談めいて逆に問い掛ける。

「ふむ。そう言われると行っても良い様な気もして来るが」

いつの間にか法皇も半分本気で愉しげに会話を続けた。

すると、
「御冗談を。陛下のお守りなどこちらからお断り致します」

邪気の無い笑顔で、さらりと義仲は不敬な事を口にした。


「はっはっはっ!儂ほど行儀のよい者はおらんというのに!
しかし朝日将軍の申す事もあながち外れてはおらんぞ。
儂の周りに居る者らの中にも時折、お守りなど真っ平、と
顔に書いてある者も居るからな!はっはっはっ!」

法皇が実に愉しげに大笑いしている。


その二人の遣り取りを一同は呆気に取られて眺めているしか無かった。


「お暇を申し上げに参りましたが、いつまでもこうしてはいられません。
もうすぐ関東勢が来る頃合いでしょう。
では法皇陛下。いつまでも御健勝で」

義仲は一方的に挨拶を済ませると、さっと風の様に殿上の間から去って行った。
皆、呆気に取られて口を利く事も出来ずに、ただ事の成り行きを眺めている事しか出来なかった。

それは丹後局とて同じであった。


(・・・嘘でしょ?・・・何なの・・・あの男・・・)


丹後局は最後まで義仲を理解出来なかった。
ただ義仲の人間としての大きさに圧倒され、度肝を抜かれていたのである。

丹後局は法皇と共に京から連れ去られる、という最悪の事態が回避された事に思い至る事無く、ただ茫然と義仲の去った方向を見続けていた。



「やっぱり法皇を連れ出さないんすね。今が好機なのになぁ」
庭に面した回廊に出た義仲を、ぼやき声が迎えた。
大夫坊覚明である。

覚明は義仲に近づきながら、

「法皇と主上[後鳥羽天皇]を北陸に連れ去ってしまえば、三国志ごっこをこの国で演じる事も出来ますよ?どうです?
考え直しちゃくれませんかねぇ」

セリフの割には真剣な眼で迫る。

「天下三分の計、か。それで戦乱が治まるのならそうしても良いが。
戦乱の世が続いてしまう様な事を私がすると思うか?」

義仲もセリフの割には笑顔で問い返すと、覚明は、はぁ〜〜と大きく溜め息を吐き肩を落とす。

「なら、俺はここで降らさせて貰います。俺は武士じゃ無く坊主なんで、あるじと命運を共に、なンてのはガラじゃ無いし、ゴメンですから」

よっ、と勢いを付けて覚明は庭に飛び降りると、かしゃんと手に持った錫杖が透き通る様な高く軽い音が鳴り響く。


くるりと覚明は振り返り、束の間じっと義仲を見詰めると、


「世話ンなりました。この・・・・・」


小さい声で呟き、ぺこりと頭を下げると、もう振り返る事無く義仲の許を去って行く。

義仲は無言で、立ち去る祐筆の後ろ姿を見ながら、聴き取り難かった彼のつぶやき声を思い返していた。


覚明はこう呟いたのである。


世話ンなりました。この次は来世でお逢いする事になるでしょう。
それを愉しみにしております。と。




「どうしても行かれる、と仰るのですか」

「その通りです。伊子どの」

「それでも行かせない、と言ったら?」

伊子姫は既に義仲に取り縋ってはいなかった。
彼女は出て行こうとする彼の前に立ちはだかり、両手を広げている。

その広げられた両手の袖が長く垂れ下がり、それはまるで雅で高貴な錦の織物で拵えた、絢爛な門扉の様であった。



法皇にお暇を申し上げ、覚明が去った後、六条西洞院御所を退去した義仲とその麾下の武将達の率いる二〇〇騎は、同じ六条の高倉万里小路の松殿基房の邸に最後の挨拶に立ち寄っていたのであった。

「・・・そうか。京を去る決断をなされたのだな・・・」

松殿基房が暗い顔で眼を伏せて力無く言う。

「はい。このまま私が京に留まれば、この京を戦乱に巻き込む事となりましょう。そうなれば私は私の願いを、わたし自身が裏切ってしまう事となります」

義仲は穏やかに答えた。

「そうするしか無い、という事か・・・私の願いもここまでらしい・・・」

自嘲の笑みを浮かべて松殿基房が呟く。

と、
「その様な事は私がさせませんわ」

いつの間に室に入って来たのか、松殿基房御自慢の娘、伊子姫が決然と告げた。

「これっ!伊子!」

松殿基房が叱る様に声を掛けるのを義仲は制し、この上無く優しく声を掛ける。


「突然の事で驚かれるのは当然の事。後程、御別れの御挨拶に伺おうと思っておりましたが、聴かれておられたのなら話しは早い。
私はこれより京を去ります」

「その様に仰らないで下さい。父上がどの様にでもお力になりましょう。
京にお留まりを」

伊子姫は義仲の傍らに跪坐くと、義仲の左手を両手で包み込む様に握り、義仲の眼を、その流麗な瞳で覗き込む様に、じっと見詰めた。

「そう仰っていただけた事は嬉しいのですが、私は京に留まるつもりはありません。御許しを」

義仲はそっと伊子姫の手に自分の右手を重ね、詫びると同時に伊子姫の両手から、すっと左手を抜くと共に右手を離した。

伊子姫は義仲の視線から眼を逸らす事無く、

「どうしても行かれる、と仰るのですか」

「その通りです。伊子どの」

「それでも行かせない、と言ったら?」

伊子姫が義仲の前に立ちはだかっていた。






「敵関東勢は既に京に雪崩れ込んで来たであろうに!
しかし義仲様は動こうとせん!都に留まるおつもりなのか!
それともただ敵に討たれるのを待つという事なのか!!」

六条高倉万里小路松殿基房の邸の門内で、ひたすら義仲が出て来るのを待っている諸将達の中で、遂に越後中太能景が不安を爆発させた。

待つ、という事が苦手な者にとっては苦行に等しかったが、敵が、それも数万という大軍勢が刻一刻とその包囲の輪を狭めている状況とあっては、じわじわと真綿で首を締められる様な焦りと苛立ちが募り、将兵達の焦燥感は頂点を極めようとしていたのである。

「このままでは犬死にだ!であれば!」

越後中太能景は叫びながら腰刀を引き抜き、己れの鎧の胴先の緒[胴の合わせ目を結んで居る紐]を解くと、僚友達が止める間も無く、一気に己れの腹に腰刀を突き入れ、腹を掻き斬ったのである。


「能景!!」


津幡隆家が僚友の名を叫びつつ駆け寄ると、

「・・・私は・・・義仲様が・・・犬死にするところなど・・・見たくは無い・・・であれば・・・死出の山で・・・お待ち申し上げる・・・と・・・お伝え・・・して・・・・・」

能景は今際の際にそう言い遺して逝った。



義仲は伊子姫の両の瞳を静かに見続けていたが、行かせまい、とするその精一杯の真剣さを帯びた眼の縁に、じわりと光るものが滲み出した時、


「有難う、伊子どの。今の私にはその御言葉だけで充分です」

優しく告げながら伊子姫の頭に手を置き、その美しく長い髪を愛おしそうに撫でる。

と、伊子姫の中に張り詰めていた何かがこの時、一気に崩れ、姫はその場にすとん、と腰が砕けた様に座り込むと、義仲の顔を見上げたまま、滂沱の涙を零している。


姫も、これ以後の京の政局の中で父基房が、朝廷の公卿らや貴族社会を相手に義仲を護り抜いて行く事など不可能である事くらい重々承知していたのである。


だが、それを理解してしている事と、自分の気持ちは別なのだ。
姫は自分が我が儘を言っている事を自覚している。
だが、その駄々を捏ねるにも潮時があり、いつまでも駄々を捏ね続ける事が出来ない事もまた、当然理解していたのである。



そして姫はこの時、諦めたのだ。
自分の願望が果たされる事は無い、と。



義仲は跪坐き、もう一度だけ伊子姫の頭を優しく撫でつつ、

「末永く御健勝で。では」

その涙に潤む姫の眼に、じっと感謝の想いを込めた視線を注ぎつつ最後の言葉を掛け、すっと立ち上がり基房と伊子姫に深々と頭を下げると、静かにそこに出て行った。


伊子姫は滲む視界の中で、去り行く義仲の後ろ姿を無力感と共に眺めている毎しか出来なかった。
しかし、その口からは彼女の心の叫びが洩れ出て、義仲ぎ去った後も繰り返し繰り返し囁いていた。



「・・・行かないで・・・義仲様・・・行っては駄目・・・」
と。







「そうか・・・中太能景がその様にな・・・」

邸内から出て来た義仲を迎えたのは、能景の自害して果てた姿であった。
事情を隆家から聞かされると、義仲は死者に黙祷を捧げた後、兜を被り緒を顎の下で締めながら、

「私にはもう一つだけしておかなければならない事がある。
それを津幡隆家・落合兼行の両名に頼みたい」

言うと、指名された二人は義仲の許に駆け寄る。

義仲は引かれて来た馬に跨がると、

「他ならぬ平氏方の事だ。
彼らに京の現状と関東勢の動向を報せ、直ちに上洛の御幸を中止し、福原へと戻るよう伝えて欲しい。
でなければ関東勢と平氏方がこの京で衝突する事もあり得る。
それと、京で待つという約束を果たす事が出来ず申し訳ない、と」
命じた。


「・・・そいつは俺にもう付いて来なくて良い、戦わずに命を永らえよ、って言ってるんですか?」

低く、それでいて怒気の孕んだ呻き声が隆家の口から発せられた。

「・・・俺の念願は最後の最期まで義仲様の許で戦い、その眼前で斃れる事・・・それが叶わんのなら、俺は初めて命令に背きますよ。どうやら俺の運もここで尽き果てたらしい・・・」

隆家はにやりと哀しげに笑みを浮かべると、

「なら俺は俺で意地を通させていただきます!
共に戦う事が叶わんのなら!」

右手で太刀を引き抜いた隆家は、太刀を己れの頸筋に当て、左手を太刀の峰に掛けると、義仲に視線を送りながら一気に己れの首を掻き斬った。
噴き出した血が辺りに飛び散り、その出血の勢いに押された様に隆家の身体が崩れ落ちる。

即死だった。

義仲以下、諸将達は眼を見開き、この激しい気性と一途な忠誠の心を併せ持った加賀の武将の生き様、死に様を眼の当たりにした。
誰もが無言でその激し過ぎ、急ぎ過ぎた隆家の死に圧倒されていた。

と、
「・・・命令に背くにその一命を持って償うとは・・・隆家は私に、戦え、と言ったのだろう・・・大将らしく・・・武将らしく、と・・・私を励まし、前へ進め、と・・・」
義仲が呟く。


「その様に思われます。私とて津幡どのと思いは同じですから」

落合兼行が責める様な眼で義仲を見据え、口にした。

落合も今更、義仲の許を離れるなど、幾らあるじの命令だからと言って、頷けるものでは無い、との思いをその眼で語っている。
この様な者達を麾下に迎えられた事は、義仲にとって最大の宝であり、誇りであった。

その麾下の諸将達の想いが解らない義仲では無い。

が、義仲は己れの希望を達成する為には、ここで譲る訳にはいかなかった。


「京を戦乱に巻き込まぬ為には、こうするしか無い。
お前の気持ちも判るが、それを今、聞き入れる事は出来ない」

義仲は冷たく言い放つと、落合から視線を外し、

「この命令が聞けぬ、というのであれば、今すぐここから立ち去るが良い!
事の軽重を弁えぬ者など、もはや私の麾下の武将では無い!そう心得よ!」

厳しく告げた。



この様に部下に厳しく当たる義仲を初めて眼にする諸将達は驚きの表情で唖然として遣り取りを見守っていた。


すると珍しく口惜しそうな表情を隠す事無く、落合は叱られた者の様に押し黙っていたが、

「・・・解りました
・・・命令に従い平氏方へ使者として赴く事と致します・・・」

絞り出す様にそれだけ言うと、眼を伏せたまま馬の向きを変え、邸の門へと向かう。


義仲は、側に控えている巴御前こと戦う美少女に眼配せすると、戦う美少女は優しく首肯き、落合の馬の横へ並べる様に馬を付けると、落合の耳元に口を寄せて、誰にも聴こえない様に囁いた。

「義仲様からの伝言よ。宮菊の事はお前に託した。
これは義理の兄からの言葉と思って欲しい。と」


巴の言葉に弾かれた様に顔を上げた落合は、眼を大きく見開いて呟く。


「・・・姉上・・・そ・それは・・・」

「義仲様は兼行の宮菊さまに対する想いを解っていらっしゃるわ。
だから貴方に託すの。唯一人の妹を、その妹を愛してくれた者に」


巴は優しく暖かく弟に向かって告げる。
兼行は思わず振り返った。


その眼に、自分の敬愛するあるじであり、また自分の愛する者の実の兄の姿が飛び込んで来る。

その者は兼行の視線を受け止めると破顔し、その笑顔のまま大きく首肯いて見せた。
その笑顔を見た兼行は突然、胸が詰まり、目頭が熱くなるのを感じた。


「さ。お行きなさい」

戦う美少女に肩を叩かれ促された兼行は、もう一度、振り返り馬上で一礼すると、郎等を二騎引き連れ、そのまま門から駆け出して行った。
兼行が深々と一礼した時、その下げた横顔に陽の光が反射し、きらりと小さく光るものがその瞼から零れ落ちたのを、義仲は眩しげに見詰めていた。





「義仲め・・・先程、高言した事はやはり嘘であったか
・・・これだから武士などという者は信用出来ん・・・」


震え上がりつつ呪詛の言葉を呟いている大善大夫業忠は、六条西洞院御所の東側の土塀の上にしがみ付き、騎馬武者の一団が白い旗を掲げてこちらに向かって来るのを、恐れと共に見ていたが、恐怖の余り足を滑らせて土塀から転がり落ちると、強かに腰を地面に打ち付け、悶絶しながら内裏に辿り着くと、

「よ、義仲が!舞い戻って御座います!
先程申していた事は嘘で御座いました!義仲が戻って参ります!」

焦りまくって報せた。


義仲が御所を去った後、護衛の兵すら居なくなった事に不安を感じていた法皇や近習・女官らは、この六条西洞院の邸の元の住人である大善大夫業忠に命じて、御所の外を見張らせていたのであった。

その業忠が真っ青な顔で内裏に駆け付けて報告すると、法皇を始め近習女官らは、またも不安のどん底に叩き込まれたかの様に騒ぎ始めていた。

一度は助かったものと安心していた事で、言わば不意を突かれた形となり、その不安と恐怖は増していたのである。


内裏殿上の間が騒然となっていた時。

どんどんどん!
と御所の門扉が激しく叩かれると、
ぴた、と殿上の間の騒ぎが瞬時に収まり、
法皇・近習・女官らは息を潜めて固唾を飲んで耳をすませた。




「私は鎌倉から遣わされた前兵衛佐頼朝の舎弟大将軍源九郎冠者義経!
謀叛人義仲を討伐する為!六万余騎で上洛し只今駆け付けた次第に御座います!何よりも先ず御所におられる法皇陛下を御護りする為!
馳せ参じて御座います!御開門を!」


門外からこの声が届くと、内裏に集っていた者らは狂喜し、法皇が命じる前に御所の門を開くと、関東から上洛した武将の一団を御所に招き入れた。

先程までの不安と恐怖の反動からか、殿上の間に集っている者らの安堵と歓喜は尋常なものでは無く、不安から解放された彼らの様は、まるで浮かれたお祭り騒ぎの様相を呈していたが、過去にこの様な修羅場を幾度も脱して来た経験を持つ法皇は逸早く我に返ると、中門の格子窓から御所に参内して来た関東勢の武将らに対し、



「頼もしき者達である。皆、名乗らせるが良い」



と近習に命じると、再び義経が名乗った後、続けて安田三郎義定、畠山庄司次郎重忠、梶原源太景季[頼朝の腹心平三景時の嫡男]、佐々木四郎高綱[近江の武将]、渋谷右馬允重資[相模の武将]らが高らかに名乗りを上げたのであった。


が、ここに安田義定という武将がいる。
この男は甲斐源氏で富士川の戦いの後、頼朝から遠江国[静岡県]の守護に任じられていたが、義仲が上洛するとの情報に接すると、その尻馬に乗り遅れぬように自らも兵を率い京を目指し、その道すがら行家の軍勢と行き合い、行家と共に義仲勢の勢いに便乗して京入りを果たすと、朝廷より遠江守を認められるという実に時流に乗る事に長けた男なのである。

そして己れの地位が朝廷から認められるや、オレの目的は達した、と言わんばかりに京の義仲の許を離れると関東に帰り、何事も無かったかの様にしゃあしゃあと再び頼朝の前に顔を出し、今、こうして関東勢の一員としてその軍勢に名を連ねていたのである。


彼はこの半年の間に二度も上洛した事になる。

一度目は新宮行家と共に、義仲勢の一員として。
二度目は九郎冠者義経を戴き、関東勢の一員として。

機を見るに敏な男ではあるが、こうした見境いの無い行動を笑って許してくれる程、頼朝という政治家は甘くは無い。

安田義定はその後、建久四年「一一九三]に嫡子の義資が頼朝の勘気を被り梟首されると、その所領を全て没収され、その翌年に謀叛の疑いを掛けられ誅殺されてしまう、という運命が彼を襲う事になる。

それはこの年から丁度、十年後の事である。

それはさて置き、法皇は危機を脱した事で早速、次の政治的行動に移っていた。鎌倉の頼朝に対する牽制として九郎義経を抱き込み、来たる日に頼朝に対する刃としてこの若者を利用しようという、実にこの法皇らしい考えを実行に移す事にしたのである。

義仲に対する行家や頼朝、そして頼朝に対する義経、といった具合に。

そして法皇は九郎義経を特別に、殿上の間に面する広廂[ひろびさし]と呼ばれる部屋に召すと、直接この度の合戦の経過を聴き取ったのである。

それだけの事で義経は有頂天となり、自分は特別な存在である、との以前からの思い込みを補強され、法皇に承認欲求を満たされた事で、以後、後白河法皇の忠実なコマとして使われてしまう事になるが、この若者はその短い生涯に於いて、この冷厳な政略と悪意に気付く事は無かったのである。

ともあれ、こうして聴き取りを終えた法皇は更にこの若者に対し、


「九郎義経よ。実に殊勝で感心な事である。其方に特別に命ずる。
今夜はこの仙洞御所[上皇や法皇の御所を仙境に例えて言う]に詰め、四方の門の守護に当たるが良い」

これもまた直接、御所の守護を命じられると、それを正式な書面にして、院宣もしくは勅定「天皇・上皇・法皇の御考え。方針]として義経に与えたのである。

こうする事が帰属意識の強い若者の自尊心をくすぐり、満足させる手段であると熟知している法皇は、こうした効果的でありながらも姑息な遣り方を選んだ。

そして義経は当然、特別な自分に相応しい事として、この命令を受け入れ、御所の警備任務に当たる事となった。


今回の出陣に於ける最大にして唯一の標的である義仲の討伐を忘れたかの様に。


程無く、関東の軍勢が続々と御所に集まり、その数は一万騎を越えようとしていた。だが、御所を離れる事が出来無い義経は大将軍として、ただ命じれば良いのである。


「謀叛人義仲を討ち。その首を持ち帰れ」と。


こうして義仲の追討・討伐は関東勢の他の武将らに託される事となり、義経以外の武将らは郎等と兵を引き連れ、御所から駆け出していった。
簡単勢は本格的な追撃に撃って出る事になったのである。

彼らはさながら解き放たれた猟犬の様に、確実にその獲物の気配を嗅ぎ分け、その居場所を求めて狩りに出た。


獲物をその牙に掛ける為に。










「おそらくこれが私にとっても其方達にとっても最後の出陣となろう!
京には既に敵が充満し、我らと見れば襲い掛かって来る!
それでも最期まで私に付いて来てくれるか!」


「「「ぅおおおおおっ!!!」」」


義仲の号令に怒号の様な雄叫びで応じた第七軍は、遂に六条高倉万里小路の邸の門から出撃した。
その数はおよそ二〇〇騎。
彼らは果敢に撃って出た。

だが、彼らの真の敵は迫り来る幾万の関東勢では無い。
真の敵は彼らを待つ運命であり、その運命に対し最期まで剛然と抗う為に。
当代最強の令名を恣にした義仲勢は、ここに最後の出陣を敢行したのであった。