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義仲戦記6「頼朝信濃侵攻」1183年3月

↑ テーマソング「夜明けの将軍」


「それはいけません!義仲様」

一歩も退かない気持ちで今井四郎兼平が言った。

「兼平の申す通りです。殿。
これは我らにとって好機なのです。頼朝とはいつか必ず雌雄を決する時が来たでしょう。それが少し早まっただけの事です。迷う事はありません」

大夫坊覚明も強い口調で言う。

「第一、義仲様は敵の頼朝勢を信濃[長野県]の奥深くに誘い込む為に、ここ熊坂山[長野、新潟県境にある山]に陣を構えているのではないのですか」
楯六郎親忠が言った。

「それは最悪、戦さになった時の事を考えてここまで引いて来ただけの事だ。こちらから撃って出るつもりは無い」
と、義仲は断固として言った。

越後国と信濃国の境に近い熊坂山の義仲軍本陣。
義仲をはじめ、四天王の今井兼平、樋口兼光[兼光の兄]、根井小弥太、楯親忠[小弥太の弟]や、巴御前、手塚光盛、覚明ら、義仲勢の主だった武将達が勢揃いし、対応策を協議していた。

それは義仲も想定していた事ではあった。が、いざその時が来てみると、やはり暗澹たる気分にならざるを得ない。どうやら今現在、頼朝にとっては平氏よりも、同じ源氏である義仲の方が目障りであるらしい。



考えてみれば当然の事かも知れない。
源平の戦いと言うが、伊勢平氏が仲間割れなどせずに、常に一族一つになって行動しているのに対し、河内源氏はこの時点で、二つの勢力に分かれているのである。関東の頼朝勢と信濃、上野[群馬県]、北陸の義仲勢の二つである。

元々、河内源氏は代々一族内でのゴタゴタが多く、親子、兄弟、同族でのツブし合いを平気で行なってきた家系ではあるが、平家を倒すという共通の目的がある筈の今でも、頼朝にとって優先すべきは、河内源氏の嫡流[正統な後継者]は自分、つまり頼朝であると決める事にあるらしい。一言で言えば、今回の頼朝の信濃への侵攻は、「頼朝が義仲より上だと認めさせる事だけ」の軍事行動なのである。

とは言え、軍事行動には表向きにはそれなりの理由が無くてはならない。
いくら頼朝でも、

「義仲よりオレ様の方が偉い筈だろ?だからお前ら義仲をヤっちまえ、このオレ様の為だけに。」

では、従っている豪族達も納得しない。
そこで頼朝は理由を3つ用意していた。


理由 その一。
甲斐源氏の武田[あの武田信玄の祖先]のウソの密告。
『義仲は平氏の現総帥宗盛[清盛の息子]と組んで頼朝様を倒そうとしています。その証拠に義仲か、義仲の嫡子[跡取り]義高が宗盛の娘の婿になる、との事です』

もちろん武田の作り話である。
これは、いきなり何かを感違いした武田が、義仲の嫡子義高を武田の跡取りとして娘の婿にしたい、と言い出し、義仲に断られた事[当然だ。自分の嫡子を他家へ婿入りさせる馬鹿はいない]に対する武田の報復であった。情けない報復の仕方である。何しろ武田は断られた腹いせに嘘をチクったのだから。頼朝という自分より強い奴の力を当てにして。


理由 その二。
頼朝と義仲の叔父・志田三郎先生義憲[義仲の父義賢のすぐ下の弟。行家にとっては兄]が義仲のもとへ走ったこと。

 この叔父義憲は保元・平治の乱に参加せず、常に中立の立場で関東の常陸[茨城県]の志田で勢力を張っていた。しかし頼朝は敵[自分に従わない者]と味方[自分に従う者]という対立概念だけで武士達を判断していたため中立[敵でも無く、味方でも無い者]など認めなかった。頼朝が関東で勢力を拡げるに従い、義憲は敵か味方かの二者択一を迫られた。迷っている間に義憲は、頼朝の息のかかった小山氏[栃木県の武士]と合戦になり、敗北、義仲と行動を共にする、という決断をして、合流していたのである。
 頼朝はこの行動を、自分に従わない以上、叔父義憲は敵である、と見なしたのであった。そして敵である義憲が義仲と行動を共にしている以上、義仲も自分にとっては敵対者である。と、こういう理屈を作り出したのであった。


理由 その三。
ここで、かの行家が問題となって来るのである。
行家は鎌倉を追い出されて、いや自分から追ん出たのであるが、それを逆恨みして事ある毎に、
「ワシは頼朝には恨みがある!いつか必ず頼朝を討ち果たしてヤるわい!」
と負け犬の遠吠えの様な事を宣言していたのである。誰彼構わずに。これが頼朝の耳にも届いたのだ。頼朝はこれも利用する事にした。

行家は今現在、義仲に保護されている。だから、この行家の無責任な発言の責任は義仲が負わねばならないのである。

そして義仲に対し、
「この様に言う者がいる。見過ごす事は出来無い」

頼朝は、理由その一、その二、その三を全て持ち出し、いいがかりをつけて軍事行動を起こしたのである。


だが義仲はこの様な戦さは無意味だと感じていた。
とは言え、現に頼朝自身が約十万騎の軍勢を従え攻め入って来ているのである。冗談で攻め込んで来た訳では無い以上、義仲勢も対応せざるを得ない。



☆ ☆


頼朝が信濃国へ侵攻して来たと報せが入った時、義仲は依田城[長野県上田市]に居たが、すぐさま依田城を出て、千曲川を北上、熊坂山[長野県信濃町]に陣を構えた。

なぜなら義仲は始めから頼朝と戦うつもりなど無かった。

源氏の嫡流争いなど、義仲にとってどうでもいい事だったし、何より源氏同士が相撃つような事になれば、悦ぶのは平家なのであるから。

それに義仲は、挙兵して平家相手に戦さを始めた以上、なるべく早くこの内乱状態を終わらせたい、と本気で思っていた。
しかも無駄な血は流させたくない、とも本気で思っていたので、義仲は今回の事を、無駄な、する必要の無い戦さと感じていた。
そのため、どうにか戦さをせずに事態を終わらせる事しか考えていなかったのである。


そこで義仲は、腹心で乳兄弟の今井兼平を使者として、善光寺に本陣を構えている頼朝のもとに派遣させた。

兼平は頼朝に向かい、
「一体どのような訳があって我が殿義仲を討とうとしているのか。
貴方は関東を従え、東海道を攻め上り平家を倒そうとしておられるのでは無いのですか。
我が殿義仲も東山、北陸両道を従え、一日も早く平家を倒そうとしているのです。
今、貴方と我が殿が相撃つような事になれば平家に笑われてしまう事でしょう。
我が殿義仲は、決して貴方と事を構えるつもりはありません」
堂々と言った。
それが本当の事だからである。
兼平には、頼朝の心底など最初から解っていた。

(難癖を付けて、義仲様の上に立つ事しか考えていないこの男など、器が小さ過ぎる。つまり政治的優位に立ちたいだけか。
覚明が言っていたな「頼朝は徹頭徹尾政治家である」と。なるほど。
覚明の人を見る眼は確からしい)

兼平は目の前に居る頼朝を見ながら、そう思っていた。
兼平の見たところ、頼朝という男は、やはり武将というより政治家であった。とは言え、兼平は頼朝を見下している訳では無い。それはそれで構わないと思っているし、それが頼朝なのだろう。
だが、言い掛かりを付けて攻めて来るような奴を、認める必要は無いし、況してや好意的に感じなければならない理由も無かった。である以上、兼平の頼朝を見る眼は冷たい。
兼平は個人的に、偉く無いのに偉そうに見せる奴と、偉いくせに、さらに尊大に振る舞う奴が気に入らないのである。彼の一番敬愛する人物[私の義仲様]とは真逆の性格だからであろう。

兼平にとって頼朝は、少し自分を大きく見せようとしている人物に見えた。とは言え、頼朝はことさら威張る訳でも無く、穏やかに接しているようには見えるが、感情を表に出さないように、何か不自然に押し隠しているような雰囲気に見えた。

その頼朝が言う、
「今でこそ、その様に言われるが、確かにこの頼朝を討とうとする謀叛の企みがある、と申す者がいる。兼平。お前の言う事を信じる訳にはいかない」
と、上から目線な感じ。

兼平は表情を変えずに聞いていたが、カチンとキた。

(やはり聞く耳は持たんか。まぁそれはいい。
しかし謀叛とはな。笑わせてくれる。
義仲様がいつ、お前の下に付いたんだ?馬鹿も休み休み言え。
大体お前自身が、先の平治の乱での謀叛の罪で流人でしかないだろう。
偉そうに見せるのは大概にしろ)

と、
頼朝よりも上から目線で思ったが、頼朝の言い分は聞いたので、頼朝のもとから退去した。
そして義仲勢の本陣へ戻り、この事を皆に報告した。すると当然、義仲麾下の武将達はこのまま戦さになる、と思っているが、

兼平は、
(これは義仲様にとっては気の進まない戦さになるだろう…
本心は頼朝相手に戦さなど、したくは無いと御思いだからな。
しかし攻められたら反撃しなければならないし、何より、言い掛かりを付けられて頭を下げなければならない理由など無い。
第一、頼朝も我らがこのままおとなしくしているなどとは思っていないだろう)

兼平は義仲を見つつ思っていた。その義仲は沈痛な面持ちである。

(義仲様。ここで退いたら後々、頼朝はもっと無理難題を吹っ掛けて来るでしょう。もっと大変な思いをする事になります。
退いてはなりません。ここは戦うべきです)

兼平は心の中で義仲に語りかけていた。

すると、
「敵より、使者が参っております!」
と、郎等が報告して来た。

「分かった。ここへ通してくれ」
義仲が答えた。

頼朝方の使者、梶原平三景時が陣幕を潜り、義仲以下四天王や麾下の武将達が居並ぶ本陣へ入って来ると、挨拶もそこそこに、

「我が殿頼朝よりのお言葉を伝えます。畏れながら義仲どのが本当に謀叛の心が無いのなら、その証しを立てよ、との事にございます」

それを受けて義仲は、
「証しを立てよ、とはどう言う事か」
と問うた。

「義仲どのには元服された御子息がおられます。
この御子息を我が殿頼朝の娘御の大姫と娶せる事が、双方の不和を解消させる何よりの証しだと我が殿頼朝は申されました。それゆえ御子息を我が殿頼朝の婿として鎌倉に迎える用意がある、と申しております」

梶原景時が言った時、本陣の空気が変わった。

元々冷たく張り詰めた空気だったが、その空気が凍結した。
表情に出したりするような者は居ないが、梶原景時以外の全員が心の中で激怒していたのである。言葉を飾ってはいるが、要するに義仲の息子を人質に出せ。そうすれば事を穏便に納めてやる。と言っているのである。

が、
義仲は穏やかに、
「使者の言葉。確かに聞いた。返事は後程こちらから使者を送る」

「はっ。失礼いたす」
梶原景時は戻って行った。

すると樋口次郎兼光が初めに口を開き、一同に向かって、

「交渉は決裂した。奴らの言い分など聞く必要は無い。では、これより軍議に移る」

口調は普段のままだが、腹に据えかねているのだろう。
普段温厚な兼光の眼つきが、危険な色を帯びている。

続けて、
「頼朝は十万騎の兵力を善光寺周辺に布陣させている。だがこれは我が軍にとっては有利に状況が展開しているという事だ。どうやら頼朝は横田河原の二の舞を演じたいらしい」


義仲軍は二年前、越後[新潟県]から派兵された四万騎の平家の軍勢を横田河原[後の川中島と同じ場所]で撃破し、一気に北陸諸国をその手にしたのである。それだけでは無い。三年前には義仲挙兵直後の市原の戦い[善光寺裏合戦]でも勝利していたので、ここ横田河原や善光寺周辺での戦さに絶対の自信を持っていた。
兼光の発言を弟の兼平が受け、

「それに奴らは、どうやら本気で攻めるつもりは無い事が今の使者の言い草で判った。
何せ奴らの方から和睦の条件を付けて来たのだからな。
攻めるつもりならすでに攻め寄せているだろう。
大軍勢を引き連れてはいるが、自信が無いらしいな頼朝は。
だが、大軍勢に怯む我らでは無い。いいだろう。決着をつけてやる。
よろしいですね義仲様。
では軍勢をいつもの様に分けたいと思います。お指図を」
と兼平が義仲にフッた。

と、
その時、
「私一人の事で済むのなら、私は鎌倉に参ります」
声がした。

その場に居た全員が驚いて声のした方を向いた。
するとそこに、今年十一才になる義仲の嫡男、義高が陣幕の前に立っている。

と、
義仲が、
「義高。いつから聞いていた?」
「最初から聞いていました、父上」

義仲と義高は無言で、お互いを見ていた。
一同は黙って主君親子を見守っている。

「そうか。なら話しは早い。皆、よく聞いて欲しい。
私は義高を鎌倉の頼朝のもとへ送ろうと思っている」
義仲は言い放った。

「待って下さい!義仲様!」
兼光が叫び、冒頭の遣り取りになったのである。


思えば義仲と、義仲麾下の諸将達の意見や考えが、ここまで違った事は初めての事であった。義仲と義高以外は全員反対なのである。特に兼光、兼平兄弟にとって義高は、主君の若君であると同時に、家族同然なのである。二人が強く反対しているのはそういう事情もあったが、それ以上にやはり実質的に人質を出すという事は、義仲が政治的に頼朝の風下に立つ事を意味する。
そんな事を認める訳にはいかなかった。
兼光、兼平、覚明、楯らが、何とか思い止まらせようと言葉を繋いでいると、

「みんな待って」
巴御前が初めて口を開いた。

戦う美少女、巴は今日もオーダーメイドの大鎧を纏い、袖[両肩から肘を護る鎧の部位]の受緒[袖を鎧本体に結ぶ紐]を前に垂らす独特の着方をしている。それが何とも可憐な印象を見る者に与えていた。

「みんな何の為にココに居るの?
義仲様の願いを実現する為でしょ?」
巴が言った。

すると楯が、
「当たり前だ。しかしな巴。若君を人質になど・・」

「それは私も納得しないし、出来無いケド。でも義仲様と、当の本人の義高クンが受け容れたんだよ。覚悟の上で。私達がコレ以上反対出来る?」

巴は楯親忠の言葉を途中で遮り、一同を見渡しながら言った。
確かに、もう義仲と義高は決めているのである。そしてこの主君と若君は、一度決心した事は何があろうと覆さないのは、ここに居る誰もが知っている事であった。なので巴が言った事は、全員の気持ちを代弁し、また、全員の心にスッと入って行ったのである。

納得しないし、出来無い。けれど、義仲様と若君義高様の決定には従う。と。

「・・・そうだな。巴の言う通りだ」

手塚太郎光盛が初めて言った。
兼平が光盛を見ると、口許に苦笑を浮かべている。さらに兼平は全員を見回すと、皆、同じように苦笑を浮かべ、仕方無いとでも言いたそうな表情をしていた。と、兼平自身も、そうなっていた事に今、気付いた。
そして皆を代表し兼平は義仲に向かい、

「解りました。我ら一同、義仲様と若君義高様の御心に従います。では明日、また私が使者として頼朝のもとに参ります。それで宜しいでしょうか。義仲様」

「有り難う。そして、皆すまない。私の我が儘を・・・」
義仲は皆に詫びた。兼光が慌てて、

「我が儘なんて、そんな事ありません」

「いや。皆は同じ考えだったのに、私一人が違う考えを押し通したんだ。コレを世間では我が儘と言うんじゃ無いか?」

「いいんですよ。義仲様はワガママで。義高クンもね」
巴が明るく言った。

本陣全体の雰囲気が一気に和らぐ。

そして兼平は、
「それでは今日はここまでだ。明日、朝にもう一度本陣へ集まって貰いたい。では解散しよう」
と言って協議は終わった。

皆は陣幕を潜り出て行く。
義仲も、嫡子義高を伴い本陣を出て行った。
それを見送っていた兼平の耳元で、

「おい兼平。本当にいいのか?」
覚明が聞いて来た。
続けて、
「このままだと後々、義仲様は相当苦労する事になるぞ」


「ああ。それは解っている。だが義仲様は、その苦労の多い道を征く事を選ばれた。
であれば我らとしては、その義仲様を支え、力添えして行くしか無いだろう。そうでは無いか?覚明」

「まあなあ」
兼平と覚明は笑いを浮かべたが、苦い笑いであった。だが、不快ではなかった。腹を括った時に思わず出てしまう、不敵な笑い。この笑いであった。


☆ ☆ ☆


頼朝はこう思っていたに違い無い。

まず義仲は嫡子義高を差し出す筈が無いだろう、と。
であれば叔父二人を引き渡して来るに違い無い、とも。

だから頼朝としては、自分に従わず義仲を頼った義憲と、自分に頼って来たくせに迷惑だけをかけ、あまつさえ勝手に拗ねて鎌倉を出て行き義仲を頼った行家を殺す事が出来ると思っていた。

更に、そうなったとすれば、義仲には武家の棟梁である資格が無い、と義仲自身が認めた事になってしまうのだ。
武家の棟梁とは、言ってしまえばボスなのである。ボスは手下の者や頼って来た者達を護ってやらなければならないからだ。それがどんな困ったちゃんでも[行家の事である。義憲の事では無い]。だからボスとして君臨出来るのである。
頼朝は当然こういう事を判った上で、この条件を出したのだ。叔父二人を殺す事が出来、しかも義仲の武家の棟梁としての威信を失墜させる一石二鳥の悪巧み[頼朝快心の一撃!]であった。

ところが、義仲はこの手に乗らなかったのである。

おそらく頼朝の考え[悪巧み]など義仲にはお見通しであったに違い無い。とにかく義仲は、二人の叔父の義憲・行家を見捨てて引き渡す様な事はせずに、嫡子義高を頼朝に差し出す事を決断した。

頼朝の条件には『嫡子義高を差し出せば、私の娘大姫[頼朝の長女]と婚姻させ、私の婿として鎌倉で大事に扱う』とあったが、実際には人質である。しかも人質を差し出す、という事は、義仲は頼朝に頭を下げて許して貰った、という事になるのである。
だが義仲は決断した。

これで誰も死なずに済むからである。

悩んだ末の苦渋の決断であった。
我らが義仲は頼朝に政治的に敗北した。

頼朝はこれに満足して兵を納め鎌倉に帰って行った。叔父二人は殺せなかったが、マウントポジションは私が取った!武家の棟梁はこの私!頼朝だけだ!とか思いつつ、義仲の嫡子義高を伴い、意気揚々と。


しかし、政治的に大敗北した義仲であったが、得たものも多かったのである。


まず頼朝との一時的な和解、そしてくだらない戦さを回避した事で大事な麾下の武将と兵達の生命を護った事。二人の叔父義憲と行家の生命。

だが、得たものは実はこれだけでは無い。

義仲にずっと従っている武将や兵達は無論の事、新たに北陸諸国から義仲に付いた豪族達までも、

(オレ達の大将[義仲様]は、オレ達の生命を掛け替えの無い大切なモノだと思っている。そして無駄な戦さを回避し、オレ達の生命を護る為ならば、オレ達の大将は何でもする。それが自分の跡取りの息子[義高さま]を敵に差し出す、という辛い事さえも)
と思い、

更に、
(こんなにオレ達の事を想ってくれる大将なんて他に居ないんじゃ無いか?良し!オレ達はヤる!ヤってヤる!
オレ達の大将の為に!
そしてオレ達は忘れない。
今日の事を!
オレ達は大将の為ならば何でもヤってヤる!
大将がオレ達の為に、そうしてくれたように!)
と思っていた。

これは義仲勢全軍が一つになった事を意味する。
と同時に義仲は最高の、そして最強の軍団を手に入れた事を意味した。

つまり頼朝は政治的な勝利を得たが、あるところでは失敗したのである。

それは頼朝が義仲に嫌がらせをした事で、義仲と、彼に従っている者達との結束を強め、ライバルの義仲に最高で最強の軍団をプレゼントする事になってしまったからだ。

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