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法住寺合戦


〇寿永二(1183)年11月19日
〇京都市法住寺(後白河法皇の御所)
当時の「法住寺」とは現在の三十三間堂も内包しそこから東・南へとてつもなく広い空間だった。誇張でなく二万人が警護に必要なレベルの広さである。源行家が京都に入ってから住んでいた場所もその中にあった。


〇院方 二万余人 vs 義仲方六・七千騎

法皇は二万余人を集め御所を固めたが、義仲軍が火をかけると一斉に逃げ出し戦らしい戦にならなかった。

■ 経過

①法皇が比叡山や三井寺の僧兵・都を徘徊している雑兵などを軍兵二万余人寄せ集める。

②法皇が義仲を討とうとしていると聞き、畿内の兵が院についた

③義仲が6~7千騎の兵を7手に分けた

④義仲が法住寺殿の西門に押し寄せると、門の上で鼓判官が鎧もつけず兜だけかぶり仏具の鈴を鳴らして義仲を罵った

⑤別の方向から樋口兼光の軍勢が押し寄せ、鬨の声を上げて火をつけた矢を法住寺の御所に射立てた

⑥炎が風にあおられてあがると、鼓判官が真っ先に逃げ出し、二万人の兵も我先にと逃げ出す

⑦摂津源氏は守っていた七条から西へ逃げた

⑧戦の前に都人に落人が家の前を通ったら石をぶつけろと命じてあったので兵たちはめった打ちになり命を落とすものも

⑨八条を固めていた僧兵は恥を知るものは戦い、そうでないものは逃げた

⑩後白河法皇は輿に乗って逃げようとしていたところを捕まえられる

■参考
上記は平家物語覚一本より。

源平盛衰記は全体的に詳しい
③に詳細な軍勢あり
合計1000余騎 を七手に分ける
(参考源平盛衰記では注に諸本によって三千・六千・七千の記載例あり)
内訳
今井300騎→御所の東瓦坂(搦手)
楯→八条が末・西表の門
大将記述なし→西河原
義仲→400騎 七条が末の内・大和大路西門(追手)

■合戦の死者

明雲…比叡山で一番偉い僧
円恵法親王…後白河法皇の子
村上氏…信濃源氏
源光長・光経…美濃源氏親子