その時 木曽殿の動きは #14
解説
C O M E N T A R Y
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大河ドラマ「鎌倉殿の13人」に合わせ義仲陣営を「説明」
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【監修】義仲館P 西川かおり
北陸合戦のそれまでとそれから
大河ドラマではあっという間に都に入ってしまう義仲。確かに北陸の合戦そのものは1183年の6月に戦われたもので、7月の下旬には都に入っています。しかしそこに至るまでには様々ないきさつがありました。
1 2年間停滞していた源平合戦
ドラマや映画、アニメなど源平合戦をモチーフとした作品では尺の関係で挙兵した源氏が次々と戦に勝ち、平家が追い落とされていくように描かれがちですが、挙兵したのは1181年、その後2年間にわたって、歴史的な飢饉により平家は源氏追討軍を派遣することなく、停滞した状況となっていました。飢饉で少なかった農作物が都におさめられなかったため、都に住む一般人は特に苦しい状態に追い込まれ、多くの人が亡くなりました。
2年の間、頼朝は吾妻鏡によると北関東に進出し、関東地方全体の掌握に務めました。義仲は越後から越中・加賀・越前と勢力を広げていきました。越中武士に対しての所領安堵の書状は残されていますが、具体的にどこで何をしていたかは文献に残されておらず不明です。吾妻鏡では木曽四天王の根井が福井県の敦賀市にいたと書かれています。
義仲に従った北陸武士は、平家の侵攻に備えて各地に城を設けました。特に近畿地方と境を接する福井県の燧城には眼下に人造湖を作り、街道をふさぎました。
2 義仲北陸での戦い
当初北陸に進軍してきた平家の軍勢と戦っていたのは北陸の武士たちでした。信濃武士も派遣されていたようですが数は限られていました。
主な武将は越前斎藤氏の林氏・富樫氏・倉光氏(石川県)・稲津氏(福井県)、八条院領に関わる石黒氏・宮崎氏(富山県)・井家氏(石川県)などでした。白山神社と関りが深い平泉寺の僧兵は平泉寺斉明に率いられていましたが、斉明自身は平家方に寝返ってしまいました。そのため、準備してきた城の弱点が斉明から次々と平家に明かされ、福井県から石川県へとなすすべなく敗北を重ねることになりました。
富山県では義仲を頼って都から落ち延びてきた「北陸宮」が保護されており、北陸武士と義仲の間に「富山県には平家を侵入させない」という暗黙の了解があったようで、富山県と石川県の県境「倶利伽羅峠」が一大決戦の場になりました。義仲はここでも地元の武士の意見を尊重し、富山県の宮崎氏、石川県の林氏から聞き取った話から作戦を立て、10万を誇る平家軍を地形を利用して谷に追い込み圧倒的な勝利を得ます。そこからは平家は転がるように都へ逃げ去っていきました。
3 都に入らず1か月福井県にいた義仲
義仲というと、「京に攻め上った」という表現が安易に使われますが、それは間違いです。義仲は平家による追討軍に北陸で勝利しましたが、福井県で1か月も過ごしていました。
なぜなら、都にそのまま攻め入ると平家と戦になり、都の一般人までもまきこむことになるからです。義仲は倶利伽羅峠での合戦の前に、「自分がなぜ戦うのか」を願文にし埴生八幡におさめています。その中で「自分が戦うのは自分の利益のためではなく、国のため、秩序のためだ」と述べていて、多くの犠牲や混乱を避ける考えがうかがえます。
1か月の間に義仲は戦をすることなく、祐筆・覚明の筆をもって延暦寺を味方につけ、その結果平家は都から退去しました。
義仲は一切血を流すことなく、都に入りました。
略年譜
H I S T R Y
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義仲をたどる
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久寿元年(1154年) 誕生
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久寿2年(1155年)8月16日
大蔵合戦で父を討たれ、信濃へ
〇中原兼遠に養育される
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保元元年(1156年)7月11日 保元の乱
海野ら信濃武士団は後白河法皇方(源義朝・平清盛など)に参戦
平正弘は敵対する崇徳上皇方(源為義など)に参戦
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平治元年(1160年)12月9日 平治の乱
ほとんどの信濃武士が参戦せず
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●仁安元年(1166年) 元 服
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〇諏訪社に婿入りし娘が生まれる
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〇承安3年(1173年)?
嫡男・義高生まれる
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治承3年(1179年)
仁科氏・覚園寺(大町市)千手観音開眼供養
善光寺(長野市)炎上
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治承4年 (1180年)
4月
以仁王の挙兵
9月7日
市原の合戦
義仲依田城(上田市)へ
9月11日
菅冠者自刃
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10月13日
義仲上野国へ。上野国府周辺の混乱をおさめ、
父・義賢の家臣を味方に加える。
その際に様々な武士への安堵状を作成したのか、
北信濃の武士・藤原資弘への下文が現存する
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12月24日
義仲信濃へ戻る
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養和元年(1181)年
4月15日
義仲、笠原行連に安堵下文発給
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6月13・14日
横田河原の合戦
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養和の飢饉が起こり、源平合戦は一時中断
義仲軍では北陸武士が城を作り守りを固める
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寿永二(1183)年
3月
頼朝の信濃侵攻
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4月
北陸追討軍発進
燧合戦