その時 木曽殿の動きは #4
解説
C O M E N T A R Y
――――――――――――――――――――――――――――――
大河ドラマ「鎌倉殿の13人」に合わせ義仲陣営を「説明」
――――――――――――――――――――――――――――――
【監修】義仲館P 西川かおり
平家打倒の挙兵をしていない木曽義仲
治承4年、以仁王の令旨が全国の源氏に届けられ、以仁王と源頼政の挙兵と敗北が伝えられると、いよいよ源平合戦=治承寿永の内乱のはじまりです。
源頼朝は北条氏と協力し、平家打倒の挙兵をしますが、木曽義仲は頼朝の挙兵にあたるような行動はしていません。各地の源氏は頼朝が山木を狙ったように、平家の息のかかった国府やその関係者に対して挙兵したのに対し、信濃国府は平家の支配下になかったからです。
しかし平家に寄進し、関係を深めることで信濃国内での勢力を広げようとしたものはいました。義仲の養父・中原兼遠は源平盛衰記によれば平家の家人で、義仲の養育について問い詰められ、起請文を提出したというエピソードがあります。仁科盛家は、長野県内に残る伝承で中原兼遠と婚姻関係を結んで協力体制にあったとされていますが、史料から平家との関係が明らかにされています。
仁科氏は安曇郡(現在の大町市)に本拠地を持つ武士で、仁科御厨をきっかけに大きな勢力を持ちました。平安時代末期の治承三年には覚音寺に千手観音像を建立したほどです。その胎内には様々なものが収められていましたが、木札に「平朝臣盛家」と書かれていたのです。
では仁科氏は平家打倒のやり玉に挙げられたのか?というとそうではありません。それどころか、義仲の軍勢に加わり大活躍しています。
源平合戦の時代において、実は他とは違う展開を見せていた信濃国。義仲は「平家打倒」を合言葉に挙兵していなかったのです。
略年譜
H I S T R Y
―――――――――――――――――
義仲をたどる
―――――――――――――――――
●久寿元年(1154年) 誕生
|
●久寿2年(1155年)8月16日
大蔵合戦で父を討たれ、信濃へ
|
〇中原兼遠に養育される
|
●仁安元年(1166年) 元 服
|
〇諏訪社に婿入りし娘が生まれる
|
〇承安3年(1173年)?
嫡男・義高生まれる
|
治承3年(1179年)仁科氏・覚園寺(大町市)千手観音開眼供養
治承3年(1179年)善光寺(長野市)炎上
|
☆治承4年 以仁王の挙兵
漫 画
C O M I C
―――――――――――――――――
漫画「木曽義仲と中原兼遠」より
―――――――――――――――――
長野県木曽町発行→書籍義仲館で販売