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その時 木曽殿の動きは #6

解説
C O M E N T A R Y

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大河ドラマ「鎌倉殿の13人」に合わせ義仲陣営を「説明」
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【監修】義仲館P 西川かおり

四つの平の「信濃の国」

 長野県歌「信濃の国」では四つの平という歌詞があります。♪松本・伊那・佐久・善光寺♪です。現在もそれら4つの平=盆地はそれぞれの特徴を持っていますが、義仲の時代も4つの平それぞれが違った状態にありました。

(リニューアル前の義仲館も映像に登場します。)

松本平には信濃国府がありましたが平家の支配下になく、国府に関係があるとみられる中原兼遠の子・今井兼平が松本平の南部、現在の今井地区に居を構えていました。他には信濃源氏の岡田氏や古来からの豪族がいました。さらに北の安曇野には仁科氏がいますが、それぞれ婚姻関係を結ぶなどして荒れた雰囲気はありません。義仲軍に参加したものもいればしないものもいるという状況です。

伊那は木曽と山を挟んで接していますが、史料が残っていない謎の武士「菅冠者」が駒ケ根市を中心に南信州にひろがる勢力を持っていたようです。義仲は菅冠者を刺激しないように伊那へは進出せず、伊那平の北・辰野町に樋口兼光を配し、様子をうかがっていました。辰野以北は茅野の千野氏、諏訪社金刺氏、藤沢氏など義仲軍に多くの者が参加しています。

佐久は丘陵部に望月牧があるため、そこから派生した武士団・滋野一族が広範囲に勢力を形成し、海野・望月・祢津が滋野三家と呼ばれていました。これら滋野一族は義仲挙兵時の主要構成員で、四天王のうち根井・楯が含まれます。他に源義朝と近い存在だった源氏の平賀氏がいましたが滋野一族と折り合いが悪かったのか義仲には積極的に関わっていません。

善光寺平は北に信濃平氏の笠原氏、東~善光寺周辺に信濃源氏の村上・井上・高梨・栗田氏、村山氏、西・南に平正弘の残党がいました。善光寺炎上という出来事を見ても、ぎりぎりの緊張感に満ちていたといえます。

 その均衡を狂わせたのは以仁王の令旨と挙兵で、直接引き金を引いたのは笠原氏の分流・笠原平五頼直でした。いよいよ義仲も源平合戦に巻き込まれていきます。


略年譜
H I S T R Y
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義仲をたどる
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●久寿元年(1154年) 誕生

●久寿2年(1155年)8月16日
大蔵合戦で父を討たれ、信濃へ

〇中原兼遠に養育される

☆保元元年(1156年)7月11日 保元の乱
海野ら信濃武士団は後白河法皇方(源義朝・平清盛など)に参戦
平正弘は敵対する崇徳上皇方(源為義など)に参戦

☆平治元年(1160年)12月9日 平治の乱
ほとんどの信濃武士が参戦せず

●仁安元年(1166年) 元  服

〇諏訪社に婿入りし娘が生まれる

〇承安3年(1173年)?
嫡男・義高生まれる
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治承3年(1179年)仁科氏・覚園寺(大町市)千手観音開眼供養
治承3年(1179年)善光寺(長野市)炎上
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☆治承4年 以仁王の挙兵