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海野

海野幸親、海野弥平四郎幸広(行弘・行平)、海野小太郎幸氏

東御市本海野(小県郡海野荘)

海野幸親、海野弥平四郎幸広(行弘・行平)、海野小太郎幸氏と三代に渡って義仲と関係が深く、特に海野幸氏は義仲死後、残党の後見となり保護に当たった上、御家人の長老として北条家の尊敬を集めた。

「海野」は正倉院御物に「信濃国小県郡海野郷」と墨書される麻織物の紐が残り、天平年間(729〜49)にさかのぼれる深い歴史がある地名。延喜式にある新治牧の管理者が海野氏につながり、滋野一族の一角を形成した。
海野幸親のころ、義仲が信濃で育ち、滋野党のリーダーである幸親が後見人の一人となった。一説によると義仲の妻の一人が海野氏だという。
海野幸広は義仲軍勢の代表的な武将の一人として活躍するが、水島の戦いで戦死した。
海野幸氏は義仲の子、義高の供として鎌倉に赴いた。後に御家人として取り立てられ、海野の血脈を真田氏までつないだ。真田昌幸は幸氏を偉大なる先祖として崇拝し、小太郎神社を太郎山の麓に建立した。太郎山の名称は小太郎神社に由来する。

海野にある白鳥神社は横田河原合戦の出陣地で、義仲は信濃、上野の軍勢2000を集めて進軍した。

■関連伝承地

〇海野氏古城

〇海野氏本城にまつわる地名

〇白鳥神社

〇東御市には山城・矢立城がある。


〇東御市海善寺滋野神社、上田市願行寺。


〇富山市には海野太郎の孫が開いた真成寺がある。


〇長野市にある康楽寺は覚明が開いた寺で、寺伝よると覚明は海野幸親の子だという。


〇海野幸氏は群馬県嬬恋町三原庄を領地とし、義仲の残党を保護した。