義仲戦記2「横田河原合戦」1181年6月
美しい夜であった。空は澄み渡り、一片の雲も無く、全天に星が瞬いている。冬の冴えた空気を吸い込みながら彼は、星を観ていた。一晩中、空を見上げて今夜でもう四日目になるが、彼は飽かずに星を観ている。
それは五日前の事。驚くべき報せがもたらされた。都で平家の総帥平清盛が、今月の二月四日、遂に亡くなったというのである。この清盛死去の報が入った日から、彼大夫坊覚明は依田城のある小高い山の上から、夜に星を観る事を自分に課していた。と、
「!」
覚明は突然立ち上がり、錫杖を握り締め、宙空の一点を真剣に見つめていた。彼が観ているのは昴星[すばる。牡牛座にある星団。]であったが、その昴星に太白星[金星]が重なったのである。
「どうやら戦さが近いな。しかも義仲様の言っていた通り、敵は大兵力でやって来る。それに平氏にとっては忙しい年になるだろう」
予言めいた事を呟き口許に笑みを浮かべつつ、覚明は宿所に戻って行った。
『天文要録』[天文・占星の書]によると、『太白星が昴星を侵すと、四方の民族が兵乱を起こし、将軍が都から国外に向かう』とある。つまり、覚明が観ていたものは、いよいよ日本中に本格的な戦闘が始まる事を告げる、星からの合図なのであった。
☆
「義仲のヤロウ!イイ気になってられンのも今のウチじゃ!今度は絶対ェ儂が討ち取ってヤる!」
ヤる気に満ち、こう言い放ったのは約半年前に市原の合戦で敗北し、信濃[長野県]を追い出されていた平氏の家人笠原頼直、御歳五三才であった。頼直は諦めない男である。五三才という年齢のわりには熱過ぎるリベンジの心を持って、義仲を倒す事のみ念願していた。その頼直の要請を受けた越後[新潟県]の豪族城太郎助長は、越後やその周辺の武士達を招集、約二万五千騎の兵を動員し、義仲を討つ為、信濃に侵攻しようとしていた。
頼直は、
「コレで義仲も終わりじゃい!何しろ二万五千騎じゃ!二万五千騎じゃぞ!」
相当、良い気分であった。遂に頼直リベンジの時。が、越後勢の総大将、城助長が出陣の直前、病没してしまったのである。
「何じゃソレ!」
頼直は驚いたが、とにかく軍勢は集まっているのである。当然、信濃へ侵攻するかと思いきや軍勢は解散。
「ちょ!待てよ!おい!」
頼直は焦ったが、信濃侵攻は一旦取り止めになってしまったのである。
「何故じゃ!どうして?むがぁ~~!」
頼直は涙に暮れた。
だが、ソレを見た天地におわす神々は不憫と思し召されたのか何なのか、程なく越後勢は再起する。病没した兄助長に代わり、弟長茂が総大将になり、越後はもとより出羽[山形県]、陸奥会津四群[会津、大沼、河沼耶麻。福島県西部]から大々的に兵を動員し、実に四万騎以上の大軍勢を集める事に成功した。これは前回の動員数よりも一万五千騎も多かった。
「コレで儂らの敗けは無ェ!義仲!待ってろよコノヤロウ!」
笠原頼直は四万騎の軍勢を見て、ハイになったのか、もう勝ったつもりでいる。
この間、義仲はことさら越後の情報を集めるまでもなく、自然と噂や情報が入って来た。何しろ一回目の動員数は二万五千騎。二回目は越後、出羽、陸奥三ヶ国から、四万騎以上の兵を集める大々的な動員である。噂が入って来ない筈が無かった。
とは言え、義仲ものんびり構えていた訳では無い。越後で一回目の兵の動員の情報が入る前から、郎等らに命じ北信濃、北上野に兵員を置き、越後の情勢に眼を光らせていたのである。そして、敵が攻め込んで来た時には即座に対応出来る態勢を取り、義仲は依田城で、平氏方の越後勢が動き出すのを待ち構えていた。
「一月から越後の監視を始めて約四ヶ月。そろそろ動いて来そうです。おそらく一ヶ月以内には」
そう義仲に報告したのは、北信濃の豪族井上九郎[信濃源氏]であった。ここは現在の義仲の本拠地依田城。国府を任せている今井兼平、金刺盛澄[諏訪大社下社の大祝。諏訪神党の惣領]以外の総ての義仲麾下の武将が勢揃いし、軍議を行っているのである。
報告を聴いた義仲は、
「いよいよか。井上どの、越後勢の数は判るか?おおまかでいい」
と訊くと、
「報告によると、越後勢その数およそ四万騎以上」
井上九郎の答えを聞いた時、どよめきと共に、この場に居るほぼ全員が息を呑み、緊張と畏怖の念に襲われた。それもその筈、全員が彼我の兵力の差に思いが至ったからである。前回、市原の合戦での義仲勢の動員数は、栗田勢、村上勢と併せても約一五〇〇騎ほど。その後、上野[群馬県]の父義賢の旧郎等や豪族達が加わったとは言え、今現在の義仲が動員出来る兵力は前回の二倍の約三〇〇〇騎ほどなのである。兵力差は実に十三倍以上。数字だけでも圧倒されてしまう。さすがにこの時ばかりは軍議の席が沈黙に支配された。かに見えた。
と、
「では、この度も出陣にあたり我が軍を七つに分ける」
義仲が普段と変わらず、穏やかに、しかも柔らかい表情で言うと、
「はい」「はいっ!」
返事をした者がいた。
何の気負いも感じさせない返事をしたのが巴御前こと、戦う美少女、巴。
対称的に気合いの入りまくった返事をしたのが葵御前こと、アクティブクールビューティー葵であった。どちらも普段通りなのである。どうやらこの場で圧倒されていないのは、義仲、巴、葵の三人だけらしい。
他の武将達は我に帰ると同時に驚いてもいた。自分達の総大将の義仲が全く動揺していない事に。そして、自分達の同僚である巴と葵も義仲と同じように全く動揺していない事に。それに気付いた時、他の武将達は自分を恥じた。少しだけ。と、何故か緊張や畏怖の念が薄らいでいる事にも驚いていた。三人以外の全員が。その時、この場の雰囲気が普段のものに戻っていた。
義仲が穏やかに続ける。
「各々の大将が二〇〇騎づつ率いてくれ。
そして戦闘が始まったら、各々の大将は源氏を示す白い旗を、各隊に一本づつ掲げる事とする。
第一軍、
大手[主力部隊]大将井上九郎。
搦手[別働隊]大将根井小弥太。
第二軍、
大手大将栗田範覚。
搦手大将手塚光盛。
第三軍、
大手大将村上義直。
搦手大将巴。
第四軍、
大手大将海野幸広。
搦手大将は二人、岡田親義。楯親忠。
この四軍を本隊とし、総大将に私、葵、覚明が加わる。
第五軍、
大手大将樋口兼光。
搦手大将千野光広。
第六軍、
大手大将小室光兼。
搦手大将落合兼行。
そして国府からの第七軍、
大手大将今井兼平。
搦手大将金刺盛澄。
国府の後詰めは根井大弥太行親。
依田城の後詰めは長瀬判官代とする」
全員の心が引き締まり、気持ちが切り替わった。そして義仲は、
「新たに我らに加わってくれた上野衆の多胡どのは二軍に。那波どのは三軍に加わってくれ。武蔵[埼玉県]の庄どのは本隊の四軍に。
今回の主戦場はおそらく北信濃になる為、多胡、那波、庄の三人は、この地を知り尽くしている各軍の大将の指示に従って欲しい」
「はっ」「はっ」「はっ」
三人が応じた。
「今回は全軍で攻撃をかける。が、何も正直に真正面からぶつかる訳では無い。連携と時機が重要になってくる。
これから作戦を説明するが、この作戦は井上九郎どのの発案を基に私が策を練ったものだ。では井上どの、皆に説明を」
と、義仲が言うと、井上九郎は、
「それでは」
話し始めた。
☆ ☆
この日の午後には、依田城にいたほとんどの武将達が各地へ散って行った。もちろん越後勢の侵攻に備える為である。事実上の出陣であった。そして本隊である第四軍の軍勢約七〇〇騎も、総大将義仲に率いられ、この日のうちに出陣した。
「義仲様!楯どのが呼んでおります!」
四軍本隊の仮本陣に入って来たのは岡田親義であった。
「判った。すぐ参ろう」
と義仲は応え、仮本陣に居た覚明、葵、海野幸広を従え、楯の元に向かった。
依田城を出陣して数日後、この夜は空気も澄み、月明かりが照らす気持ちの良い夜であった。すると義仲一行が向かう先に、北西の方角をじっと見ている楯親忠がいた。すると、楯が振り向き、
「義仲様!火が見えます!おそらく越後勢の先頭部隊が篠ノ井辺りに火をかけたのでしょう!」
北西の方角を指差しながら言った。義仲一行は楯の指差す方を眼を凝らして見てみる。が、
「私には何も見えないが・・」と岡田。
「火ですか?どこに・・・」と葵。
「んん?私にも見えませんが」と海野。
「ええ!見えませんか?間違い無く火が上がってます!」
と楯が更に言い募ると、
「あ。確かに何かチカチカと光っているような感じがするな。あれ火なのか?」
と覚明が言った。
ここは小県郡鼻岩の上[現上田市の千曲公園]、ここからは千曲川沿いに善光寺平[長野盆地]が見渡せるのであるが、そうは言っても二〇キロは離れた場所であり、しかも夜なのである。
だが義仲は、
「解った。楯が言うならそうなんだろう。ではこれから千曲川沿いに進軍する。夜が明ける前には、敵の前面に陣を構えよう。出発するぞ」
言いながら鼻岩の上から下りる為に踵を返す。
と、
「楯は眼が良いんだなぁ。俺も眼は良い方だけど、火だって言われなけりゃ絶対に判らなかったぞ」
と覚明。
「私は言われても判らなかったわ。本当に凄いのねぇ」
(それに義仲様に凄く信頼されているのね)
半ば呆れ、半ば感心しつつ葵が言った。
と、
「楯どのには何か不思議な能力が有りますな」
岡田も感心して言うと、
「滋野一族内でも有名ですよ」
と海野が応じる。
「なら、聖[ひじり、拝み屋、雨降らし]にでもなって雨乞いとかして、雨を降らせてみたら?民に尊敬されるぜ」
と覚明が揶揄うと、
「坊主がソレを言っちゃ駄目でしょ、覚明。それに雨を降らせてくれるのは神々であって俺じゃないし」
淡々と言いつつ楯は他の者達と義仲の後に付き、鼻岩の下に待つ本隊へと戻って行った。今から迅速に進軍し、戦場に向かう為に。
遂に大戦が始まる。彼らの生涯をかけた戦いが。だが、その戦いの果てにあるものは、彼らの運命だけで無く、この日本という国の運命もかかっていたのである。そして歴史は、彼らの登場と共に加速して行く。
☆ ☆ ☆
激戦である。さすがに四万騎以上の敵の越後勢に対し、七〇〇騎の義仲勢第四軍本隊は苦労していた。だが苦戦している訳では無い。敵の正面に陣を構えた以上、こうなる事は必然であった。義仲勢四軍本隊の陣形は、中央に大手大将海野幸広率いる二〇〇騎。その右に並ぶように搦手大将岡田親義の二〇〇騎。同じように中央左に搦手大将楯親忠の二〇〇騎。中央後ろに総大将義仲、覚明と、葵率いる武蔵の庄一族を含めた本隊一〇〇騎という構成で、各隊一本づつの源氏を示す白い旗が、あわせて四本翻っている。そして、平氏を示す赤い旗を何百本も掲げ、まるで赤い煙が棚引いているような越後勢四万騎に対し、少し距離を取って戦っていた。敵が出れば少し後退し、敵の出足が鈍れば少し前進して戦う、という感じで。この義仲勢の戦い振りを見て、ピンときた者が越後勢にいた。
「義仲の奴ら!アレしか出来無いのか!奴らは軍を分けて時間稼ぎをしておるな!小賢しい!別働隊が来る前に、目の前の義仲を討ち取ってしまえばソレで戦さは終わりじゃ!」
怒鳴っているのは笠原頼直。御歳五三才。前回、市原の合戦で似たような事をヤられて敗けてしまったこの男には、義仲の思惑が少しは判っているつもりであった。
「ならば四万騎全軍で突撃するまでじゃ!」
と言う訳で、越後勢総大将の城長茂に、突撃を進言する。
が、城長茂は、
「敵はたった七〇〇騎ではないか。そのうち壊滅するか、その前に逃げ出すであろう。それとも降伏して来るかな。いずれにせよ突撃などする必要は無い」
と余裕で構えている。
しかし総大将の城長茂がこう思ってしまうのも無理は無かった。というのも越後勢が信濃へ侵攻して来てから数日が経つが、ここ横田河原[後の川中島]へ来るまでは、ほとんど抵抗というものが無かったのである。赤い旗を掲げて行軍していれば信濃衆の方から降伏して来たし、たまに小さい城に籠って抵抗する者がいても、たった数時間の戦闘で、これもすぐ降伏して来るのである。ただでさえ四万騎という大軍勢を率いて大きな気でいる総大将城長茂が、更にイイ気になって信濃衆をナメ切っていたとしても誰がこの男を責められるだろう。
という訳で城長茂は、
「こちらから何もしなくても敵が勝手に敗けてくれるだろう。大軍を集める利点はココに有る。分かるか?であればワザワザ攻撃をかけてリスクを増やす事もなかろう。コレがリスクマネージメントよな」
などと、戦術思想、というよりは取って付けたっぽい言い訳に近い事を言って全く動こうとはしない。
何を言っても無駄と解った笠原頼直は、
(なら儂らだけで義仲を討ち取ってヤるワイ!何がリスクマネージメントじゃ!糞食らえじゃい!そんなにリスクが恐いなら戦さなど始めからするな!戦さはリスクのカタマリじゃ!)
口に出せない事を肚の中で叫びつつ、城長茂の元から去り、ムカつきながら自分の軍勢に戻る途中、
「頼直どの。笠原頼直どの」
と声をかけられた。
頼直が振り向くと二人の者がいた。一人は僧形で、もう一人はちょっと正体不明な感じの男であった。
その僧形の者が、
「私は城の一族の者で、会津恵日寺の僧、乗丹坊と申します。この者は越後の山の太郎と申し、武士では無いが城一族に従っている者です」
と自己紹介した。
頼直は、
(何じゃ?)思いつつ、
「そうですか。それでこの儂に何の用なのじゃ?」
訊くと、
乗丹坊が、
「私達も軍勢を率いているのです。頼直どのが撃って出る、と申されるなら、どうか私達の軍勢も加えて下され」
と二人は頭を下げた。
頼直は驚いた。
(越後勢にも骨のある奴がいるもんじゃ!)
思いながら、
嬉しげに、
「そうか!有難い!では儂らと一緒に義仲を討とうではないか!
急ごう!奴らはどうせ兵を分けている、そいつらが戦場に来る前に義仲を討ち取ってしまえば、儂らの勝ちじゃ!」
勢い込んだ頼直は、乗丹坊、山の太郎と共に馬で駆け出した。
(待っておれよ!義仲!)
この思いと共に。とは言え、頼直も前回市原の合戦と似たような展開になっている事に気付いてはいたが、その上でなお突撃する事を選ぶのがこの頼直五三才である。懲りない人、というのはこの男の事であろう。しかしこの武将は、勝つ事しか考えていない。ソレはソレで実に立派ではあった。
☆ ☆ ☆ ☆
「越後勢、突撃して来ます!正面!その数およそ三〇〇〇騎以上!」
郎等が叫びつつ報告した。
「本隊と大手の軍勢を下げる。搦手左翼の楯と右翼の岡田に連絡を取り、本隊と大手の軍勢と連携してこれに当たれ!」
義仲の指示を郎等らが伝えに馬を駆る。
と、義仲の横にいる葵が、
「前に出て来た軍勢は、やはり笠原頼直の軍勢でしょうか?」
義仲に聞いた。
「おそらくな。頼直は私を討つ事だけを考えているのだろう。少しキツくなるな」
「私を出しては下さらないのですか?」
葵が言った。葵も、懲りない人、であった。こちらも撃って出る事だけを考えているのだろう。さすがアグレッシブクールビューティー葵である。
義仲は少し苦笑しつつ、
「その時が来たら撃って出てもらう。だが、今はその時では無い」
言うと、続けて、
「左腕の傷はもういいのか?葵」
「はい。もう大丈夫です」
「そうか」
義仲は微笑みを浮かべながら、
「もう少し待っていてくれ。葵」
眼を見て言われた葵は、少しだけ頬を染めながら、
「判りました」
答えた。
義仲の眼を見つめながら。
☆ ☆ ☆ ☆ ☆
「あの四本の白い旗の真ン中の二本目指して一気に行け!その白い旗の下に義仲が居る筈じゃ!義仲だけを目指して進むんじゃ!」
馬を駆けさせながら頼直は怒鳴って郎等らに命じた。それから、同じく横で馬を駆けさせている乗丹坊と山の太郎に、向かって言う。
「義仲の別働隊が必ずこの後、ここに来る筈じゃ!兵らに命じて戦場の周囲の状況によくよく注意しているのじゃぞ!ソレだけ気を付けていればコワいモノ無しじゃい!行くぞ!」
「おおーーーー!!」
頼直、乗丹坊、山の太郎以下三〇〇〇騎が、義仲本隊大手の部隊と激突した。
「笠原頼直が三〇〇〇騎を率い、義仲勢に突撃しました」
と報告したのは城長茂の腹心富部家俊[平家弘の一族]。
それを聞いた長茂は、
「三〇〇〇騎?笠原にはそんなに多く郎等がいたのか?」
富部に訊き返した。
「いえ。乗丹坊と山の太郎の軍勢が笠原と共に行動しているのです」
「乗丹坊と山の太郎がな。仕方の無い奴らだ。まあいい。戦いたいと言うのなら、好きにさせてみるのもいいだろう」
相変わらず余裕で城長茂は言った。
長茂にとって乗丹坊と山の太郎は、とても頼りになる男達だったのである。戦さに強かったので。お気に入りと言っても良い。しかも笠原頼直もそこそこ強いのである。この三人が、七〇〇騎の敵に三〇〇〇騎で突撃したのだ。敗ける訳が無い。て言うか、もう勝ったつもりでいるのである。
「では、もうそろそろ最終局面だな、家俊。三人の中で誰が義仲を討ってくれるか愉しみだ」
笑いながら言った。言葉通り本当に愉しげに。
義仲勢搦手左翼の大将楯親忠は、笠原勢の猛攻に耐えつつも、互角以上に戦っていた。
「押し返せ!これ以上敵の進行を許すな!」
楯は叫びつつ馬上で兵らを指揮し、また激励しながら矢を射ている。これは義仲勢搦手右翼の大将岡田親義も同じ事であった。大手中央の海野幸広、その後ろの義仲本隊の動きと連動して、搦手左右の部隊が中央の部隊を護る様に、笠原勢の突進を食い止めているのである。この激戦の中、楯は戦場の周囲に注意を払っていた。楯は眼が良い。遥か遠くまで見る事が出来る。なので常に遠方に眼を光らせていた。と、楯は義仲勢四軍本隊の左後方に土煙りが上がっているのを見逃さなかった。
(来た!)
更に眼を凝らし良く見ると、軍勢の先頭に源氏を示す白い旗が見えた。
「義仲様に伝えろ!七軍国府軍、戦場に到着!と。行け!」
楯は郎等に命じた。
「もう一息じゃ!義仲はこの陣を突破すればすぐ前にいる筈じゃ!突っ込め!」
頼直は先頭部隊に命じ、自分の馬を駆けさせようとした。その時、
「頼直どの!郎等から報告が入りました!敵の別働隊を発見!義仲勢の左後方から接近しています!」
山の太郎が叫んだ。頼直は反射的にその方向を見ると、確かに土煙りが上がり、白い旗を掲げた軍勢が遠くに見えた。
「でかした!やはり軍を分けておったな!だが二度同じ手を使って勝てる程、この儂はお目出度くは無いワイ!コレで奴らの姑息な作戦も終わりじゃ!別働隊と合流する前に、決着を付けてヤる!全軍!突っ込めーーーー!!」
「おおーーーー!!」
笠原勢の攻勢が強くなった。三〇〇〇騎で突進して来たのである。楯はそれを防ぎながら、
(七軍の接近に気付いたな!頼直め!同じ手は二度とは喰わん、という訳か!)
思いつつ、更に周囲を見渡すと、今度は義仲勢四軍本隊の右後方に、移動する部隊を確認した。楯は一瞬、戦う事を忘れ眼を凝らすと。
「赤い旗!」
叫んでいた。
続けて、
「義仲様に伝えろ!赤い旗が右後方より接近!行け!」
と郎等に叫んだ。
「報告します。義仲勢の左後方から、敵の別働隊がやって来ています」
越後勢の富部家俊が言った。
それを聞いた総大将城長茂は、
「兵を分けていたのか。で、数は?」
富部に訊く。
「おそらく四〇〇騎程かと」
「ははははは!たかが四〇〇騎の援軍か!かわいいものだな!」
長茂は大笑いしていた。
富部は更に、
「もう一つ報告が入っております。義仲勢の右後方から、今度は我らの味方の軍勢がやって来ている、との事です」
そう報告すると、
「ほう。信濃にも我ら平氏に付く者がいるとみえる。しかし今頃やって来るとは。信濃衆は随分と暢気なものだな」
愉しい、愉しくて仕方無い、といった感じで長茂は言った。まるで唄っているかのように。
「では、その遅れて来た奴らに義仲を攻撃させろ。郎等を送って命じておけ」
「はっ」
富部が応じ、郎等に命じた。
☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆
「義仲様!楯どのより報告!右後方より赤い旗接近!以上です!」
その報告を受けた義仲は、
「解った!ではこれより四軍は、国府から来た七軍と合流する!だが急ぐな!少しずつ左後方へと移動する!」
指示を出した。
この指示を伝えられた四軍の諸将、大手海野、搦手右翼岡田、搦手左翼楯、本隊葵は、その指示通り急がず慌てず整然と、左後方へと移動して行った。国府からの七軍に向かって。
(ん?今までは押されながらも互角に戦っていたのに、急に左後方へと引き始めたな?別働隊との合流を急ぐつもりか?)
頼直は、義仲本隊の動きを見て少し意外に感じていた。これまでの笠原勢の突撃を何度となく凌いで来た敵なのだ。別働隊が来たからと言って、すぐ合流するとは思えなかったのである。だが、
(そろそろ奴らは限界という事なのか?)
頼直が思っていると、
「頼直どの!義仲本隊の右後方に、味方の軍勢がやって来ています!」
乗丹坊が叫んだ。
「何じゃと!」
頼直が見ると、確かに赤い旗を押し立てた軍勢が、義仲本隊の右後方から、義仲本隊へと向かって来ている。頼直は思わす破顔した。笑顔の頼直御歳五三才。
「判ったぞ!奴らが急に別働隊と合流を急いだ理由が!義仲も気付いたのじゃ!平氏方が右後方から来るのを!二方向から挟み撃たれては堪らんからな!」
頼直は、全て合点がいった、とでも言うように怒鳴った。そして、一瞬で戦術を考え、指示した。
「ヨシ!その味方の軍勢に義仲本隊の横を突かせろ!儂らはこのまま正面から攻める!そうなったら我らの勝ちじゃ!」
それを聞いた乗丹坊は、
「判りました!郎等を送っておきます!」
答えた。
続けて、
「これで我らの勝利は決まりました!後は義仲の首を討つだけですな!」
上機嫌で、頼直に話し掛けた。
「その通りじゃ!だが!義仲の首は儂が貰うぞ!」
「そうは行きませんよ!私が義仲を討ち取ります!」
と乗丹坊。すると、
「俺を忘れちゃいませんか!俺も狙ってますよ!義仲の首を!」
山の太郎も上機嫌で叫んだ。そしてそのまま三人は突進して行った。
「総大将長茂様。更に良い報告が入っております」
腹心の富部が城長茂に言った。
「何だ?義仲を討ち取ったのか?」
長茂が期待に満ちた顔で訊く。
「その報告は、あと数時間もすれば入って来るでしょう。しかしそうでは無く、我が軍の味方が更にこちらに向かってやって来ている、との事です」
「ほう。味方な」
「はい。この本陣に味方の軍勢が、東西から向かって来ている、との事。旗の数は六本。その数およそ一六〇〇騎以上かと」
「ははは!信濃にもそれだけ我が平氏方に付く者達がいたのか!思えば、ここに着くまでにも我が軍が通る先々で、信濃衆は我が平氏方に降伏しておったからな!いいだろう!そいつらにも命じて義仲に攻撃をかけさせろ!郎等に命じて伝えさせるがいい!これは遅刻の罰だとな!ははははは!」
気持ち的に、遂に天にまで昇った城長茂は、最高の気分で言い放った。そして越後勢本陣から郎等らが六騎、赤い旗を掲げる新規の軍勢に向かって行った。先程の一騎と併せると、全部で七騎が平氏方の伝令として戦場を駆けていた。
「おーい!そこへ行くのは味方の伝令と見える!俺は会津の乗丹坊様の郎等だ!」
と声をかけると、
「そうか!私は本陣からの伝令で、総大将城長茂様に仕える郎等だ。これから新しく来た味方の軍勢に命令を伝えに行くところだ。義仲本隊を攻撃しろ、とな」
「何だ。俺も同じだよ。乗丹坊様の命令は義仲本隊を横から攻めろ、だったがな」
「分かった。では一緒に行こう!」
「ああ!」
と二騎の伝令は、義仲本隊の右後方から来る軍勢に向かった。
その後に越後勢本陣から出た六騎の伝令は、二騎は北東の方角に。二騎は東の方角に。一騎は北西の方角に。最後の一騎は西の方角に向かい馬を駆けさせていた。この伝令は新規の軍勢の赤い旗の数で決まったものであった。
この伝令が、各々命令を伝え終わり、全てが元いた部隊に戻った時には、平氏方越後勢の思惑通りの展開になりつつあった。赤い旗を掲げ、一番最初に姿を現した新規の軍勢は義仲本隊の右横から、今にも攻め掛かろうとしている。そしてその後に姿を現した六本の赤い旗を掲げた軍勢は、越後勢の陣の近くまで来ていて、義仲勢へ向かう為に軍勢を進軍させている。
その時、戦場の様子を観ていた義仲の眼が鋭く光った。
「今だ!旗を掲げろ!」
義仲が叫んだ。
と、義仲本隊に掲げられている源氏を示す四本の白い旗が、突然、二十本以上に増えたのである。郎等らが一気に旗を掲げたのだった。
同時刻。
これを見ていた頼直は、
「!!!何の虚仮威しなんじゃ?全くイマドキの若ェヤツらのヤる事は分からんわ」
少し驚いたが、その事を隠す為に、ことさら上から目線でオッさん臭い事を言い、愚痴りながら突撃していた。
同時刻。
新しく北西から来た軍勢では、
「合図だ!」
言ったのは第一軍大手大将井上九郎。
「赤い旗を下ろせ!」
命じたのは一軍搦手大将根井小弥太。
同時刻。
北東から来た軍勢では、
「来たか!」
叫んだのは二軍大手大将栗田範覚。
「いよいよだな」
呟いたのは二軍搦手大将手塚光盛。
同時刻。
東から来た軍勢では、
「矢を番えろ!」
命じたのは三軍大手大将村上義直。
「白い旗の準備はいい?」
訊いたのは三軍搦手大将戦う美少女巴。
同時刻。
西から来た軍勢では、
「隊列を崩さず馬を駆けさせろ!」
指示したのは五軍大手大将樋口兼光。
「後れをとるな!」
叫んだのは五軍搦手大将千野光広。
同時刻。
一番初めに姿を現した軍勢では、
「先程の伝令の言う通りにしようか」
言ったのは六軍大手大将小室光兼。
「それはいい。ただし笠原の横っ腹にですが」
応じたのは六軍搦手大将落合兼行。
同時刻。
国府方面から出た軍勢では、
「義仲様を護る!」
叫んだのは七軍大手大将今井兼平。
「四軍本隊に合流するぞ!」
命じたのは七軍搦手大将金刺盛澄。
そして。
四軍本隊。
「これまで良く我慢してくれた!」
兵らを労ったのは四軍中央大手大将海野幸広。
「六軍と呼応して敵に突っ込むぞ!」
命じたのは四軍右翼搦手大将岡田親義。
「七軍と共に笠原を叩く!」
叫んだのは四軍左翼搦手大将楯親忠。
「総てこちらの作戦通りに」
言ったのは祐筆大夫坊覚明。
「待たせたな。葵」
優しく言ったのは総大将源義仲。
「待たせ過ぎです」
拗ねたような台詞のわりには楽しそうに応じたのはアクティブクールビューティー葵。
そして義仲は太刀を引き抜くと、その太刀を天に翳し、
「全軍!撃って出る!行くぞ!」
叫んだ。と。
「おおおおおおーーーーーー!!!」
物凄い鬨の声が戦場に響いた。
その時、後からやって来た軍勢の七本の赤い旗が下ろされ、代わりに源氏を示す白い旗が一斉に掲げられた。つまり後から戦場にやって来た軍勢は、赤い旗だろうが白い旗だろうが全て義仲勢だったのである。
義仲は自らが囮となり、敵の注意を自分に集中させ、油断させながらこの時を待っていたのだ。そしてこの時、義仲勢全軍は遂に攻撃に転じたのである。越後勢の両脇にいた一軍井上、小弥太の軍勢は敵の総大将城長茂のいる本陣へ突撃を敢行。二軍範覚、光盛の軍勢、三軍村上、巴の軍勢、五軍兼光、千野の軍勢も各々左右から越後勢に至近距離から突撃した。
不意を突かれ、しかも横から攻められ、懐ろ深く入り込まれた越後勢は大混乱に陥った。数だけは多いが始めからヤる気の無い軍勢であり、何より寄せ集めの兵達なのである。この兵達は一度混乱すると、それがすぐ不安に直結してしまう。そしてその不安に耐えられない兵達はすぐ行動に移してしまうのだ。逃げ出す、という行動に。こうなった兵達には、四万騎VS三〇〇〇騎で戦っているのだから数では自軍が圧倒的に有利である、という事実などは途端に忘れ去られてしまうらしい。要は浮き足立って右往左往するだけの烏合の衆になってしまい、こうなったらもう軍勢などとは言えない状態であった。越後の軍勢は、ここで壊れてしまったのである。
その大混乱した越後勢の中を、義仲勢が縦横無尽に駆け回り、陣形を斬り裂き、隊列を寸寸[ずたずた]にし、次々と越後勢の騎馬武者を討ち取って行く。この攻撃力の強さ、打撃力の激しさと言い換えても良いのだがこれが義仲軍の真に畏怖すべき本当の力であった。
「畜生!義仲の本当の狙いはコレか!」
馬上で、してやられた事に憤り怒鳴る頼直。
だが、完全に流れ、と言うか勢いは義仲勢に持って行かれた。先程まで攻撃していたのは笠原勢だったが、今や、攻撃される側に廻ってしまったのである。義仲勢七軍、六軍、本隊四軍の一斉攻撃で、左右正面と三方向から突撃された笠原勢は、この攻撃で半数以上の兵を失い、三〇〇〇騎いた兵も今は一二〇〇騎にまで減らされていた。
「一度退くぞ!」
頼直は乗丹坊に言い、兵を纏めて退却しようとしたその時、
「!」
頼直の右肩に激痛が走った。馬上で咄嗟に身を屈めた時、背後から薙刀で突き刺されたのだと気付いた。
と、
「逢いたかったわ。笠原頼直!」
頼直にとって聞き憶えのある声であった。
「葵か!」
振り向きざま憎々しげな目で睨んで、頼直は怒鳴る。
そこには長刀を構えたアクティブクールビューティー葵がいた。
どうやら葵にヤられたらしい。
と、葵が薙刀で斬りつけて来た。
頼直は辛くもこれを避け、太刀を抜こうとしたが、右手に力が入らない。と、頼直の目の前に薙刀の鋒[きっさき]が突き出された。
反射的にこれを避けた頼直だったが、兜の錣[しころ。頸部、首を守る為に鉢、ヘルメットに取り付けた防具]を引っ掛けられ、兜が弾き飛ばされた。葵が更に薙刀を振り回す。
その時、
「頼直どの!」
叫びながら頼直を庇ったのは、山の太郎だった。
葵の薙刀が、山の太郎の胸に深々と突き刺さっている。
頼直はその光景を半ば呆然と見ていた。
が、ふと気付くと馬が駆け出していた。横を見ると、乗丹坊が頼直の馬の手綱を掴み、一緒に馬を駆けさせている。
「頼直どの!大丈夫か!こうなったらとにかく本陣へ戻り、総大将の城長茂様をお護りしよう!」
乗丹坊が叫ぶ。
「ああ、そうじゃな・・」
頼直は右肩の痛みと戦いつつ答えた。
ここに越後勢唯一の攻撃部隊が敗退した。そして越後勢は完全に防戦一方となったのである。
☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆
「お逃げ下さい!長茂様!」
越後勢本陣も、義仲勢一軍二軍の突撃に曝され、防戦するのがやっとという状況で、腹心富部家俊が叫んだ。総大将城長茂は、自分が何をして良いのか分からない、といった風情で右往左往しているだけであった。こうなるといくら総大将とは言え、不安に曝されている兵らと何も変わるところが無い。ほとんど泣きそうになりながら。
と、そこに、
「御無事ですか!城長茂様!」
と、馬を乗り入れて来た者がいた。会津の乗丹坊と笠原頼直である。
「おお!乗丹坊!頼直!」
地獄に仏、と言った感じで長茂は縋るような表情で言った。
すると富部が、
「良いところに来てくれた!長茂様をお護りして越後へ退却してくれ!乗丹坊!笠原どの!敵は私が何とか防いでみせる!頼みます!」
叫び、郎等を引き連れ、馬を駆り義仲勢へ撃って出た。
「御武運を!」
「御武運を!」
乗丹坊と頼直が、富部の後ろ姿に声をかけ、長茂を馬に乗せ、本陣辺りの味方を掻き集めて退却しようとした時、義仲勢が突撃して来た。
一軍搦手根井小弥太の軍勢であった。
乗丹坊と頼直は一瞬、
(ここまでか!)
思った時、
越後勢が現れ義仲勢一軍の行く手を阻んだ。
「そうはさせん!」
富部家俊が叫んだ。富部の軍勢だったのである。
「総大将を護るのか?まぁ武将ってのはそういうもんだからな」
一軍搦手大将根井小弥太は言う。
と同時に薙刀を構え富部に向かって突進した。
富部もこれに応じ、同じく薙刀を手に小弥太に向かって行った。
擦れ違いざまに身体を薙刀で貫かれ、馬から落ちた武将は富部家俊であった。だが、富部は貴重な時間を稼いだ。この間に乗丹坊と頼直に連れられた総大将城長茂は、この場から逃げ出す事は出来たのであった。
とは言え、まだまだ義仲勢が攻めて来る事には変わりが無いのである。頼直が傷の痛みに耐えながら戦場を見回して見ると、味方の越後勢は、四万騎もいたというのが嘘のように姿を消していたのである。討ち取られた者も多かったが、大半はそうでは無く、おそらくばらばらに逃げ散ったのだろう。
(四万騎の大軍勢と言っても、敗ける時はこんなもんなんじゃな)
頼直が思った時、風を切る音がした。いや、矢が飛んで来たのである。
と、
「長茂様!しっかりして下さい!長茂様!」
乗丹坊が叫んでいた。
見ると城長茂が落馬している。
その長茂の左腕に矢が突き立っていた。
「長茂様を速く馬に乗せろ!敵がやって来るぞ!」
頼直が怒鳴った時、義仲勢が現れ、矢を射て来た。
「周りを囲んで長茂様だけを護れ!」
乗丹坊が叫び、越後勢は一気に駆けた。だが、次々と越後勢は矢に射られ落馬していく。怖ろしく正確に矢を射て来る。この時の義仲勢は二軍搦手大将手塚光盛の軍勢であった。
とにかく馬を駆けさせ、矢の攻撃から遠去かった越後勢だったが、逃げた先にも義仲勢がいた。
(しまった!誘導されたのか!)
乗丹坊は気付いたが、どうしようも無い。
戦って突破するしか無いのである。
迷わず乗丹坊は馬ごと義仲勢に突っ込んで行った。太刀を抜き、敵の先頭にいる武将に向かって。
(女か?)
乗丹坊は敵の武将を見た時に気付いた。
綺麗な人であった。
どちらかと言えば可愛らしい感じの。
と、馬上のその美しい女武将も、こちらを見ると太刀を引き抜いた。
が、向かっては来ない。太刀を抜き待ち構えているのである。
「いい度胸だな!」
乗丹坊は言った。
と、何故だが判らないが名乗りたくなった。
「私は会津恵日寺の僧!乗丹坊!」
力一杯叫びつつ斬りかかる。
美しい女武将はそれを避けもせず、刀を受けもせず、一見無造作に乗丹坊のガラ空きの胴に太刀を払った。
「!」
その時、乗丹坊の身体に今まで経験した事の無い衝撃が襲った。乗丹坊の身体が鎧ごと断ち斬られたのである。かろうじて上半身と下半身は繋がっているが、ほとんど両断、と言うべきであった。
と、
「貴方が名乗ったのだから、私も名乗るわ」
乗丹坊の耳に静かで美しい声が届いた。
乗丹坊は呆然としながらも、思わず振り向く。
そこには美しくも可愛らしい女武将が、こちらを静かに見ていた。
「私は巴」
その声を聴き終わると、そこで乗丹坊の意識は途切れた。
この間、頼直は城長茂と共に逃げ延びる事に成功した。
深手を負った頼直であったが、総大将城長茂をフォローし、キツい逃避行を続けた。
「義仲様!これから追撃に移りましょう!」
葵が義仲に言った。
四軍本隊は、六軍、七軍と合流し笠原勢を破った後、越後勢が本陣を構えた所まで進軍していた。今この戦場にいる越後勢は、将に棄てられ、逃げ遅れた兵達しか居なかった。
その様子を見ていた義仲は、
「いや。戦さの勝敗は既に決まった。兵を纏めてくれ。戦闘は終わったんだ。我らの勝利で」
宣言した。
「しかし!敵の総大将城長茂をまだ討ち取っていません!」
葵は言い募る。その時、
「解りました。一軍二軍三軍五軍に戦闘終了の伝令を送りましょう」
言ったのは七軍大手大将今井兼平であった。
葵が、信じられない、といった感じで兼平を見ると、
「待ってくれ、兼平」
義仲が言った。
続けて、
「これも命じておいてくれないか。
一つ、勝敗が決まったからには、これ以上殺すな。
二つ、生け捕りにした敵の子や兵らは殺さず、今すぐ解放しろ。とな」
命じた。厳命、といった感じで。
「解りました、義仲様。その命令は徹底させます」
兼平が答えると、
「では伝令は六軍七軍から出す、としよう」
言ったのは七軍搦手大将金刺盛澄。
「そうですね。四軍は朝から笠原勢と戦っていたから、我らがやりましょう」
と六軍大手大将小室光兼が言った。
「頼んだぞ」
義仲が言うと、六軍七軍の諸将は、自分の軍勢に戻って行った。義仲の命令を徹底して実行する為に。
「すまない、葵。何も無視した訳では無いんだ」
先程の遣り取りを茫然と眺めていた葵は、義仲の声で我に返った。
「だが、多分これが私のやりたい遣り方、だと思っている。堪えてくれるか?」
義仲が優しく詫びつついった。
葵の眼を真剣に見詰めて。
葵はその眼を見た時に理解した。
これが源義仲なのだと。
これが源義仲率いる我が軍の遣り方なのだと。
甘い、と言われるかもしれないが、こういう遣り方しかやらない、いや、こういう遣り方しか出来無いのだと。そして、源義仲に従っている武将達全員がこの事を理解し、その上で従い、戦っているのだと。
これに気付いた時、葵は自然と素直な気持ちになっていた。
そして、
「解りましたわ、義仲様。私も義仲様の麾下の武将ですから、堪えてみせますわ」
少し戯けて見せて葵は答えた。
葵御前には珍しい微笑みを浮かべた優しい表情で。
☆次回 3/28 20:30更新 ☆