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その時 木曽殿の動きは #10

解説
C O M E N T A R Y

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大河ドラマ「鎌倉殿の13人」に合わせ義仲陣営を「説明」
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【監修】義仲館P 西川かおり

木曽殿の13人(信濃編)
 1180年末の段階では、頼朝には南関東の武士が従い、佐竹攻めをきっかけに北関東の武士も頼朝方になびいていきます。
 義仲にはまず信濃国・上野国西部の武士が従いました。義仲軍の武士たちから大河ドラマに倣って13人の信濃武士を紹介しましょう。


今井兼平
木曽四天王の一人。義仲を育てた中原兼遠の子の中で最も義仲と年齢が近く「一所の死」を約束している。戦場では先鋒隊を率いることが多い。これらは平家物語による情報で、同時代人の慈円が書いた回想録では「木曽四天王は樋口・根井・楯・山田」となっており、今井の存在が抜け落ちていた。

樋口兼光
木曽四天王の一人。今井兼平の兄。義仲から見ても頼りになるお兄ちゃんだったようで、倶利伽羅合戦で勝敗のカギを握った迂回部隊、義仲の中国遠征時の京都番など、重要な別動隊を任されている。これらは平家物語による情報だがおおむね信頼できるとみられる。


たぶん今井兼平の妹。たぶんなのは史料で確定されないため。義仲とは恋愛感情があったとかなかったとか。敵の首をねじ切って捨てる怪力を持つ。それは木曽町の巴渕に棲む竜神の力を得ているからだという。

落合兼行
たぶん今井兼平の弟。たぶんなのは諸説あり史料で確定されないため。佐久に落合という地名があったり、源平盛衰記での名前の記述順から根井や楯と兄弟という説もある。

根井小弥太親忠
たぶん木曽四天王。たぶんなのは諸説あるため。四天王の一人は「根井」なのは間違いないが、親の大弥太行親(保元の乱にも参加)なのか、子の小弥太親忠なのか意見が分かれる。大弥太が一世代上なのに四天王とすると今井らと同格になってしまい違和感があるため。義仲館では小弥太が四天王説を採用している。

楯六郎行忠
たぶん木曽四天王。たぶんなのは木曽四天王の4人目に諸説あるため。現在一般的に楯六郎が四天王とされていることが多いが、江戸時代の浮世絵などでは確定しておらず、上州武士や高梨が四天王になっている場合もあった。最近義仲研究の第一人者であり大河ドラマの監修を担当されている長村先生が発見した文書にも高梨は登場しており、相当重要な家臣だったと考えられる。しかしそれ以上に、楯は義仲の家臣の中で唯一、同時代人・九条兼実が書いた日記「玉葉」に登場し、存在が確定している。大変貴重な存在。

高梨
四天王の一人なのでは?ともされているのに、逸話がなく詳細がわからない。100種類もバージョンがある「平家物語」の中で現在最も入手しやすい「覚一本」では、高梨は義仲軍勢の中で部隊を率いる大将として、すべての戦に「仁科・高梨・山田」と列記されるが、とにかくエピソードがない。覚一本成立のころ高梨氏や仁科氏が信濃武士を代表する名字として認識されていたのかもしれない。

手塚光盛
漫画の神様・手塚治虫先生のご先祖様。「火の鳥 乱世編」では手塚先生の似顔絵そのままの光盛が一瞬登場する。諏訪社下社の大祝の弟なのか、甥なのかはっきりしないが、義仲の側近の一人として死の直前まで付き従う。義仲の命の恩人・斎藤実盛を討ち取ってしまい、実盛の死を題材とした能・歌舞伎の登場人物としても知られている。諏訪大明神絵詞によると義仲は諏訪社下社の婿となっており、親族ともいえる。


海野幸広
真田氏のご先祖様。大河ドラマで人気が爆発した真田昌幸は海野氏の子孫であることに誇りを持っていた。とはいえ、昌幸が直接リスペクトしていたのは幸広の子・海野幸氏のようだ。海野氏は中原兼遠の菩提寺・林昌寺に伝わる伝承によると義仲を婿としていたという。平家物語では義仲を滋野(海野)幸親が後援したとある。

小室光兼
江戸時代の浮世絵などで義仲の重臣の一人として書かれていることが多い。その理由は、平家物語の中で頼朝が信濃に攻めてきた時、「義仲の子・義高を鎌倉に送るべき」と主張したというエピソードがあるため。ちなみに義高の武芸の師範で烏帽子親だった…などの伝承が小諸市にある。早いうちに義仲方から頼朝側につき、初期の信濃御家人のリーダー格となった。

仁科盛家
高梨と共に覚一本では義仲の戦で大将として毎回名を挙げられているが、同じくエピソードがない…。しかし仁科氏は長野県において大変貴重な平安時代の仏像を残しており、奉納した一家の名を知ることができる。また同時代人が残した日記「吉記」の中にも名が見える。義仲が京中守護となった時に、仁科盛家が大将の一人として一区画を任されているというものだ。他の大将は美濃や尾張の源氏が占めているため、都での認知度・家柄など特別な武将だったことがわかる。が、エピソードがない。

長瀬義員
義仲と遠い親戚にあたる信濃源氏。元服前後の若い義仲とのエピソード伝承がある希有な存在。木曽町と山で接する塩尻市、義仲の城がある上田市にゆかりがあり、義仲との特別深い関係がうかがわれる。


13人目…は栗田にするか、村上にするか、井上にするか、いやいや金刺とか中原とか望月とか…と考えてみたものの、絞りきれなかったため保留とします。


「たぶん」が多いのは、残念なことに史料で確定できる情報がなく、諸説があるためです。平家物語や各地に残る伝承は、それぞれの家が後世どのような立ち位置にあったかで影響を受けているため、うのみにはできませんが、情報が少ないからこそ、地名を冠する武士たちの姿を当時の時代背景の中に置いてさまざまに想像できるのが歴史を知る楽しみと言えるでしょう。


略年譜
H I S T R Y
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義仲をたどる
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久寿元年(1154年) 誕生

久寿2年(1155年)8月16日
大蔵合戦で父を討たれ、信濃へ

〇中原兼遠に養育される


保元元年(1156年)7月11日 保元の乱
海野ら信濃武士団は後白河法皇方(源義朝・平清盛など)に参戦
平正弘は敵対する崇徳上皇方(源為義など)に参戦

平治元年(1160年)12月9日 平治の乱
ほとんどの信濃武士が参戦せず

●仁安元年(1166年) 元  服

〇諏訪社に婿入りし娘が生まれる

〇承安3年(1173年)?
嫡男・義高生まれる
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治承3年(1179年)
仁科氏・覚園寺(大町市)千手観音開眼供養
善光寺(長野市)炎上
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治承4年 (1180年)
4月
以仁王の挙兵

 9月7日
市原の合戦


義仲依田城(上田市)へ

9月11日
菅冠者自刃

10月13日
義仲上野国へ。上野国府周辺の混乱をおさめ、
父・義賢の家臣を味方に加える。
その際に様々な武士への安堵状を作成したのか、
北信濃の武士・藤原資弘への下文が現存する

12月24日
義仲信濃へ戻る







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