義仲戦記25「平家都落」
「この日が来るのを心待ちにしていました。
この延暦寺が全面的に源氏方に協力出来る日を」
一同が座に着くと、先ず恵光房阿闍梨珍慶は晴れやかにこう切り出して義仲を迎えた。
義仲はこれを受け微笑みを浮かべ小さく頷くと、
「この度の延暦寺の御英断に対し、この義仲、全国の源氏を代表して厚く御礼を申し上げます」
深々と頭を下げて一礼して応じた。
比叡山延暦寺総持院。
義仲勢約五万騎は琵琶湖横断を果たし、そのまま西岸を南下。堅田、雄琴を経て坂本に陣を構えていた。
義仲は自ら比叡山に登る為に、第四軍大将樋口兼光、千野光広の軍勢三〇〇〇騎を率い延暦寺へと向かった。この時、残りの軍勢約四万五〇〇〇騎は、第六軍大将の今井兼平に任せ、坂本に駐留させている。
義仲以下樋口、千野の三〇〇〇騎が、日吉神社を過ぎ、山路を延々と登った先に待ち構えていたのが、日本一の格式と三〇〇〇の衆徒を擁する大寺院、天台宗総本山比叡山延暦寺、そしてその僧、恵光房阿闍梨珍慶であった。
珍慶は義仲一行遠出迎えるとすぐさま総持院に案内し、一足先に来ていた楯忠親、林光明、富樫入道仏誓、大夫坊覚明以下三〇〇〇騎の軍勢と合流させた。
延暦寺総持院の前庭には、現在義仲勢約六〇〇〇騎がひしめいている。
義仲以下の主だった武将らが総持院内に案内されると、真っ先に阿闍梨珍慶が冒頭の挨拶を述べた。
義仲が一礼すると、樋口、千野、楯、林、富樫、覚明も、同じく頭を下げた。
「ついては我が軍勢を総持院に入城させて頂き有難う御座います」
重ねて義仲が礼を述べた。
阿闍梨珍慶は満面の笑みで首肯くと、その傍に控えていた白井法橋幸明、慈雲坊寛覚が、
「これから協力して行くのなら当然の事ですよ、義仲どの。なぁ寛覚」
「幸明の言う通りです。義仲どの」
この二人も嬉しげに答えた。義仲は二人に穏やかな笑みを向けると、
「重ね重ね世話になった。幸明御坊。寛覚御坊」
礼と共に応じた。
と、義仲は心持ち表情を引き締めると、
「とは言え、いつまでも我が軍の部隊が延暦寺に駐留している訳にはいかない。その様な事は無いと思うが、万が一、我が軍の存在に危機感を募らせた平氏方が比叡山に軍勢を差し向けて来たら、我が軍も応戦せざるを得ず、ここは戦場になってしまう危険がある。堂塔を焼かれ、伽藍を荒らされ、衆徒が害される事などあってはならない以上、我らは速やかに比叡山を下りたい、と思う」
義仲は告げた。
「・・・確かに平氏は南都[奈良]で興福寺と東大寺を焼き払いました・・・我が延暦寺にも牙を剥く事もある、かも知れん・・・」
阿闍梨珍慶は厳しい顔で呟いた。
と、
「大丈夫すよ。平氏方にそんな真似をさせない為に、我等は比叡山を降りるんですから。ですよね?義仲様?」
覚明があっけらかんと言い放つ。義仲は苦笑して首肯くと、
「覚明の言う通り御心配には及びません。阿闍梨どの。
我が軍はこれより比叡山を下り、全軍で瀬田に向かいます。平氏方も我が軍の動向には注意を払っていますから、我等が瀬田に本陣を構えれば平氏方も軍勢を瀬田に差し向けて来る事になるでしょう。
これはあくまでも平氏方が戦さに撃って出て来る場合ですが、そうなれば平氏としては比叡山にまでは手が廻らなくなる筈です」
義仲が自信を持って言うと、阿闍梨は眼を見開き義仲を頼もしそうに見直しながら、
「成程。確かに義仲どのに対する為には平氏方と言えど全軍で掛からなければならないですからな。
この比叡山に余分な兵力を割く事など出来ない、と言う訳ですね」
言うと、義仲は大きく首肯き、
「そうです。ただし、これより状況がどう変化しても対応出来るように、延暦寺には警護の部隊を三〇〇〇騎程、置いておきたいのです。
宜しいですか?阿闍梨どの」
「それは心強い。願ってもない事です。」
「この部隊の者に京方面の八瀬、近江方面の穴太を監視させておけば、平氏の動向がある程度判る筈です。
そして万が一、何かあった時には瀬田の本陣に報せていただければいつでも駆けつけます」
義仲が請け負うと、
「行き届いた配慮。恐れ入ります」
阿闍梨珍慶は、義仲の細やかな心遣いに感心し、礼を言った。
「では比叡山警護の部隊三〇〇〇騎は富樫入道仏誓どのに率いてもらう」
義仲が指示すると、
「はっ!お任せ下さい!」
仏誓が力強く応じる。
と、義仲の傍らに控えていた四天王筆頭樋口兼光が、
「そこで延暦寺の皆様には一つだけ、我らよりお願いしたい事があります」
阿闍梨、幸明、寛覚を見詰め、静かに言った。
「何なりと」
阿闍梨が促す。
兼光は背筋を伸ばし、姿勢を正すと、
「我が主人義仲はこれまで、京を戦火に晒さない、この事のみを心掛けて来ました。そしてそこには当然この延暦寺も含まれます。
これ以後、平氏方がどの様な対応をして来るか判らない以上、延暦寺の衆徒の皆様には比叡山の寺域を護る、この事だけに専念していただきたいのです」
「それは我ら悪僧がみだりに出しゃ張るな、て事を言いたいんですか?」
慈雲坊寛覚が口元に笑みを浮かべつつ応じた。
が、その眼は笑ってはいない。細められた眼に針の様な鋭い光を宿している。寛覚は兼光の言い様を皮肉と受け取ったらしい。要はカチンと来たのであった。
「比叡山の衆徒の御活躍は存じております」
兼光は、ひたと寛覚の眼を見据え、皮肉ではなく真摯に応じた。
続けて、
「だからこそ、ここは御自重していただきたいのです。衆徒の皆様が状況の変化に動じる事無く、堂々と延暦寺に構えて居て下されば、我が主人義仲の念願の一つが叶う事になります」
静かに言い放った兼光の眼に宿っていたのは、誠実な想いだけであって、皮肉や他の者を見下す思いなど欠片もそこには見て取れなかった。
兼光には他意など無かったのである。
寛覚はそれを悟り苦笑すると、
「樋口どの、先の言葉は忘れて下さい。拙僧の勘違いでした」
深々と頭を下げ、続けて、
「解りました。我ら比叡山三〇〇〇の衆徒、これよりは例え平氏からの挑発があろうとも、これに乗らずにただひたすら寺域を護る事とします」
明るく言った。
と、
「いやあ。兼光で無くとも一言、言いたくなるって」
二人の遣り取りを面白そうに見ていた覚明が、にやにやしながら、
「何せ寛覚にしろ幸明にしろ、妙にヤる気充分でさあ。
今にも衆徒らを引き連れて京の六波羅[平氏の本拠地]に攻め込みそうな勢いだったからさ」
呆れた様に言うと、総持院は笑いに包まれた。
名指しされた寛覚、幸明も大笑いしている。
「私の発言で気を悪くされたのなら謝ります。言葉が足りませんでした」
兼光は律儀に言い添えると、
「いや。謝罪するのはこちらの方です。
他意の無い言葉を勝手に曲解して突っ掛かった拙僧が悪い。申し訳ありませんでした」
寛覚が殊勝に頭を下げ、兼光に謝罪した。
と、
「まったく。幸明と言い、寛覚と言い、初めにウチのなら四天王と口喧嘩しないと気が済まないのかねえ。厄介な人達だ」
呆れ果てた様に皮肉たっぷりで覚明が言い放つと、ぎろり、と音がしそうな程の眼付きで幸明、寛覚が睨みつつ、
「「うるさい。義仲どのの祐筆」」
敢えて名を呼ばずに声を揃えて答えた。
がすぐに表情を改め義仲に向き直り、
「警護の兵まで付けていただいた以上、比叡山の事は御心配無きよう」
寛覚が言うと、次いで幸明が言った。
「義仲どのは心置き無く自らが頼み信じるところへと邁進して下さい」
義仲は柔らかな笑顔で大きく首肯き応じると、
「では、お言葉に甘えさせていただく」
穏やかに言い、
続けて、
「これより我らは富樫どのの三〇〇〇騎をここに残して、坂本の本陣へと戻る」
指示すると、
「今から、ですか?」
阿闍梨珍慶が驚いた様に声を掛けた。
幸明、寛覚の二人も眼を丸くして呆気に取られている。
「はい。私の考えでは今が本当に重要な時期なのです。
平氏方が決戦を挑んで来るにしろ、来ないにしろ、その前に我らとしてはやれる事を総てやっておきたい。
おそらくこれより十日間のうちに、何であれ状況は大きく変化する事になります」
義仲は変わらず穏やかに言う。
が、その眼は幾分真剣なものになっていた。
阿闍梨は瞬時に義仲の気迫を感じ取ると、無言で重々しく頷く。
「では失礼します、阿闍梨どの。世話になったな、幸明御坊、寛覚御坊」
義仲は立ち上がると、礼を言い、麾下の武将らに向かい、
「我らはこれより坂本の本陣に戻る。
本隊と合流を果たした後、坂本の本陣を引き払い、瀬田に向け出発。
近江源氏の山本義恒どの、錦織義広[山本義恒の息子]どのの軍勢との合流を図る」
命令しつつ馬に跨がると、
「行くぞ!」
号令を掛けた。
「おおおっ!!!」
麾下の武将らと兵がこれに応じると、その重々しく低い雄叫びは比叡山に木霊した。
☆
「おお!安田義定どの!」
満面の笑みで脳天気に馬上で手を振っているのは新宮十郎行家ドノであった。
そんな無責任で弛んだ笑顔を見た甲斐源氏の安田義定は、行家に対する内心の嫌悪の感情を面に出さない様に苦労しながら、無理に笑顔を作り片手を上げて応じて見せた。
と、行家は相変わらずの厚顔無恥ぶりを遺憾無く発揮しながら馬を近付けて来ると、
「安田どの!伊賀では苦労を掛けたナ!
いやいや!ワシの方もだナ、意外に吉野大衆を味方に付けるのに手間取ってしまってナ!
だがさすが甲斐の安田義定どのじゃ!見事、伊賀で平氏の家人どもを蹴散らし、大和[奈良]まで進軍して来るとはノウ!
ワシが奴ら平氏の後背を突くまでも無かったようじゃナ!
ま!何はともあれ目出度い事じゃ!」
上機嫌に捲し立てた。
安田は気を抜くと睨み付けたくなるのを必死で堪えつつ、微妙に引き攣った笑顔を作り、行家に頷いて見せた。
安田義定はもう既に理解していた。
この目の前でへらへら笑っている新宮十郎行家という調子の良いだけの薄っぺらな人物の本性を。
それは以前、伊賀路での平氏方との戦いの最中に突然、
『ワシは吉野大衆を味方に付け、迂回して平氏方の背後から襲い掛かる!』
と一方的に告げ、軍勢の半数約二〇〇〇騎を引き連れ戦線を離脱した行家の行動が、ただ単に厄介な仕事を他人に押し付け、己が安全な場所に逸早く逃げ去る為の体の良い言い訳でしか無かった事を、安田義定は苦い思いと怒りと共に理解せざるを得なかったからである。
安田も最初は行家の事を、源義朝[頼朝の父]や源義賢[義仲の父]の弟であるし、名流河内源氏の血筋であるので、謙って接していたのであったが、もうそんなつもりは毛頭無かった。とは言え、このテの小さい男は、こちらが急に態度を変えると、何をどう曲解し、逆恨みをするか判らないので、安田としては行家に対し態度を変えずにいてやるが、今後、信用は一切しない、と思い定めていたのである。
伊賀で安田は行家が敵前逃亡した後も、半分に減った軍勢を良く纏め、平氏の家人家継法師と互角以上の戦闘を続けていき遂に平氏方を後退させ、これを斥ける事に成功。そのまま後退する平氏方を追撃し、山城辺りで平氏方が完全に撤退した事を確認した後、大和に入ると、そこに居たのが行家の軍勢だった、とこう言う訳だったのである。
「吉野の衆徒はどのくらい集まりましたか」
行家の顔など見たくも無い安田は、軍勢を見渡すフリをしながら行家に訊く。と、
「まあ一〇〇〇騎程じゃナ!
だがこれで我らの兵力はワシの二〇〇〇、
吉野の一〇〇〇、安田どのの二〇〇〇で併せて五〇〇〇騎じゃ!」
得意そうな行家の調子っ外れな濁声を背中に感じつつ、
「ではこれより全軍で北上して京へと?」
続けて訊く。
「その通りじゃ!我らが京への一番乗りを果たすのじゃ!」
更に声を張り上げて行家は叫んだ。
と、その直後、
「いや・・・ワシらが先に京へ着く訳にはいかんナ・・・
うむ・・・やっぱりいかん・・・」
先程の威勢が嘘の様に、何やらもごもごと呟いている。
「?」
安田は怪訝そうに振り返り、そのまま行家を見ていると、
「う・・・いや・・・ほれ!京のナ!
そう!京の状況次第じゃからナ!こう言う事は!
平氏の奴らがどう出るかも判らんし!
我が甥義仲の動きも気になる!そうじゃろう!ナ!安田どの!」
苦しい言い逃れをする様に、行家は狼狽えつつ同意を求めて来た。
そんな様子を見た安田には、行家の本心が判った様な気がした。
(おそらく行家は、京には一番乗りしたいが、平氏の主力軍勢と戦うつもりなど始めから無かったらしい。成程。
平氏の主力軍勢と義仲どのの本隊が戦っている隙を突いて京に入るつもりなのだろう。この男の考えそうな事だ)
一瞬、安田の顔に冷笑と嘲笑が浮かんだが、それを笑顔にまで作り上げ、
「その通りです。京の状況が判らないまま、迂闊に動く訳には行きませんが・・・では、こうしましょう。物見[偵察]の兵を多く出し、京の状況を把握してさえいれば、このまま進軍しても差し支え無いでしょう。
何かあればその都度、進軍を停止させ、様子を伺うのです。
どうですか?行家どの」
安田がもっともらしく提案すると、
「さすが安田どのじゃ!」
行家は簡単にノせられ、お手軽に調子を取り戻すと、
「京周辺に物見の兵をばら撒くのじゃ!急げ!
我ら本隊五〇〇〇騎はこのまま京へと進軍する!」
勢い付いて郎等に指示した。
そんな調子付いた行家の様子を冷ややかに横眼で眺めていた安田は、
(まぁ行家の事など、どうでも良い。
何であれ、これからは俺が損をしなければそれで良いんだからな)
思いつつも、口に出してはこう言った。
「進軍の速度を少し緩めましょう。行家どの」
にっこりと笑顔を顔に貼り付けながら。
☆ ☆
「現在、京の周辺で同時多発的にあぶれ源氏の連中が小規模な叛乱を起こしているが、これら全てに構っている余裕は今の我らには無い」
平氏方の軍事総司令平知盛が、居並ぶ平氏の公達に向け告げた時、平氏の本拠地六波羅の邸宅の一室は、重苦しい沈黙に支配されていた。
「そこで我らの最大の脅威である義仲に対し、平氏の全兵力を挙げてこれを迎撃する」
知盛が宣言した。
続けて、
「報告によると、義仲本隊の軍勢は瀬田に移動し近江源氏らと合流。
本陣を構えて動いていない。その数およそ六万騎。
それと義仲の別働隊と思われる新宮行家の軍勢が大和より京に向け北上中。その数およそ五〇〇〇騎。
本来なら我らは全軍で義仲本隊に当たりたいが、残念ながらそうも行かん。そこで対処療法でしかないが、兵を二つに分け、大手[本隊]の軍勢が義仲本隊に。搦手[別働隊]の軍勢が行家の別働隊に対する事とする。
大手の部隊は山科に出陣。搦手の部隊は伏見に陣を構え、侵攻して来る敵の撃滅を期す。良いか。徹底抗戦だ」
一気に作戦を指令した。
総司令知盛は一同を見回した後、最後に兄である総帥宗盛に向かい一礼し、
「以上です。宜しいでしょうか。総帥」
出陣の許可を求めた。
と、総帥宗盛はそれまで眼を伏せていたが、弟知盛の声に弾かれた様に顔を上げると、そろそろと眼を知盛に向けた。
その宗盛の心細そうな眼付きは、いつもの彼のものではあったが、何か決意を秘めている様な僅かな光がその両眼に宿っている事に、弟知盛は気付いた。知盛は兄を見詰めたまま、発言を促す様に小さく頷くと、宗盛は覚悟を決めた様に、大きく息を吸い込んで発言した。
「我が父清盛が世を去って後、我ら平氏一門の運は傾き始めたと言って良い有様となっている。
これもひとえに平氏一門の総領を継いだ総帥たる私の力不足と不徳の致すところであるが、それでも打開の道は無いか、と望みを掛けていた。
しかし、今はこれまで、と思われる。
この上は京で華々しく合戦を繰り広げる事もやぶさかではないが、それでは我らが幼き主上[安徳天皇]を戦さに巻き込んでしまう危険を冒す事となる。しかし、断じて辛い有り様を主上に御見せする事だけは避けなければならない。
私は事ここに至り、平氏一門の総帥として、院[後白河法皇]と主上とを御連れし、我ら一門と共に西国へと行幸されるよう御願い申し上げた。これが私の決意である」
(は?)
この場に居並ぶ平氏一門の公達らは一瞬、宗盛の言葉を理解出来なかった。
それはそうだろう。
何故なら宗盛が発言する直前までは、目前に迫った敵に対する軍議が開かれていたのであるから。
言うなれば、それまでの軍議を“ちゃぶ台返し”した訳だ。無意味にしたのである。がらがらぼん、とはこの様な事だ。
要は、
『私は平氏の総帥として色々努力してみましたが駄目でした。
運が悪い時ってそう言うものだよね。
だから法皇と天皇を連れて西国に逃げようと思って、もうその事を法皇に話しちゃいました。
これ決定ですからね。てへ』
とこう言う訳なのであった。
永遠とも言える空白の時が過ぎた様に感じていた公達らであったが、茫然としていたのは時間にして数秒の事。
宗盛の爆弾発言の意味を理解した公達らは、一様に驚きの表情を浮かべ、周囲を見回している。頭の中では理解したが、整理はついていないのだろう。
と、一瞬混乱はしたが、公達の中で逸早く事態を飲み込めた知盛が、
「京を放棄なさる、と言う事なのですね。総帥」
冷静に問う。
「そう言う事になる。が、これよりは主上が居られる所が京となろう」
宗盛はいつもの様に頼り無げではあったが、それでも堂々と答えた。
「そんな!我らが一丸となり戦えば義仲と言えど京には!」
宗盛、知盛の弟である重衡が異を唱える様に叫んだ。
と、
「控えよ。左近衛中将[重衡]」
落ち着き払った知盛が重衡を遮ると、
「総帥の決定された事だ。この様な時にこそ、お前が今言った様に我ら平氏は一丸とならねばならない。そうだろう?」
表情を緩め、諭す様に弟重衡に語り掛けた。
「・・・はっ。仰る通りです」
無理矢理自分を納得させる様に、重い溜め息と共に頭を下げ、重衡が応えた。
知盛は肯くと、表情を改め宗盛に向き直り、
「今はただ、どの様にも、総帥の計らいに任せましょう」
深々と頭を下げる。
と、居並ぶ公達らも同時に、総帥に向かい頭を下げた。
ここに平氏一門の方針は決定した。
京を放棄し、法皇と天皇を伴い、平氏一門総て連れ立って西国へと避難する事に。
重要な決定を一門の公達らが受け入れてくれた事に満足しながら、宗盛が大きく首肯く。
と、頭を上げた一同に向かい、
「先ずは福原[神戸]を目指す。
私は今から二位尼[時子。清盛の妻。宗盛、知盛、重衡、徳子の母]や
建礼門院[徳子。安徳天皇の母。宗盛らの妹]にこの事を伝え、
行幸の準備を急がせる。後の指図は知盛、お前に任せる」
命じると、そそくさとこの場から立ち去って行った。
確かに時間が無いのである。
そうと決まれば、一刻も早く準備を整え出発しなくてはならないからだ。だが、ただ逃げ出せばそれで良い、と言う訳では無い。
平氏一門に与えられた時間は少ないが、やるべき事、やらなければならない事は山の様にあるのである。彼らは急に忙しくなっていた。
「以上の決定に従い、我らはこれより京を放棄し、福原を目指す。
そこで大納言時忠どの[清盛の妻、二位尼時子の兄。平氏にあらずは人にあらずじゃ!とか言い放っていた当の本人]と時実どの[時忠の子]には主上を御連れして欲しい。
内侍所[八咫鏡]、神璽[八尺瓊勾玉]、宝剣[天叢雲剣]と共に[三種の神器]。それと、出来れば印鑰[いんやく。天皇の正式な印と諸官庁の蔵の鍵]、時の札[清涼殿にある時刻を表示する札]も持って行った方が良いと思う」
知盛が指示すると、時忠、時実父子は大きく首肯く。
続けて、
「皇太后宮大夫経盛どの[清盛の弟。経正、経俊、敦盛三兄弟の父]は二位尼と建礼門院に付き従って、これを護衛して下さい。
二宮様[安徳天皇の弟]も共に御連れする事を忘れずに御願いします。
門脇中納言教経どの(清盛、経盛の弟]には後白河院を御連れしていただきたい。
院の御所には我らの家人橘内左衛門尉季康が召し使われております。
この季康は頼もしい男です。この季康と協力して事に当たって下さい。
頼みます」
次々と矢継ぎ早に指示を出す知盛に、一門の長老格である経盛と教経も真剣な表情で肯く。
そして最後に知盛は一同に向かい、
「あとの者はそれぞれ邸に戻り、出発の準備をせよ。
準備が整い次第、各々それぞれの家系[親子、兄弟、家族]ごとに寄り集まり出発。
早ければ早い程良いが、遅くとも明日の朝までには京を発つ事が望ましい。一門の集合場所は長岡京とする。
先に出発した者は長岡京で、後続の者らを待ち、一門総てが揃ったところで福原に向かう。では急いでくれ。以上だ」
告げると、一同は返事をする暇も惜しみ、急ぎ各々の役目と、邸宅へと戻って行った。
「まったく・・・宗盛はどうかしておるぞ」
急ぎ足で馬に向かいながら大納言時忠がぼやいた。
「京を棄てる事がですか?父上」
同じく急ぎ足で従っていた子の時実が訊き返すと、
「いや。それは良いんだ。それより院の事だ」
「院の事、と言いますと?」
時実が首を傾げる。
「院に最初に京を棄てる事を馬鹿正直に告げるなど、平氏の恥だ」
馬の轡に足を掛けながら、呆れた様に時忠が言う。
続けて、
「我ら平氏は公卿とは言え武家なのだぞ。
たとえ京を棄て西国に落ちるとも、院の前で武士らしく京に骸を晒す覚悟だ、と嘘でも虚栄を張る事くらい出来なかったのか。
その後で院を連れ出すなり、何なり出来ただろうに」
ぼやきながら馬に跨ると、
「まぁ良い。ぼやいてる暇など無いか。時実!行くぞ!」
「はい!父上!」
時実、時実父子は馬に乗ると、郎党を引き連れ、三種の神器を持ち出す為、政庁へと駆け出して行った。
この父子の遣り取りを見ていた知盛は、一つ溜め息を吐くと、
「我らも急ごうか。家長」
傍に付き従う乳兄弟の伊賀平内左衛門平六家長に言い、二人伴って邸に戻ろうと歩き出した。
と、普段であれば必ず返事を返して来る家長が、何やら心配そうに知盛を見詰めて押し黙っている。
知盛は眼で、言ってみろ、と促すと、家長は真っ直ぐに知盛の眼を見て、
「京を放棄する事が最善の方法だったのでしょうか。
知盛様は徹底抗戦のお考えだったのでしょう?なのに・・・」
何故か口惜しそうに呟いた。
知盛は、そんな乳兄弟の様子を見て、思わず微笑を浮かべると、
「家長。私は別に、私の意見が通らなかった事が口惜しい訳じゃない」
優しく言った。
「しかし・・・」
家長が言い募るのを、手を挙げて制し、知盛は顔を家長に近付け小声になり、
「兄の決意を聞いた時は私も驚かされた。
敵が接近して来ている以上、京周辺で戦う事しか頭に無かったからな。
正直に言うと彼我の兵力差は大きく、敵義仲勢六万五〇〇〇騎以上。
一方我ら平氏は京周辺から目一杯掻き集めても、多くて一万五〇〇〇から二万騎に届くかどうかがやっとだ。
この兵力差では、戦える事は出来るが、我らが勝つ事は難しい」
囁く様に告げると、家長は眼を大きく見開き、
「では知盛様は、最終的に敵に勝つ為に、敢えてここは退く、と?」
勢い込んで問うて来た。
知盛はこれに笑顔で応じると、
「敢えて、はいらないさ。敢えて言うなら兄の決定が無ければ、敢えて兵力差があろうとも京で戦う事になっていただろう」
面白そうに答えた。
知盛は家長から顔を離すと、少し表情を引き締め、
「あぶれ源氏の奴らが五・六万で攻めて来ているだけの事なら、私は兄の決定に逆らってでも京を離れずに戦っていただろう。
どうせ奴らには何も出来んし、纏まりも無いから恐くも無い。
烏合の衆、と言う奴だ。
が、敵を統べるのは義仲だ。
我らが繰り出した十万騎の追討軍を、その半数以下の兵力で壊滅ただけで無く、更に先の出陣で、私はまんまと義仲にノせられ、遊ばれ、振り回された挙句、何も出来ずに京に撤退させられて、恥をかかされた相手だ。
我らの敵である以上、こんな事は言いたくは無いが、義仲は軍事にかけては天才と言って良い。
私も武将の端くれとして優れた武将とは、戦さ場で目見え戦ってみたいが、厄介な事に今の義仲は手に負えん」
冷静に分析すると、家長は今更ながら敵将の強さに思い至ったらしく、大きく息を飲み、知盛が続けるのを無言で待っていた。
知盛は、心配無用、と家長に再び微笑み掛けると、
「だから兄の決意を聞いた後、私は直ぐに頭を切り換える事が出来た。
京を放棄し、西国で軍勢を再編する事が出来れば、義仲に勝つ事も可能かも知れんと考え直してみた。
何も今、無理を押して勝利の危ぶまれる戦いをしなくても、次に戦う時に、ある程度こちらが万全な体勢で臨んだ方が勝利を掴める可能性は高くなる。まぁ、次があるかどうかは、兄の言い草では無いが、我らに運があればその様になるだろう」
明るく言い放った。
それを聞いた家長も、納得したのか、安心したのか、つられて笑顔になると、その場で足を留め一礼し、
「その様に思われているとは。わたしの考えが足りず、要らぬ差し出口をしてしまいました。申し訳ありません」
知盛に詫びた。笑顔で。
「さあ、これからは当分の間、寝る間も惜しんで立ち働かねばならん。
しなければならない事は文字通り山程あるが、取り敢えずは京から無事、逃げ出さなければな」
知盛は笑顔のまま、大きく伸びをし、家長を横眼で見ると、
「京から離れたくなければ、来なくても良いぞ」
敢えて冗談の様に本心を言ってみる。
と、
「解りました。ではお一人で西国へでも、何処へでも行ってらっしゃいませ」
家長は冷たい無表情で応じた。
と、
「あはははは。そう怒るな。冗談だ。私が悪かった、許してくれ」
知盛は心底可笑しそうに笑いながら、乳兄弟に頭を下げる。
「知りません」
家長は、つーんと顔を背けると思い出した様に早足になり、
「知盛様こそお一人で京に残っていらっしゃれば良いんです」
拗ねた様に応じると、知盛を置いてすたすたと歩き出して行く。
「ははは。この通りだ。許してくれ。家長」
拝む様にして謝る知盛だが、その様子を見る限り、笑いながら何か楽しい事をしているかの様である。何の事は無い。要は乳兄弟で単にイチャついているだけの事であった。
知盛は家長には追い付くと、
「では一緒に行こうか、家長」
優しげに問い掛けると、
「無論です。言うまでもありません」
まだ少し怒っているのか顔を背けたまま、家長が応じる。
「ははははは。そうだな。言うまでも無かったな。あははははは」
まだ拗ねている家長の様子が面白かったのか、知盛は大声で笑いながら歩いているうちに、いつの間にか自分の邸宅に辿り着いていたのであった。
この様な彼の姿は、乳兄弟の家長にだけ見せる、平氏方軍事総司令官平知盛の素顔であった。
この日、権勢を極めた平氏一門は総帥平宗盛の意志により、京を放棄し一門総てを挙げて西国へと向かう事と決定した。
これが世に言う『平家都落ち』である。
住み慣れた京を離れる事は、平氏一門の者達にとっては、辛く、そして行く先の事を思うと、暗澹たる思いで、心細い旅立ちであった事だろう。
しかし、この時に多少でも笑っていられる事が出来ていたのは、平氏一門の中では知盛一人であったかも知れない。