義仲館
その時 木曽殿の動きは #7
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その時 木曽殿の動きは #7

義仲館

解説
C O M E N T A R Y

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大河ドラマ「鎌倉殿の13人」に合わせ義仲陣営を「説明」
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【監修】義仲館P 西川かおり

 いよいよ義仲も合戦に巻き込まれていきます。最初の戦とされる市原の合戦については、詳細を別ページで多くの伝承地と共に紹介しています。


市原の合戦をめぐる謎

 市原の合戦については鎌倉幕府が残した「吾妻鏡」のみに登場し、平家物語諸本でも、史料でも確認することができません。そのためさまざまな推定がなされてきました。

1 笠原平五頼直の本拠地は?

 笠原という地名が、木曽谷からほど近い伊那にあります。そのため笠原が伊那に本拠地を持つ武士ではないかと江戸時代に盛んに語られました。
 笠原氏は基本的には長野県北部、中野市を本拠地としており、平安時代末期には笠原牧を中心に大きな勢力を持っていました。しかし、内部で二派にわかれており、笠原頼直は義仲と戦いましたが、戦に参加せず静観した一派もありました。また、文献の読み取り方によっては笠原牧自体が二か所にあったとも考えることができ、中野と伊那なのではという説もあります。

2 市原の合戦はどこで起きた?

 市原の合戦がどこなのかは今では「長野市にあった『市』村郷であろう」とされています。大きな理由は、笠原氏が戦った相手が栗田氏と村山氏であるためです。栗田は現在長野市でも中心部の地名として残っており、この二氏が長野市の武士であることは確実です。また栗田氏と村山氏が他の場所に進出して戦う必然性もありません。笠原氏が中野市の武士であれば、中野市は長野市と隣接しており長野市へ勢力を広げようとした笠原氏が攻めてきたと考えれば大変自然です。しかし「市原」というそのものずばりの地名が長野市にないため、混乱を招きました。
 平家物語の中には市原の合戦は出てきませんが、義仲が最初の戦いとして「会田・小見の戦い…」と語る場面があり、そのため、麻績村では「小見=麻績…市原の合戦では?」との声もあり、義仲にまつわる伝承が数多く残っています。麻績=市原でないとしても、合戦地に移動する際の伝承かもしれません。
 また、伊那谷にも『市』がつく地名が…。

謎、それはロマン

 笠原の本拠地も、市原の合戦地も確定的な史料がない以上、中野市の武士・長野市での合戦というのも、歴史を俯瞰的に見た状況証拠による推測でしかありません。さまざまな想像をめぐらせ、義仲の初戦の場所はどこだったのか?を考えるのは「史料がないからこそできる楽しみ」でもあります。もしかしたら確定的な史料が出て、思いもよらない場所が「市原」だったことがわかるときがくるかもしれません。
 何の関係もありませんが、長野県の名産品「市田柿」っておいしいですよ。

(↑ 長野県観光機構のページです)


略年譜
H I S T R Y
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義仲をたどる
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久寿元年(1154年) 誕生

久寿2年(1155年)8月16日
大蔵合戦で父を討たれ、信濃へ

〇中原兼遠に養育される

保元元年(1156年)7月11日 保元の乱
海野ら信濃武士団は後白河法皇方(源義朝・平清盛など)に参戦
平正弘は敵対する崇徳上皇方(源為義など)に参戦

平治元年(1160年)12月9日 平治の乱
ほとんどの信濃武士が参戦せず

●仁安元年(1166年) 元  服

〇諏訪社に婿入りし娘が生まれる

〇承安3年(1173年)?
嫡男・義高生まれる
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治承3年(1179年)
仁科氏・覚園寺(大町市)千手観音開眼供養
善光寺(長野市)炎上
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治承4年 (1180年)
4月
以仁王の挙兵
 9月7日
市原の合戦




↓ ストーリーで「合戦」を読みたい方はこちらへ!



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長野県木曽町日義地区にある「木曽義仲」の顕彰施設です。リニューアルオープンは2021年7月4日! 義仲館の展示作品の背景にある「歴史」「伝承」「文学」をやさしい文章で紹介します。 収録伝承600以上。地図と共に掲載しています。