見出し画像

⑥義仲軍を支えた木曽馬

電車や自動車がなかったら、あなたはどうやって隣の県に行きますか?義仲や巴が生きていた時代は電車も自動車もありません。行きたいところには、歩いていくのが基本です。

歩いていくしかない…となると、隣の県どころか、隣の町にも行くのをあきらめてしまうかもしれませんね。

ですから、昔の人はあまり遠くに行きませんでした。

でも義仲や巴は木曽から長野県の各地へ、それから都を通って中国地方まで出かけていきました。

どうやって?

画像1

馬です。

馬に乗ることで、普通の人が行かれない遠いところまで行ける

馬を使うことで、普通の人より情報が早くもたらされる

馬を持つことで、武士は普通の人とは違う存在になることができた…とも言えます。また馬は、ほかの地域と比べて長野県(信濃国)で多く育てられていました。(※詳しくはまめ知識1で!)義仲の軍勢がとても強かったのも、義仲の活躍を支えたのも馬のおかげといえるかもしれません。

昔の人も、義仲の活躍ぶりは馬のおかげと思っていたのでしょうか。義仲と馬に関わる伝承がとてもたくさんあります!

1・義仲と馬の祭

まずは現在も義仲と馬にまつわる「祭り」を行っている神社から。


2・義仲と馬のエピソードがあるお寺


3・義仲と馬のおもしろ伝承

えっそれはどういうこと?と突っ込みたくなる面白い伝承もあります。










4・馬の足跡

なぜ馬の足跡がこんなにたくさん伝えられているのか…謎です。






5・馬にまつわる地名




6・義仲馬をつなぐ



7・義仲が戦勝のお礼に馬をプレゼントした神社

「馬」は今でいうところのベンツやレクサスのような何百万円もする高級車と考えるとよいかもしれません。位が高い武士は贈答品として馬をプレゼントすることがありました。義仲は軍勢に加わった北陸武士に馬をプレゼントして感激させています。また義仲へ奥州藤原氏が馬をプレゼントしてきたこともあります。

8・巴と馬の伝承

義仲だけでなく巴にも馬の伝承があります。



■まめ知識・1■ 義仲軍勢を支えた牧

十世紀初めに作られた『延喜式』にはの官牧(国で作った牧場)が書き残されています。

「左右馬寮」の官牧があったのは4か国・32牧

甲斐(山梨県)・武蔵(神奈川県北部~東京都~埼玉県東部)・信濃(長野県)・上野(群馬県)

「兵部省」の官牧は17か国・27牧

駿河(静岡県)・相模(神奈川県南部)・武蔵(神奈川県北部~東京都~埼玉県東部)・安房(千葉県南部)・上総(千葉県中部)・下総(千葉県北部~東京都東部~埼玉県東部~茨城県南西部)・常陸(茨城県北東部)・下野(栃木県)・伯耆(鳥取県中部・西部)・備前(岡山県東南部・兵庫、香川県の一部)・周防(山口県東南部)・長門(山口県西部)・伊予(愛媛県)・土佐(高知県)・肥前(佐賀県・長崎県)・肥後’(熊本県)・日向(宮崎県)

信濃には「望月の駒」と呼ばれて都の貴族に大人気だった馬の名産地・望月牧をはじめ、山鹿牧 ・塩原牧 ・岡屋牧 ・平井弓牧 ・笠原牧 ・高位牧 ・宮処牧 ・埴原牧 ・大野牧 ・大室牧 ・猪鹿牧 ・萩倉牧 ・新治牧 ・長倉牧 ・塩野牧などの16牧が置かれていました。

左右馬寮の32牧のうちの半分が信濃の国が占めているというのは、全国的にみても、とてもよい馬の産地だったことがわかります。

とはいえ、16牧の中に木曽郡に置かれたものはなく、木曽でどのくらい馬が飼われていたのかはわかりません。

もともと、馬は大陸から4世紀ごろに持ち込まれ、軍用・輸送用・農耕用などに活用するため、国の指導のもと飼育・繁殖されました。その後、力を持った豪族が自分の牧場を作って馬を増やし始めたのです。木曽もそうした私牧がいくつか経営されていたのかもしれません。

また武士たちは馬を屋敷の敷地内に飼い大切にしていました。武士の館跡と伝えられるところには、「馬場」などの地名や、流鏑馬に使われたと思われる道が残っていることがあります。


■まめ知識・2■ 木曽馬について

室町時代の末期には木曽馬はブランド馬として知られていて、江戸時代には山村代官のもとさらに人気が高まり、売買が盛んにおこなわれました。

ところが、木曽馬につらい歴史が襲い掛かります。

明治時代になると、外国の大きな馬を見た日本政府は、戦争に使うために日本の馬では不利だと考えました。そのため、外国の馬とかけ合わせて大きくしようとしたり、日本の馬の繁殖をやめ、外国の馬を増やそうとしました。木曽馬も一頭、また一頭と数が少なくなり、メス数頭を残すのみになってしまいました。

メスだけでは子孫を残すことができません。

しかし、木曽馬を愛する人が、どうにか絶滅を避けたいと必死にオス馬を探しました。

すると、木曽から離れた長野県千曲市にある武水別神社にオス馬が一頭、神馬として奉納されていることがわかりました。その馬を木曽町に残っていた雌馬と掛け合わせ、なんとか木曽馬は絶滅を免れました。

どうして武水別神社に木曽馬がいたのでしょうか。

武水別神社は今でも義仲にまつわる祭を行っているぐらい、神社に伝わる義仲の伝承を大事にしています。義仲と関係が深い木曽馬も、神馬としてとても大事にしていたのです。

もし義仲の伝承がなかったら、木曽馬はもういなかったかもしれません。


■参考文献■

国史大辞典「馬」

古代・中世における牧制度の変遷と貢馬 」小林 幹男 長野女子短期大学研究紀要 (4), 20-38, 1996-12-10







みんなにも読んでほしいですか?

オススメした記事はフォロワーのタイムラインに表示されます!