行家ものがたり⁉② 1181年3月
(遂に時代の主人公であるワシが出陣する時が来たようじゃ!)
彼は盛り上がっているのを通り越して、一人でイっちゃっている。
まぁ無理も無い。
彼にとってはおよそ二十一年ぶりの出陣なのであった。
彼はこの一年、とても忙しく活動していた。それまでの約二十年間、ほとんど何もしていなかったのと対象的に。だが、この一年忙しかったのは別に彼だけでは無かった。
■ 「義仲戦記」「義仲ものがたり」とは独立で読めます ■
歩くチェーンホラー「源行家」は全国の源氏に「以仁王の令旨」をデリバリー。それによって木曽義仲の戦いも始まった。行家は頼朝のもとにいたが、運命に導かれるように行動を開始する…伝説の男への道を。
去年(1180年)の四月、平氏打倒を目指す以仁王[後白河法皇の皇子]の令旨[親王の命令書である公文書]が出された。
それ以降、
その以仁王と源頼政[摂津源氏]の挙兵とその直後の敗死。
伊豆での源頼朝の挙兵とその直後の敗北、逃亡、
からの~、奇跡的な頼朝の逆転勝利。
信濃での源義仲の挙兵とその直後の市原の戦いの勝利。
頼朝の富士川での勝利
と、
この戦いでの敵前逃亡とでも言うべき醜態をさらした平氏の権威の失墜。
そして今年(1181年)に入り二月四日、平氏の総帥平清盛の死去。
実に息つく暇も無い程に、政治的、軍事的な事件が立て続けに起こり、時代はいよいよ加速して来た。
富士川の合戦では、水鳥の羽音にビビりまくって逃げ出した平氏方ではあったが、一目散に都へ逃げ帰った訳では無く、一応、尾張川墨俣[木曽川の古称。美濃・尾張の国境。現在の岐阜県と愛知県の県境]に防衛ラインを構築していた。
つまり関東はもとより東海の駿河、遠江[静岡県]、三河[愛知県東部]までが頼朝の勢力下となったのだ。
しかし頼朝は都へ進軍せずに、関東の鎌倉へ戻って行った。
頼朝は先ず、自分の勢力下の関東を完全に抑える事を最優先したのである。そのやり方はとても頼朝らしいやり方であった。頼朝は、関東で状況を様子見していた者には、死にたくなかったら従えと脅し、これに従わなかった源氏や平氏の連中を、片っ端から殺していったのである。こういう事で忙しく、都へ行っている暇などある訳がなかったのだ。
頂点に頼朝、その下に使える有力武士と官僚。
その下に余り使えない有象無象の武士達、
という体制作りに奔走して行た頼朝なのである。
対する平氏としては、状況をこのまま放って置く事は出来無い。
平氏にとって治承4(1180)年10月富士川での敵前逃亡による敗北は、東海三カ国[駿河、遠江、三河]を失っただけでなかった。平氏の権威も失墜したのである。権威の失墜とは、単に恥をかいただけで済むようなものでは無く、一言で言えばこれからは平氏がナメられ、しかも平氏の言う事を聞かなくなる奴らが増える、と、いう訳だ。
平氏にとっては戦さの敗戦よりも、権威の失墜の方が深刻な問題なのである。
それをあらわすように11月
近江[滋賀県]と美濃[岐阜県]、尾張[愛知県]の源氏達が平氏に対しての反乱を起こした。
事ここに至り、遂に平氏はエースを投入する。
平知盛[清盛の三男。平氏一の戦さ上手]を総大将とし、約二万騎の追討軍を近江・美濃・尾張源氏の反乱鎮圧の為に派遣したのだ。
この平氏の最精鋭と言っても良い知盛率いる追討軍は強かった。半端無く。次々と近江源氏の城を落とし進軍して行った。
だが美濃・尾張源氏が援軍として近江源氏に加勢すると、数では源氏勢が多くなった。
が、
知盛の進撃は止まらない。
一つ一つ源氏方の拠点となる城を攻め落とし、気が付くと全戦全勝。近江と美濃は再び平氏のもとに帰した。
約二カ月続いた反乱鎮圧の戦さは平氏の全勝で、勢力を尾張まで戻す事が出来たのである。
その最中の二月四日、平氏の総帥清盛が死去した。
だが平氏の戦意は高かった。
追討軍総大将知盛は、総帥清盛の死[知盛にとっては父の死]に気落ちする事無く、尾張での戦闘を続けた。
しかし
平氏の最精鋭である知盛の軍勢も、二カ月に及ぶ戦さの連続はキツかったのだろう。都を出発した時に二万騎であった軍勢も、半分の一万騎にまで減っていたのである。
全戦全勝したとは言え死傷した兵の数も多く、損害は激しいものであった。
そして総大将の知盛も体調を崩し倒れてしまう…だが平氏は追討軍の総大将を知盛から重衡[清盛の四男、知盛の弟]に交代させ、戦さを続行していた。
☆
追討軍は進軍を続け、尾張川墨俣まで来たところで、源氏方の前衛部隊と会敵した。
そこに華麗に一人の男が現れた。
(遂に時代の主人公であるワシが出陣する時が来たようじゃ!)
敵の平氏の軍勢を見て興奮しながら彼は一人でイっちゃっている。
そう。
源氏方の前衛部隊の大将軍をやっているのは、かの十郎蔵人行家なのであった。
(富士川の合戦で平氏に勝ったのは、このワシのおかげじゃ!
時代の主人公であるワシが以仁王様の令旨を配り、東国の源氏勢力を結集したお陰で頼朝は平氏に勝てたのじゃ!
いやぁさすがワシじゃ!
何せ平氏は戦わずして敗走したのじゃからな!
伝説の源氏の末裔!
ワシは無敵じゃ!
無敵の新宮十郎蔵人行家とはワシの事じゃ!)
そしてこれは確かに一つの「伝説」のはじまりであった。
とにかく尾張川墨俣で平氏の追討軍と源氏方は睨み合っていた。
(富士川での勝利に続き、勝つに決まっているのじゃ!
このワシ!大将軍行家の軍がな!)
彼は思っている。
と、
「叔父上!私に先陣を任せていただけるとは!有難う御座います!」
笑顔で行家に礼を言う若者が、馬を近付けて来た。
「おお。卿公[きょうのきみ]義円か」
いかにも大物っぽく行家は応じた。
続けて、
「我が軍の総勢二万五〇〇〇騎のうち、お前は一万騎を率い先陣として川を渡るのじゃ。
ワシは残りの一万五〇〇〇騎を率い大将軍として、お前の軍勢の後から川を渡り進軍する」
「一万騎も私に。お礼の言いようも有りません!任せて下さい!」
「お前には期待しておるぞ。義円」
「はい!敵は見たところ一万騎です。私の軍勢だけで勝ってしまうかもしれませんよ」
「頼もしいのう!さすが河内源氏の血筋じゃ!」
「では失礼します!出陣の準備が有りますので!」
と快活に言い、馬を駆けさせているこの若者、彼は幼名を乙若といい、頼朝の弟で、義経の同母の兄[義円と義経の母は常盤御前]にあたり、行家とは叔父、甥の関係であった。今年二十七才になる。
義円もやはり兄頼朝の挙兵の後、兄に協力すべく頼朝の所に来ていたのだろう。だがこの時、ここに頼朝はいない。義円は何故か行家と共に行動していたのである。
行家は大将軍として二万五〇〇〇騎もの軍勢を率いていた。驚くべき事である。この軍勢は東海三カ国の兵を中心に構成されているが、彼らは頼朝には従ったが、行家に従っている訳では無い。だがこの大将軍[行家]にはそのような事は関係無い。何故なら、
(このワシが大将軍だからじゃ!)
コレである。
ともあれ墨俣で睨み合って一カ月。そろそろ睨み合っている事に飽きた行家が、攻撃に移ろうとしていた。
その夜。
「総大将重衡様!敵の源氏方が川を渡ろうとしています!」
平氏方、追討軍の本陣。重衡の舎人が報告して来ると、
「判った。全軍に矢戦さの準備をさせておけ」
重衡が命じ、陣幕の外へ出て暗い対岸を見ると、松明を灯した軍勢が二つに分かれ、前後二段になってこちらに渡河して来るのが見えた。
「全軍!敵の後方の部隊に矢を射ろ!今は敵の前方の部隊はやり過ごしておけ!そして敵の全軍が川を渡り終えた時こちらが攻撃に移る!良いか!」
「おおーーーーーっ!!」
重衡が命令すると、平氏方は一斉に矢を放った。敵の後方部隊目掛けて。
つまり大将軍行家率いる一万五〇〇〇騎の軍勢に。
(何でワシの軍勢だけに矢を射て来るのじゃ!)
愚痴っている大将軍行家。
しかも平氏の矢は正確に当ててくる。
焦った行家だったが、まだ出撃したばかりなのだ。ここは我慢して進むしか無い。それに出撃の命令を出したのは彼自身なのである。彼は進んだ。
(南無八幡大菩薩![お願いです!八幡の偉大な菩薩様!]どうか矢が当たりませんように!)
と馬にしがみ付き、祈りながら。
何とか渡河する事は出来た源氏方であったが、川を渡るだけで二〇〇〇騎は失っていた。
大将軍行家は、
(やれやれ…ここからの戦さは先陣の義円に任せて、ワシは一息入れようかのう)
などと暢気な事を考えている。
が
「敵はこの渡河で疲れている!しかも馬も武具もずぶ濡れだ!それを目印に濡れている奴を討ち取れ!全軍かかれ!」
追討軍総大将重衡は叫んだ。
「おおおーーーーーーっ!!!」
追討軍一万騎が全軍で源氏方に突撃した。
普通ならここからが勝負だ。
しかし、かの大将軍行家には、この一度の突撃だけで、効果は抜群だ。なのである。
つまり
これだけで勝敗は決してしまった。
味方の兵が次々と討ち取られていく事に恐れをなしたのか、何なのか、急にビビり始めた大将軍行家は、堪えきれずに叫んでしまったのである。
「退け!退けぇーーーーーーっ!!」
と。
当然ながら源氏方の兵達は混乱した。
退け、と言われても先程やっとの思いで渡って来たばかりの川を、もう一度、渡って退かなければならないのだ。
しかし、兵達が見ると渡河したばかりの川に馬を乗り入れ、逸早く引き返そうとしている武将がいた。
そう。かの大将軍行家であった。
兵達にしてみれば敵陣に置き去りにされたようなものである。
見捨てられたのと同じであった。
ここで源氏の軍勢は壊れた。
つまり逃げるだけの集団になってしまったのだ。
軍勢とは戦う者の集団である。戦う気の無い集団を軍勢とは呼ばない。ともあれ源氏の軍勢にトドメを刺したのは、大将軍行家の行動だったのである。
「何だと!退け、だと!」
源氏方の先頭部隊の指揮をしつつ、敵に矢を射かけていた義円は馬上で叫んでいた。
(何を考えているんだ!叔父上は!)
義円は奥歯を噛み締めつつ、怒りと悔しさとが合わさった感情を抑え切れずにいた。
と、
周りを見ると味方の軍勢が逃げ出している。
「待て!お前達!踏み止まって戦え!」
義円は味方の兵に向かって叫ぶが、誰の耳にも届かなかった。
更に、
「待て!お前達!」
叫んだ時、
「!」
義円の身体が何かに貫かれた。
ふと胸許を見ると、矢が二本、身体に突き立っていた。
信じられない思いで義円が顔を上げた時、馬に乗った敵の武将が太刀を振り上げて、こちらに向かって来るのが見えた。
反射的に義円も太刀を抜く。
が、そこまでだった。
次の瞬間、彼の首が跳ね飛び、首の無い義円だった身体が馬から落ちた。
義経の同母の兄が、ここに討たれたのである。
「良し!これより追撃に移る!全軍!川を渡れ!」
総大将重衡が叫び、追討軍一万騎の軍勢は、敗走する源氏方に追撃をかけ、尾張国府を奪還。
更に東へと進軍し、三河の矢作川[やはぎがわ]まで来たところで、源氏方の部隊が待ち構えていた。
重衡が見ると、川に架かる橋の板を取り外し、対岸に盾のように並べてある。
「ここで防戦するつもりか?しかし兵が少な過ぎるが・・・」
重衡は呟いた。
対岸にいる源氏方は多く見積もっても一〇〇〇騎くらいしかいないのである。何かの罠かと思い、一瞬躊躇した重衡だったが、
「この川も渡河する!そして対岸の敵を追い散らせ!」
号令し、一時間程の戦闘で言葉通り源氏方の部隊を追い散らしてしまったのである。
この矢作川で防戦していたのが、そう、皆の想像通り、かの大将軍行家であった。
彼も一応、墨俣での敗けっ振りはちょっとヤバいかも、と思ったのだろう。
なので一応防戦しているような事でもしておかないと格好がつかないかも、と思い矢作川でそうしていたのだが、やはり彼はどこまで行っても残念な男であった。
ともかく、ここでも敗けた大将軍行家。
一方、平氏の追討軍は矢作川を越え、更に進軍する構えを見せていた時、東海での急変[源氏方の墨俣での大敗北と、それに続く敗走]を知った甲斐[山梨県]源氏が援軍に現れた。
ここで総大将重衡は進軍を停止させ、矢作川の西岸に防戦ラインを構築し、追討軍は都へ戻って行った。とにかく頼朝挙兵から始まった関東・東海での騒ぎも七カ月ぶりに、ひとまず落ち着いたのである。
ここで著述を終わらせたいが、そうも行かないのである。
そう、かの十郎蔵人行家の黒い伝説に、また幾つか加わった事象があるからだ。
事象、と言うか被害者、と言い換えてもいいかもしれない。
先ず近江源氏の皆さんと美濃源氏の皆さん、尾張源氏の皆さんも。
確かに彼らは自分達の意志で反乱を起こし、敗けてしまったのだが、彼らは以仁王の令旨を受け取っていた。行家から。
そして、駿河・遠江・三河の豪族の皆さん。
彼らは頼朝には従ったが、別に行家に従った訳では無かった。
だが、何故か墨俣の戦さの時に行家が大将軍[司令官]となっていた為に、この戦さに源氏方として参加していた彼らは酷い目に遭い敗けてしまったのだ。
そして一連のこの戦いの中ででの一番の被害者とも言えるのが卿公義円。
あの義経の同母の兄である。
そう。彼は組んではいけない者と組んでしまったのだ。行家と。そして義円は討ち死にしてしまったのである。
だが何故か行家はいつも生き残るのであった・・・・・
お解りいただけただろうか。
そして恐怖していただけただろうか。
十郎蔵人行家の隠された呪われし属性の真の恐ろしさを。
ここでもう一度繰り返し書いておこうと思う。
行家は、自分にそのような不吉で呪われた属性が備わっている事など、全く、これっぽっちも自覚していない。
必ず自分[行家]と絡んだ者達が不幸な目に遭っているにもかかわらず、であるのに、やはり行家は何も解っていないのである。自分の事が。
いや、自覚する事など行家には永遠に出来無いだろう。
何故なら行家は、
(今回は富士川で勝って、墨俣で敗けたから、
結果としては一勝一敗の五分じゃな。
まぁ次は頼朝にワシの先陣を務めて貰おうかのう。
そうじゃ!それが良い!
何せワシは大将軍新宮十郎蔵人行家じゃからな!)
こんな事を考えるのに忙しかったから。
ともかく、この生きたチェーンホラー、もしくは歩く不幸の手紙とも言える周りを必ず不幸にするこの男は、まだまだ元気に存在している。
行家は今日も行く。次なる不幸な源氏の同胞[被害者]を求めて・・・・・
↓ 源行家の伝説はここからはじまった!