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義仲戦記19「篠原合戦③」

「おおおおおーーー!!!」

地鳴りの様な重低音が轟いた。
まるで大地が揺れているかの様に勘違いしそうな程。

敵方の鬨の声である。
だが、敵が接近している事は郎等の報告で判っていた事であったので、慌てずに、

「畠山庄司重能!小山田別当有重[重能の弟]!三〇〇騎を率いて出撃しろ!義仲勢の出鼻を挫いてやれ!」

平氏方追討軍副将平忠度が命令した。

「はっ!先陣の大役とは光栄です!有り難う御座います!」

畠山重能が一礼して応じると、

「お前達兄弟は幾度も合戦で活躍してきた熟練の武将だ。
最前線で若い武士らを指図してやってくれ!」

忠度が重ねて命じると、

「お任せ下さい!行くぞ!有重!」

重能は言うなり、馬に飛び乗り、

「畠山庄司重能!小山田別当有重!我ら兄弟が先陣の栄誉を賜った!
者共!続けええええ!」

弓を高く掲げ、弟の小山田有重と共に先頭に立ち、三〇〇騎を率い出陣して行った。

副将忠度はその様子を見送ると、本陣の中程、床机に腰を掛けている総大将平維盛に向かい力強く頷くと、総大将維盛も無言で忠度の眼を見返しつつ、真剣な表情で頷いた。

遂に、加賀篠原の地に於いて平氏方追討軍約三万騎、義仲勢約五万騎による大会戦が始まったのである。






「敵平氏方、先頭部隊を前面に出して来ました!
その数、およそ三〇〇騎!」

郎等が報告すると、

「第六軍の今井兼平に命じる!
敵と同数の兵をもって、平氏方の先頭部隊の迎撃に当たれ!」

義仲が凛と命じると、間髪入れずに、

「はっ!第六軍今井兼平!敵先頭部隊迎撃の為、出陣いたします!
我ら第六軍今井隊の三〇〇騎は私と共に敵の迎撃!
残りの七〇〇騎はその後方で待機!」

今井兼平が応じ兵らに命じると、

「撃って出る!」

兼平は今井隊一〇〇〇騎を引き連れ駆け出して行った。

義仲は出陣して行く第六軍今井隊の前方を見渡すと、敵平氏方の先頭部隊がこちらに向かって駆けて来るのが見え、その後方に平氏方追討軍が布陣している。
その数およそ三万騎。
その三万騎の軍勢が整然と布陣している様子を見て取った義仲は、ごく僅かにだが表情を曇らせた。将兵らが見ても判らない程に。


(やはり平氏方は覚悟を決めてこの戦いに臨んでいる・・・)


この事である。

今までの般若野、倶利伽羅、志雄の戦いでは、陣形の乱れや、大軍を擁している時に於ける将兵の油断、各軍・各隊の連携・連絡の不備など、平氏方に付け入る隙が多々あったのであるが、今この篠原では、平氏方にそうした油断や隙は皆無であったのである。


(少し厳しい戦いになる・・・)


義仲は腹で呼吸すると、僅かに空を見上げ眼を細めた。
陽射しが強かったのである。


今日は夜が明けた時から快晴で、今はまだ朝、と言って良い時間であったが、陽射しが強く降り注ぎ、徐々に気温も上がってきていた。

空は高く、蒼く、そして雲などは欠片すら無い。
つまり嫌になる程、良い天気なのであった。
義仲が蒼空に見惚れていたのは、ほんの数秒の事。
はっと我に帰ると、

「ここに我が軍の本陣を構える事とする!
戦場全体を見渡す事が出来るからな!

第七軍本隊は本陣の構築!その後に本陣周辺に待機!」

「はっ!!」

宮崎長康、村山義直、多胡家包ら第七軍の大将らが応じると、彼らは急いで本陣の構築に取り掛かった。

「この本陣の前方に第一軍から第六軍を布陣させる事とする!
 前方右翼に第一・第二軍!
 前方中央に第三・第四軍!
 前方左翼に第五・第六軍!
 では布陣に掛かれ!」

義仲が指示する。
と、


「おおおっ!!!」


義仲勢全軍約五万騎が応じ、指示された通りに布陣する為に整然と移動を開始した。

「義仲どの」

馬を近付け、戦場の割には小さな声で話し掛けて来た武将がいた。
義仲は僅かにその方向に顔を向け、

「信太義憲どの。どうしました?」
応じつつ問う。

「いや。どう、という事でも無いんだが」

信太義憲が笑みを浮かべながら答える。


この信太三郎先生義憲という武将は、義仲の父義賢のすぐ下の弟であり、義仲にとっては叔父にあたり、常陸国[茨城県]信太に本領を構えているのであるが、関東をその手中に納めようとしている頼朝に従わなかった事で、頼朝の手勢に攻め込まれ、本領の信太に戻れなくなって以後、信濃国[長野県]の義仲を頼り、義仲勢と行動を共にしていたのであった。
その義憲が続ける。

「まさか後方から敵の襲撃があるとは思わんが、だからと言って後方の警戒をしない訳にはいかん。
そこで儂がその任に当たろうと思う。義仲どの、儂に命じて下さらんか?」

「?」

義仲は眼だけで、どう言う事です?と問う。
すると信太義憲は、顔を近付け更に小さな声で、

「義仲どのは前面の戦さに集中して下され。その為に弟の行家が勝手な真似をせんように、この兄の義憲がきっちり眼を離さずに手綱を取っておく」

囁いた。
義仲は思わず眼を見開いた。少し驚いたのである。とは言え、納得した様に微笑し肯くと、

「では本陣後方の警戒を信太義憲どの、新宮行家どのに命じる!」

大声で命じた。

「はっ!」

信太義憲が応じ、馬を後方に巡らせ駆け出した時、当の行家ドノはと言えば、

「おお!本陣後方の警備は重要な役目じゃ!良かろう!このワシに全て任せておくのじゃ!」

能天気に張り切っていた。
が、一言で言えば、つまり行家ドノは戦力外として扱われたのであるのだが、その行家ドノには、その様な事が判ろう筈もなかった。

とは言え、義仲にとってこの戦いにあたり味方の軍勢の中での唯一の心配事である行家ドノの行動を、信太義憲が抑えてくれた事は、戦いを進めて行く上で不安材料が無くなった事を意味したのは事実であった。

同じ義仲の叔父、とは言え、信太義憲と新宮行家ドノでは、全く武将として、また人間としての出来が違っていた訳である。




「敵が今度は五〇騎出して来ました!」

最前線で郎等が馬を駆けさせつつ報告した。

「こちらも新たに五〇騎で応戦する!行けっ!」

すぐさま大将の今井兼平の指示がとぶ。

 義仲勢・平氏方追討軍両軍の戦端が開かれてから、最前線では少数の騎馬武者同士による戦闘が続いていた。
 平氏方先頭部隊は勝負を焦らずに、先ず五騎、次に十騎、その次には十五騎と小出しに騎馬武者を出す、というこの時代に於ける戦さのルール[掟]通りの正々堂々の勝負を挑んで来た以上、当然義仲勢もこれに応じて、五騎出されれば五騎、十騎出されれば十騎で応戦していた。
 平氏方にとっては軍勢の兵の数で劣っている以上、ルール[掟]を盾にこの様に戦いながら、義仲勢の油断を誘い、好機[チャ〜ンス]が来たら一気に全軍で攻め掛かる、というつもりであったが、その平氏方の意図は義仲も解っていた事であったので、本陣・陣形・先頭部隊と、平氏方に付け込まれる様な隙を作る筈も無かった。
 更に、もしこのままの展開で戦いが長引けば長引く程、連敗続きの平氏方の将兵の戦意が落ちてくる、という事まで予測していたので、義仲としては殊更ルール[掟]に則り正々堂々と勝負を受けて立った訳では無く、やはり冷静な判断の上で、この戦いを戦っていたのであった。




「次は一〇〇騎出す!」


平氏方先頭部隊の畠山重能が叫んだ。
続けて、

「この一〇〇騎は有重、お前が率いて行け!」
命じた。
と、
「おう!兄者!任せてくれ!」
弟の小山田有重が応じた。


「有重!敵もこちらに合わせて一〇〇騎出してくるだろうが、これに構わずに敵の部隊に襲い掛かってやれ!我らが先に仕掛ける!
その時、私も全部隊を率いて突撃し、一気に乱戦に持ち込む!」

兄重能が指示すると、弟有重はニヤリと笑って、

「解った!兄者!敵の部隊の大将に俺が一番名乗りを上げてやるぜ!」

不敵に叫ぶと、

「良し!行けっ!」

兄重能が矢を射つつ命じると、弟有重率いる一〇〇騎の騎馬武者達は、一気に馬足を速めた。

「我らの繰り出した一〇〇騎に眼もくれず、平氏方の一〇〇騎が突っ込んで来ます!」

郎等が悲鳴の様に報告した。
が、これを聞いた兼平は、

「ようやく出て来てくれたか。上等だ。
お前ら平氏方は無理にでも攻め込んで乱戦に持ち込まない限り、この戦いでの勝利は無いからな。だが!」

独り馬上で呟くと、

「望むところだ!我ら今井隊、これより敵先頭部隊に突撃!これを撃滅する!行くぞ!」

鋭く号令を掛ける。


「おおおっ!!!」


今井隊約二五〇騎の兵達が応じ、平氏方小山田有重の部隊一〇〇騎と激突した時、

「良し!我らも続くぞ!掛かれーっ!」

畠山重能が叫び、畠山隊の残存兵力約一二〇騎全軍で攻撃に移った。
ここに両軍の先頭部隊は激しい乱戦に突入したのである。


「!・・あいつか!」

小山田有重は平氏方追討軍の正に先頭を切って義仲勢に向かい馬を駆けさせていた。

その時、目敏く義仲勢先頭部隊の大将らしい武将を見付けると、更に馬足を速め、箙[えびら。矢を入れておく入れ物]から矢を抜き取り、弓弦を引き絞りながら叫んだ。


「我は平氏の家人!武蔵国の小山田別当有重!
そこの義仲方の武将!名乗れっ!」

声のする方向に眼をやると、平氏方の武将が手勢を引き連れて突っ込んで来る。

兼平は馬の向きを少し右方向に変えると、矢を番えて小山田有重と名乗った武将に向かい、馬を駆けさせつつ、

「良かろう。私は義仲四天王、今井四郎兼平。相手になってやる。来い」

良く通る声で、決して叫ぶでも無く兼平は応え、弓を引いたまま駆ける馬の上で、上目遣いで小山田有重を捉えていた。

「義仲の右腕と噂される今井兼平か!」

有重は思わぬビッグネームを引き当てた事に喜び、ニヤリと口元に危険な嗤いを浮かべると、


「今井兼平!くらえ!」


充分に引き付けておいてから必殺の矢を射た。

兼平は顎を引き、瞬き一つせずに有重の放った矢を見た。
と思った瞬間、兜を掠めてその矢が後方に飛んで行った事を感覚で捉えた兼平は、矢を射た。

「っ!・・畜生っ!」
すれ違いざまに、有重は怒鳴った。

次の矢を構えようとしていた有重の脇腹には、兼平の射た矢が突き立っていたからである。

鎧のお陰で致命傷では無いものの、それでも矢は身体に突き刺さっている以上、ここは一旦やり過ごすしか無い、と判断した有重は、痛みに耐え馬を左方向に回り込ませつつ、駆け去って行く敵将今井兼平の後ろ姿を悔しそうに睨み付けていた。



開戦して約一時間、そして両軍の先頭部隊同士の乱戦が始まってから約二時間後、いよいよ夏の太陽は容赦無く照り付け、気温も相当上昇して来た。


「良いぞ。互角に渡り合っている」


戦況を見詰めながら平氏方追討軍副将の平忠度が、真剣な表情で呟く。
そして、

「だがそろそろ畠山兄弟も限界だろう。
高橋判官平長綱!五〇〇騎を率いて畠山部隊と替われ!」

間を置かずに命じる。

「はっ!」

侍大将高橋判官平長綱「越中前司平盛俊の長男。越中次郎兵衛盛嗣の兄]は、素早く応じると、


「義仲勢を蹴散らしてやる!私に続けーっ!」


号令を掛け、五〇〇騎を率い、勢い良く出陣して行く。

副将忠度は表情を変えずに総大将平維盛に眼をやると、維盛も思い詰めた様な真剣な眼で、忠度の視線を受け止めている。忠度は総大将を安心させる為、僅かに目元を緩めながら力強く頷いた。




「平氏方が新手の軍勢を差し向けて来ました!その数およそ五〇〇騎!」

郎等が報告する。が、本陣の義仲からもその様子は見えていた。

「こちらも応戦する。第四軍、樋口兼光[今井兼平の兄]!
第一軍、落合兼行[今井兼平の弟]!
兼平の隊と入れ替わり、平氏方の新手を迎撃!」

義仲が命じた。

「解りました!では樋口隊、落合隊、各々三〇〇騎ずつ合計六〇〇騎で出撃する!残りの兵はここで待機!」

四天王筆頭樋口次郎兼光が細かな指示を与え、

「では参るっ!行くぞっ!」

落合五郎兼行が先頭に立ち、六〇〇騎の軍勢と共に最前線に出撃して行った。





「有重!味方が第二陣を出した!ここまでだ!退くぞ!!」

畠山重能が、顎に滴る汗もそのままに叫んだ。

「ああ!・・・だが今井兼平を討てなかったのが心残りだよ、兄者」

同じく汗まみれで、睨み付ける様に左脇腹の傷を見ながら小山田有重が残念そうに呟く。

「まぁそう言うな。敵を多く討ち取る事が出来たが、それ以上に我らの郎等が数多く討たれた。これ以上は戦いにならん」

「そうだな・・・兄者・・・」

「今は生命があるだけ運が良かったと思え。戻るぞ!」

手綱を引き、馬の向きを変えながら重能は言い放つと、

「後退だーっ!一旦、退くぞーっ!」

号令を掛けた。

後退する平氏方の騎馬武者に自分の射た矢が当たり、その武者が落馬したのを見届けた兼平は、頬を伝う汗を二の腕で拭くと、

「後退して行く平氏方は、ざっと五〇騎か・・・」

敵の生き残りの兵を数え、独り言を呟いた。
今井隊は約二五〇騎の敵を討ち取った事になる。

と、


「兼平ーっ!義仲様の指示だ!お前の隊は後退しろ!
後は我らが引き受ける!」


振り向くと、兄の樋口兼光がこちらに駆けて来るのが見えた。
と、その横を凄い勢いで駆け抜けて行く軍勢の先頭の武将が、


「掛かれーーーーっ!」


敵平氏方の軍勢に向けて矢を射る。
その武将は兼平に流し目をくれて頷くと、敵に突入して行った。弟の落合兼行であった。


「ここからは樋口・落合両隊に任せ、我ら今井隊は本陣に戻る!」

兼平は指示し、兵らを集め後退すると、約一五〇騎が後に続いた。


(半数を討たれたのか・・・
やはり義仲様の仰った通り、平氏方の戦意は高い・・・が)

兼平は後退する今井隊の最後尾に付き、顔を伝う汗を振り切る様に勢い良く後方を振り返ると、既に第二陣同士の戦いが始まろうとしていた。




「先ずは矢戦さだ!射まくれ!
義仲勢との距離が詰まったら、頃合いを見て突撃を掛ける!」



平氏方の第二陣、侍大将高橋判官長綱が叫ぶ。
その声に応えるかの様に、平氏方から夥しい数の矢が放たれた。

対する義仲勢樋口・落合両隊の武者達は、馬上で体を低くし、矢の直撃を避けながら、これを遣り過ごすと、前進しながら一斉に矢を射返す。何度かこの様な遣り取りを繰り返しているうちに、両軍の距離が近付いて来ていた。

「今だ!こちらから撃って出る!続けーーっ!」

高橋判官長綱は好機[チャ〜ンス!]が来た、と思い、平氏方第二陣五〇〇騎全軍に号令を掛けると、一気に馬足を速め、先頭で突撃して行った。


が、


応える兵らの声が無い。

それに五〇〇騎で突撃を敢行している割には、後ろから聴こえる馬の蹄の音が小さく遠い。

「?」

長綱は不審に思い、後ろを振り返った。



「!」



驚いた。
信じられなかった。
いや、信じたくなかった。
長綱は自分の眼に映っている光景が、何か悪い冗談の様に感じた。
一言で言えば、この時、長綱は呆けてしまっている。

何故か。
長綱の命令に従い、突撃に移った平氏方の武者達は三〇騎程しかいなかったからである。

そして、更に眼を疑う光景が展開された。

長綱の命令に従わなかった約四五〇騎以上の平氏方の騎馬武者らは、突撃の命令に背いただけでなく、驚くべき事に我先にと逃走に移ってしまったのであった。


これを現代の言葉で、敵前逃亡、という。





「駆り武者の弱みが出たか!」

この平氏方第二陣の兵らの呆れ果てた行動を本陣で見ていた副将忠度は、奥歯を噛み締めながら低い声で呟いた。

駆り武者、とは各国々から徴集した兵達の事で、この追討軍の実情は戦時動員した寄せ集めの軍勢に過ぎなかったのである。

この兵達の多くは、平氏の動員命令に仕方無く従って来た者達であり、平氏の命令に面と向かって反対する度胸は無いが、平氏の為に生命を抛つ様な者達でもなかったのである。

要は、勝ち戦さならば喜んで暴れ回る事が出来るが、敗けそうな戦さに付き合うつもりは更々無い、とこういう連中の集まりだった訳である。
平氏に従ってはいたが、平氏の家人でも、平氏の郎等でも無い彼らは、この時一斉に全てを放り出し、逃げ出したのであった。

各々一人一人ではその度胸が無かったので、皆一緒に。


「長綱どの!このままでは戦いにならん!後退して下さい!」

長綱の突撃命令に従っていた三〇騎のうちの一人が声を掛けた。

「景久どの!」
長綱が応じた。

と、
「ここは我らに任せて、長綱どのは本陣に戻って下さい!」

必死の形相で訴えているこの武将の名は俣野五郎景久。

この篠原の戦いが始まる前に毎晩呑み会を開き、朝まで呑み明かしていた、斎藤別当実盛の呑み仲間の一人である。

「お急ぎ下さい!長綱どの!」
また別の者が声を掛けた。

この者も斎藤実盛の呑み仲間であり、名を真下四郎重直。
どうやらこの二人の呑み仲間は長綱の隊に配属されていたらしい。

「重直どの・・・解った・・・本陣に逃げ返るとしよう・・・」

長綱は拳を握り締め、絞り出す様に呟くと、景久、重直をじっと見据え、

「御武運を!」

声を掛けると、馬の方向を変え、自分の郎等十騎程を随えると駆け出した。
無言で長綱の駆け去る姿を見送っていた二人は、

「もうひと暴れしましょうか。景久どの」

「おお!望むところさ、重直どの!皆はどうする!」

景久がここに残った二〇騎の武将達を見廻すと、不敵な笑みと力強い肯きが返って来た。
流石に、今、この場に残っている者達は肝が座っている。平氏方と言えど、この様な武将達もいたのである。


「行くぞ!」


景久もニヤリと笑いながら応え、号令を掛けると、敵に向かって馬を駆けさせた。
義仲勢に向かって。
彼らの様な者達の事を、侍、武士、武将と呼ぶのである。


そして、彼らは誰も生きて還っては来なかった。




「まずい!このままでは・・・!」

(全軍の兵らに怯懦が蔓延してしまう!そうなれば我が軍は!)

平氏方追討軍副将忠度は辛うじて最悪の事態を口にしないで済んではいた。
第二陣でこの様な事が起きるとは思っていなかったが、状況は変化しながら刻々と進行している以上、すぐさま対応策を命じなければならなかった。

「第三陣を投入する!武蔵三郎左衛門有国!五〇〇騎を率い出撃しろ!この五〇〇騎には平氏の家人や郎等らを使え!」

忠度は指示した。
最早、逃げ散った第二陣の兵らの事など構ってはいられない。とにかく、戦線と戦況を維持する事を最優先したのであった。

「はっ!平氏の侍大将の意地を敵に見せてやります!」

侍大将有国は闘志を漲らせて応じた。

流石に平氏直属の家人だけの事はある。
今まで幾多の戦いで平氏軍の中核を担って来た、という矜恃[きょうじ。プライド]が、有国を奮い立たせていた。


「第三陣!出るぞ!急げーーっ!」


有国は号令を掛ける。


「おおおおおおーーっ!!」


郎等らが応じ、有国以下五〇〇騎の第三陣は最前線へと出撃して行った。





「こちらも平氏方に呼吸を合わせる。
第三軍の仁科盛家、岡田親義。それぞれ三〇〇騎ずつ率い、六〇〇騎で平氏方の新手に当たれ。前線に出たら樋口、落合の部隊と交替してくれ」

本陣で戦況を見ていた義仲が穏やかに命じる。

「はっ!第三軍仁科!行きます!」
「同じく第三軍岡田!出陣します!」

仁科、岡田両隊は素早くそれぞれの兵達を率い出撃して行く。

と、
「義仲様。今が好機[チャ〜ンス]なのではないんですか?」

祐筆[秘書兼書記]の大夫坊覚明が小声で耳打ちした。
義仲は表情だけで、続けろ、と応じた。

「はっ。敵の前線の部隊が壊乱した今こそ、こちらは全軍を投入し、一気に攻め掛かれば勝敗は決する、と思うんですが」

覚明が意見を言う。
と、義仲は穏やかな表情に笑みを浮かべ、

「まだ早い。それでは両軍が全軍を挙げての乱戦になってしまう」

「乱戦ではいけないので?」

「別にいけない訳では無い。が、私の狙いはそこには無い」

「狙い、ですか?それは一体何なんです?」

珍しく覚明が食い下がる。が、義仲はそんな覚明に優しげな流し目をくれて、


「今に解る」
とだけ答えた。


どのくらい馬を駆けさせただろうか。
おそらくそう長い時間では無い筈であったが、長綱が気付いて見ると、自分に随っていた郎等らは一騎もいなかった。皆、討たれたのであろう。
長綱は苦い思いで唯一騎、遁れて行こうとしていたが、ふと右側の後方から馬の蹄の音が近付いて来る。反射的に振り返ると、自分目掛けて一騎の武者が追い付いて来る。


(味方の生き残りか?)


だが、その馬の駆けさせ方は、味方同士が合流する、などというものでは無く、狙った獲物は逃がさない、と人馬一体で表現しているものの様であった。


(敵ならば戦うだけだ。それに一騎で勝負しようという心意気は気に入った)

長綱がそう思っていると、早くもその追い付いて来た武者が馬を並べ、組み付いて来た。
引き倒そうと右腕と鎧の袖[肩、上腕部、背中を守る為の鎧の部位]を掴まれた。だが、少しも慌てずに馬上で下半身を踏ん張ると、引き倒そうとしている力に逆らわず、逆に自分の方から右の肩口と、兜を被った頭を、敵の顔目掛けて思いっ切り叩き付けた。


がこん!


凄い音がした。
要は掴み掛かっている奴にショルダーチャージと頭突きを同時にカマした訳である。顔面に。

直後、長綱は敵の首を兜ごと右腕に巻き込むと、そのまま自分の馬の鞍の前輪に押し付けた。
勝負あり。長綱の鮮やかな勝ち、である。


「お前は何者だ。名乗れ。名を聞いておこう」


長綱は言いながら敵の兜を押し上げる。と、思いのほか若い、いや幼いと言って良い様な顔が、兜の下から現れた。
その者は、あどけない顔を少し歪めながら、

「私は越中の国の住人、入善小太郎行重。生年十八歳」

口惜しげに名乗った。
長綱はその入善の顔を見た途端、先程までの闘志が一気に萎んでいる事に気付いた。

何だかこの若者が可哀想な気もしたし、子供、と言って良い年齢のこの若者を討つ事に無意味さも感じていた。
それと、もう一つ長綱には切実な理由もあったのである。

つまり一言で言えば、やる気が無くなった、のであった。

長綱は押さえ付けていた入善の首を放し、馬から降ろしてやると、

「私にはお前と同じ年齢になる子がいた」

言いつつ馬を止め、馬から降りると、

「今年十八になる。生きていたならな」

言った。更に呆気に取られている入善を優しげに見つつ、

「息子は去年亡くなった。まぁそれはいい。
本来ならばお前の首を捻じ切って捨てるところであるが、単騎で挑んで来た心根が気に入った。そこで入善、お前を助けてやる」

長綱は、この入善小太郎に今は亡き自分の息子の面影を見た事かも知れなかった。

「ここで休息し、味方の軍勢が来るのを待つとしよう。お前の様な者に、また目を付けられては叶わんからな」

冗談交じりに言うと、

「そ・・そんな・・・」

入善は顔を赤らめ、

(私の生命を助けてくれた・・・本当に素晴らしい敵だ・・・)

感動気味に思っていると、

「おい入善。お前の父の名は何と言う?」

長綱は心を許し、話し掛ける。

「はい。私の父の名は宮崎太郎長康」

答えながら長綱に近付く。


「何と。北陸諸将の大将格である宮崎長康の子であった・の・・か!」

長綱は言い終わった時に気付いた。
眼の前の入善小太郎に、鎧の隙間から脇腹を刀で刺されている事に。

直後、入善は長綱に飛び掛かり、更にもう一刺しした。


「入善ッ!・・・貴様ッ!・・・」


長綱は入善を視線で射殺す様に睨み付けると、

「貴方は素晴らしい敵です!だからこそ、何としても討ちたいんです!」

入善は叫び、長綱を刺していた刀を引き抜くと、少し間を取り両手で刀を構えた。
そんな入善の必死の様子を見ていた長綱は、ふ、と表情を緩めると、


「そうだな・・・
それが私達武士のどうしようもないところだからな・・・」

呟いた。
と、そこに遅れ馳せながら入善の郎等が三騎、駆け付けて来るのが見えた。

「いいだろう・・・相手になってやる・・・」

言いつつ長綱は太刀を抜く。
心は奮い立っていた。
しかし、そこまでだった。
出血が酷い。力が入らない。身体が動いてくれない。


(私の運も尽きた、か・・・)


自重の笑みが浮かぶ前に、長綱の意識と首が飛んだ。
平氏方追討軍侍大将高橋判官平長綱は、ここに討ち取られた。




「うおっ!」

馬が射られ、暴れ出した馬から放り出され落馬した武蔵三郎左衛門有国は、立ち上がりながら太刀を引き抜くと、周囲を見回した。
替えの馬を引いている筈の自分の郎等を探していたのである。

平氏方追討軍第三陣の侍大将有国率いる約五〇〇騎の軍勢は、先程眼の前で展開された第二陣の敵前逃亡とも言うべき大失態を拭い去る為に、喊声を上げて突撃し、義仲勢に攻め掛かかった。

対する仁科、岡田両大将率いる六〇〇騎の義仲勢は、この平氏方の突撃を跳ね返す事に成功した。が、有国は尚も突撃に次ぐ突撃を敢行。

義仲勢仁科、岡田両隊を突破した、かに見えた時、有国は馬を射られ落馬した。だが、彼の周囲には替えの馬や郎等はおろか、味方の兵が誰もいなかったのである。


「畜生!やっちまった!」


有国は自分の犯した失敗を悟った。
進撃する事にのみ気を取られ、敵陣深くに攻め入り過ぎたのである。
要は深入りし過ぎて孤立してしまった訳だ。
そして、その進撃の過程において味方の将兵を多く失った事にも有国は思い至った。事ここに至れば後退する事も出来ない。
ましてや味方の救援などはもっと期待出来ない。
である以上、有国は覚悟を決めた。


矢はもう全て射尽くした。
弓も棄てた。
馬も倒れ、替えも無い。

有国は太刀を構えると、

「私は平氏の侍大将!武蔵三郎左衛門有国!
手柄が欲しい奴は掛かって来い!」

大音声で叫ぶと、義仲勢の中に斬り込んで行った。
有国は意志の続く限り戦った。
多くの兵を討ち取った。だが、還って来る事は出来なかった。





そしてこの第三陣の有国の隊には、伊東九郎祐氏、浮巣三郎重親という武将が配属されていた。
誰?と思うのも当然である、が、この二人も先の俣野五郎景久、真下四郎重直と共に、毎晩呑み明かしていた斎藤実盛の呑み仲間であった。
彼ら二人も、この戦場から還っては来なかった。つまり斎藤実盛の呑み仲間は四人とも、その酒の席での約束通り、最期まで平氏の為に戦い、この篠原で生命を散らしていったのである。


「盛俊!越中前司平盛俊に命じる!第四陣として二〇〇〇騎を率い、敵に当たれ!」

副将忠度が叫んだ。
戦況が思わしく無い。味方が押されて来つつある。
ここが正念場だと感じた忠度は更に声を張り上げ命令を続ける。

「間を置かずに第五陣、第六陣を進める!第五陣の指揮は越中次郎兵衛平盛嗣!第六陣の指揮は上総悪七兵衛藤原景清!第五・第六陣はそれぞれ二〇〇〇騎を率い・・・!」

指示を出している途中で忠度は声を失った。
自分の見ている光景が信じられなかった。

呼吸する事も忘れ、目の前の光景をただ茫然と見ている副将忠度の様子に不審を抱いた侍大将の盛俊・盛嗣・景清は、眼を見交わしつつ忠度の見ている方向を振り返って見た。



「!」「!」「!」



三人の侍大将は忠度と同じく絶句した。

先程まで整然と布陣していた味方の陣形が、見る影も無く千々に乱れていた。
そして乱れているだけでは無く、兵の数も激減していたのである。
義仲勢が何か仕掛けて来た訳では無い。

平氏方追討軍の兵らは、ここで追討軍である事を辞めた。
それ以上に、この兵らは兵である事をも辞めてしまった。つまり何もかも放り出して逃げ出したのである。



「今だ!
第一軍・落合・巴・富樫!
第二軍・楯・津幡・那波は右から!

第三軍・仁科・岡田・石黒!
第四軍・樋口・千野・林は中央から!

第五軍・根井・海野・稲津!
第六軍・今井・手塚・斎藤太は左から追撃に移れ!

ただし向かって来る兵だけを討て!
逃げる兵は相手にするな!くれぐれも深追いしてはならん!」

義仲は床机から立ち上がると命じた。


「おおおおおおっ!!!」


第一軍から第六軍までの将兵一万八〇〇〇騎が応じ、次々と出陣して行った。各々一〇〇〇騎ずつ列になって進軍している。
あたかも十八匹の大蛇が横一線に並び、獲物に襲い掛かるかの様に。

その大蛇の頭にあたるところに各隊の大将が、源氏を示す白い旗を掲げ、兵らを鼓舞し突き進んでいる。


恐るべき破壊力を誇る義仲軍の一斉攻撃が始まろうとしていた。
と、

「義仲様!我ら第七軍本隊三万二〇〇〇騎も追撃に移りましょう!」

この篠原の戦いの間中、本陣で戦況を見ているだけであった宮崎長康が提案した。
続けて問う。

「いくら浮足立って逃げ出した平氏方と言えど、三万騎に近い軍勢に一万八〇〇〇騎で追撃を掛けるのは、少し危険ではありませんか?」

「いや。これで良い。おそらくもう平氏方には組織立った戦闘など出来る余裕は無いだろう」

義仲は穏やかに断言する。

「これを待っていた訳ですか、義仲様は。平氏方の軍勢が壊れるのを」

覚明が呆れ半分、感心半分といった感じで義仲に話しかけた。

「そうだ。ただ私の予測では追撃に移るのは夕刻あたり、だと思っていた。しかしこの暑さだ。我らの兵らもそうだが、平氏方の兵達にとってもこの暑さの中での戦いは厳しかった事だろう。ましてや劣勢に立たされた時には尚更」

「兵らの心が折れるのは早い、と?」

穏やかに話している義仲の台詞を途中で受け取った覚明。義仲は無言で肯く。

「何の話しですか?」

宮崎長康が怪訝そうな顔で問い掛けた。

「いや。何でも無い」

義仲は優しげな笑顔になると、

「我らは勝った。
だが、戦さはまだ終わっていない。

追撃して行った第一軍から第六軍の将兵達が戻って来るまでは、本陣の将兵達は油断せずに警戒していてくれ。戦さは何が起こるか判らんからな」

気を緩める事の無いように、穏やかに指示した。




人々はばらばらに逃げ出して行く。
蜘蛛の子を散らす、とはこういう事を指すのだろう。
平氏方追討軍は壊れた。それも戦いの途中で空中分解したに等しい。
もう軍勢などとは言えない状況に追い込まれていた。


逃げ出して行く連中を茫然と眺めていた時間は、おそらく数十秒であったが、はっと我に返った副将忠度は、何とか混乱する思考をまとめ、これからどうするか、という突き付けられた難問に解答を得る事に成功した。

いや。考えるまでもなかった。

三万騎の軍勢が瓦解し、戦闘継続が事実上不可能になった以上、生き残った者達に出来る事は一つしか無かった。



撤退、である。



この北陸の地からの全面撤退、これしか無かったのである。

「先の命令を変更する・・・撤退だ・・・
これより我が追討軍は生き残った将兵らと共に、都に撤退する、しか無い・・・」

敗軍の将となってしまった恥辱、屈辱の感情と戦いながら平氏方追討軍副将平忠度は絞り出す様に言った。まるで血を吐いているかの様に。

本陣の外側では、逃げ出す兵らの喧騒と追撃の為に接近して来る義仲勢の蹄の音が満ちていたが、本陣の内側では、将らは押し黙り、水を打った様な沈黙、に支配されていた。

この場にいる誰もが、忠度と同じ感情と戦っていたのである。


忠度は一つ長く息を吐くと、顔を上げ、

「それでよろしいですね。総大将維盛どの」

平氏方追討軍総大将平維盛に裁可を求めた。
しかし、維盛の顔面は蒼白になり、その眼は大きく見開かれていたが、その眼には何も映っていないであろうし、またその耳には、何も聞こえていない様であった。

それは、この北陸遠征の追討軍の敗北が決定的になった時から、維盛の中で、総大将としての自分の責任、平氏の嫡流小松殿家の嫡男としての立場、この遠征で生命を落してしまった味方の将兵達への謝罪の念、などが一気に噴き出し、荒れ狂っていたからである。

様々な思考や感情が維盛の中で渦巻いていたが、こうなると思考停止している事と何も変わらない。

忠度は敢えて少し強めに、


「総大将、維盛どの」


区切って呼び掛けた。
と、維盛は、びくっと肩を震わせて、瞬きしながら忠度を見た。

「これより我が追討軍は都に撤退致します。よろしいですね。維盛どの」

忠度は静かに繰り返した。
維盛は束の間、眼を中空に彷徨わせていたが、心持ち肩を落としながら、


「はい・・・忠度どのの言う通りにします・・・撤退しましょう・・・都へと・・・」
蒼白な顔のまま、維盛は答えた。

他人事の様な言い方ではあったが、他人事どころでは無く、全ての、総ての責任に押し潰されそうになっている維盛には、もう余裕の欠片さえも失っている以上、仕方の無い事ではあった。

忠度は頷くと、厳しい表情になり、

「これより都へと撤退する!ついては侍大将、家人、郎等らに命じる!何としても総大将の維盛どの、大将軍の通盛どの、経正どの、清房どのを都に帰還させて欲しい!
副将である私はこの部隊の殿[しんがり。最後尾]に付き、部隊を押し上げ、敵の追撃を阻む!良いか!」

命じた。

「おおおっ!」

侍大将、家人、郎等らが応えると、

「盛嗣!忠光!景清!侍大将のお前達は総大将と大将軍の護衛に当たれ!私は副将忠度様にお供し、殿に付く!」

越中前司盛俊が間髪入れずに侍大将らに命じた。

「解りました。父上」と盛嗣。

「ああ。了解だ」と景清。

真剣な眼をして無言で肯いた忠光[景清の兄]。

三者三様の応じ方ではあったが、盛俊は厳しい表情で頷くと、馬に乗り込む。


「では!これより撤退する!馬が倒れるまで駆けさせろ!
一路、都へと向かえ!行けーっ!」


忠度が号令を掛けると、応える代わりに馬が一斉に駆け出した。
これにより集団としての追討軍は瓦解した。
ただ僅かに本陣とその周辺にいた集団だけが、唯一の集団ではあったのだが。





「敵平氏方の本陣から部隊が後退して行きます!
おそらく敵の総大将や大将軍らも後退しているものと思われるます!」

郎等が、そう報告して来ると、義仲勢の本陣は喜びに包まれた。

「後退?いやあれは撤退だろう!」

村山義直が混ぜっ返すと、本陣には笑いが起きた。


「遂に・・・遂に平氏をこの北陸から追い返したんだ・・・」
宮崎長康が、感無量、と言った風情で呟く。


「宮崎どの。今までの北陸諸将の激闘が報われたな」

信太義憲が優しげに応じると、


「ええ・・・我らが・・・勝ったんだ・・・
 勝ったぞ!平氏に!十万の敵に!」


宮崎は嬉しさを爆発させて叫んだ。
すると本陣近くにいる兵達が応じた。


「うおおおおおおおおおおおおっ!!!」


義仲勢本隊第七軍全軍の勝利の雄叫び、メロディの無い凱歌が上がった。

そして、その地を揺るがした凱歌は、大気を震わせ、蒼く高い天空へと吸い込まれていった。

義仲は笑みを浮かべ、蒼空を見上げ眼を閉じると、勝利の凱歌の余韻を聴いていた。

十万騎を擁し、北陸へと侵攻した平氏方追討軍は、この篠原の地で瓦解、雲散霧消した。
平氏方の企図は挫かれた。
義仲の前に。




こうして平氏方追討軍は壊滅した。
この年の四月に都を十万騎で出陣し、北陸を荒らしまくったこの軍勢は、僅か一ヶ月半程経過した六月、都への撤退を余儀無くされた。
帰還した将兵は二万騎を下回っていた。

実に、出陣した将兵の八割が生きて還っては来られなかったのである。
激しい戦闘の連続であった。
この一連の戦いを北陸戦線と呼ぶ。

こうして戦いは終わった。この北陸では。
しかし、この北陸最後の戦いである、ここ篠原に於いて、兵らは無論の事、総大将や大将軍ら平氏方の高級武将までも逃亡、撤退したにも拘らず、ただ一騎、義仲勢を迎え撃つ為に、そして味方の撤退を援護する為に起った武将がいた。


武将の名は斎藤別当実盛。


この男は過去に、幼き頃の義仲とその母の生命を救った事がある武将であった。