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義仲戦記15「倶利伽羅合戦③」

「はっ?・・・えっ?」

「いや・・あの・・もう一度、言って下さい」

石黒光弘と宮崎長康が訊き返した。

石黒などは耳に手を当てて義仲の言葉を聴き逃すまい、としている。
そんな二人を面白そうに見ていた義仲が、先程と同じ言葉を繰り返した。


「精強な兵を十五騎集めてくれ」

と。

「・・・・・」
「・・たった・・十五騎で・・一体、何を・・」

石黒が絶句し、宮崎が辛うじて訊き返した時、

「義仲様!多胡次郎家包[上野の武将]以下十五騎!準備出来ました!」

と、多胡家包本人が義仲に声を掛けた。
どうやらこの義仲勢第七軍の大将である巴御前、戦う美少女巴が素早く手配していたらしい。

「良し。では多胡家包。お前は十五騎を率い、敵平氏方の本陣に矢を射掛けて来い。そして敵が出て来たら、頃合いを見て引き返して来るんだ。決してそれ以上の事はするな。良いな」

義仲が事細かく指示すると、

「はっ!判りました!その様にして来ます!」

多胡は応えると、本陣を出ると馬に乗り、駆け出して行った。
状況に対応出来ずにポカーンとしている宮崎、石黒の二人をそこに残して。


↑ ラップで義仲の生涯がするっとわかる!
覚えて一緒に歌おう!「夜明けの将軍」


「敵義仲勢が兵を繰り出して来ました!」

『いよいよ来たな。ではこちらも応戦するとしようか」

郎等の報告を受けた平氏方追討軍大手の総大将平維盛が、余裕を持って言うと、

「待って下さい・・それが・・・」

郎等が何か言い辛そうにしている。

「ん?何だ?まだ報告する事が有るなら言ってみよ」

大将軍の平通盛が、郎等に先を促す。

「はい。それが・・出て来た義仲勢の兵の数は、たったの十五騎で・・・」

郎等が何か言い訳でもする様に報告すると、

「何だと?本当か?」

と、同じく大将軍の平経正が誰にともなく訊き返すと、

「まさかな・・・」

これも同じく大将軍の平清房も首を捻っていた。

「ふむ・・・先ずは義仲の意図を試す。こちらも十五騎出して迎え撃て」

総大将維盛が指示した。

「はっ!」
郎等が応じ、本陣を出て行く。

と、
「平泉寺長吏斉明。お前は義仲に逢った事が有るな。義仲とは一体どう言う武将なんだ?私達[都の平氏の公達]の印象では、戦さ上手の武張った武将[喧嘩の得意な荒くれ者的な]と言う感じなんだが」

総大将維盛が斉明に尋ねた。

「はっ。荒っぽいのは確かでしょうが、拙僧の見た限りでは、意外にもあまり汚い事はしません。しかし、まぁこれは外聞を憚っての事でしょうが。とにかく源氏という奴らは、ことの他、自分の評判を気にする連中ですから」

斉明は訳知り顔で答えた。
つまり斉明は、義仲は荒っぽい事を平気でヤる、と言う事を売りにしているが、実はそうでは無く、良い評判を取りたいが為に、単に格好をつけたがるだけの武士、と答えたに等しい。

「そうなのか?では兵を十五騎出して来た、という事は、もしかすると・・・」

総大将維盛と斉明が、こんなやり取りをしていると、

「敵の十五騎は、矢を何本かこちらに射込むと直ぐに退きました!
こちらも十五騎を出し、矢を敵に射込むと、
今度は敵が三十騎出して来ました!」

郎党が報告した。
と、

「やはり!総大将維盛様!義仲は自分の評判を落としたく無いのです!
奴が格好をつけてここで戦さの作法[戦場でのマナー]通りにしているのはそう言う事です!」

斉明が、義仲の考える事など拙僧には簡単に見抜けるわ!とでも言いたそうなドヤ顔で、気分良く解説していた。

この当時の戦さの作法[戦場でのマナー]と言うものは、明文化されている訳では無いが、色々と細かく規定されていたのも事実だ。
その作法[掟。おきて]の中に、少数の敵が来た場合には同じ数の兵を出して戦わなくてはならない、いや、戦った方が良い…もっと言うと、戦った方が外聞が良く、格好良く、褒められ、尊敬され、間違っても悪くは言われ無い、と言うものがあった。

「判った。義仲が作法[マナー]通りにヤる、と言うのならこちらも作法[掟]に則って付き合うまでだ。こちらも三十騎出せ!」

総大将維盛が命令する。
「はっ!」
郎等が出て行くと、

「義仲は時間稼ぎをしている様にも見えます」

侍大将の上総大夫判官藤原忠綱[悪七兵衛景清の兄]が言う。

「確かに。義仲勢はまだ全軍がこの戦場に到着していないのでしょうか?」

隣にいた同じく侍大将の飛騨大夫判官藤原景高[上総大夫判官藤原忠綱のいとこ]も疑問を口にした。

このいとこ同士の二人は、いつでもどこでも常に一緒にいる、と言う間柄であった。要は、とても仲良しさん、なのである。任官も二人同時、昇進も二人同時、そして戦場での配属先も一緒なのであった。


「そうであったとしても我らは怖れる事など有りません!」

良い気になった斉明が大声で言う。
続けて、

「敵義仲勢が時間稼ぎをしているなら、我ら平氏方にとっても好都合!何せ敵をこの猿ヶ馬場に引き付けて置けば、忠度様率いる味方の搦手三万三〇〇〇騎の軍勢が、志雄山方面から駆け付け、敵義仲勢の背後から襲い掛かる筈です。奴らは小賢しく時間稼ぎをしているつもりなのでしょうが、こちらはそれを利用し、逆に我が平氏方の勝利に繋げるのです!」

盛り上がっている斉明。
更に更に大声で続けた。

「ここから見る限り、敵義仲勢の部隊は旗の立つ北黒坂、松長の柳原、日宮林に陣を構えている様ですが、この猿ヶ馬場まではまだまだ遠く、そして目の前の羽丹生に陣を構えている敵は、部隊を展開出来ずにいるのです!!」

ヒートアップし断言した斉明。彼は今、最高の気分であった。


「成る程な。だから敵義仲勢は、敢えて作法に則って戦さをしている、と言う訳か」

大将軍通盛が言う。
と、
「その通りです。しかし、もし万一敵が前面の羽丹生に集結出来たとしても、この山の中です。今以上に軍勢を展開する事など不可能でしょう!」

斉明の熱気に当てられたのか、大将軍経正も勢い込んで言った。

「前面の敵だけを相手にすれば良いのなら、ここは敵のやり方[作法通り]に付き合った方が良いのでは?」

大将軍清房も同調した。

「そうだな。ではその通りにしよう。
では、これより敵と同じ数だけ兵を繰り出せ!五十が来たら五十!百が来たら百とな!敵に付き合うフリをして、我らも時間を稼ぐ!だが、前面の防備だけは怠るな!良いな!」

総大将維盛は決断した。






「一旦止まれ!」

樋口兼光[義仲四天王筆頭]が命じた。

見ると、切り立った崖の斜面に、僅かに人が通れるくらいのへりが有った。おそらくそれが道なのだろう。
しかし、切り立った崖、と言っても四方は樹々に覆われ、周囲を見渡す事など出来ず、しかもその崖の所々には木や草が生い茂っていた。

兼光は続けて、

「林どの。ここからは馬を降りた方が良いのか?」
訊いてみた。

だが、馬から降りても腰の辺りまで下草が繁茂しているのである。
更に行く手には崖が有り、馬を引いて崖を通るのは難しい、と思っていると、

「いや。逆に馬に乗っていた方が良い、と思います。
馬に任せて進みましょう」

林光明が冷静に答えた。


義仲勢第四軍七〇〇〇騎は、砥波山系の細い山道、いや獣道、と言うべきか、とにかくその道とは言え無い様な山道を辿り、一路加賀方面へと向かっていた。

だがこの行軍は想像以上にキツかった。
馬に乗っている、とは言え、時には馬から降り、また馬を引き、歩いているのである。要は完全武装して[とても重い鎧を着て]登山をしている様なものなのであった。

と、
「先頭は俺が行きますよ。
兼光どのと林どのは、俺が渡ったら後から来て下さい」

元気良く言った者がいた。

「そうか。千野どのは諏訪の者であったなぁ」

村山義直が感心した様に言った。

「そう言う事です。まぁ任せて下さい。
俺にして見ればこの崖も、木落とし坂を馬で横切る様なものですからね」

千野光広は気負わずに言うと、事も無げに馬で切り立った崖の道を横断し、渡り終えてしまった。その様子を驚いて見ていた林は、

「凄い・・・どう言う事です?・・・」
兼光に訊くと、

「千野は諏訪の男だからな。御柱[御柱祭。信州諏訪地方独特の神事で、諏訪大社上社前宮、上社本宮、下社春宮、下社秋宮の四社が七年に一度、同時に行う盛大な祭り]をやっている者は度胸が有る」

苦笑しつつも、どこか自慢げに兼光が言う。
続けて、

「その御柱の事が知りたいなら千野に訊いてみると良い。三日三晩、御柱の事を喋り続けるぞ」

普段物静かな樋口兼光が、珍しく雄弁に、そして悪戯っぽく林に対して片目を瞑って見せた。

と、
「兼光どのーーーっ。林どのの言う通り、馬で大丈夫ですよ!」

崖を渡り切った所で千野が振り返り、笑顔で手を振っていた。

「良し!我らも続く!」

表情を引き締めた兼光が命じ、林と無言で頷き合うと、崖の道に馬を進めた。その後を林、村山以下七〇〇〇騎が、一列になって続いている。



「成る程。時間稼ぎの為でしたか」
宮崎が、ようやく合点がいった、とでも言う様に納得していた。

「しかし、平氏方もこれに付き合うとは。意外と平氏方も律儀なのか何なのか」

石黒もようやく全てを理解したせいか明るく言っている。

「いや。平氏方には平氏方の考えが有るんだろう」

義仲が相変わらず穏やかに言う。

「それはどう言う事です?」
宮崎がすかさず訊く。

と、
「むこう[敵平氏方]も軍勢を分けているでしょ?
だからその分けた軍勢にあたし達の後ろから攻めて貰いたいんじゃない?挟み撃ち、ってやつ?おそらくそんなところ」

義仲勢第七軍本隊六〇〇〇騎を率いる大将巴御前が、あっけらかんと言った。戦う美少女巴である。
巴の言葉を聴きながら、


(今の時点で敵平氏方と膠着状態に持ち込めたのは上出来だ。
 あとは・・・)

義仲は翳りつつある空と、色を変えつつある砥波の山々を見渡しながら思っていた。



もうすぐ日が暮れる。

義仲勢第七軍本隊と平氏方追討軍大手の軍勢は、この日、四町[一町約一〇九メートルとして、約四四〇メートル]の間を隔てて睨み合いを続け、時折り義仲勢が十五騎繰り出せば、平氏方も十五騎。三十騎繰り出せば、三十騎。五十騎繰り出せば、五十騎。百騎繰り出せば、百騎と、応戦しつつも互いに大戦さにならない様に、抑制して戦っている。
そうしている内に空が暗くなっていた。

日が暮れたのである。

山の中は暗かった。
樹々に囲まれているせいもあるだろう。
夜空の方が明るいくらいであった。

「今夜は、私が許可するまでは、松明[たいまつ]や灯りを点けてはならん」

義仲が暗闇の中で命じた。

「兵達にも、その様に厳命しておきました。それと、あまり動き回るな、とも」
戦う美少女巴が応じた。

こうして暗闇の中で聴く巴の声は、透き通る様な響きの、美しい声であった。
義仲勢第七軍本隊はまるで眠ったかの様に、静まり返っていた。
暗闇の中、六〇〇〇騎の兵達が息を潜めて。彼らは羽丹生の陣で待っていたのである。

「この調子で、のらりくらりと義仲勢に付き合っていれば、敗けは有りませんよ」

酒を呑みつつ上機嫌に気勢を上げているのは斉明であった。
続けて嘲笑いながら、

「時間は我ら平氏の味方です。何日でも付き合ってあげましょうか、哀れな義仲に」

言うと、猿ヶ馬場の平氏方追討軍大手の本陣に哄笑が巻き起こった。


平氏方は日が暮れる前に戦闘を停止させ、敵義仲勢に対している前面の防備を固めると、猿ヶ馬場の本陣に戻り、戦さの最中だと言うのに酒宴を開いていたのである。

しかし、この砥波山方面での義仲勢、平氏方、共に積極性の欠片も無かった今日一日の戦闘[?]の後では無理も無い事ではあったし、何より平氏方としては、時間を稼ぎ、味方の搦手軍三万三〇〇〇騎が敵の背後に到着するのを待つ、という思惑通りので展開になっている以上、あと何日かは今日の様な楽な戦闘を続けていれば勝てる、とでも思っていたのである。

と言う訳で多少、いや思いっ切り緊張感の無くなった平氏方大手の総大将や大将軍、侍大将らは、ここに松明を煌々と灯し酒盛りをしていた。だが、全軍で呑んでいた訳では無い。とは言え、上の浮ついた雰囲気は直ぐに下の郎等らや兵達に感染してしまうのはどうしようも無い。彼ら兵達も、何処からか酒を調達[盗み酒]し、ちびちびと呑み始めるのに時間は掛からなかった。


そして、夜は更けて行った。酒の入った兵達の騒々しい嬌声と共に。








段々と近付いて来ている。

耳が教えてくれた。

真っ暗な山道を、文字通り手探りで進んでいる彼らには、その敵の上げる嬌声が間近で聴こえていた。
しかも敵は松明の灯りで、自分達の居場所も教えてくれている。
味方の軍勢であれば、今は灯りを灯している筈が無いし、何より戦さの最中に酒盛りを始める馬鹿は味方にはいない。
間違う筈が無かった。


「良いか。私が名乗りを上げて号令を掛けたら、一斉に敵に矢を射掛けろ」

暗闇の中で命令している者がいた。
囁く様な小声で。
この声を聞いた者達が無言で頷いているのが判る。

と、命令した者は立ち上がり馬に乗ると、郎等らを十騎程従え、松明が灯り、明るい喧騒の方へと馬を進めた。

「んん?馬から降りろ。お前達はどこの部隊の者だ?」

近付いて来る馬に気付いた平氏の郎等が声を掛けて来た。


猿ヶ馬場に本陣を構えている平氏方追討軍大手の軍勢の最後尾。
加賀側に通じる山道を警備していた平氏の郎等は、もう一度声を掛けた。

「忠度様の搦手の軍勢からの伝令か?御苦労だな」

どうやら味方だと思っているらしい。

と、馬に乗り近付いて来る先頭の武士が、おもむろに矢を番え、弓弦を引き絞っているのに気付いた平氏の郎等が、


「まさか・・・お前ら・・・」


目を見開き、息を呑んで呻く様に呟いた直後、



「義仲四天王筆頭!樋口次郎兼光!参る!」



名乗りざま矢を射た。
その矢に射られた平氏の郎等が倒れると同時に、



「今だ!矢を射掛けろ!千野!林どの!先陣は任せた!行けーーーーっ!」



兼光が叫んで命じた。
と、


「おおおおおおーーーーっ!!!」


それぞれ二〇〇〇騎ずつ率いた千野光広と林光明が平氏方に突撃を敢行した。放たれた矢と、雄叫びと共に。


「村山どの!一〇〇〇の兵達に松明を灯させ、旗を上げろ!私は残り二〇〇〇騎で、敵陣に攻め入る!」

兼光が更に命じると、今まで真っ暗だった山道に次々と松明が灯っていった。
その灯りは山道に沿って一列に、点々と山を連ねていく。
そして旗が上がる。
源氏を示す白い旗が夜空に翻り、松明の灯りを受け、うねりながら白く浮かび上がった。




同時刻。

「始まったわ!」
じりじりとこの時を待っていた葵御前、アクティブクールビューティー葵が歓喜の声を上げた。

「我らも松明を灯せ!」
命じたのは義仲勢第三軍大将仁科盛家。岡田親義と藤島助延が顔を見合わせて頷くと、


「全軍!松明を灯せーーーーっ!」

「旗を上げろーーーーっ!」

命じた。



同時刻。

「合図だ!」

平氏方の本陣の後方を見ていた海野幸広が叫んだ。

「兼光。待たせやがって」

ニヤリと不敵な笑みを浮かべながら、立ち上がったのは義仲勢第五軍大将根井小弥太。
続けて、

「行くぜ!新介どの!」
声を掛けると、

「はいっ!全軍灯りを点けろーーーーっ!」

元気いっぱいで応えたのは稲津新介実澄。

「遅れを取るなよ!行くぜーーーーっ!」

小弥太が馬上で兵達に号令を掛けた。


同時刻。

「松明の列が!あれを!」

平氏方後方の松明灯りの列を指差しながら那波広純が叫んだ。
その指差す方向を見ながら、

「いよいよですね!」

興奮を隠し切れずに斎藤太が隣に居る者に話しかけた。

「ああ。始まったな」

落ち着いて応じたのは手塚太郎光盛。

と、
「松明を灯せ!全軍で平氏方の横っ腹に攻撃を掛ける!」

号令を掛けたのは義仲勢第六軍大将今井兼平。
続けて命じた。

「光盛!斎藤太!一斉に矢を射掛けろ!」


同時刻。


「樋口どのがやりました!」

笑顔で叫んだのは石黒光弘。

「樋口どのの第四軍が平氏方の後方から攻め掛かっています!」

宮崎長康も嬉しさを堪え切れずに叫ぶ。
と、

「ここまでは我らの思惑通りに状況は進行している!」

少しだけ厳しさを交えた声で義仲が叫んだ。
続けて、
「この戦さは今夜、この場で決着を着ける!全軍!松明に火を入れろ!」

指示した。



「おおおおーーーーっ!!!」



兵達が応える声を聴きながら義仲は、

「巴。これより第七軍の指揮は巴に還す」

普段通り穏やかに言った。

「解りました。第七軍の指揮はあたしが執ります」

微笑みを浮かべ、答える戦う美少女。
だが、その笑顔も一瞬で表情を引き締めると、姿勢を正した。

「では義仲様には、これより砥浪方面第三、第四、第五、第六、第七軍大手全軍全体の指揮を執って頂きます」

義仲は眼元を少し緩め、無言で肯いた。
巴は義仲に一礼し、馬に跨ると、

「宮崎どの、信太どのは義仲様のお側に!多胡どの、石黒どのは私と共に敵平氏方に攻め込みます!では!」


義仲を一瞥し、


「第七軍!平氏方に突撃します!続けーーっ!」


戦う美少女は号令を掛けた。

「おおおおおおおおーーーーーーっ!!!」

義仲勢第三軍七〇〇〇騎、第四軍七〇〇〇騎、第五軍九〇〇〇騎、第六軍六〇〇〇騎、第七軍本隊六〇〇〇騎の、義仲勢砥浪山方面軍大手全軍約三万五〇〇〇騎による大攻勢が開始された。


大地を揺るがし、夜空を震わせる大音声と共に。
そしてその雄叫びは砥浪の山々に木霊している。


☆ ☆



一気に酔いが醒めた。
と言うより血の気が引いた。
その直後、身体中が震えだした。
別に寒い訳では無い。慄いているのである。

だがこれは平泉寺長吏斉明ただ一人の事では無かった。

この場にいた総大将平維盛をはじめ、大将軍の平通盛、平経正、平清房、侍大将の河内判官秀国、上総大夫判官藤原忠綱、飛騨大夫判官藤原景高、上総五郎兵衛藤原忠光も同じく震え慄いていたのである。

つまり、この七万騎を擁する平氏方追討軍大手の軍勢を率いる立場にある者、全員が突然起こった事態に対応出来ずにいたのであった。

確かに平氏方追討軍の戦略は、全体的に見れば別に間違ったものでも、やってはいけない事でも無かった。五万騎の義仲勢に対し、倍の十万騎を擁する平氏方追討軍は、大手[本隊]七万騎、搦手[別働隊]三万三〇〇〇騎に兵を分け、志雄山、砥浪山両方面から義仲勢を挟み撃つ、という考えはおかしなものでは無く、当然と言えば当然の戦略ではあったのだ。

しかしこの戦略は、言ってしまえば誰でも考え付く事が出来る程度のものであり、しかもこの戦略を採用する以上、二つに分けた砥浪山方面大手、志雄山方面搦手の部隊の蜜な連携と、両部隊の迅速な行動は必要不可欠のものであったのだが、平氏方追討軍はこれらの事を重視してはいなかった。


一方義仲は、この平氏方の戦略を予想し、これを逆手に取り、志雄山方面には義仲勢の搦手の軍勢を送って、平氏方搦手の軍勢の侵攻を阻んでおいて、その間に砥浪山方面では自らが指揮する義仲勢大手の軍勢をもって、平氏方大手の軍勢と勝敗を決する、という戦略で臨んだ。

そしてこの平氏方大手の軍勢を撃滅する為に、更に義仲勢大手の軍勢、第三、第五、第六軍、三つの部隊を砥浪山系の別々の場所に布陣させつつ、義仲自らは第七軍本隊を率い、猿ヶ馬場に布陣する平氏方大手の軍勢相手に、大戦さにならない様に戦闘行為を抑制させ、時間を稼いだのである。

この間、第四軍には砥浪山中の猿ヶ馬場を迂回させ、加賀側からこの第四軍が平氏方大手本陣の背後から攻め掛けた時には、第三、第五、第六軍は暗闇に紛れ、猿ヶ馬場の平氏方大手本陣の真横に接近。第七軍本隊と共に、義仲勢大手の全軍をもって一斉攻撃を掛ける、という精緻でありながらも大胆な義仲の戦術は、この砥浪山方面での開戦時には、完璧に遂行されていたのである。


つまり、平氏方は義仲に乗せられた、のであった。平氏方大手は自分達こそ時間を稼ぎつつ戦況を有利に展開している、と思っていたのだが、実はこの時、一番時間を欲していたのは義仲の方だったのである。第四軍を迂回させる時間を。

戦闘を抑制している義仲の意図を見抜けずに、だらだらと小規模な戦闘に付き合い、貴重な時間をプレゼントしてしまったのが、他でも無い平氏方追討軍大手だったのである。

そしてこの平氏方追討軍大手の油断と無思慮と無分別が、彼らの致命傷になってしまったのであった。



「我が陣の後方、加賀側から義仲勢が攻撃して来ました!」

郎等が叫びながら本陣に駆け込んで来た。
が、本陣に居る者達は一瞬、何を報告されたのか理解する事が出来なかった。

「・・・何?・・・」

総大将維盛が辛うじて訊き返した直後、



「おおおおおおーーーーーーっ!!!」



雷鳴にも似た轟音、いや大音声が響き渡った。
と、

「夜討ち[夜襲]か!」

一番速く報告を理解した侍大将の上総五郎兵衛藤原忠光が叫びながら陣幕を潜り、本陣を出て周囲の状況を見渡す。

「!」
五郎兵衛忠光は絶句した。



幾千、いや幾万という松明の灯りが見えた。
その星を集めた様な松明がこちらに向かってやって来るのである。
しかもその松明は、どんどん数を増していった。


(嘘だろ・・・冗談じゃ無ェ・・・)


忠光はその光景に圧倒された。
いつの間にか顎が震えている。
その事に気付いた忠光は拳を握り締め、


「義仲に謀られた!奴の狙いはこれだったのか!」


思いっ切り叫ぶ事で自負自身を奮い立たせ、震えを止めた。
周りを見ると、総大将維盛以下、本陣に居た全員が言葉も無く、立ち尽くし、震え慄いている。
彼らもこの光景に圧倒されているのであった。


「とにかく防戦だ!防戦に専念しろ!」
忠光が兵らに指示していると、

「・・そうだ・・加賀に引き返そう・・」
大将軍通盛が震えながら言う。

「駄目です!今、その背後の加賀側の道から攻撃されているんですよ!」
忠光が叫ぶ。

「なら越中側に退避しよう・・・」
と大将軍清房。

「お忘れですか!?前方の越中側には義仲が陣を構えています!」
忠光が更に声を張り上げ、

続けて、
「今、この猿ヶ馬場の我が軍は、後方、前方、そして真横からの三方向から攻撃を受けています!ここは・・・」

ここまで言った時、

「うああああーーーーっ!」

「ああああーーーーっ!」

悲鳴が聴こえた。
それも一人や二人の悲鳴では無い。
何十、何百という人間の悲鳴であった。


「どうした!」


「一体、何があった!」


侍大将の忠綱と景高が同時に叫び、悲鳴のした方を見た。
と、本陣近くにいた何百という味方の兵達が、二人の目の前で消えた。
いや、消えた様に見えた。



「「!」」



あまりの事に忠綱と景高が絶句していると、

「敵の松明が無い方へ逃げろ!」

「こっちだ!」

兵達が叫びながら右往左往している声だけが耳に入って来る。
が、次から次へと目の前の兵が消えている事だけは間違い無い。
忠綱と景高は顔を見合わせ、しばし茫然としていると、


「いけません!そちらは崖です!行ってはなりません!」


斉明の叫び声が聞こえる。

見ると斉明は必死に、総大将維盛や大将軍の通盛、経正、清房らを押し留めていた。その斉明の声で、忠綱と景高は理解した。
兵達が目の前で消えた訳では無く。兵達が集団で崖に転落していた、という事に。



それは怖ろしい光景であった。



混乱し、逃げ場、いや逃げ道を求めた兵達は、敵義仲勢の松明が無い場所へと殺到した。確かにそこには敵はいなかった。しかし、そこは切り立った崖であった。平氏方の兵達は次々とその崖に転げ落ちて行った。

中には、崖を降りる事で退路が拓ける、と思い自ら崖に挑んだ者もいた。

その反対に、崖から落ちれば助からない、と思いながらも、逃げ寄せて来る兵達に身動きが取れず、押し出される様に転落して行った者もいる。

そして、その崖から転落して行った兵達の数は、時を追う毎に多くなり、今や万の数を超えている。
最早、軍隊として機能していないに等しい。
平氏方大手の軍勢の兵達は混乱し、怯え、逃げ回り、崖に落ちて行った。
七万騎を誇った大軍勢は、刻々とその数を減らしつつある。



平氏方大手の軍勢は追い詰められていた。

軍勢の後方からは義仲勢第四軍が、前方からは義仲勢第七軍本隊が、崖の反対側の真横からは義仲勢第三、第五、第六軍が松明を掲げ、攻撃を掛けて来るのである。

唯一、義仲勢[敵]のいない方向は切り立った崖であり、正に死地に追い込まれている状況であった。


どうしようも無い、という気持ちを、

「このままでは全滅だ!」

と、
何かに当たり散らす様に喚いた侍大将の河内判官秀国であったが、その秀国の肩を掴み、

「であれば、総大将維盛様と大将軍の通盛様、経正様、清房様だけでも、ここから逃がして見せる!」

強い眼をして決断した忠光であった。

と、
「とにかく総大将と大将軍の四人を、生きてこの場から逃がす事だけを目標とする!我ら侍大将は一人ずつこの四人に付いてお護りする!」

忠光の兄忠綱が引き継いで言った。

続けて、
「私が総大将維盛様。景高は通盛様。忠光は経正様。秀国は清房様を護れ!」
指示すると、

「加賀側に戻るしか無いだろうな」
景高が応じた。

「でしょうね。前は敵の総大将義仲、横は崖と敵の大軍、となると今の我らに出来るのは後ろの加賀側にいる敵を突破し、加賀に戻り搦手の忠度様の軍勢と合流するしか無い」

忠光が言うと、兄忠綱、景高、秀国は無言で肯いた。


ここで勝敗は決した。
平氏方追討軍大手の軍勢を率いる者達は、敵と戦う事よりも、敵から逃げる事を選択したのである。

平氏方追討軍大手の敗北であった。



「良いか!これより加賀に退却する!生き残りたい者は我らに続け!」

侍大将の忠綱が号令を掛けると、一万騎程、掻き集めた平氏方の残存部隊が駆け出した。
平氏方は敗北はしたが、まだ全滅した訳では無い。
とにかくこの場で無事な平氏方の兵達は、生き残る為に退却を開始した。

一路、加賀へと向かって。



「平氏方が加賀方面へと移動して行きます!その数およそ一万騎以上!」

自軍の勝利を確信しているかの様な明るい表情で郎等が報告する。

「良し!」
石黒が拳を突き上げ、

「やった!我らの勝ちだ!」
宮崎も喜びを露わにしていた。

と、
「最終段階だな」
幾分、表情を引き締め義仲が呟いた。

それを見た祐筆[秘書兼書記]の大夫坊覚明が、

「義仲様。何か御懸念でも?」
小声で訊くと、

「いや。何でも無い、覚明」
普段通り穏やかに応えた義仲。

だが、その義仲の様子を見ていた者がもう一人いた。巴御前こと戦う美少女巴、その人である。

巴には義仲がこの時、何を懸念していたのかが解った。
それは、逃げる者は危険だ、という事。
つまり逃げる者は生き残る為にどんな無茶でもやらかす、という事である。
その為に味方の将兵らの身を案じた義仲なのであった。

だが、ここは戦場で、今は戦さの最中なのである。
それに戦さには危険が付き物だ。そんな事は解っている義仲である。
だが、それでも麾下の武将達や兵達の無事を願わずにはいられなかった。

そんな義仲を少し辛そうに、そしてそれ以上に愛おしそうに見詰めていた巴は、深呼吸すると、義仲の許へ一歩踏み出した。

「まだよ。まだ勝った、とは言えないわ。敵平氏方が抵抗を止めるか、逃げ去るまでは気を引き締めて、事に当たりなさい」

ここにいない誰かのような凛とした表情と口調、だが穏やかに皆に指示する。と、浮ついていた第七軍本隊の空気が、ぴしりと緊張感の有るものに変わった。

「巴。有り難う」
義仲が微笑みながら言う。

「お礼を言うコト無いですよ義仲様。何てったってあたしは、この第七軍の指揮を任されている大将なんですから」

巴は胸を張り、多少戯けて応えた。自分の愛する人の心配を少しでも紛らわせる為に。


☆ ☆ ☆


(まだまだ先に義仲勢がいる!
 だが必ず!必ず加賀へと辿り着いてみせる!景高と共に!)

この思いだけが、平氏方の敗残兵約一万騎を率い、その先頭で戦っている忠綱を支えていた。

しかし義仲勢は休む事無く攻撃を掛けて来る。だが忠綱としては、いや平氏方としては進むしか無いのだ。ここに留まっても待つのは死、だけであるから。

と、
行く手に敵の武将が立ち塞がっている。忠綱は太刀を引き抜くと、

「押し通る!」

叫びつつ馬を速めた。敵の武将が薙刀を構え、こちらに馬を進めて来るのが見えた。

忠綱は太刀を振り翳し、

「邪魔するな!どけっ!」
叫びつつ太刀を打ち込む。

と、その太刀が弾き飛ばされた。薙刀に弾かれたのである。

「なっ!」
驚き、眼を見開いた瞬間、その薙刀の一撃が忠綱の首筋を襲った。

「!」

首筋を刺し貫かれた忠綱は、体勢を崩しつつも馬にしがみ付いていたが、そのまま馬と共に崖から転げ落ちた。

「忠綱ッ!!」
「兄貴ッ!!」
同時に叫んだ景高と忠光。
だが止まる事は出来無い。

と、
「忠光は忠綱の代わりに軍勢を引っ張って行け!」
「景高どの!」

「私は忠綱を討った奴を赦す事が出来無い!行け!忠光!」

景高は命令すると、馬の踵を返し、引き返して行った。

「景高どのーーーーっ!」
忠光の声を背中で聴きながら、

(忠綱の仇は私が取る!)

この執念だけで景高は太刀を抜き、先程の武将を目指して突き進む。
とその武将が口を開いた。


「わざわざ引き返して来るとは、見上げたものね。
 私は義仲様の麾下の武将、葵!」

その武将は名乗った。
そう。忠綱を討った義仲方の武将は葵御前こと、アクティブクールビューティー葵であった。


「赦さん・・・私の忠綱を・・・赦さん!赦さんぞ!貴様ァ!」


景高が太刀を打ち込む。これを受けずに躱した葵。
が、その時、

「・・ッ!」
葵の身体の内側から、何かが込み上げて来る。

吐き気、であった。
(こんな時にッ・・・!)

涙眼になりつつ必死に馬上で吐き気を堪えている葵。

葵はこの何ヶ月の間の身体の異変には気付いていた。

(まさか・・・)

それを押し隠して、この大遠征に参加していたのである。
だが、事ここに到れば、葵も認めざるを得なかった。

(まさか・・・私は・・・)

眼の前の怒り狂った平氏方の武将が、太刀を振り翳しつつ近付いて来るのを見ながらも、葵は否応無く込み上げて来る吐き気の為に、身体を動かす事が出来無いでいた。

と、
「葵どの!」
葵に斬り掛かろうとしていた景高の前に、馬を割り込ませて来た者がいた。

「お前などには用は無い!」

景高は怒りに任せて、振り下ろす様に太刀を打ち込む。
火花が散り、がちっ!と音がして太刀を受けられた。

と、
「私は越前の藤島助延!名乗れ!」

葵の危機に駆け付けたのは、同じ第三軍の大将藤島であった。

「私は平氏の家人、飛騨大夫判官藤原景高!友の上総大夫判官藤原忠綱の仇を討たせて貰う!」

景高は言いざま、太刀を力任せに突き出した。突き、である。

「!」

「!」

ここで葵は吐いた。堪え切れずに。
次の瞬間、涙で滲んだ視界で藤島を見ると、藤島の兜の錣[しころ。兜の後側に着いていて後頭部から首にかけて防備する兜の部位]の下から太刀の切っ先が見えた。

「藤島どの!」

考えるより先に身体が反射的に動いた。
素速く馬を回り込ませ、薙刀を下から掬い上げる。と、景高と名乗った武将の右腕と首が跳んだ。その刹那、葵が藤島に眼をやると、藤島の喉元には太刀が深々と突き刺さっている。

その顔を見ると、藤島は既に絶命していた。

藤島に太刀を突き刺していた景高の身体は、藤島の身体と共に、そして乗っている馬ごと崖に崩れ落ちて行った。

茫然とその様子を見ていた葵は、背後から来る蹄の音に気付き、振り返った。

と、敵の平氏方の兵達がこちらに向かって、なりふり構わず、怒涛の勢いで逃げて来るのである。それは混乱、と言うより混沌、言った方が正しい程の狂乱ぶりであり、兵達は敵に対する恐れ、そして死に対する怖れに過敏に反応し、
先程逃げて行った集団よりも無秩序に、こちらに迫って逃げて来る。

「うそ・・・」

と思う間も無く葵は、この集団に呑み込まれた。
と気付いた時には葵は虚空を飛んでいた。


いや、崖から落下しているのであった。


ぞっとする落下の感覚を身体に感じながらも、
葵は、

(私って助けられてばっかり・・・
 藤島どのや、義仲様や、巴に・・・

 私も・・巴の様になりたかったな・・・
 巴の様に優しく、強く・・・
 義仲様を・・・守り・・・助ける事が出来る様に・・・
 優しく・・・強く・・・)

想っていた。落下する短い間に。

そして、この直後、葵の時間は止まった。
永遠に。



「危うく拙僧も巻き込まれるところだった・・・」

葵を巻き込み崖に転落した集団の後方にいた平泉寺長吏斉明[稲津新介実澄のいとこ]は、ほっと胸を撫で下ろした。

だが、斉明はまだ危機を脱した訳では無い。彼は常に総大将維盛の傍らに付き従い、離れない様に逃げていたのであるが、その途中に馬を射られ、退却する平氏方の先頭集団から脱落していたのであった。

つまり維盛や通盛、経正、清房らに置いて行かれたのである。

(マズい・・・このままでは・・・)

焦りまくった斉明は、

「拙僧は平泉寺長吏斉明だ!馬を寄越せ!」

と逃げて来る平氏の将兵に命令したが、誰もが生き残る為に、必死にこの場から一刻も早く脱出したいのである。他人の為に、斉明の為に自分の乗っている馬を譲り渡す者がいる筈も無かった。
が、斉明もここで死ぬつもりは全く無い。他人を犠牲にし、自分が生き残る為に必死に、諦め切れずに、

「拙僧は平泉寺長吏斉明だぞ!お前ら馬を寄越せ!馬を置いて行け!」

走りながら怒鳴り散らしていると、後方からやって来た武将が、

「斉明どの!この馬を使ってくれ!」

声を掛けて来た。
そしてあろう事かその武将は馬から降りたのである。

「地獄に仏、とは正にこの事!有り難い!」

斉明は、自分に馬を譲ってくれた武将の名すら訊かずに、喜び勇んで馬に飛び乗ろうとしたその時、

「自分から居場所を知らせてくれるとはな。
 こちらこそ有り難い。捜す手間が省けた」

声が聴こえた。
斉明の知っている声だった。

斉明の心臓が、どくんっ!と大きく鼓動した。 
それと共に身体が、びくっ!と大きく跳ねた。
冷や汗が全身から噴き出して来る。

その声は斉明にとっては地獄からの使者の様に感じた。

その声の主は仁科盛家。
つい一ヶ月程前には、燧ヶ城で斉明や北陸諸将と共に籠城していた信濃の武将で、義仲様第三軍の大将である。

この仁科にとっても斉明は、赦す事が出来無い裏切り者である。燧ヶ城落城の後の苦しかった北陸での戦いの数々は、未だ記憶に新しい。その戦いのほとんど全てに参戦していた仁科にとって、斉明は敵以外の何者でも無かった。


凍りついた様に動けずにいる斉明に、

「逃げろ!斉明どの!ここは私が引き受ける!」

先程の馬を斉明に譲った武将が叫んだ。

と、
「お前の様な武士も平氏方にはいたのか。名乗れ。私は信濃の仁科次郎盛家」

仁科が馬上から、少し感心した様に言うと、

「私は備中[岡山県]の瀬尾太郎兼康!」
堂々と瀬尾は名乗った。

と、
「仁科どの!ここは俺が行きます!俺は加賀の倉光次郎成澄!」

義仲勢第三軍の中から飛び出し、名乗りを上げた倉光は間髪いれずに瀬尾に組み付いた。

と、そこに、

「見つけたぞ!斉明!」

太刀を抜きながら、馬を駆けさせて真っ直ぐにこちらに向かって来る者がいた。
第五軍に配属されていた稲津新介実澄[平泉寺長吏斉明のいとこ]である。その眼付きには危険な何かが宿っていた。


(マズい!)


稲津新介が、斉明を有無を言わさずに殺すつもりでいるのを見て取った仁科は、

「待て!新介どの!斉明は殺すな!
 生け捕って義仲様のところへ連れて行く!
 こいつの裁定は義仲様にお任せしろ!新介どの!」

殊更、厳しく命じた。
続けて、

「斉明を捕縛しろ!急げ!」
郎等らに命じた。

その間に、倉光と瀬尾の勝負は着いていた。
倉光が瀬尾の右腕を取り、背中に捻り上げ、地面に抑え付けていたのだ。

「倉光どの。その瀬尾も生け捕ってくれ。
自分の生命を顧みずに斉明を助けようとした立派な武士だ。
その瀬尾の裁定も義仲様にお任せしよう」

仁科が一転して穏やかに言った。
こうして平泉寺長吏斉明と瀬尾太郎兼康は生け捕られたのであった。

「この二人を第七軍本陣へ連れて行け!」

仁科が命じると、斉明と瀬尾は百人程の郎等らに囲まれて連行されて行った。


が、納得出来無いのは稲津新介である。

「何故・・・何故、斉明を生かしておくのですか・・・」

連行されて行く斉明を睨み付け、怒りを滲ませながら新介が仁科に問うた。

「義仲様の御命令だ」

仁科は先程とは打って変わって、優しげに新介に答えると、
続けて、

「新介どの?今ここで新介どのが斉明を討ったとしたら、それは単に新介どのが個人的な恨みを晴らした事にしかならない」

噛んで含める様に言う。
それは仁科自身も、自分に言い聞かせている事なのであった。
仁科も本心は、新介と同じ気持ちなのである。

出来る事なら、裏切り者の斉明を自分の手で討ち果たしてやりたい、と。

だから新介の気持ちは痛い程、良く解っている仁科であった。
新介は、ぐっと詰まり、それでも口惜しげに下を向いて、拳を握りしめている。

と、
「そうだぜ、新介どの。コレは斉明の野郎と新介どのの個人的な喧嘩じゃ無く、義仲様と平氏方との大戦さなんだ」

新介の隣に来ていた第五軍大将の根井小弥太が慰める様に言った。

いつの間にか第三軍と第五軍は合流していたらしい。


小弥太は続けて、

「それにな、だからって別に斉明の野郎を赦してやるつもりは無いぜ。義仲様はきっちりスジを通したいのさ。
我らを裏切り、あまつさえ敵の平氏方に協力して北陸を荒らしまくった斉明の罪状を明らかにした後に、オトシマエを着けるだろうよ」

「小弥太どの・・・」

新介は顔を上げ小弥太を見る。
小弥太は、そんな口惜しそうな新介を優しく見返し、眼を閉じ無言で頷いた。

と、
「戦闘終了ーーーーっ!各軍は第七軍本陣、羽丹生に集合ーーーーっ!」


伝令の郎等が駆け回っている。

「ここ[砥浪山方面]での戦さは終わったな」

小弥太が新介に言う。

「ええ。我ら義仲勢の勝利で!」

新介は、敢えて思考を停止させ、自分自身を無理矢理納得させると、明るく元気に応じた。


「これより我が第五軍は、義仲様本隊の本陣羽丹生に向かう!」


小弥太が号令を掛ける。

「仁科。お前の第三軍も一緒に戻るか?」

「いや。我ら第三軍は敵を警戒しつつ部隊の集結を図る。
何しろ平氏方の退却に巻き込まれ、我ら第三軍は散り散りになってしまったからな。小弥太の第五軍は先に戻ってくれ。我らも後から戻る」

「解った。先に行ってるぜ仁科。じゃ俺らは戻るとするか。な、新介どの」
「はいっ!」

羽丹生に向かう第五軍を見送りながら仁科は、

「第三軍!集合を急がせろ!
それから葵の部隊と藤島どのの部隊と連絡を付けろ!
第三軍は集合が済み次第、義仲様の本陣に戻る!」

号令を掛けた。


☆ ☆ ☆ ☆


「忠光どの!」

郎等が馬を駆けさせながら、声を掛けた。

「おお!どうだ、判ったのか?!」

忠光が肩越しに振り返りながら応じた。
その忠光も馬を駆けさせている。
だが、辺りはまだまだ暗く、しかも山道なのである。
退却中の平氏方にとっては、速度を上げる事が出来無いし、かと言って馬を止めて休みたくとも、そんな事は義仲勢の追撃がまだ止んでいない以上、出来無い状況であった。

「はい。侍大将の河内判官秀国どのは敵の矢を受け落馬し、そのまま崖へと・・・」

「見ていた者がいたんだな?」

「はい・・・」

「そうか・・・」

忠光は暗い眼で頷くと、

(この大手の軍勢で生き残った侍大将は俺だけか・・・兄忠綱も、景高どのも、秀国どのもヤられた・・・)

気の滅入る様な事を思っていると、どっと肩に何かがのし掛かって来る様に感じた。

それは、敗北の悔しさと、逃げている事の惨めさ、身内[兄忠綱]や仲の良かった者[景高]や同僚[秀国]が討たれた事に対する怒り、そして自分だけが生き残ってしまった事の忸怩たる思い、その感情の中に含まれた、自分は死なずに済んだ、との素直な喜び、その事に対する何か後ろめたい気持ち、などの感情や思いが一気に心身に噴き出して来たのであった。

そんな混乱した感情や思いを抑え込みながら、忠光は馬を進めた。今、彼を突き動かしているのは、平氏方の侍大将としてのプライド[矜恃]だけであった。

せめて総大将維盛や大将軍の通盛、経正、清房だけは生還させる、という最後に唯一人生き残った侍大将の責務を果たす事だけを考え、そして実行している上総五郎兵衛藤原忠光であった。


平氏方追討軍大手の軍勢約七万騎は、砥浪山で大敗北を喫した。


一晩の戦闘で、平氏方大手の軍勢は討たれ、逃げ惑い、そして断崖から転落し、砥浪山の渓谷の一つはこの平氏方の兵の死骸で埋め尽くされた。

その積み重なった死骸の数は万を超え、およそ五〜六万とも云われている。

この戦いを倶利伽羅峠の戦い、または倶利伽羅落とし、と云う。
平氏方で加賀に生きて還れた者は、総大将維盛、大将軍の通盛、経正、清房、侍大将の忠光以下、わずかに二〇〇〇騎程であった。


砥浪山方面での義仲勢大手の軍勢三万五〇〇〇騎と平氏方追討軍大手の軍勢七万騎による合戦は、義仲勢の大勝利で幕を閉じた。

完全で、完璧な勝利であった。

だが、この一連の戦いが終わった訳では無い。

まだ志雄山方面では、義仲勢搦手の軍勢一万五〇〇〇騎と平氏方追討軍搦手の軍勢三万三〇〇〇騎が戦っているのである。

義仲勢は砥浪山方面では大勝利した。とは言え志雄山方面では敵の平氏方追討軍搦手の軍勢は未だ健在なのである。

そして、
義仲勢本隊の本陣羽丹生に、志雄山方面からの伝令の郎等が駆け込んで来たのは、間も無くの事である。勝利の歓喜に湧いていた義仲勢大手の将兵の気分を、瞬時に凍結させる程の冷却力のある凶報であった。


「志雄山方面に
 敵平氏方搦手の軍勢約三万三〇〇〇騎が現れ、我が軍はこれを迎撃!
 しかしその最中、
 我が軍搦手大将軍新宮行家どのは、真っ先に逃げ出しました!」