義仲伝承地案内板 ~戦~
義仲は「武将」。その一生には戦がつきものです。
平家物語覚一本に登場し、義仲の戦として一般的に知られているものを伝承地案内板の分布図にアイコンで示しました。
義仲は「源平合戦」で活躍しているため、戦っている相手は「赤い旗をかかげた平家」と思われがちです。しかし、義仲は「白い旗の源氏」どおしで戦っていることもありました。しかもそれは、義仲の人生のターニングポイントになるものばかりでした。
平家と義仲の戦は赤と白の旗、源氏と義仲の戦は白と黒の旗で示しました。
■ 義仲の戦を時系列で
1155年
★義仲が最初に遭遇した戦は「大蔵館の戦い」。義仲自身は戦っていませんが、父といとこ、源氏どおしの争いでした。
★義仲は数え年で2歳(現在の一歳)で父の死後、母親と共に信濃国に逃亡します。中原兼遠に保護され大変平和な戦のない時代を20年以上過ごすことができました。
★義仲の少年・青年期は史料がなく、平家物語の記述もあっさりしています。1356年に成立したとされる諏訪大社「諏訪大明神絵詞」には「義仲が大祝の婿となり、女子が生まれた」との記述があります。
1180年
★しかし都で治承4(1180)年4月に以仁王が反平家を志し、全国の源氏に挙兵を呼び掛ける令旨を出しました。
★以仁王自身も挙兵しましたが、負けてしまいます。平家方には信濃武士が参戦していました。
★「吾妻鏡」によると、市原の戦いの後、義仲が群馬県に進出したとあります。その際、父・義賢の遺臣を軍勢に加えました。
1181年
★横田河原合戦ののち、義仲のもとには北陸の武士たちが仲間にしてほしいとやってきました。義仲は所領を認め、馬をプレゼントして武士たちを喜ばせました。義仲が越中国府まで行ったのではないか?とも言われています。
★しかし飢饉が起こり、源平の合戦はに二年にわたって停止しました。
★北陸の武士たちは平家が都から攻めてくることに備えて城などを作って準備していました。
★源頼朝は関東地方の源氏に戦を仕向けたり、兵を送ったり、唯一無二の源氏の棟梁になろうとしていました。そのなかで叔父の源行家と源(志田)義広が義仲のもとに逃げてきました。
1183年
★義仲が頼朝と和平を結んだと聞いて北陸武士たちとその妻は無駄な戦を避けた義仲に対し感激しました。
★いよいよ平家が北陸に攻めてきました。
★安宅の戦いは平家物語覚一本に登場しないため伝承地案内板分布図にアイコン表示がありませんが、ページを作成して紹介しています。
★敗北を重ねていた北陸武士たちが義仲と富山県で合流しました。
★志雄の戦いは倶利伽羅合戦の一部ですが、わかりやすいようページを分けています。
★篠原の合戦の後、義仲は戦をやめて福井県に一か月滞在し、延暦寺と交渉し、平家が都から去るまで待ちました。その結果、戦火で焼くことなく都に入ることができました。
★義仲が都に入ると聞いて、平家と戦い敗れた近江源氏、美濃源氏、尾張源氏、甲斐源氏が集まってきました。義仲は自分と同じように平家と戦ってきたのだろうと源氏たちを快く迎え共に都に入りました。
★義仲の軍勢の兵糧をどこで調達するか朝廷で決めかねているうちに、義仲の軍勢を名乗る荒武者が都周辺を襲う事件が発生しました。義仲は厳しく処罰を加えるなど治安を守るために行動していましたが、貴族たちの目は厳しくなり、「都の治安をまもるより、平家を追討せよ」と命じられてしまいます。
★義仲が中国地方へ行かされている間に、頼朝と後白河法皇が結び、入京するときに一緒に行動した源氏たちの多くは源行家による義仲の悪評を信じ、後白河法皇のもとに走ってしまいます。義仲は挙兵せざる負えない状態に追い込まれていきます。
★合戦に際して貴族たちは後白河法皇に対して冷ややかな視線を送っていました。
★義仲は勝利をおさめ、摂関家の藤原基房と結び、都の安定に努めます。平家に対しては本格的な和平交渉を持ち掛け、1184年1月に平家が都に戻る約束が整いました。
1184年
★源行家は平家が都に入れないように城にこもりました。義仲は樋口兼光に源行家を討つよう兵を率いて向かわせました。
★そのすきを突くように、源頼朝の命を受けた源義経らの軍勢が都に押し寄せてきました。軍勢は勢田と宇治、二手に分かれていました。
★勢田から攻める軍勢には、今井兼平と志田義広を向かわせ、宇治から攻める軍勢には根井・楯・長瀬・落合らを向かわせました。
★宇治の軍勢が敗北し、武将たちが討死にしたと知り、義仲はこれが最期とこころを決め、今井兼平と共に死ぬために勢田へ馬を走らせます。