⑤巴御前伝説
木曽義仲と共に育ち、女武将となって義仲の傍らで戦い続けた女。
巴御前を一言で説明するならこうなります。さらに人によっては
中原兼遠の娘、清水義高の母。義仲の死後は和田義盛の妻となり朝比奈義秀の母となった。91歳まで生きて富山県で亡くなった。
と説明を続けるかもしれません。
しかし、巴御前は歴史的には存在していたかすら不明です。
というのも、同時代人が残した文献には一切登場せず、鎌倉幕府の公式歴史書である「吾妻鏡」にすら出てこないからです。御家人をまとめる侍所の別当・和田義盛の妻になったといわれているにもかかわらずです。
では巴に関する説明はどこからきたのでしょうか。義仲と同じように「平家物語」での活躍ぶりからでしょうか?
1.「平家物語」の巴
実は巴は、平家物語の登場シーンもわずかです。簡単に言うと義仲の死の寸前、最後の7騎が紹介される中に初めて登場し、短い会話を交わし、見事な組討ちを見せて去っていきます。
その内容は巴の年齢から義仲との関係まで平家物語のバージョンによってバラバラです。
平家物語は「長門本」「延慶本」「覚一本」「源平盛衰記」「源平闘諍録(関東地方の大豪族・千葉氏に伝わる平家物語の異本)」など様々なバージョンがありますが比べてみると「女武将」という強烈なキャラクターが生成されてきた様子が見えてくるような気がします。(※1)
それぞれのバージョンの巴を書き出してみました。
(1) 戦と義仲のシーン
長門本…左右の腕で二人の男の首を絞めて殺し義仲に一言もなく消える
延慶本…二人を絞殺したあと場面を変えて再登場し義仲に武士として挨拶をして去る
覚一本…延慶本の内容に「首をねじ切る」描写が追加。義仲に「女を連れていたと嘲笑されたくないので戦場から去れ」と命じられる。
源平闘諍録…華やかにあまたの軍勢の中を駆け抜け、次々と男たちを投げすてねじ切る。
源平盛衰記…他の本より文章量が著しく多い
(2) 巴の出自・年齢・その後
諸本によって巴の年齢は二十二~三から、二十八~三十路と不確実で、義仲の養父・中原兼遠の娘だったり、樋口兼光の娘だったりします。しかし不思議と、この巴が、そのあとどうなったのか…には古くから関心を持たれていたようで、最も古態をとどめる長門本にも、最も新しい盛衰記にも巴の後日談が語られています。信濃ではなく北陸で余生を過ごしたという巴。何を求めて北陸にいたのでしょうか。まだまだ謎のままです。
長門本…齢三十二(出自不明)越後国友椙で尼に
延慶本…齢三十ばかり(出自不明)
覚一本…(年齢・出自不明)
闘諍録…齢三〇・樋口兼光の娘
盛衰記…生年二十八・中原兼遠の娘・義仲死後鎌倉に召し出され和田義盛に娶られる・その後越中で九十一歳までいきる
このように、平家物語の諸本によって、年齢も、その後も、義仲との関係性の描かれ方も違うのです。共通しているのは巴がいかに強かったかという武勇です。
2. 一般的な巴像はどこから来たか
「巴御前」がテレビや小説、漫画などで登場する場合、一般的なキャラクター設定は次のような感じです。
これらの設定は主に「源平盛衰記」の記述を元にしたのものとなっています。しかし、清水義高の母というのは源平盛衰記にはなく、源平盛衰記を下敷きに書かれた「新平家物語」の設定です。(※2)
現在では源平盛衰記は文庫化などがなされておらず、手に入れにくくなっていますが、江戸時代までは版本が全国に流通し、よく読まれていました。
① 歌舞伎の巴
平家物語の諸本が多くある中でも、詳細な記述があったことから「源平盛衰記」は江戸時代に浄瑠璃や歌舞伎の演目の原作となりました。巴以外にも斉藤実盛の描写などは「盛衰記」→「浄瑠璃・歌舞伎」といった流れがあります。特に巴に関しては、現在も上演されることがある「ひらがな盛衰記」がその後の巴像を決定づけた作品と言えます。元文4年(1739)4月竹本座の浄瑠璃が初演で、徳川吉宗の時代ですから、比較的古い作品ですが、盛衰記の巴がそのまま採用されています。
また、「源平盛衰記」自体が江戸時代の出版文化の中で花開き、広く読まれたこと、またそれを元にさまざまな作品化がなされ、現在の巴のイメージにつながっていると言えます。
② 能の巴
では歌舞伎より一時代古いと言える古典芸能、能の中の巴はどうでしょうか。こちらは「源平盛衰記」成立前、もしくは同時代ぐらいのものです。
これが意外とさっぱりとしたものです。
いわゆる「一般的なイメージ」に比べた大きな違いは、巴がどういう出自なのか一切語られていないということです。中原兼遠の娘かどうか、また義仲との関係も主従以上の描写が具体的にはありません。…とはいえ、形見の品を渡して去らせようという時点で、義仲が巴を生き残らせようとした強い意志が感じられますが、どう読み取るかは受け取り側に一任されています。
「能・巴」については小袖と刀を渡すシーンの訳文などに「木曽にいる妻に渡せ」といった説明文がついていることがありますが、元の謡にはそういった描写はありません。おそらく後世の説明者に「巴が義仲の妾」というイメージが刷り込まれていたために足された記述と言えるでしょう。
能という芸能自体が、無駄な説明や登場人物をすべてそぎ落とし、言いたいこと一つで勝負する内容であるため、能の巴が作られたときに「源平盛衰記」並みの詳細な情報が流布していたかどうかを見定めることはできません。
また「巴」が作られた年代がいつ頃であるのか、1400年代半ばではないかともされますが、その時代背景がどうであったのか。また「修羅もの」の演目であるからこその取捨選択が行われていることも考慮に入れる必要があるようにも思います。しかしながら、「能・巴」における主眼は巴と義仲の男女だからこその一風変わった主従関係にあるといえます。
まとめ
現在の私たちは男の義仲と女の巴が戦場を共に戦い抜けば、つい恋愛・夫婦ムードの目で見てしまいますが、戦乱にまみれた古い時代の日本人にとって何より魅力であったのは「巴の男女どころか人間離れした強さ」であり、平家物語の巴はこうしたとてつもなく強い人間がいた事を書き残すことが目的だったのではないか…と感じずにはいられません。巴が、誰の娘だろうが、何歳だろうが、義仲と男女関係だったのかは、強さに対するあこがれや興味を描くためには重視されないことだったのです。
能の巴も「女武将と主君の一風変わった主従関係と秘められた恋愛感情」を描くために、重視しない部分は平家物語と違う物語を展開させています。
それらに対し「源平盛衰記」は人々の「知りたい」欲求にこたえ、できる限り巴の情報を集積して書いているため、歌舞伎を含めた様々な作品のもとになっているといえます。
このように、巴は「何を描くべきか」によって形が変わるキャラクターだといえます。疑いなく、揺るがないのは「女武将である」ことだけなのです。
女武将と主君の間に愛を見るのか、主従を見るのか、夫婦とみるのか、母父とみるのか、それは巴をみる人の視点にゆだねられています。
おまけ
「鎌倉殿の13人」では巴は和田義盛と仲睦まじく暮らしていました。そして和田義盛亡き後、巴はどうなったのか…巴御前の伝承(下のリンクをクリック!)をたどると、その足取りがうっすら見えてくる気がします。
義仲館では2022年10月下旬から4コマ漫画を用いたミニ企画展「巴はその後どうなった」を予定しています。
■巴御前の伝承を知りたい!という方はこちらへ!↓
(※1)「平家物語」は、日本人なら教科書で必ず一度は触れる古典でありながら、誰がいつどのようにして書いたのかわからない、実は種類も100以上という、不思議な作品でもあります。
現代ではわかりやすさから文庫化されている「覚一本」がまるで底本のように小説やドラマのネタ元として扱われていますが、源平合戦の逸話を語る琵琶法師の話芸を元に室町時代に記述し、形を整えたもので「語り本」といい、内容はあらすじ的にすっきりしたものになっています。
それに対して、合戦のすぐ後から戦に散った武士たちの魂を慰めるため、さまざまな逸話を集めて書き記した「平家物語の元本」が作られていたようです。こちらは「書き本」と言います。「長門本」「延慶本」は「書き本」にあたり、双方は鎌倉時代の初めに存在した「平家物語の元本」を書き写す際にそれぞれ追記が行われ、時には相互の情報交換を重ねて、100年近い時間をかけて現在残る文章に形成されたと言われています。
追記具合を見ると、巴のパートについての成立過程は「長門本」→「延慶本」→(「覚一本」)→「源平盛衰記」というエスカレートしていく流れが見えます。
(※2)「新平家物語」の吉川英治氏は、「新平家随想」で巴の人物をどう設定するかで興味深い記述を残している。