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義仲戦記38「群像乱舞」

「今回の出陣にあたり遅参した者の名とその理由、それと姿を見せなかった者の名を書き留めておきました。頼朝様が後日、詮議なさる時にお使い下さいますよう」

頼朝の前に紙の束が差し出されている。
それを一瞥した頼朝は、

「和田義盛。御苦労であった」

一応、労いの言葉をかけた。
が、頼朝はこの時、不機嫌になっていた。
それは遅参した者や出陣しなかった者を書き留めた紙の束を見れば判るが、想定していたよりもその数が多かった為である。

これは頼朝の命令を軽視、または無視した事となり、その様な者が多数いた事を意味する。

己れの権威にそれなりの自信を持っていた頼朝であったが、そうでは無い事を思い知らされた事となった。

満を持して意気揚々と鎌倉を出陣した頼朝が、その出陣した日の夜にこの様に機嫌を損ねるとは、頼朝自身も思っていなかったのである。

不機嫌である事を隠す為に無表情を装っている頼朝だったが、そうする事が実は機嫌の悪い事を周囲に宣伝する事であるのに彼は気付いていなかった。

とは言えこの場に居るのは当の頼朝を含めて三人。

紙の束を持参した侍所別当の和田義盛と、頼朝の傍に常に控えている梶原平三景時のみであった。

頼朝はちらりと景時を一瞥すると呟いた。

「どう思う。景時」

景時はあるじの機嫌が悪くなっている事を当然、察していた。
更にその事を隠そうとしている事も。である以上、景時も普段通りに答える事にした。

「言いたくはありませんが、声高に出陣に反対した者の影響ではないか、と」

「・・・上総介広常か・・・」

頼朝は腹の底から絞り出した様な低い声で呟く。その口調には憎しみすら滲み出ている様に、聞く者は感じた。

やはり以前に危惧した様に、今回の出陣に真っ向から反対したのが上総介広常だった。そうなるであろう事は頼朝も判ってはいたが、面と向かって反対されるのはやはり不愉快であったし、その上総介に同調する連中が遅参したり姿を見せなかったりした事は更に不愉快であった。

と、そんな重苦しい空気を吹き飛ばす様な脳天気な声が頼朝と景時の耳に響いた。

「それだけでは無い、と私は思いますよ?」
和田義盛である。
だが義盛はこの場の空気を読んで殊更明るく振る舞っていた訳では無い。

そんな事には無頓着であり、一言で言うと天然、なのである。
だから重苦しい空気を振り払う為では無く、義盛はいつもこうなのであった。


頼朝と景時は不意を突かれた様に義盛を見る。訊いてもいないのに何を言い出すつもりか、との意を視線に込めて。

だが、
「それはですね」

場の空気を読めない彼はその二人の視線を、先を促している仕草だと曲解すると、義盛は前置きした後、大きく高い声で朗々と喋り出した。

「まぁ上総介の振る舞いには私も腹の立つ事はあります。
頼朝様に、行けと命じられれば行くのが我ら御家人の務めですから。いつまで頼朝様の後ろ立てでいるつもりなのかは判りませんが、いい加減にしろ、と思っている連中は数多くいますね。
だから景時どのが申した程には上総介の影響は大きく無く、従って今回出陣に来なかったり遅参した連中の本音は、今この時期に鎌倉や本領を離れ京に上洛する事に対して不安があったんじゃないでしょうか」

呆然としている二人に、どうよ!と言わんばかりに胸を張り、調子が出て来た義盛は更に続ける。

「不安、と言っても漠然としたものだとは思いますが。だが我々武士のそうした予感と言うか、前触れ?と言うか、とにかくそうしたものは案外馬鹿に出来ません。
それは頼朝様も景時どのも経験がお有りでしょうからね。
あ。それは良いとして彼らの漠然とした不安てやつにも私が見るところ根拠らしきものがあるんじゃないか、と。

その一つは近頃関東の各地から、主に北関東ですが、武士や郎党らが多数、陸奥の藤原秀衡の庇護を頼って逃げ出した事です。

多数と言うよりは大挙して、と言い直した方が現実に即していますが。
北関東と言えば例の志田義憲が領していた場所でもあり、佐竹も含めてこの鎌倉に従おうとはしない連中が多くいた訳ですが、現在この志田義憲は義仲の庇護を受け、義仲と行動を共にしております。

この事から秀衡と義仲の間に何らかの合意や提携が成立したのではないか、と勘繰る事も出来ます」

当初、呆然としていた頼朝も景時もいつの間にか引き込まれ、真剣な様子で聴き入っている。

「まぁ確証はありませんが。
そして二つめ。我らはこれから上洛する訳ですが、この進路には遠江国[静岡県東部]を通らなければ京には行けません。
が、この遠江は甲斐源氏の安田義定の領国である事は頼朝様もお認めになりましたし、先頃、京の朝廷からも公式に認められました。
しかしここにも問題があり、この安田義定も先程の志田義憲と同じく、現在は義仲と共に京へ行っております。

もしも我らが遠江を通過する時、安田義定が良からぬ事をを考えて我らに対し弓を引く、という様な事も考えられない事ではありません」

義盛が喋れば喋る程、頼朝の眼に真剣さが帯び、景時の眼にもギラついたものが光る様になっている。
両者の頭の中で何かを目まぐるしく思い巡らせ、光速で何かを計算しているのであろう。
「そうなったとしても、まぁ敵が一つ増えるだけでどうと言う事もありませんが。
ですが、最後の根拠、と言うか理由は、万一遠江の安田義定が謀叛を起こして向かって来たら当然これを撃ちますよね?

で、その後、西国の平氏を討伐する事になりますよね?
で、いつの事になるかは判りませんが、藤原秀衡が義仲と通じていたら、これも討伐する事になるでしょう。

お解りですよね?
今、我らが行動を起こす事は最悪これだけの敵を相手にする事になるんです。
しかも今の話しは順々に一つずつ敵を討ち果たす事を想定していますが、これらの敵が連携して同時に我らに対し牙を剥いて来る事もあり得ます」

相変わらず義盛は脳天気に喋り続けていたが、その語る内容は頼朝と景時の全身を凍り付かせるに足る充分な冷気と恐ろしさと説得力を秘めていた。

勿論、両者とてこの様な事を考えなかった訳では無い。

が、後白河法皇や朝廷との折衝である程度満足が行く結果を得る事が出来た二人は、言葉は悪いが多少いい気になっていた事もまた事実であった。

有頂天、とまでは行かないが思う様になる、との根拠の薄い楽観に支配されていた事は否めなかった。


 考えて見れば、いくら法皇や朝廷と連携したとしても彼らは武力を持ってはいない。であるが故に法皇と朝廷は鎌倉の頼朝と組んだ訳だが、当の頼朝にしてみれば軍勢が倍増した訳でも無く、結局はこれまで通り関東の己れの勢力内から将兵を動員するしか無いのである。

 更に考えを深めて見れば、現在、西海に赴いているとは言え京を押さえている義仲が、陸奥の秀衡、遠江の安田と連携していた場合、頼朝の勢力範囲の周りは全て敵になってしまうという悪夢の様な事すら考えられるのである。

 周囲全てを敵に回した者は生き残る事など出来ない。それは頼朝とて同じ事なのである。その上、京を押さえているという事は、この先義仲にとって都合の良い院宣なり宣旨なり命令なりが発せられる恐れすらあるのだ。

 確かに先日の“十月宣旨”は頼朝にとって都合の良いものであったが、義仲が法皇や朝廷にその武力で迫り、これを撤回させ、更に頼朝を朝敵とし追討令を法皇に発布させ、各勢力に討伐させる事すら可能なのであった。

 それは頼朝自身が法皇との折衝中に行っていた事である以上、義仲が実行する訳が無い、と思い込む事は危険なのである。というより、義仲は絶対にそうする!と頼朝は思った。何故なら頼朝ならば当然その様にするからである。今までもそうして来た様に。ともあれ、

「・・・ふむ。今、義盛の申した事は私も常に懸念している事だ」

取って付けた様に頼朝は答えた。


思慮深く見せる為に眼を伏せ気味にしていたが、その顔色までは誤魔化す事が出来なかった。青褪めているのを通り越して頼朝は蒼白となっていた。が、宿所の暗さがその事を景時と義盛に悟らせる事は無かった。

「本日の出陣に際し、来なかった者または遅参した者をを事細かにお前に調査させたのは、私の感じている様な懸念を皆も感じているのではないか、と思った事による」

頼朝は精一杯重々しく嘘を告げる。
続けて、

「これ程の者達が」
と提出された紙の束を指差し、

「未だこの出陣に対し、また関東の情勢に対して懸念を抱いている、という事は上洛するには時期尚早である、との声を発しているに他ならない。そしてその事は私の感じている懸念と通じ合う」

頼朝は言葉を選びながら言い訳を続ける。
これまで言って来た事と矛盾しない様に慎重に。
そして自身の権威を損ねる事の無いよう用心深く。更に言い訳がましく聞こえない様に。

「つまり私の懸念は正しかった、という事の証左であり、一考を要す必要がある、という事だ」

格好を付けつつ強弁に言い逃れる、という事を実行しつつ頼朝の背には冷や汗が伝っていく。

と、
「さすが!頼朝様!お考えが深い!」

義盛が我が意を得たり、とでも言いたそうに相槌を打つ。

「そんな事だと思ってましたよ!
頼朝様にしてはこの度の出陣、何となく焦っているというか、らしく無いというか。
万事思慮深く慎重に行動する頼朝様っぽく無いと思ってましたが、その様にお考えだったとは。という事はやはりこの度の出陣は言って見れば、後々の真の出陣の為の時期を見計らう事と、その時の為の予行演習だった訳ですね!」

義盛は納得した様に笑顔で答えた。
彼は天然であるが頭は良い。
である以上、頼朝の言っている事から推察して、こう結論付けたのである。

和田義盛の単純さは頼朝にとって歓迎すべきものだ。
それ以上に和田義盛の天然さ、頭の良さは頼朝にとって得難い宝であった。

そして和田義盛は、この時己れが助け舟を出した事に気付いていない。そんなところもまた頼朝にとっては愛すべき最たるものであった。


「その通りだ。私の考えを読まれてしまうとは。まったく義盛には敵わんな」

珍しく笑みを浮かべて頼朝が応じた。
その笑みには窮地を脱した事の安心感と、嘘を吐き通す事が出来た満足感と、己れの権威を損ねる事無く言い逃れる事が出来た達成感、全てが含まれていた。

頼朝は余裕を取り戻すと、

「和田義盛。御苦労であった。下がって良い」

これも珍しく本心から労いの言葉をかけた。

「はっ!」

義盛は笑顔のまま、手をつき深く一礼すると宿所から退出して行った。

と、程無く、
「失礼致します」

宿所に入って来た大江広元が一礼すると着座した。
これは頼朝が前持って命じておいた事で、義盛が話している間、広元は隣室で控えていたのである。

「景時。義盛の申した事を広元に説明してやれ」

頼朝が口を開くや、

「それには及びません。聴こえていました」

広元が応じると頼朝は苦笑し、

「あの大声ではな」
幾分愉しげに言った。

続けて、
「聴こえていたのなら話しは早い。明朝、出陣の取り止めを発表し鎌倉へ戻る」

告げると、景時と広元は無言で頭を下げて応じた。

元々、今回の出陣は朝廷との約定でもあったが、頼朝が強引に事を進めた感じも否めない。その事に多少不安を感じていた景時は勿論、広元も頼朝の性急なやり方を慎重さを欠いたものとして感じていたので、両者共この決定に異存がある筈も無かった。

「それが宜しいかと存じます。
朝廷に対してはいくらでも言い訳が立つ事ですし」

広元が頭を下げつつ言うのを、景時は一瞬ひやりとしながら聞いていた。“言い訳”というワードに何か危険なものを感じたからだ。勿論、先程の頼朝の強弁の事を意味する。景時はあるじの機嫌を損ねる事の無いよう気を回す。
つまり話しを進めたのだ。

「京には頼朝様の代官を派遣する事で一応、朝廷の顔を立ててやる事が出来るでしょう」

「ふむ」

頼朝が首肯く。
どうやら頼朝は“言い訳”というワードに過剰反応する事無く落ち着いて応じている。

景時は自分が気を回し過ぎている事に心の中で苦笑していたが、頼朝の認識ではあくまでも“嘘”を吐いてその場を凌いだのであって“言い訳”したつもりは無かった以上、やはり景時の気の回し過ぎ、なのであった。
それはともかく、

「そうですね。景時どのの言う通りです。その代官に告げさせれば良いのです。
北関東の現状や、陸奥の秀衡と義仲が連携している疑いのある事を」

「そこまで正直に、か?」

「はい。実際そうなのですから。
我らがそれに備える為に出陣を延期させるのは当然の事ですし、朝廷と言えど納得するしかありません」

「ふむ。では代官を派遣する事としよう。景時。私の代官としては誰が適任と思うか?」

頼朝は広元に答えつつ、景時に尋ねる。

「はっ。出来れば頼朝様のお身内であれば朝廷の面目も保たれましょうし、公卿らはそれで満足なさるのでは」

「ほう。身内な・・・」

「であれば九郎御曹司義経どのはいかがでしょう」

景時は明言を避けたが、後を次いだ広元はその人物を推薦し明言した。

と、
「失礼しました。今は御曹司どのでは無く、御舎弟九郎義経どのでしたね」

広元が言い直すと、頼朝は途端に冷たい眼付きに変わり、

「・・・九郎・・・な・・・」

舌打ちこそしなかったものの忌々しさを覗かせて呟いた。

源九郎義経。
彼は頼朝の一番末の弟であり、義仲にとって頼朝がそうである様に義経も従兄弟なのである。

 義経は兄頼朝が挙兵した事を知ると他の兄弟の中で最も早く富士川の戦い[一一八〇年一〇月二〇日]の後には[一〇月二一日]兄の許に馳せ参じ感動の対面を演じた。
 以後、頼朝と共に平氏を打倒する為、鎌倉に居住していたのである。
 頼朝も当初はこの弟を大切に扱い、身内として他の御家人らと同格に扱う事はせず、更に跡取りが生まれていなかった頼朝の猶子となり、一時は頼朝の後継者候補となるなど破格の待遇を受けていた。が、どうやら兄はこの直後、弟に対する考えと態度を変化させたらしく、鶴岡八幡宮宝殿の上棟式[一一八一年七月二〇日]に於いて、兄は弟に大工に与える馬を牽く事を命じた。しかし弟はこれを拒んだ。この役目は御家人が務める役であり、弟の考えでは“私の様な高貴な者がする事では無い”という訳なのであろうが、兄はこの弟の態度に激怒し、これに驚いた弟は渋々兄の命令に従ったが、これ以後、兄は弟を“大切な身内”では無く“大勢いる御家人ら”と同格として扱って行く事となった。当然、弟はその事に不満を感じてはいたが、いつか兄が再び私を大切に扱う日が来る、と思う事で鬱々とした日々を凌いでいたのである。 

 が、更にこの弟にとどめを刺す出来事が起こる。それは兄頼朝の嫡男頼家の誕生[一一八二年]であった。これにより弟は兄の後継者候補では無くなり、鎌倉において弟は並み居る御家人らの中の一人、と成り果ててしまったのである。勿論、弟はこの様な事に耐えられはしない。以後、弟は鎌倉に居たのであるが、公式の行事には顔を出す事は無かった。これは弟が拗ねていた事にもよるが、それ以上に兄が弟を外して行事を執り行っていたのだろう。

猜疑心の強過ぎる兄と純粋な弟。

 この様に語られる事の多い頼朝・義経兄弟であるが、確かに表に現れている特質は正反対で“バランス感覚の取れた武士、というよりは権謀術数に長けた政治家”という評価の兄に対し“常に私が、私が、というところは困りものだが戦術に関しては一流の武将”という弟では正に『水と油”の様ではあるが、その性格の根本的な核というものは、意外に似ている兄弟なのである。

 それは“私は高貴な生まれの者であり、他者を従わせ導いて行く事は、特別な私に課せられた義務であり、これをやり遂げる事が特別な私には相応しい。いや、特別な私だからこそ可能である”と半ば本気で自己規定しているところである。

 だからこそ弟は兄の仕打ちに傷付き、兄は弟や従兄弟[義仲]の存在に我慢がならないのだ。つまり同格だと思われる他者を全く認める事が出来ず、常にマウントを取る事、もしくは取り続ける事に情熱を燃やしてしまうのである。
 であるからこそ、この兄弟は軽々しく“平氏打倒”などと事あるごとに口に出せるのであろう。



「・・・まぁ良かろう。
九郎を私の代官として京に送る事とする」
随分と長い間、無言で考えていた頼朝だったが、結局は広元の提案を受け入れた。

代官として御家人らの中から妥当な人物を思い付けなかったからでもあるが、それ以上に京へ派遣するとなると危険が伴うのである。

京は義仲が押さえているのだ。

そこへ少人数で行かせるとなると人選は慎重にならざるを得ない。が、弟の九郎ならば喜んで兄頼朝の代官を引き受けるだろうし、万一、これが害される様な事態になったとしたら、その時は正々堂々と義仲の非を責め、これを討伐する正当な理由が手に入るのである。

ここまで思い至った時、頼朝は決断した。

「では広元。九郎に伝えておけ。
私の代官として京へ向かえ、とな。
共の者は九郎が連れ歩いている郎等の他に五〇〇騎程付けてやれ。
私の代官の郎等が十人に満たないなど、私自身の体面に関わる。良いな」

「はっ」

「明朝、陣を引き払い鎌倉へ戻る。
各所に集結している軍勢にも伝え、帰投させろ。九郎はこのまま京に向かわせる。以上だ。下がって良い」



明くる日の早朝。
閏一〇月六日。

「では行って参ります!兄上!」

表情を輝かせ胸を張って元気良く挨拶した義経に、頼朝は無言で首肯いて応じた。

その事に一瞬、不満げな色を示した弟義経であったが、すぐに笑顔を取り戻すと一礼し、馬に跨がると、

「では参るぞ!付いて参れ!」

郎等らに声をかけると先頭切って駆け出して行く。

と、
「御舎弟どのに続けーーーっ!」

野太い声で号令を掛けた鎧を身に付け頭巾で顔を覆っている荒法師も、まるで戦場に於いて先陣を取るかの様に駆け出すと、五〇〇騎の軍勢もそれに続いて駆け出して行った。

その様子を見ていた頼朝は、うんざりした様に眉を顰めると大きく溜め息を吐きながら景時に眼をやると、

「鎌倉に戻る。全軍に号令を掛けろ」
命じた。

その頼朝の顔には何故か疲れが浮かんでいた。



 こうして京を目指し軍勢を引き連れ閏一〇月五日に鎌倉を出陣した頼朝は、一日でその行軍を終え鎌倉へ戻る事となった。

 この時期、誰もが先を見通す事など出来なかった。と言うより、いつの時代も先を見通す事の出来る者などいないのである。である以上、一歩一歩石橋を叩いて渡る様に、慎重に進んで行かなければならない程、情勢は変転を極め、その速度は速かったのである。それに大胆に行動したところで失敗を冒す事にでもなれば、元も子も無い。これは鎌倉の頼朝だけで無く、京の後白河法皇や朝廷の公卿らも同様であり、有力寺院の高僧や僧侶、貴族、武士、一般民衆もそれは変わらない。陸奥の藤原秀衡もそうであり、西海の平氏一門も、そして義仲もそうなのであった。


「追討令を発した上は、平氏一門の討伐が果たされるまで、何があっても義仲の帰京を許してなりませんぞ!

しかも義仲は二カ月以上も出陣を遅らせ、あろう事か節刀まで賜っておるのです!
もしその義仲が追討の命令を無視し、任務を途中で放り出して京に戻る様な事があれば、法皇陛下や朝廷の権威は蔑ろにされ、失墜してしまうでしょう!

ここは義仲に対し上洛を禁じる命令を出すべきである、と存じます!
でなければ無法者の義仲の事!
再び京に入る様な事が起これば、またどの様に狼藉をはたらく事になるか!」

新宮十郎行家の怒鳴り声にも似た大声が、法住寺御所殿上の間に響く。

閏一〇月一四日。実に久し振りに公卿らの会議に呼ばれた行家は、相変わらず空回りしながら実に張り切っていた。義仲の不利になる様な決定を採決させる為に。

行家の思惑通り、義仲に再上洛を禁止する事が出来れば、義仲を追い落とし、ワシが代わりに武家の棟梁となる好機は今!この時である!と一人で盛り上がっていた自称大将軍ドノは声の限りに吠えていた。

「確かに近頃、京の巷では義仲が二・三日中にも帰京し破壊の限りを尽くして火を放ち京が滅亡するのでは、との風聞が蔓延り貴族の間でも不安が拡がっている、とか」

左大臣経宗が、行家の怒鳴り声を遮る様に発言した。

「それはあくまでも風聞であり、噂に過ぎないのでは?」

宰相中将通親が首を傾げつつ尋ねると、

「噂ではある。が、私の許に届いた報告によると、義仲勢の先鋒部隊が平氏に敗れたのは事実らしい。
その為、播磨から備中へと義仲勢本隊が急行した、と。
これは平氏が思いの外、強かった、という事だろう」

右大臣九条兼実がとっておきの情報を披露すると、公卿らの間に、ほおぉと驚きの声が上がる。と、御簾の内から声が掛かった。

「成程。そのあたりの事が噂としてこの京まで伝わり、平氏に敗れた義仲が近日中に帰京し火を放ち京を滅ぼす、との風評になったのであろうよ」

自慢の美声で重々しく後白河法皇が告げると、公卿らは一斉に姿勢を正し一礼する。

行家も慌ててぎこちなく皆と同じ様に一礼した。するすると御簾が巻き上げられる気配で顔を上げた行家は、皆がまだ頭を下げている事に気付くと、またも慌てふためいて頭を下げた。

と、
「だが、敗れたのはたかだか先鋒の軍勢であろう。戦さ上手で鳴らした朝日将軍の相手はいかに平氏とて思う様にはなるまいよ」

法皇が楽しげに言う。
が、別に法皇は義仲の事を応援している訳でも、心配している訳でも無い。平氏一門を標的に追討令を発し、更に義仲に強く出陣を促していた立場としては、こう言う他に無かったのである。

だが、心配している事はあった。

それは平氏が勝つ事。そして敗れた義仲が京に戻り暴れ回った挙句、法皇と京を道連れに自暴自棄な行動に出る事。この二つであった。

つまり極論すれば自分の身と京の安全、を心配しているのである。もし平氏が勝つ様な事にでもなれば、どの様な復讐に曝されるか判ったものでは無かったし、自暴自棄になった義仲の標的にされる事もあり得るのである。

法皇は、平氏と義仲の双方に恨まれる立場にいる事を認識していたが、それでもその様な目に遭う事はあるまい、と心のどこかでは信じ切っていた。どこまでも他人事の様に移り変わる状況を眺めている。

実におめでたい御方である。が、その様に楽天的に信じているのも後白河という人のこれまでの人生を振り返れば解る気がする。


 後白河法皇は天皇の時に保元の乱[一一五六年]を経験し以後、上皇の時には平治の乱[一一五九年]、法皇になるころには平清盛に幽閉[一一七九年]された挙句、以仁王の乱[一一八〇年]以後、現在の治承・寿永の内乱[世に言う源平合戦]と、幾多の政治的動乱を立て続けに経験し、安定や安寧とは程遠い治世を綱渡りして来た人なのである。そして上記のいずれに於いても彼自身はその威信を損ない、権威を失墜させ続けたが、何故か生命を落とす事無く無事に凌いで政治的生命を保ち続けたのだ。法皇の一見楽観的とも思える考えにはこれまでどの様な目に遭おうとも何とかなって来た経験則が土台となっていたのである。

 己れの治世にこの様な内乱紛いの政治的衝突が繰り返され、ついには内乱そのものに陥っているのであるが、この事は彼の統治能力が低いか、もしくはほぼほぼ無かった事の証左ではあるのだが。




「十郎蔵人行家の申す事にも一理ある」

法皇が告げると、行家は思わず顔を上げていた。
その眼は輝き、まるで思わぬ贈り物でも貰った時の様な笑顔であった。

と、
「では義仲に対し上洛の禁止を命じるべきである、と御思いなのですね」

右大臣兼実が訊ねた。

「と言うより、平氏追討を完遂するまで上洛を差し止める、と命じれば良かろう。
念を押してやれば済む事だ。
急ぎ使者を派遣しておけ」


「「「はっ」」」


法皇の回答に公卿らが声を揃えて応じた。

法皇の思惑としては、義仲が京に戻って来て欲しくは無かった。何故なら鎌倉から既に頼朝の関東勢が京を目指して出陣したと思っていたからである。この頼朝の上洛軍と義仲勢が京で鉢合わせる事にでもなれば戦場となってしまうのである。京が。

法皇はそれだけは避けたかった。京以外のどこか別の地域でなら戦さだろうが何だろうが、頼朝と義仲が潰し合ってくれる事は大歓迎ではあるのだが。
そこで、とにかく義仲を再入京させず西海に留めて置く為に、法皇は行家の提案に乗ったのである。

こうして、公卿会議に於いて平氏追討の完遂と、それに伴う再入京の差し止めが義仲に対して発令される事を決議した。

法皇にしろ行家にしろ思惑は別のところにあったが、義仲に再び入京されたくはなかった以上、そこだけは両者の見解は一致し、この決議となったのである。


ともあれ行家の邪な願いが果たされ、ここに義仲勢は公式に再入京を禁じられた事になった。




行家はこの日、嗤いが止まらなかった。

だがこの決定は京の町に思わぬ副反応を起こさせる事となってしまったのである。

京から義仲勢が出陣した後、取り締る者が少なくなってしまった京で、再び盗賊や狼藉が横行したが、京留守居役四天王筆頭樋口兼光の懸命な努力により、ある程度の治安回復に成功していた。
その矢先『義仲が戻り火を放って京が滅亡するのでは?』という先程の噂が拡散すると、またもや京の治安は乱れ始めてしまった。

盗賊や狼藉者らは世情不安に乗じて犯罪行為を行っていたが、更に義仲の再入京差し止めの命令が朝廷より発せらた事を知り再びその犯罪行動を活発化させたのだ。


何故そうなってしまったか。


それは彼ら盗賊・狼藉者らに、これからは安心してお仕事が行える、という間違ったメッセージを送る事になったからである。

彼らを取り締る者が京に帰って来る事が出来なくなったのであるから。

つまり盗賊や狼藉者らが最も恐れていたのが京中守護の任に就いていた義仲であり、彼らが安心してお仕事に励む事が出来なかったのは、義仲勢が市中警護として取り締りに当たっていたからである。



義仲とその麾下の将兵達の不在が、京の治安状況を悪化させていたにも関わらず、朝廷は義仲の入京を禁じたのであるから、盗賊や狼藉者らにとっては歓迎すべき政治的決定となってしまった、と言わざるを得ない。

こうして京は再び修羅の跋扈する巷と化してしまったのであった。

だが、盗賊や狼藉者らのパラダイスは数日を経ずして、彼らが沈黙・逼塞せざるを得ない正常な京へと戻る事となる。



「これより全軍を持って盗賊追捕!
狼藉停止に当たれ!
京の治安状況は悪化の一途を辿っている!これを回復する事が今、我々に課された最も重要な任務であると心得よ!」


「「「おおおっ!!!」」」


義仲の檄に将兵達が応じると、麾下の武将達は続々と六条西洞院の邸から市中警護に当たるべく隊列を成し、各所へと散って行った。

「留守を預かっていながら京の治安を悪化させてしまいました。
申し訳ありません・・・」

四天王筆頭樋口兼光は沈痛な面持ちで謝罪した。己れの力の足りなさを痛感しているのだろう。

その顔色には赤みが無く、幾分青くなっていた。

「大丈夫だ、兼光。
数日の内に狼藉も止む事になろう。
それまでは以前にも増して厳しく取り締る。お前も力を貸してくれ」

義仲は穏やかに応じると続けて、

「留守居役、御苦労だった。兼光でなければ務まらなかったであろうし、お前でなければ京の治安は回復不可能なところまで酷い事になっていた筈だ。それと」

曇った表情のままの兼光に、義仲は言葉を繋いだ。

「心配、いや心労を掛けさせたな。兼光」

彼がたった独り、京で孤独な闘いを強いられた事を気遣っての言葉だった。


「・・・義仲様」

兼光は自分の身体に何かが満たされていくのを感じ、思わず笑みが浮かぶ。義仲も口許に笑みを浮かべ無言で首肯いた。

と、
「感動の再会中、悪いんですけどねぇ。
義仲様は明日には御所に参内して色々と報告しなきゃならないんすよ。
早いトコ打ち合わせしておかないと法皇の前でボロを出す様なコトになっても知りませんよ」

ニヤついた覚明が揶揄う。

「ほぉ。ウチの祐筆もいつの間にか職業意識に目覚めたと見える」

兼光も笑い顔で言い返した。
その笑顔には、漸く自分を取り巻く環境が甦った事の安堵が感じ取れたが、覚明はその事には触れずに、

「書類作成の事務仕事も、また元の様に俺と兼光二人で捌いて行かなきゃならなくなったんだよ。
隆家も能景も市中警護に出張ったからなぁ」

「そう言えば書類が溜まっていたな。
義仲様、今からすぐに取り掛かりましょう。西海での事は書類を書きながら詳しく聴く事にします。さあ」

兼光も職業意識を取り戻すと、にこやかに促して邸の中に入って行く。

義仲と覚明は顔を見合わせると苦笑いを浮かべながら、兼光の後に付いて行った。




 義仲勢全軍による市中での警備活動が功を奏した結果、数日後には京の治安状況は劇的に改善して行き、ほぼほぼ義仲勢が京を出陣する前くらいの状態には回復していた。
 この数日、盗賊や狼藉者らに対する追捕は苛烈を極め、これに恐れを成した彼らは京から離れるか犯罪行動を止めるしかなかったのである。そう言う訳で京には一応の平穏が戻った事になった。
 が、この義仲勢が不在であった期間に於ける一連の治安状況の急激な悪化が、何故か義仲勢が行なった事にされているのである。その軍勢の大多数が京に不在であったにも関わらず。
 しかも、噂や風聞が発端となり朝廷の義仲再入京差し止め命令に勢い付いた盗賊らの狼藉も、何故か京に戻って来た義仲勢がやった事にされてしまったのである。

 義仲勢が不在の間、京の治安を預かっていたのは四天王筆頭樋口兼光であったが、本来は京中守護・市中警護に任じられている新宮十郎行家やその他の相伴源氏の連中の方が京の治安に責任を負う立場にあった筈である。にも関わらず兼光以外の者らはその責任ある任務を何も果たす事は無かった、と言って良い。いや、それどころか相伴源氏の中には狼藉を働いた連中も多くいた事であろう。彼らも“鬼の居ぬ間に何とやら”を地で行く様な連中だったのである。
そして義仲入京の時に、同時に入京した相伴源氏の連中を、未だに義仲の軍勢だと信じ切っている京の住民らにとっては、やはり総ての元凶は総責任者である義仲という事になってしまうのであった。


悲しく、そして哀しむべき事ではあるが・・・


公卿会議で閏一〇月一四日に決定した義仲に対する再入京の差し止め命令は、義仲の許に届く事は無かった。

いや、届いた事は届いたのであるが、それは全く無意味なものとなってしまった。

それは、再入京差し止め命令が決定した翌日の閏一〇月一五日には既に、義仲は京に戻っていたからである。

京での義仲に対する不穏な策謀を封じる為の電撃作戦であった。

こうして朝廷の命令は無意味に終わり、法皇や行家の時間稼ぎの小細工は水泡に帰す事となった。


行家の高嗤いが京に響いたのは、実に一晩だけの事であり、翌日からは再び、苦虫を噛み潰した様な縁起の悪い表情で、愚痴なのか悪口なのか分からない様な事を小声でぶつぶつと独り言を呟く、普段通りの自称大将軍ドノに戻らざるを得なかったのであった。

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