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その時 木曽殿の動きは #11

解説
C O M E N T A R Y

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大河ドラマ「鎌倉殿の13人」に合わせ義仲陣営を「説明」
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【監修】義仲館P 西川かおり

横田河原合戦
 

 義仲の名前が都にも知られるようになった合戦が、1181年6月に起きた「横田河原合戦」です。


源平合戦の「川中島」

 横田河原合戦とは、現在の長野市横田を中心とした、千曲川と犀川によってつくられた平野部で行われた戦です。ここは戦国時代の「川中島の戦い」とほぼ同じ場所で、戦に適した場所だったため、源平・南北朝・戦国時代と繰り返して合戦地となっています。

 川中島の合戦は「越後」と「甲斐」の信濃の取り合いという侵略者同士の戦いですが、横田河原の合戦は、信濃武士が一丸となり、越後からの侵略者、それも10倍の兵に立ち向かう戦いでした。この戦では、義仲の人間性がとてもよく表れており、この後の戦に影響しました。

①人の意見を公平にとりいれる

 横田河原の合戦は、簡単にまとめると

「平氏方10倍の兵が押し寄せ無数の赤旗がたなびいていたところに、信濃源氏・井上が赤旗を掲げて援軍のふりをして敵の本陣に近づき、突如白旗に持ち替えて大将に襲い掛かった。それを合図に義仲軍が攻め込み、驚いた平氏方が逃げ去った」

と言うものです。
 この文からわかるように、井上の赤旗→白旗がこの戦の大変なキーアイテムで、受け取り方によっては義仲は全くのわき役です。しかしこの井上、横田河原合戦にいたるまで、義仲の周辺には名が見えず、そのあとも出てこないキャラクターなのです。つまり、義仲とはそれほど関係が深くない人物です。関係が深くない人物だから命を懸けた本陣への特攻作戦を指示した!のでもありません。この作戦は井上が自ら旗を用意し、義仲に提案してきたものなのです。

 義仲は、武士たちの意見を公平に聞きます。年齢や自分との関係性を度外視して、議論の場を設けもっともふさわしい意見をとりいれます。平家物語を読むと様々な場面でその姿が現れますが、横田河原合戦でも井上の作戦を聞いて冷静に判断し、採用したのです。そして義仲自身は、最前線に立ち、井上の作戦が成功するよう戦場を馬で駆け抜けました。


②敵を討ち取らない

 鎌倉武士というと、ザクザク人を殺して、首を並べるイメージを持っている人も多いようです。もしそれが当時の「常識」だったとしたら、義仲は相当変わった人物です。
 義仲の最初の戦い「市原の合戦」では、敵・笠原頼直を討ち取らずに逃亡させています。これは義仲のうっかりミスではなく、故意に行っているようです。なぜなら、横田河原合戦でも、10倍の兵を率いてやってきた城氏の大将・城資職を追い、首を討ち取りさらす!などということはせず、勝利が決すると自軍を集めて勝どきをあげ、城資職を逃亡させています。
 その後、城氏は越後国府に戻りますが再起は謀らず、横田河原ののちに義仲が兵を整えて越後に向かうと、戦うことなく国府を明け渡しました。
 仮に義仲が城資職の首を取り、無残にさらしていたなら、越後でも大きな戦になったのではないでしょうか。勝ち負けとは命を取ることではなく、大勢を決することである…と義仲が考えていたことがうかがえます。

③事前交渉を行う

 義仲による発給文書は数えるほどしかありません。そのうちの一つが1181年4月、横田河原合戦の少し前に出されたものです。土地所有の安堵状ですが、この相手が「笠原行連」です。
 笠原頼直の「笠原氏」は中野市~山間部の広大な土地に広がる「笠原牧」をよりどころにする豪族です。滋野一族が望月牧をよりどころに多くの家を生み出し繫栄したように、笠原氏もいくつかの家に分かれ大きな勢力を持っていたとみられます。市原の合戦に敗北し、越後に逃げた笠原頼直と同じ一族である笠原氏に安堵状を発給したことは、義仲が来る戦に備えて、北信濃の武士たちと交渉を行っていた証ともいえるでしょう。


まとめ

 このように木曽義仲は、一般的にとらえられている「合戦」のイメージとは違う戦いをする人物でした。
 義仲が山賊のように戦で暴れまわり、無残に人を殺しまくったような記述は平家物語や源平盛衰記には全く書かれていません。なぜそのようなイメージを持たれるようになったのかは、貴族の残した文献などではなく昭和中期の小説「新平家物語」が大きく影響しています。それはまた章を改めてご紹介します。

 横田河原合戦の経過と伝承地についてはこちらに詳しくまとめていますので、ご覧ください ↓


略年譜

H I S T R Y
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義仲をたどる
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久寿元年(1154年) 誕生

久寿2年(1155年)8月16日
大蔵合戦で父を討たれ、信濃へ

〇中原兼遠に養育される


保元元年(1156年)7月11日 保元の乱
海野ら信濃武士団は後白河法皇方(源義朝・平清盛など)に参戦
平正弘は敵対する崇徳上皇方(源為義など)に参戦

平治元年(1160年)12月9日 平治の乱
ほとんどの信濃武士が参戦せず

●仁安元年(1166年) 元  服

〇諏訪社に婿入りし娘が生まれる

〇承安3年(1173年)?
嫡男・義高生まれる
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治承3年(1179年)
仁科氏・覚園寺(大町市)千手観音開眼供養
善光寺(長野市)炎上
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治承4年 (1180年)
4月
以仁王の挙兵

 9月7日
市原の合戦


義仲依田城(上田市)へ

9月11日
菅冠者自刃

10月13日
義仲上野国へ。上野国府周辺の混乱をおさめ、
父・義賢の家臣を味方に加える。
その際に様々な武士への安堵状を作成したのか、
北信濃の武士・藤原資弘への下文が現存する

12月24日
義仲信濃へ戻る


養和元年(1181)年

4月15日
義仲、笠原行連に安堵下文発給

6月13・14日
横田河原の合戦










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