義仲戦記30「新帝即位」
「出発の準備は整いましたか?」
八条女院はその柔らかい物腰に相応しく、おっとりと尋ねた。
「はい。この度、八条院様には御迷惑をお掛けしてしまいました。
この身を匿っていただいた事だけでも御礼の申し上げ様もありません」
池大納言平頼盛[清盛の弟の一人]は深く頭を下げつつ答えた。
八条女院の所有する邸宅の一つ。
広大な敷地の中には池を囲む様に建物が建つ、実に風雅な邸で、その池に面した一室で主人である八条女院と池大納言頼盛が会っている。
平氏一門が都落ちした時、この一行から逃げ出した頼盛は妻子を連れ八条院を頼り、その許に身を寄せてから、数日が経っていた。
「私が聞いたところでは、この八月に平氏一門の者達は、大納言時忠どの父子以外は全て、その官職から解官される、との事。
頼盛どのもそうなりましょう」
頼盛は、さすが、と言いたげな顔で八条院を見詰めた。
何故なら、朝廷の人事関係の話しなどは発表される以前に漏洩する事など無いからだ。それが既に八条院の耳に入っている事自体、この八条女院の人脈の拡さや深さ、或いは政治的勢力の大きさを物語っていた。
「はっ。それであれば心置き無く鎌倉へ向かう事とします。
これよりは義仲が追及して来る事もあるでしょうから。
ではこれより直ぐに出発致します。有難う御座いました。
八条院様もどうかいつまでも御健勝で」
両手をつき、深々と頼盛は頭を下げた。
「鎌倉の頼朝どのにも、宜しくお伝え下さい。頼盛どのも御健勝で」
八条院が優しく声を掛けてやると、頼盛は立ち上がりもう一度、深く一礼し、室を退出して行った。
池大納言頼盛は妻子を連れ、鎌倉へと旅立った。
鎌倉の頼朝には既に自分と妻子の庇護を依頼する書状を送ってはいたが、これに応じる返書が届いた訳では無かった。とは言え頼盛には不安は無い。何せ昔、頼朝の生命を救ったのが、頼盛の母の池禅尼だからである。頼朝は生命の恩人のその息子である頼盛を救けてやらなければ、恩知らず、と人々に謗られる事になるのであるし、事実、鎌倉の頼朝はその後、この頼盛一家を厚遇し、更に朝廷に働き掛けて頼盛を元の官職に復帰させる為に請願すらしたのであった。
つまり頼盛は賭けに勝った事になる。
平氏を見限り、己と家族の生命と運を頼朝に賭けた、賭けに。
頼盛が退出した後、八条院は小さく溜め息を吐いた。
気掛かりが一つ解消した事に安堵していたのである。
別に頼盛に頼られた事が迷惑という訳では無かったが、だからと言って歓迎していた訳でも無かったからである。
八条院の許には、この争乱の時代に不遇な人々が庇護を求めて来る事は珍しい事では無かった。それは八条院その人の、来る者は拒まず、という大らかな性格にもよるだろうが、何より鳥羽天皇[第七十四代]の皇女であり、崇徳「第七十五代]、近衛[第七十六代]、後白河[第七十七代]という三人の天皇の妹という出自に加え、近衛天皇が崩御した折、女帝として推された事もある程の聡明さを持っていた事にもよるだろう。
結局皇位は兄の後白河が継ぎ、八条院に皇位が巡って来る事は無かったが、そのかわりに父鳥羽天皇と母美福門院から莫大な荘園、所領を相続。全国各地に約一〇〇ヶ所の荘園を領し、その経済力は貴族・公卿らを凌いでいた。こうした訳で、八条院の許には不遇な人々だけで無く、その権威と経済力を求めて様々な勢力が関係を取り結ぼうとしていたのである。
ちなみに話しは飛ぶが、『平家物語』の作者の一人と云われている藤原行長とその父行隆が仕えていたのも、この八条院なのであった。
しばらくの間、室から見える池を眺め、水面に反射する光の眩しさに瞼を閉じ、その残像を感じながら、しばし雑事を、全てを忘れて八条院は寛ぐとも無く寛いでいた。
と、
「宜しいでしょうか。八条院様」
声を掛けられ、ふと眼を開けて見ると、女房[女官]が頭を下げていた。
「なに?急に畏まって。どうしたの?三位局」
「はい。先程、前摂政藤原松殿基房どのがお見えになられ、八条院様に御目通りを、と」
三位局が答えると、八条院は少し考えていたが、
「いいわ。お逢いしましょう。ここへ案内して差し上げて」
「はい。それでは」
この女房こそ、八条院に仕えて『無双の寵臣』と称された八条院三位局その人であり、故以仁王との間に王子道性、王女三条姫君をもうけた人なのであった。北陸宮にとっては義母にあたる。以仁王の挙兵の際には平氏方に王子王女らを拘束されたが、八条院の庇護と口利きにより、助けられて以後は、以前にも増して八条院に恩を感じ、これに報いる為、熱心に仕えていたのである。
三位局は立ち上がると、松殿基房を待たせてある室へと静々と向かって行った。
☆
「先日、今回の源氏の働きに対し、勲功第一は源頼朝。第二は源義仲。第三は新宮行家とし、義仲には従五位下、左馬頭、越後守を。行家には従五位下、備後守を。
頼朝には上洛を命じ、上洛した際に官位、官職を元に復す、と言う事に決し、これを義仲、行家に内々に伝えた訳だが、これに不服を申し立てた者がいる」
左大臣経宗は法住寺殿の御所、殿上の間に集まっている公卿らに向かい、そう報告すると、
「申し立て、と言うか、街中で大声を出し不満をがなり立てているだけの話しだろう。道化者の行家にも困ったものだ」
右大臣九条兼実が応じたが、セリフとは違い半笑いをを浮かべながら楽しそうですらあった。
それもその筈、京に入って早々、早くも源氏勢が仲違いを起こす兆しが見え始めたのだから。
彼ら貴族・公卿らにとっては、強大な軍事力を誇る源氏勢に対しては武力で対抗する術が無いのであるが、その源氏勢が勝手に内紛を起こして自滅してくれれば、何の苦労も無く自分達の権威と権力を維持する事が出来るのである。そうした考えのもとに、誰が見ても平氏を都落ちさせた今回の勲功第一である義仲を、勲功第二に据え置き、その勲功第一を頼朝とする事で、義仲を牽制すると共に、頼朝に対しても義仲を使い牽制している。また何の武功も立てていないにも関わらず、義仲の勢いに便乗し京に来ただけの行家が勲功第三なのは当然の事であったが、気位だけは高過ぎる行家の義仲に対する嫉妬や不満を逸早く感じ取った公卿らは、その行家の噴き出しつつある憎悪の感情が義仲だけに向かう様に仕向ける為、殊更行家を義仲よりも下の者として扱っていたのである。これもまた義仲に対する牽制なのであった。
公卿らの思惑通りに行動する単純な行家は、彼らにとって使い勝手の良い道具、としてしか認識されていなかったのである。右大臣兼実が嘲笑ったのは実に当然の事であった。
「まぁ、改めて知行国を替えて官位はそのままに、義仲と行家に伝えさせろ。それでも行家が納得せんのなら、行家の叙勲は無しだ」
兼実は打って変わって冷たい口調で言い放つ。
「そうですね。叙勲を取り上げられるくらいなら、必ず受け取るでしょう。行家の内心はどうかはともかく」
苦笑しつつ宰相中将源通親が相槌を打つ。
続けて、
「しかし、今度は義仲が不満を言って来るのでは無いですか?」
「そうなれば更にこちらの思惑通り。
精々源氏同士でいがみ合って貰うとしよう」
兼実が話しをシメようとすると、
「義仲には別のものをくれてやる。貴殿らも叙勲の日を愉しみにしておれ」
後白河法皇が口元を歪めて言う。
「「「はっ」」」
一同の者は声を揃えて応じた。
「鎌倉の頼朝には再度、上洛を命じる使いを出しておけ。
源氏らの話しはここまでだ。
もう一方の平氏だが、神器の返還には応じたのか?」
法皇は議題を変え、公卿らに尋ねた。
「院宣は届いている筈ですが、平氏方からはまだ何の返答もありません」
左大臣経宗が代表して答えると、
「まあ、ああなっては平氏も還す筈が無いだろう。
とは言え、敢えて大納言時忠の官職は解任せず、そのままにしておこうと思っておるのに、返事も返して寄越さんとは甲斐性の無い奴。
この儂の院宣を黙殺し無視したのであれば、こちらも平氏の奴らの事など無視し、事を運ぶとしよう」
法皇は院宣を黙殺された事に対し、不快に思うでも無く淡々と言った。
院宣を出した当の本人が、その院宣の重みを少しも認識していないという事実は、驚くべき事であるが、この後白河という人はその場凌ぎにいい加減でテキトーな院宣を乱発した人であるので、黙殺される事などは慣れていたし、無視される事も織り込み済みだったのかも知れない。
何であれ、後白河という法皇は、そういった法皇なのであった。
「今月[八月]二十日に、新天皇を即位させる。
この際、神器が無かろうが、これを決行する。
何せ今は非常時だからな。
それに先立ち、十六日の叙勲の日に、立王[皇太子]を発表する事となろう。皆はそれに備えておくが良い。以上だ」
法皇は一方的に宣言すると、公卿一同はその場で一礼し、協議は終了した。
殿上の間から公卿らが退出するのと入れ違いに、一人の女房[女官]が当然の様に入って来ると、法皇にしな垂れ掛かる様にして腰を降ろす。
その様子を横眼で見ながら九条兼実は、苦々しい思いと舌打ちしたい衝動を堪えつつ、殿上の間を後にした。
「まァ、怖い。兼実どのは口を開けば『徳の有る政治を実行して下さい』などと法皇さまに仰っているのに、私を見る眼付きには、徳の欠片も含まれていない事に御自分では気付いていらっしゃらないのかしら」
法皇と二人きりになった女房は、心から愉しそうに、こう言った。彼女は皮肉を言った訳では無く、告げ口をした訳でも無い、実際愉しんでいたのである。
「随分と機嫌が良いな。丹後局」
法皇は女房丹後局を見るなり言った。
「ええ。私、羨望と嫉妬と憎しみの入り混じった視線を向けられるのが好きなんです。それが右大臣様の視線なら、尚更」
丹後局は歌う様に応じた。その表情は愉悦に満ちている。
続けて、
「それに何やら法皇さまは御考えになっている事がお有りの御様子。何が始まるのか愉しみで待ち切れませんわ」
「丹後局は鋭いな。確かに儂は今、源氏の事や平氏の事で頭が一杯だ」
「嘘」
丹後局は間髪入れずに言う。そして流し眼を法皇に送りながら、
「四宮様の事で頭が一杯なのでしょう?
御心は最初から決めていらっしゃったくせに」
優しく咎める様に含み笑いをしながら言った。
驚いたのは法皇である。
新帝を即位させるにあたり、現在候補者は三名いたが、法皇は一番幼い四宮[四歳]を即位させる事しか考えていなかったし、その事を誰にも話した事など無かったからであった。
「・・・本当に鋭いな。丹後局は」
法皇は感心半分,呆れ半分で応じる。
「隠していても丹後には解ります。
だって、御飾りの人形は可愛くて幼い方が良いに決まっていますもの」
ころころと笑いながら、不敬な事をさらっと言ってのけた。
「これこれ。仮にも新天皇を御飾りの人形、などと」
一応法皇はたしなめるが、
「あら、いけない。口が過ぎましたわ」
丹後局は軽やかに応じた。
しかし、彼女の言った事は全て図星なのであった。法皇の本心は、新帝が幼ければ幼い程、己の権威と権力にはとっては都合が良く、であるが故に新帝は単なる“御飾り”として用いる為にのみ、彼には必要なのだから。
下手に物心に付いた年齢の者を皇位に就けたなら、その者は、程無く己の意志で行動し始め、手に負えなくなる事を法皇はこの時、最も恐れていた。
であれば、四宮の兄の三宮[五歳]はともかく、以仁王の遺児で成年に達している北陸宮[十七歳]を皇位に就けるなど、法皇の中では以ての外、であり、これだけは避けたいと願ってもいたのである。
この様な事情で、法皇は新帝即位を急いでいたのであった。
しかも朝廷の中ですら、現在の政治の混乱・混迷を収める為には幼年の天皇よりも、成年の天皇を、と待望する声も上がっていた程なので、法皇としては一刻も早く、無理矢理にでも四宮を即位させなければならなかった。
その即位に正統性を与える為に必要な三種の神器の事を無視してまでも。
「御心配には及びません。必ず法皇さまの御心通りに事は運びますわ」
丹後局は優しく諭す様に言う。
「まぁ儂も心配はしておらん。こと新天皇に関する限り、その選定は皇家の家長たるこの儂に、その聖なる権限が与えられておるのだから」
法皇はまるで自分自身には言い聞かせる様に言うと、
「さて、儂は今様
[この頃に京の市中で流行っていた歌の様式。今で言うところの歌謡曲やJーPOPの事。後白河は今様に熱中する余り、自分で歌うだけでは飽き足らず、その師匠《今で言うところの大物歌手やプロデューサー》に弟子入りし、歌の稽古《今で言うところのボイストレーニングやレッスン》をつけてもらった挙句、その今様の研究書《今で言うところの音楽の概要論もしくはハウトゥー本》まで執筆した、ある意味、好き者《今で言うところのおたく的な》だったのである]
の、稽古があるからな」
立ち上がり、殿上の間から出て行った。
それを笑顔で見送っていた丹後局は、
「何があっても法皇さまの望む通りに四宮を即位させてみせますわ。
この私が」
誰にも聴こえない様に、口の中で呟いた。
九条兼実は常々、この丹後局を『法皇の無双の寵女』と裏で呼び、その政治への介入を心良く思っていなかったが、とにかく法皇が丹後局を寵愛し、更に信頼もしている以上、陰口を叩く以上の事を、兼実は出来る筈も無かった。そして丹後局[本名高階栄子]自身も、単なる法皇の寵姫の一人では無く、自身の得た権勢をを活かす事の出来る辣腕の政治家であったのである。
後の話しになるが、この丹後局は後白河法皇の崩御後もその自身の権勢を衰えさせる事無く、出家し浄土寺二位と称され、源通親と組み頼朝すらも利用し、政治的ライバル九条兼実を失脚させる、という政治的手腕を発揮する事となる。その自身の栄達に絡む政治的嗅覚、或いは政治的感覚は生涯にわたって衰える事は無かった。
余談ではあるが、その九条兼実は丹後局に対抗するべく八条女院に接近。先の八条院三位局、つまり故以仁王の妻との間に息子良輔をもうけている。
一体、どうなっているんでしょうね。まったく京の貴族というものは。
これ程にも入り組んでいるのである。それが表面からは見え難い、宮廷政治、というものの実態であった。
☆ ☆
「来たる十六日の叙勲に於いて、義仲どのは従五位下、左馬頭兼伊予守に叙されます」
法皇からの使い、高階泰経が六条西洞院の義仲の邸に訪れ、そう報告した。続けて、
「それに伴い平氏の有していた所領を没収し、源氏に分与する、との事。そこで義仲どのには京中はもとより関東・東山・北陸各道の荘園に対し、あらためて狼藉停止を命じていただく事となります。
手始めに先ず、大和東大寺に対し兵糧徴収停止を命じる書状を書いていただきます」
高階泰経は義仲相手に堂々と臆すること無く、一気に言った。『法皇第一の近臣』と自他共に認めているこの貴族には、怖いものなど無いのだろう。
しかし『〜の第一の近臣』とか『〜の寵臣』とか言われている者達が多く登場する事になったが、それも当然の事で、つまりは義仲が権力や権勢の中心にそれだけ近いところで活動している事を意味する。ちなみに前出の丹後局本名高階栄子とこの高階泰経は、おそらく同族であるが、近親の間柄では無い。念の為。
「承知しました。叙勲が行われ次第、手を着ける事とします」
義仲が穏やかに応じた。
続けて、
「ところで何故、官職が替えられたのです?
越後守が伊予守に変更とは何か問題でも起きましたか?」
義仲が尋ねる。
その態度は柔和なもので、泰経は心の中で驚きつつ、
「今回、叙勲の官職が変更した事については異例の措置となります。
しかし問題が起きたという訳でもありません。が・・・」
泰経は途中まではすらすらと答えた。が、言い澱んでしまうと、
「行家どのが騒いでいるのは私にも聞こえて来ました。
答え辛い事を訊いてしまいました」
義仲は苦笑いと共に頭を下げると、泰経もつられて苦笑いしながら、
「行家どのの声は大きいですから、公卿の皆様にも届いた様で」
「成る程」
打ち解けた雰囲気になり義仲が応じた。
「ところで泰経どの」
と、ついでに、という感じで義仲が続ける。
「法皇様と朝廷は新帝即位を急いでおられる、とか。
噂は私にも届いています」
まるで世間話をする様に義仲が言うと、何かヒヤリとしたものが泰経の背を過ぎった。
突然の事で、答えようが無い泰経の表情が固まっている。
それを軽く一瞥した義仲は、
「私が口を出すことでは無い、とは思いますが、現在の政治状況を創り出した最大の功労者は、今は亡き以仁王様において他に無い事は万民の知るところです」
重々しく告げた。
泰経は沈黙してしまった事で、義仲の言い分を認めた事になってしまった己の失態に気付きながらも、二の句を告げないでいた。
「そしてその以仁王様の理想と志しを受け継いでおられる遺児、北陸宮様がおわす事は賢明なる法皇様と公卿の皆様は御存知の事と思います。
であれば新たに至尊の冠を戴くに最も相応しいのが何方なのかは、議論の余地無く明らかでありましょう」
義仲は穏やかな表情のまま、泰経の眼を見据え、瞬きせずに告げた。
恫喝していた訳では無い。
が、義仲の言葉と態度には重みと真剣さが加わり、迫力を増していた。
泰経は冷や汗をかいている事に、今更気付くと同時に、義仲の真意を悟った。いや、悟らざるを得なかった。
つまり、義仲に釘を刺された事になるのである。
裏で新天皇即位を急がせ、隠れて色々とやっているらしいしそれは別に構わないが、私が新天皇に相応しいと思う人は北陸宮様以外にはいない、と。
唖然としている泰経に、義仲は微笑み掛けると、
「使者の役目、御苦労様でした。
法皇様との連絡は高階どのが務めるとの事。これからも宜しくお願いします」
深々と頭を下げる。
はっと気付いた泰経は、急いで頭を下げ、礼を返すと、
「こちらこそ。義仲どの、ではこれにて」
立ち上がると、焦っている事を隠す為、落ち着いた素振りで、義仲の邸から退出した。
今あった事を急ぎ御所の法皇に伝える為に。
「何じゃと!義仲がその様な事を!」
法皇は泰経の報告を聞くと、思わず叫んだ。
「はっ・・・」
泰経はかろうじて応じたが、頭を上げる事が出来ずにいる。
「義仲め・・・まさか天皇後継の事に口を出して来るとは・・・」
忌々しそうに呟く法皇は、数日前にここ殿上の間から見た義仲の風貌を思い返していた。
と、
「・・・それに、こちらの動きを的確に察知していた事と言い、北陸宮を推している事と言い、このままでは少し厄介な事になるかと・・・」
泰経は頭を上げつつ不安そうに言う。
ふ〜っと大きく息を吐いた法皇は少しの間、思案していたが、突然立ち上がると、
「出掛けるぞ。共の者はお前だけで良い。車[牛車]の用意を急げ!」
命令すると、殿上の間から出て行こうとする。
泰経は焦り、法皇の後ろ姿へ問い掛けた。
「何処へ行かれる、というのですか!」
「八条院のところじゃ!それと右大臣兼実にも使いを出し、八条院のところへ来る様に伝えろ!急げ!こうしては居られん!」
法皇は振り返らずに答えると、そのまま、どすどすと足音を響かせ、殿上の間から出て行った。
こうして数日の間に、八条女院の許には、前摂政松殿基房、その弟である右大臣九条兼実、そして八条女院の兄である後白河法皇が入れ替わり立ち替わり、やって来たのであった。彼らは各々、八条女院を己の後ろ盾として味方に付け、今後の政局を優位に乗り切って行こうとしていた訳である。こういった行動を今の言葉で“根回し”という。図らずも義仲&松殿基房VS兼実&後白河法皇という対決の図式になった訳だが、このどちらの勢力に、積極的にせよ消極的にせよ八条女院が加担していたのかは、朝廷による叙勲・立王発表の日である八月十六日に判明する事となる。
「源木曽冠者義仲。従五位下、左馬頭に叙し伊予守に任ずる。
新宮十郎蔵人行家。従五位下に叙し備前守に任ずる。
安田三郎義定[甲斐源氏]。遠江守に任ずる」
三条大納言実房が高らかに告げると、名を告げられた三人は手をつき深く一礼した。
遂に叙勲の日は来た。
そして御所に於いて先ず、その発表が為された。
法皇を始め、公卿、貴族、武士らが一同に会する中、大納言実房が次々と他の源氏十数名に対し、勲功の賞として官位や官職を読み上げている時、義仲はふと横眼に、右隣の安田義定の様子が伺えた。
安田は落ち着き払いながらも、満足そうな表情をしている。
彼はこれで鎌倉の頼朝と、京の朝廷の双方から遠江守という地位を認められた事となった。頼朝に味方しながらも、独断で義仲が行動に呼応し、京に上洛した甲斐があった、というものだろう。まあ伊賀路の戦いでは、行家ドノに面倒を押し付けられるという、不愉快な事はあったのだが。
そして義仲の左隣にいるその行家ドノの様子は、別に見なくても判った。
この期に及んでもまだ不服そうに鼻息を荒くしていたからである。
義仲は心の中で小さく溜め息を吐くと、ゆっくりと頭を上げ、大納言実房に向き直る。
「源氏に対する叙勲は以上である。
次は平氏に付いてであるが、かの一門に於いては朝廷の許可を得ずして京を放逐した件に加え、十善帝王[安徳天皇]、三種の神器を強奪し去った罪はこの上無く重い。
以上の事から平氏一党の公卿、殿上人、衛府、諸司官人凡そ百八十名の官職を解く事とする。但し特例として一門と共に去った大納言時忠卿、子の時実は解任せず、神器返還の協議の為、これまで通りの官職とする」
大納言実房は告げ終わると、法皇に向かって一礼した。
法皇は首肯くと左大臣経宗に眼をやる。
左大臣は、心得ました、と言わんばかりに大きく一礼すると、
「この度の源氏の働き、その中でも左馬頭義仲の働きには法皇陛下も事の他、感心せられ、特別に御言葉を掛けられる、との事。
左馬頭、心して拝聴するが良い」
「はっ」
義仲は応じ、一礼する。
「其方の武勇は古今の武士の中でも目覚ましいものがあり、殊にその勢いは当代随一である」
法皇は今様ので稽古[ボイトレ]を積んで来られた成果を遺憾無く発揮し、艶と張りがある良く通る声で直接、義仲に声を掛けた。
続けて、
「その破竹の勢いは正に、闇夜を攘う明けの日輪そのもの、故にそれを愛で、其方に“朝日将軍”という称号を贈ろうと思う」
法皇は鷹揚にそう告げると、この場に居合わせた一同を見渡す。
この上無いドヤ顔で。
どうやら義仲に対し、別のものをくれてやる、と言っていたのはこの事だったらしい。
しかしこの“朝日将軍”というのは役職でも無ければ官職でも無い。
単なる称号なのである。渾名を付けられたからと言って、偉くなる訳では無いし、給料が上がる訳でも無い。
しかし、武将としての義仲に“箔”付いたのは確かだ。
武名というやつだ。
何しろその称号を自称した訳では無く、法皇が付けたのであるから。
義仲はこの意味や権威が有る様で無く、実は無い様で有るこの称号を有り難く受け取る事にした。
苦笑いしたいのを堪えつつ。
「はっ。有り難き仰せに御座います」
と、一段と荒くなった鼻息が左から聞こえた。
羨望と嫉妬の感情を、器用に鼻息で表現する行家ドノである。
それに加え歯噛みしている音さえ聞こえた。
やれやれ、思いながら義仲は、そちらを見ずに一礼すると、
「さて、本日は更に重要な発表がある」
左大臣経宗が区切り遠付けるかの様に告げると、貴族・公卿らに一斉に緊張感が漲る。
その様子を感じ取った義仲は、
(いよいよ、だな・・・)
背を真っ直ぐに伸ばし、胸を張ると静かに息を吸い込み、公卿らを見据えた。
「法皇陛下はこの度、新天皇を即位させる事を御決断なされた。
その候補者は御三方おられるが、混乱した世を安寧に導く為に神の御意志、つまり神意を尋ね、それによる選定を行う事を法皇陛下は御英断なされ、既に神祇官による亀卜、陰陽寮の官人による式占からなる軒廊御占[御所紫宸殿の軒廊で執り行う。国の未来について占う神事]を行わせており、これよりその結果を発表する」
左大臣経宗が告げると、それぞれ神祇官と陰陽寮の官人二名が、おずおずと御前に進み出て法皇に向かい揃って深々と一礼すると、神祇官が紙を取り出し、代表してそれを読み上げ始めた。
「この度の軒廊御占の結果につき申し上げます。奇しくも亀卜、式占、双方の結果が同一であった事を先に御報告しておきます」
神祇官の報告に、文武百官は息を殺し、固唾を呑んで聴き入る。
「御占による御神意。第一は三宮様に御座います!」
義仲は眼を閉じ、静かに息を吐き出すと、ふと肩に力が入っている事に気付き、思わず微笑みを浮かべつつ、
(誠に神意とは計り難いもの。北陸宮様では無く、四宮様でも無いとは。
人々の思惑など超越してこそ神意というものなのであろうか。
反目などせずに協力してこそ現状を乗り越えられる、との大いなる神の御意志とも思える。
ともあれ結果は出た以上、法皇も受け入れざるを得まい。
御占による選定を言い出したのは法皇本人であるし、神意である以上、例えそれが受け入れ難い結果であろうともな)
神々に対して畏敬の念を感じながら、義仲は晴やかな気分で納得していると、周囲がざわざわと騒がしくなっている事に気付き、瞼を開けて見ると、居並ぶ公卿らがお互い目配せをし合い、落ち着かない素振りで法皇の様子を伺っている。
その法皇はというと無表情のまま、神祇官に冷たい視線を向け続けていた。
(己の望まぬ結果が出たからと言って、誠実に職務を果たしただけの官人に対し、何という冷たい態度か・・・)
義仲は呆れを通り越し、不敬ながら怒りを禁じ得ないでいると、
「法皇陛下。畏れながら、宜しいでしょうか」
法皇の側近くに控えている女官が、声を掛ける。
発言の許可を求めているのであった。
「丹後局か。如何した」
法皇は無表情のまま応じ、これを許す。
「はい。只今の御占の結果はそれとして。
私は今朝方、三宮様と四宮様の御兄弟が、何処かへ行幸なさっている夢を見たのですが、その折、弟宮様[四宮]が縁起の良い松の枝を持って楽しげに遊ばれていましたので、これこそ夢占いの御神意だと思い、本日はきっと四宮様が日継ぎの皇子[天皇予定者。皇太子]になられる、と密かに愉しみにしておりましたの」
丹後局は、余裕すら感じさせる笑みを浮かべながら言うと、一同を流し眼をくれる様に見廻し、最後に法皇を見詰めながら、
「一体どちらが本当の御神意なのでしょうね?
困ってしまいましたわ。
確かめる術は無いものでしょうか、法皇陛下」
まるで世間話しをして、時に助け船を出しているかの様に優しく問い掛けた。
(一体、何を?・・・)
義仲は怪訝そうに、何か悪い冗談が始まったかの様な、嫌な予感を感じつつ、成り行きを見守っている。
すると法皇は一転して柔和な表情になり、丹後局を見やると、
「丹後局。良く報せてくれた」
労う様に言い、続けて、
「真に御神意とは図り難いもの。
この様に神意が二つに割れてしまうと、我ら凡百の衆では迷うばかりで甲乙など着けられん。
そこで神祇官に申し渡す。
もう一度、あらためて御占を行い御神意を尋ねてみよ」
神祇官と陰陽寮の官人に命令した。
と、
「お待ち下さい」
声を挙げた者がいた。
一同は一斉にその者を見た。
義仲である。
「御神意は既に三宮様に決しております。
この上、御占を重ね神々を試す様な事をしては、神々に対し不敬を行う事となりましょう」
法皇と丹後局の茶番劇に腹を据えかね、黙っていられなくなった義仲は、道理を説いたのであるが、言い終わらぬうちに、
「これっ!口を慎め左馬頭!僭越であるぞ!」
左大臣経宗が動揺しながら遮る。
法皇は左大臣を手で制すると、
「軽々しく御占を重ねる訳では無い。
国の未来が掛かる重要な事ゆえ、もう一度御神意を尋ねて見るのじゃ。
これは法皇である儂の決定じゃ。良いな?朝日将軍」
重々しく法皇が宣言し、義仲に念を押した。
すると二人の神祇官と陰陽寮の官人は困惑しながらも両手をつき深々と頭を下げると、この場から逃げる様に退出して行った。
命じられた事を実行する為に。
そして何より法皇の一番望む結果を出す為に。
公卿らや貴族は誰も異を唱える事無く、当然の事の様に、この一連の出来事を涼しい顔で見ていた。
そんな法皇や取り巻きの貴族・公卿らの様子を見ていた義仲はこの時、道理が通じる相手では無い事を、苦い思いと共に理解せざるを得なかった。
いやしくもこの国の最高決定機関である朝廷で、この様な出鱈目な事が大手を振って罷り通り、しかもその出鱈目を制止する事も正す事も出来無い、己の無力さに、どうしようも無い怒りとやるせなさを感じていた義仲には、一体どれ程の時間が経ったのか、少しの間、判らなかった。
ふと我に返った義仲の眼に映ったのは、先程この場から退出して行った神祇官と陰陽寮の官人が再び、法皇の御前にやって来て、揃って頭を下げていた場面であった。
おそらく小一時間程で大至急、御占をやり直し戻って来たのだろう。
官人らは、額の汗がぽたりぽたりと床に落ちるのも構わず報告する。
「法皇陛下の御申し付けによる軒廊御占の結果に付き、申し上げます」
神祇官が報告を始めた。が、義仲を始めこの場に居る誰もが、その“法皇陛下の御申し付けによる御占の結果”とやらがどの様な結果であるかは、報されなくても理解していた。
「御占による御神意。
第一は四宮様。第二は三宮様。第三は北陸宮様。に御座います」
当然、そう言う事になった。
(・・・腐っている・・・
己の我欲を通す為に、法皇自らが法や約定を破り、公卿らは己の保身の為に、その事を問題とせず、それを当然の事として受け入れているとは)
義仲は最早、怒りなど感じてはいなかった。
虚しさと共に悲しくなったのですある。
彼は何か痛々しいものでも見る様な眼付きで、法皇や丹後局を見ると、法皇は先程とは打って変わって暖かい表情で、
「御苦労であった」
などと神祇官らを労っている。
丹後局もにこやかにしていたのだが、義仲の視線に気付くと、何故か丹後局は憎悪に満ちた眼で、義仲を睨み返して来た。
(・・・?・・・)
義仲は訳が判らず、怪訝そうな眼で静かに見詰めていると、更に何か勘に触ったのか丹後局は眼を剥いて睨み付けて来た。
と、
「御神意は決した。日継きの皇子[天皇予定者]は四宮とする。
そして来たる二十日に四宮践祚[天皇即位]の儀式を執り行う。
朝廷は速やかにその準備に入り、万事怠りの無い様にせよ」
法皇は高らかに宣言すると、女房[女官]らが居並んでいる方を向き、
「八条院。この様に決する事になった。
これからも儂と共に世を安寧に導く為に力を尽くそうぞ」
声を掛けると、八条院と呼ばれた女性は、眼を細めてにこやかに微笑み、静かに頷いた。
義仲はこの時、初めて八条女院を見たのだが、それはともかく、法皇の強引な遣り方の裏に、八条女院との事前合意があり、八条女院は全てを黙認していた事を義仲は悟った。
松殿基房の八条女院に対する事前工作は失敗に終わった、という事である。
こうして立王の人選に絡み、八条女院を巡る根回し合戦?は、法皇側に凱歌が上がった。
しかしその法皇お得意の根回しも、神祇官や陰陽寮の官人の様な中級官僚にまでは及んでいなかったらしい。だが法皇の望まぬ結果が提示されたとしても、その様な事は彼の障碍にはなり得なかった。
そう。今回の様に単にやり直させれば良いだけの事だから。己の望む結果が提示されるまでは何度でも。そして堂々と。
紆余曲折は多少あったものの、己の我を通し切った法皇は、
「朝日将軍よ」
何を思ったか義仲に声を掛け、
「御神意じゃ」
因果を含める様に、念を押した。
義仲は八条女院から眼を離し、法皇を見詰めると無言で深々と頭を下げた。
「以上じゃ。本日はこれまで」
法皇がシメると、この場に居る全員が一礼したまま、法皇の退出を見送った。
(この男。私をあんな眼で見るのは許さない!
たかがぽっと出の武士のくせに!
この私をまるで危なっかしい子供を見る様な眼付きで!)
法皇に続いて退出して行く丹後局は、頭を下げたまま控えている義仲を横眼でじろりと睨むと、
(このままでは済まさないわ!いつの日か憤怒と憎悪の篭った眼で私を睨み付ける事しか出来無い状況に、お前を堕としてやるから!
その時を楽しみにしているがいいわ。朝日将軍さん)
復讐の念を滾らせつつ、静々と立ち去って行く。
義仲や、義仲勢にとって全く思い掛けない敵が、宮中に出現した瞬間であった。
しかしこの日の義仲の、誰であれ言うべき事は言う、という振る舞いに眉を顰めた貴族・公卿らが多かったのも事実で、実際、法皇の言葉を遮り、あまつさえ直接に反論までした義仲の行為は、貴族らからすると、僭越であり、越権行為であり、身分の上下も弁えないものと映ってしまったのである。身分制の上に、特権を享受している貴族らが、この様な事を快く思う筈が無かった。
この事は義仲や義仲勢にとって不幸な事であり、後々にまでその影響を、大なり小なり受ける事となってしまうのであった。