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義仲戦記36「帰還」

「ちッ!逃したか・・・」

駆け去る瀬尾を冷たく一瞥した小弥太が、馬の足下に転がる瀬尾の着けていた兜に視線を落とすと、

「追撃に移る!第五軍はこのまま福輪寺に留まり後続の第三・第七軍本隊の義仲様の到着を待て!
第四・第六軍は敵の追撃に移行する!」

今井兼平の号令が掛かる。

「よっしゃあ!第四軍!俺に続け!
奴らはこの先の板倉川に防衛線を張るそうだ!行くぜ!」

命じた小弥太は先頭を切って敵を追って行く。その後を騎馬武者達が土煙りを蹴立てて続いて行った。

何とか板倉川の畔で態勢を立て直す事に成功した瀬尾勢ではあったが、間を置かずに追撃して来た義仲勢の前にこれを支え切る事は叶わなかった。

ほとんどの武士らが逃散し、未だ戦い続けていた武士らも、己れの矢を射尽くしてしまうと、我先にと逃げ出したからである。

こうして数だけは二五〇〇名と駆り集める事が出来た瀬尾勢であったが、板倉川で瓦解した。

瀬尾兼康の命を賭けた反乱も、義仲勢の前には一蹴されて終わったのである。大戦さを仕掛けたつもりの瀬尾だったが、その希望通りには行かず、ほとんど戦さにならずに終わってしまったのであった。

「逃げ去った敵に追撃を掛け、これをなぶり殺す様な行為は厳に慎め!
逃げたい者には眼をくれるな!
刃向かって来る者にだけ応戦しろ!
それが義仲様の御意志だ!
これに反した者には相応の処罰を課す!良いか!」
兼平が厳しく命じた。

軍勢が瓦解し、兵が逃散した事により瀬尾の反乱は終結した。
だが、この反乱の首謀者である瀬尾兼康の行方が判明した訳では無かったので、兼平は追撃では無く、捜索に移らねばならなかった。


「では五〇騎ほどで一隊を作り、この近辺を捜索しろ!
瀬尾はまだ遠くまで行っておらん!
奴だけはこのまま逃がす訳には行かない!出来れば再び生け捕れ!
良いか!」


「「おおおっ!」」


兼平の後を受けた光盛が命令すると、兵達は短く応じ一隊一隊が捜索に散って行く。

「じゃあ俺と兼行[落合]は手分けして板倉川の両岸の捜索に当たる。兼平、光盛、お前らは?」

「頼む、小弥太。私と光盛は川沿いの山の捜索だ。先ずはあそこに見える緑山に踏み込んでみる」

兼平が答えると小弥太と兼行は頷き、捜索に掛かる為、離れて行った。

「兼平はこのまま山に入ってくれ。
私は少し回り込んだ向かう側から山に入る」

光盛が手振りで示すと、

「光盛。再び生け捕る事は難しいだろう。瀬尾が手向かった来た時には容赦せず奴を討て」

「解っている。兼平も気を付けろ」

二人は眼を見交わすと、それぞれ郎等を引き連れ山に向かって進んで行った。

「・・・兼康さま。本当に宜しいので御座いますか?・・・」

郎等の宗俊が訊いて来る。
その口調にはほんの少し責める様な色合いが混じっていた。

言われなくても分かっている。
例えこの先、命を繋ぎ屋島の平氏一門に合流出来たとしても、ただ一人の我が子を見捨てて置き去りにする様な行為をすれば、以後、他人にどうおもわれようと、自分で自分を許す事が出来なくなるであろう事を。

つまり瀬尾兼康自身も迷っていたのである。

板倉川で軍勢が瓦解した後、瀬尾は嫡子宗康、郎等宗俊の主従三人で緑山に逃げて来たのであるが、途中で嫡子宗康の馬が倒れた。

だが替えの馬など無い以上、歩いて山道を登って行くしか無いのだが、この宗康はその肥えた体格の為か若くして膝を患っていて、一町[約一〇九メートル]も歩くとその場に倒れ込んでしまった。

郎等の宗俊が手伝って鎧・兜等の武装を脱がせ歩かせようとしたが、それでももう宗康は立ち上がる事すら出来ず、父兼康は嫡子をその場に打ち捨てて逃げていたのであった。


が、十町[約一〇九〇メートル。一キロ少し]程、逃げる間にも父の心の中では迷いや後悔の念が渦巻いていた。と、

『・・・瀬尾ドノ・・・お前何仕出かした事の始末も、お前だけで無く、小太郎ドノやお前に味方した者全員の命で贖うがいい・・・』

突然、己れの手にかけた倉光成氏の今際の言葉が耳元に響いた。


はっと馬上で顔を上げ、周りを見回した瀬尾は一つ大きく息を吐くと覚悟を決めた。

口の端を上げて笑みを浮かべると振り返って宗俊に告げる。


「小太郎宗康のところへ引き返す。戻るぞ」

「父上ぇ〜〜〜っ」


父と郎等に置き去りにされた後、心細さや不安に苛まれながらも少しでも追い付こうと、膝が腫れているにも拘らず這い擦りながら前へと進んでいた小太郎宗康の耳に蹄の音が届き、はっとして見上げるとそこには父兼康と郎等宗俊の笑顔があった。

その二人の笑顔を眼の当たりにした時、ここまで気丈に振る舞っていた小太郎の涙腺が決壊した。

「かくなる上は父子共に討ち死にするとしよう」

父兼康が慰る様に息子に笑い掛ける。と、
「・・・いえ・・・いえ・・ぐすっ・・無能な私に構わず・・ひっく・・わたしは自害すべきなのに・・ずずっ・・父上は・・・宗俊と共に・・・落ち延びてくださ・・ぐすっ・・・」

言葉を繋げるのも苦労する様子で小太郎はしゃくりあげている。

「私も覚悟を決めた」

優しく息子の頭を撫でてやる。

と、
「兼康さま!追手です!」

宗俊が小声で叫ぶ。瀬尾は素早く伏せ様子を伺うと、五〇騎ほどの騎馬武者がこちらに近付いて来るのが見えた。

瀬尾は宗俊と眼を見交わし首肯き合うと、まだ射尽くしていなかった八本の矢の一本を抜き、立ち上がると同時に射た。

「!」

突然、兼平の横にいた武士が落馬した。風鳴りがした方向に眼をやると、矢を射掛けて来る者が二人確認出来た。

と、
「私をお探しか!瀬尾兼康はここにいるぞ!」

名乗りながらも、矢を引き絞り射て来る。

「樹を盾にして攻め寄せろ!
敵の矢は残り少ない!
だが!生け捕ろうなどとは考えるな!
瀬尾を討ち取れ!」

早くも樹の陰に馬をつけた兼平が指示する。その間にも次々に矢が飛んで来る。と、馬上の武士がまた二人落馬した。それを見た兼平は馬を樹の陰から飛び出させると、

「第六軍大将四天王今井兼平!
参る!」

瀬尾に向けて矢を放つ。
流れる様に次の矢を番えた時、兼平の兜の錣[しころ。兜の左右や後方に下がって首筋を防御する部位]が何かに引っ掛かったかの様に後方に引っ張られた。

瀬尾の射た矢が、兼平の兜の錣に当たったのである。

そして兼平は次の矢を射た。
命中。

瀬尾の左腋の鎧の隙間に矢が突き立っている。と、瀬尾は矢を射尽くし弓を投げ捨て太刀を引き抜くと、くるりと振り返った。

瀬尾の眼に入って来たものは、樹に射止められ既に絶命している郎等宗俊の姿であった。

その足元には涙に濡れた顔で歯を食い縛り、横たわったまま己れの腹に刀を突き立てている小太郎宗康がいる。

父はすぐさま息子の許に跪坐き耳をすませると、

「・・・父上・・足手・・纏いに・・なって・・・こんな・・私で・・すいませ・・ん・・でし・・・」

小太郎が虫の息で詫びていた。
父の涙腺も崩壊した。
両の眼から熱いものが溢れ出す。

父は涙で歪む視界に子の最期の表情を灼き付けると、一つ瞬きをして涙を振り落とす。

「父もすぐに逝く」

太刀を子の首に当て、呟くと同時に押し付ける様にして首を落とした。

瀬尾は再び立ち上がると太刀を構える。そこに兼平が馬と共に斬り掛かった。

振り下ろした兼平の太刀を瀬尾は太刀で受け止めた。かに見えたとき、兼平は瞬時に太刀を撥ね上げる。

「!」
瀬尾の右手が膝の下から斬り落とされていた。
だが、瀬尾は左手で太刀の柄を掴み、太刀で取り落とす事無く、それどころか左手一本で太刀を張り上げようとしている。
その顔は苦痛に歪んではいたが、噛み締めた奥歯の間から、

「まだまだ・・・こんなものでは無い・・・まだ・・・まだ・・・」
呟きが洩れている。

兼平は冷たく瀬尾を一瞥すると、

「義仲様が惜しまれたのも解る。が」

静かに言いつつ太刀を横に構えた。

「ここで逝け。剛の者よ」
言葉と同時に太刀を横に払う。

と、首が跳ね飛んだ。
こうして瀬尾太郎兼康が企てた反乱は幕を閉じた。





「この度、備中水島に於いて我ら平氏は源氏方に対し勝利を得る事が出来ました。これは総て主上「安徳天皇]の御威光の賜物と心得ます」

平氏方軍事総司令新中納言知盛は、共に出陣した本三位中将重衡、越前三位通盛、能登守教経を代表して、幼き主上に奏上した。

「主上におかれましては、心より御慶びの御様子。知盛、重衡、通盛、教経、本当に御苦労でしたね」

愛しい雛をその翼で優しく覆う鶴の様に主上の傍らに控えていた二位尼[安徳の母方の祖母。清盛の妻。宗盛、知盛、重衡の母]が主上になり代わり優しく応える。


「「はっ!」」
「「はっ!」」


四人の大将軍らが声を揃えて応えると、手をつき深々と頭を下げる。

「これからも何とぞ主上の御為に働いて下さい。ついては広間に心ばかりの酒宴を用意させてあります。
今夜は一門の皆様と愉しく過ごされませ。では後ほど」

二位尼がそう告げると、大将軍らはもう一度深々と一礼し、玉座の間から退出した。

水島に於ける勝利は讃岐国屋島に仮御所と本拠を構える平氏一門を狂喜させた。

そしてその勝利の報と共に屋島に帰還して来た四人の大将軍、侍大将の主だった家人らや兵達は、歓喜する一門の歓呼の声に迎えられ、屋島に凱旋していた。

挨拶を終えた知盛達が回廊に出、広間に向かっていると、


「新中納言。少し話しがあるのだが」


平氏一門の総帥宗盛が呼び止めた。
知盛は小さく首肯くと振り返り、

「お前達は早く皆のところへ行ってやれ。一門の者らも水島の勝ち戦さの話しが聴きたくてうずうずしている事だろう。先に始めていてくれ」

「知盛どの。乾杯の号令は私が発しますが、それで良いですかね?」

教経が上機嫌に聞いてくるのを、重衡と通盛は笑顔で眼を見交わしている。

「では能登守どのに乾杯の大役を命ずる」

知盛も悪戯っぽく笑顔で了承すると、三人は笑い合いながら宴の席へと向かって行った。

「で兄上。話し、というのは?」

宗盛の居室に案内され、座に着くと同時に知盛は兄宗盛に尋ねた。

「母上の申した通り、この度は本当に良くやってくれた。思えば我ら平氏にとって久々の勝利だ。良くしてのけてくれた。礼を申すぞ、知盛」

「いえ。私の力だけではありません。皆が一丸となり戦ってくれたからです。それと」

「それと?他に何かあるのか?」

「我ら平氏一門にもまだ運が残っていた、と思えます。兄上」

知盛はそう言うと、宗盛の眼をじっと見詰める。宗盛はその真っ直ぐな視線には幾分たじろいだが、何やら決意すると真剣な表情になり告げた。

「私は一門を与かる総帥として、こう考える。主上や一門の者達の安泰を図る為には、このまま西海で戦っていてはそれも叶わぬ、と」

ようやく本題に入ったと感じた知盛は無言のまま先を促す。

「京を去った途端、追われる身と成り果てた事に関しては、私の不明を恥じるしか無いが・・・」

「いえ。あの時に京周辺で義仲勢と戦っていても我らの勝ちはありませんでした。兄上の判断は正しかった、と私は思います。京を去ったのは間違いではありません」

「そう言ってくれるのはお前だけだ、知盛」

宗盛はすがる様な眼をして言う。

「あの時の判断が正しかったからこそ、備中水島で勝利する事が出来、今日ここにこうしていられるのです。
運も残っていたのでしょう。
あのまま京に残っていたとしたら、正に運が尽き果て一門が滅ぼされていた事でしょう」

知盛は本心から言った。
だからこそ京を棄てる、という宗盛の決定に従ったのだから。

「私もあの時はそう思い決断した。が、今になって考えてみると、あの判断は間違っていたかも知れん、
と思う事がある」

何を今更。知盛は表情こそ変えなかったが、溜め息を吐きたくなるのを堪えた。

兄宗盛の言う“話し”とやらが見えない事に苛立ちを覚えていたのに加え、過ぎ去った過去の間違いの泣き言など聞きたくはなかったからだ。

それで?と言いたくなるのを辛うじて堪え、知盛は幾分眼を細めて宗盛を見る。
だが、宗盛はみじろぎせずに真剣な眼で、瞬きすらせずに知盛の視線を受け止めていた。
と、知盛は何か自分が考え違いをしている様な居心地の悪さを感じた。そこであらためて京を棄てる前の期間の事を思い返した知盛の頭に、何かが閃いた。
あっ、と表情に出たのだろう。宗盛は小さく頷くと、

「義仲が迫りつつある時、我らは慌てふためき、戦うか、逃げるか、しか考えていなかった」

重々しく告げる。
知盛も大きく息を吐き出すと、


「相手の事・・・つまり義仲の考えを我らは曲解していた、という事になる・・・」

「そうだ知盛。もしかしたら義仲は京を戦乱に巻き込む事を避ける為に、我らとの話し合いをこそ望んでいたのかも知れん」

宗盛の呟きに、知盛は苦いものでも呑み込まされた様に眉を顰めた。

知盛も先程、その事に思い至ったのである。


「・・・確かに。であれば北陸の篠原の戦いの後、すぐに京に攻め上がって来なかった事。比叡山延暦寺を抱き込んだ事。我らとの戦いを避けて琵琶湖を横断した事。義仲が実行した全ての事柄の説明が着きます」

宗盛は大きく頷くと、

「私がこの事に思い至ったのは、義仲が京に無血入城を果たし、その折り北陸の兵の大半を帰したと後に報された時だ」

「成程。確かに兄上の言う通りでしょう。今まで全くその様な事に思い至れなかったとは恥いるばかりです」

知盛はあらためて兄を見直していた。
一門の中では、頼り無いとか、覇気がないとか、少々愚鈍ではないか等々、散々陰口を叩かれているが、その陰口を叩く者が尊崇し、とかく比較対象にする先代の清盛が後継者として指名したのが宗盛なのである。

暗愚なだけの者を清盛が跡継ぎに据える筈がなかった。
と、知盛は兄が何を考えているか、理解した気がした。先回りして口にする。

「では兄上、いや、総帥はこうお考えになられたのですね。
今後は義仲との和睦を模索する、と」

じっと軍事総司令官を見据えていた総帥は無言で頷いた。

ははははは、と別室での宴の喧騒が遠くに聴こえる。一つ瞬きをした総帥が静かに問うた。

「新中納言。どう思う?」

「一武将としての私の念願は、海の戦いで義仲に勝つ、この一事に尽きます」

知盛がきっぱりと答えると、総帥は眼を伏せ、やはりな、と小さく溜め息混じりに呟いた。

と、
「しかし、主上と一門を護るべく軍事を与る総司令としての私の意見は別です」

知盛が言葉を続けると、宗盛はハッと顔を上げた。

「義仲との和睦。
最上の策と存じます、総帥」

聴いた瞬間、宗盛はパッと顔を綻ばせた。知盛は続ける。

「その理由を申し上げます。
純軍事的に当面の敵がいなくなる事は、軍事総司令の私としては反対すべき事ではありません。
それに義仲との和睦が成った暁には我ら一門の京への帰還も、時期は判りませんが、現実のものとなるでしょう」

知盛の説明を、無言で首肯く事で宗盛は肯定している。

「政治的には天皇が併存している異常事態であり、我らが主上[安徳天皇]還御の後にこの状況をいかにして収束させるかや、神器返還の事も含めて、折衝には何かと難しく、また時間も掛かる事とは思いますが、これらの問題は京に帰還してから決着を着けても良いのです」

「京に戻ってしまえばどうにでもなる、と?」

「はい。去った時と同じく、突然力ずくで帰ってしまうんですよ」

「主上が京に還御されるのに、何の遠慮があるものか。そう言う事だな、知盛」

「そうです。まあ政治的な問題は朝廷との折衝になりますし、法皇や公卿らが色々と申して来るでしょうが、その様な事は無視して、とにかく一日も早く京への帰還を果たす事が、主上や一門にとっては重要である、と心得ます」

「その通りだ。京を本拠地とする事で始めて法皇や公卿ら、朝廷や有力寺院に対抗する事が出来るのだからな」

「我らが京へ還ったとすれば、今の様に好き勝手は出来なくなりますよ」

知盛はにやりと口の端を上げた。
宗盛は引き込まれる様に会話に参加している。

「私もそう思う。そうなるには何よりも先ず、義仲との和睦が成されなければならん」

「それには軍事的成功の後、つまり水島で我らが勝利し一矢報いた今だからこそ、和睦を言い出す好機です。敗け続けた後にこの様な事をこちらから言い出す事は降伏を意味しますから」

「しかし、敗北した義仲がそれに乗って来るかどうか・・・水島の敗けを巻き返す為に是が非でも戦さに撃って出る、という事もあり得る・・・」

「そこは賭けです。それにもし総帥の仰られる様に義仲が力ずくで戦さに撃って出て来るのなら、こちらとしては迎え撃つのみ。今までとやる事は変わりません」

「そうだな。事態を変化させる為には、やはりこちらから動いた方が得策、という事か」

「であれば我ら一門に、更に運が向いて来るかも知れません。それに」

「それに?」

「今まで我らはその和睦の好機を二回、逃しています」

「一回めは我ら一門が京を棄てる時、そうだな知盛」

「はい。二回めは我らが京落ちした時から、義仲が今回西国へ赴くまでの期間です」

「おお!我らに対する追討令が出されていたにもかかわらず、確かに義仲は動かなかった!」

知盛は笑顔で頷く。

「こうして見ると、義仲は常に我らに対して何らかの猶予を与えていた事が解ります。今までその心配りを無視し続けて来た我らの非礼を詫びる意味も兼ねて、今度はこちらから和睦を持ち掛ける事も悪い事ではありますまい・・?・・どうかいたしましたか?総帥」

宗盛は眼を赤くして、幾分脱力している様に見える。

「・・いや・・知盛には反対されてしまう、と思っていたから・・まさか・・賛成されるとは思っていなくて・・」

惚けた様に纏まりの無い言葉を返す宗盛に、暖かい視線を送りながら、

「良く御決断なさいました。
心配なさらずとも一門の者達は皆、兄上の決定に従いましょう」

弟は兄を励ます。
兄は滲んだ眼で弟を見上げ満面の笑みで応える。
弟は兄の手を取り、立ち上がらせると、

「さあ。皆も待ち兼ねております。
宴に参りましょうか。今回出陣した大将軍や侍大将の家人達には、総帥から御言葉を掛けてやって下さい。行きましょう、兄上」

平氏方の軍事総司令官の弟と、一門の総帥の兄は連れ立って、一門の者達が酒を酌み交わしている席へと急いだ。


☆ ☆


「仁科盛家。残った兵達を纏め、撤退するという困難な任務を最後まで全うしてくれた事、心から感服する。御苦労だったな」

義仲は何よりも先ず労い、そして褒め称えた。

本陣に居並ぶ諸将達は、一様に口を引き結び無言を貫いていたが、その眼には冷たさの欠片も無い。皆、義仲と同じ様に思っていたからである。


瀬尾兼康の反乱を一蹴した義仲勢大手本隊はそのまま西進を続け、備中国万寿の庄[岡山県倉敷市北部]で先行していた第一軍・第二軍の搦手の軍勢と合流を果たした。

義仲は合流した搦手の軍勢を一旦、第七軍の本隊に編入させると、進軍を止めず万寿の庄から一路南下し児島半島の玉野まで軍を進めた。

ここで児島湾に先行させていた約五〇〇叟の軍船団と合流し、対岸の直島を臨む場所に本陣を構えたのであった。

ここに義仲勢は全軍が結集した。

義仲は来るべき平氏との決戦の前に、軍勢の再編を行う為、軍議を開いていたのである。


しかし、水島で平氏方と戦った搦手の軍勢は第一・第二軍併せても一五〇〇騎程まで激減し、四人いた大将は仁科以外の全てを討ち取られるという惨敗を喫した。が、壊滅してもおかしくない状況の中で、一人生き残った第二軍侍大将仁科盛家は、敗走する兵達の殿[しんがり」に着き、追撃する平氏方の攻勢を阻み、その後も敗残兵らを良く纏め、軍勢としての秩序を保ち続けて撤退する、という凡百の武将が成し得ない離れ技をやってのけたのである。

敗北したにも拘らず、義仲が仁科を褒め称えたのは、大将という職責の重さを理解しそれを全うしたのであるから当然の事であった。

だが、声を掛けられた仁科は跪坐き項垂れたまま、顔を上げようとはしなかった。義仲はそんな仁科を痛ましそうに見詰め、もう一度、声を掛けようとした時、

「僚友らを死なせ、更に義仲様の常勝の令名に瑕疵を付けてしまった事、お詫びのしようも御座いません。
しかし恥を忍んでむざむざと生きて還ったのはもう一度、再戦の」

「解っている。盛家」

絞り出す様に言う仁科を、その凛としながらも暖かみのある義仲の声が遮った。

「お前だけでも生きて戻ってくれた事は、私にとってこれ程頼もしい事は無い。海野幸広・高梨高直・矢田義清を一度に喪った我が軍が、これ以上柱となる武将を喪う訳にはいかない。
仁科盛家。生きて還ったお前にはまだまだ働いて貰う事になる。これからも我が軍の大将として私を支えてくれ。頼む」

義仲は真摯に依頼すると床几から立ち上がり、跪坐いている仁科に近付くと、そっと肩に手を置くと、

「いいな」

仁科の眼を優しく見詰めて念を押した。

「・・・はっ!」

仁科は横眼であるじを見て応じるのが精一杯だった。直ぐに眼をきつく閉じると、

「有難う御座います・・」

噛み締めた歯の間から絞り出す。仁科は懸命に嗚咽を押し殺していた。
義仲は首肯いて床几に戻ると、腰を降ろさずに告げる。

「京を出陣してから一ヶ月以上もの時間が掛かってしまったが、その甲斐あって我らも八〇〇叟以上の軍船を調達する事が出来た。この海の向こうには平氏方の本拠地屋島がある。おそらく次の戦いはこれまで以上に苛烈なものとなろう。平氏方は彼らの擁する主上を護り奉る為、そして一門の命運を懸けて臨んで来るからだ。そこで、これに対する為に我が軍を再編し、次の戦いに必勝を期す」

麾下の武将達の回路が切り替わり、戦い前の心地良い緊張が生まれる。

「とは言え、これまでの我が軍の吉例に準い七つの軍で構成する事には変わりは無い。第三・第四・第五・第六・第七軍の大将はそのまま留任。そこで」

義仲は一旦、言葉を切ると仁科に眼をやりつつ、

「新たに第一軍の大将に仁科盛家。同じく那波広純」

告げるや、おおーーっと諸将達のどよめきと共に拍手が起こった。
仁科は、信じられない、と眼を大きく見開き周りを見ると、僚友達が意味ありげに視線を送って来る。中には笑みを浮かべて頷いている者もいた。

と、
「初めて同じ軍に配属されましたな。仁科どの」

上野[群馬県]の武将那波広純がにこやかに帰る掛ける。
瞳に何かが込み上げて来るのを拳を握りしめて堪えた仁科は、辛うじて笑顔を作ると、

「これからよろしく頼みます。
那波どの」
震える声で応じた。


僚友である諸将達は解っているのである。仁科盛家という武将の無私の献身、非凡さ、そして何より責任感の強さを。

そして義仲はそんな麾下の武将達を優しく誇らしげに拍手が鳴り終わるまで見詰めていた。

程無くして拍手が鳴り止むと、義仲の声が響く。


「そして第二軍。大将は志田三郎先生義憲どの。同じく多胡家包」

「はっ」「はい!」

告げられた志田義憲と上野の多胡家包が応じた。

志田義憲は義仲の父義賢の弟で、義仲にとって叔父にあたる。だがこの義賢はもう一人の悪名高き叔父行家[義賢・義憲の弟]とはまるで違い、出しゃ張らず、常に盟主である義仲を立て、しかも人格的に安定しているという好人物の老武将なのであった。であるからこそ義仲の信頼も勝ち得、第二軍の大将に指名されたのである。

上野の那波と多胡についても、父義賢の時代の家人の一族の者達であり、挙兵直後の義仲勢に一早く参加した両名は、その後の幾多の戦いで活躍、義仲や僚友達の信頼も高い事から当然の大将指名となった。


「第一軍から第六軍までの各軍はそれぞれ一五〇〇騎を率い、第七軍本隊のみ二五〇〇騎とする。
私が直接率いる第七軍に水島から帰還した一五〇〇騎を全て編入する事とする」

義仲が告げ終わると、平氏との最終決戦の予感と昂奮が武将達を包み、本陣の空気が一気に引き締まる。彼らは無言で次の言葉を待っていた。

「これまでの戦いと同様にこちらから仕掛ける事は無い。海上の偵察を密にし、平氏の軍船がこちらに攻め寄せる気配を察知した時、我が軍を三つに分ける」

諸将達は誰も口を挟まない。誰もが一言一句、聞き漏らすまいと総大将を注視している。

「平氏の軍船が屋島を出航した後、我が軍は第一・第四軍を遠く東に迂回させ、讃岐の志度に上陸させる」

「任せろって!」

ここで口を挟んだのは当然、小弥太であった。待ってました、とばかりにこの第四軍大将は応じた。義仲は頷くと続ける。

「第二・第六軍は西に迂回、讃岐の高松に上陸。残る第三・第五・第七軍で平氏方主力船団を迎撃。その間に第一・第四軍は志度から、第二・第六軍は高松から、海陸同時に平氏の本拠屋島を突く」

おおおおお、と感嘆の吐息が流れた。

「第一・第四軍は以後、一四軍と呼称。同様に第二・第六軍は以後、二六軍と呼称し、それぞれに二〇〇叟の軍船を配備。一四軍の指揮は根井小弥太。二六軍の指揮は今井兼平が執る事とする」

小弥太はもう口を挟まなかった。
というか言えないでいた。
歯を見せてニタリと笑っている小弥太の眼は、どこを見ているか解らない程危ない眼付きに変わり、既に戦いの場面にトんでいたのであろう。

そんな様子をちらりと見た兼平は、やれやれ、と小さな溜め息を吐くと義仲に向き直り質問した。

「しかし軍勢の約半数六〇〇〇騎、軍船四〇〇叟を別働隊として分けてしまうのは危険ではないですか?」

「あらぁ?義仲様を護るのにあたしや山本サン、津幡サンや楯じゃ役不足、って遠回しに言っている様に聞こえるんですケドぉ?」

巴が余裕の笑顔で言い返す。
が、その眼は決して笑っていない。しかし、兼平も負けてはいなかった。ぎろりと音がしそうな程の眼付きで巴を睨み付け、そんな事は言っていない!ただ懸念を述べただけだ!と視線で言い返している。

義仲は吹き出しそうになるのを堪え、

「考えがあるんだ、兼平」

穏やかに、二人の結構本気な闘いを諌めて続ける。

「この策は二段の同じ構造から成っている。
一段めは平氏方主力と第七軍本隊が交戦している時に第三軍が左から、第五軍が右から平氏方主力船団を包み込む。
二段めはこうして第七・第三・第五軍が平氏方主力と交戦している時、一四軍が東から、二六軍が西から屋島を突く事で、平氏方を総て包囲してしまう、というものだ。
つまり平氏方を海上の局地的戦場と、陸上を含めたより大きな地域的戦場で二重に包囲したい、と私は考えている」

「成程!これなら逃げられる事も無く、囲んで殲滅する事だって出来るでしょうよ!」

覚明が弾ける笑顔で叫んだ。

「いや」
義仲が重々しく否定する。

「私は向かって来る敵を殲滅する為に戦った事は一度も無い。しかも今度の戦いでは平氏方を殲滅の危機にまで追い詰める事無く、早急に決着を着けねばならん」

「・・・もう御一方の主上[安藤天皇]と神器の為に。ですね」

手塚光盛が絞り出す様に呟くと、諸将らは、あっと忘れ掛けていた事柄に思い至った。

「・・・平氏方には勝つ。しかし我らが勝ち過ぎて追い詰められた平氏が主上や神器もろとも海に沈む様な事態にでもなれば元も子も無い、か・・・」

楯が苦いものでも口にした様に言う。

「そう。次の戦いは我らが考えているより遥かに難しい戦いとなろう。勝つ事は無論だが、平氏を自暴自棄にさせる前に話し合いに応じさせなければならん。この事だけは皆の頭に刻み付けておいて貰いたい」

義仲が厳命した。
と、一転して穏やかな口調に戻ると、

「だがその事に気を回し過ぎると、戦いの勝利など到底覚束無い。皆はこれまで通り眼の前の敵と任務に集中し勝利を目指してくれ。その後の事は勝ってからの話しになる」

「まァそこら辺のコ難しい事は義仲様が全部お任せッてコトで」

「丸投げ?小弥太らしいケド、それもどうなの?」

戦う美少女が呆れ半分、ひやかし半分でもツッ込みを入れる。

「いいンだよ。役割ってヤツには何でも向き不向きッでのがあんだろ。大体この俺が」

「義仲様!京の留守居役樋口兼光どのから急使です!」

郎等が本陣に駆け込んで来た。
皆、一斉にそちらに眼を向ける。


小弥太もの言葉の途中で口を開けたまま顔を向けた。

続けて本陣に入って来た京からの急使の郎等に向かい義仲はすぐさま、

「報告を聞こう。何かあったのか?」

訊ねたが、急使の郎等は被りを振ると、

「詳細は書状にて!
これを樋口どのから義仲様にお渡しするように、と!」

懐から書状を取り出すと、両手を添えて義仲に差し出した。

「御苦労だった。下がって休め」

義仲は書状を受け取りつつ労うと、急使の郎等は一礼して本陣から退出して行った。

義仲は書状を開き、眼を通していたが読み進むうちにその眼は険しさを増していく。

麾下の武将達は義仲の眼付きから、何か嫌な予感を感じつつも、じっと無言であるじを見詰めていた。

どれ程の時間が経過したかは判らなかったが、ひたすら無言を貫き、不安と闘っていた武将達の耳に、遂に義仲の声が届いた。

が、普段の凛とした声とは別物の様な響きに、一瞬耳を疑ったが、その内容もまた耳を疑うものであった。


義仲は告げた。

「平氏に対する軍事行動は一切を白紙に戻し、我らはこれより急ぎ京に帰還する」
と。