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義仲戦記8「燧ケ城合戦」1183年4月

「嘘だろ・・・
 そんな筈が・・・何故?・・」

誰かが呟いた。

稲津新介実澄、斎藤太
[越前の武将]
林六郎光明、富樫入道仏誓
[加賀の武将]
宮崎長康、石黒光弘[越中の武将]
仁科次郎盛家、落合五郎兼行
[信濃の武将]
ら北陸と信濃の武将達は
今、目の前で起きている事が理解出来無かった。茫然としていたのである。

だが、これは戦さなのだ。
何もしないで放心している暇など無い。しかし彼等は、その時為す術も無く状況をただ見ている事しか出来なかった。
それは眼前の湖の水が、見る見る引いていっていたからである。

https://youtu.be/P53Vx18F7e8

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その年の四月。
平氏はいよいよ本格的に源義仲と源頼朝を追討する為、十万騎以上の大軍を都から出陣させた。義仲勢にとっては約一年と半年ぶりの二回目の追討軍である。が、前回の追討軍は全軍合わせて一五〇〇騎程の兵力だったのに対し、今回の追討軍は十万騎以上、実に前回の六十七倍の兵力を繰り出して来たのだ。

これは平氏の本気度が高い事を物語る。平氏の戦略構想[タクティクス]としては、先ず都に近い北陸と東山で勢力を張る義仲を討ち、その後、鎌倉を直撃し、関東と東海に勢力を張る頼朝を討つ、というものだった。しかし別にこれは平氏にとって都合の良い夢の様なムシのいい考え、では無い。平氏としては、義仲と頼朝に同時に攻撃を仕掛ける二正面作戦などせずに、順番に各個撃破した方が理に適っているからだ。その為に十万騎、という大軍勢を動員し、二つでは無く一つの追討軍として軍を編成したのである。

前回の追討軍では平通盛[清盛の三番目の弟教盛の長男]と平経正[清盛の二番目の弟経盛の長男]の二人の大将軍と、平内兵衛尉清家という侍大将くらいの編成で、約一五〇〇騎の軍勢だったが、今回の追討軍は規模が違う。

大将軍は六人。

平維盛[清盛の長男重盛の長男]、
通盛、経正、
忠度[清盛の一番下の弟]、
知度[清盛の六男]、
清房[清盛の七男]。

侍大将は十人以上。

主だった者としては
平盛俊[平盛国の子]、
高橋判官平長綱[盛俊の子]、
越中次郎兵衛盛嗣
[盛俊の子。長綱の弟]、
河内判官秀国、武蔵三郎左衛門有国、飛騨大夫判官景高
[飛騨守藤原景家の嫡子]、
上総大夫判官忠綱
[上総介藤原忠清の子]、
上総五郎兵衛忠光
[忠清の子。忠綱の弟]、
悪七兵衛景清
[忠清の子。忠綱、忠光の弟]
という何とも豪華というか、何というか。

とにかく、この顔ぶれを見るだけで平氏が本気で勝ちに来た事が判る。

この連中に十万騎以上の兵を付けて、平宗盛[清盛の次男。現平氏の総帥]は勝負に打って出たのだ。

そして遂に我らが義仲勢にとっても、平氏の大軍勢と直接、渡り合う事になったのである。

『平氏の追討軍約十万騎、都を出陣』

との報告が北陸の諸将に届くと、以前からの手筈通りに、越中の武将宮崎長康はこの報告と、宮様[以仁王の子]と藤原重季[宮様の後見人]を越後国府に居る義仲の許へ送った。

これは義仲に出陣を要請すると共に、平氏が侵攻して来た場合に備えて、越後国府の近くに宮様が滞在出来る仮宮を造営していたからである。

そして越中の宮崎、石黒。加賀の林、富樫。越前の稲津、藤島、斎藤太、平泉寺長吏斎明ら、主だった北陸の武将は、北陸に駐屯していた仁科、落合の信濃の武将と共に、彼等が造り上げた燧ケ城に立て籠もったのである。六〇〇〇騎の軍勢と共に。

この籠城方の総大将に平泉寺長吏斎明[稲津新介のいとこ。有力寺社の平泉寺、白山神社の僧兵団の僧兵]が就任したのであった。

「この城に我らが籠っている以上、
平氏の奴らはここを無視出来ず、
攻めるしか選択肢が無い」

軍議の席で宮崎長康が言う。
これを聴き総大将の斎明が鷹揚に頷いている、
と、
「そうです。もし平氏方がこの城を無視して先へ進んだとしても、その時には正面から義仲様の軍勢、背後からは我らの軍勢が平氏方を挟み撃てば良いだけです」

林光明が明晰に言った。

「いずれにせよ、この城を攻めるとすれば平氏は苦労するだろう。船でも無いと何も出来んだろうな」

富樫入道仏誓が笑みを浮かべながら言った。

「その通りです!何せこの城の背後は嶮しい岩山で大軍を入れる事は出来無いし、他の三方向は水堀、いや湖に囲まれてますからね!」

稲津新介も明るく応じると、

「もし船でこの湖を渡っていた来たとしても、この城は柵と矢倉で囲んであるから防備は万全です。そうなればこちらは矢を射て迎撃すれば良いだけの事ですから」

斎藤太も自信を覗かせて言った。


この燧ケ城に対する信頼が高いのは当然かもしれない。彼らが自分達で苦労して築いた城であるから。

(はっ!好い気になっておれ!
こいつら本気で六〇〇〇騎対十万騎の戦さをここでやるつもりか?
お目出度い奴らだ。
それにもし義仲が軍勢を引き連れてここへやって来たとしても、多くて四万騎搔き集めるのが関の山だ。

今回は何をやっても平氏の勝ちで終わる。いや!この俺が平氏を勝たせてみせる!
その時まで精々笑っているがいい)

彼は心の中でそう思っていた。
彼はまた、こうも思っている。

(前回の追討軍は兵の数が少な過ぎた。あれでは破竹の勢いの義仲には勝てん。だから俺はあの時、仕方無く源氏の義仲に付いたんだ。
最初から今回の追討軍の様に、本気で平氏が来ていてくれたら、何も平氏を裏切る事などしなかったんだ。
元々俺は、平氏の方が気に入っていたからな。

まぁそれはいい。
とにかくこの俺が
平氏を勝たせる事で、
この俺も、もっと
出世出来るって訳だ!
よし!
平氏にはこの際、恩を売っておこう!
そうすればこの戦さが終わった後は
ははははは!)


獅子身中の虫、とも言うべき存在が、この燧ケ城の中に居る事もまた事実であった。

「厄介だな。あの城は・・・」

溜息と共に呟いたのは、平氏方の大将軍平忠度であった。

 燧ケ城の前方に位置する湖の対岸にある小高い山の中腹に構えた平氏方の本陣。意気揚々と進軍して来た追討軍だったが、ここへ来て、攻めようが無い敵の城を眺めてから、既に数日が経っていた。

今日も何も出来なかった。もう陽が沈む。忠度は夕陽が紅く染めている水面に映る城を見ながら、もう一度溜め息をついた。

その夜。城の中の彼は誰にも見られないようにして、手紙を書いていた。その手紙には、
『この湖は昔からある湖では無く、一時的に川を堰き止めてあるだけなのです。夜になって兵らを使い、この堤と堰[水を堰き止める為に川に杭を打ち込み、竹や板などを結び付けたもの]を切り落とせば、水は流れてしまいます。水が流れた後は多少ぬかるみますが、馬で渡って来る事が出来ます。そして平氏方が攻め寄せた時、城内の私がそれに呼応して、義仲勢の背後から矢を射掛けます』
と書いてあり、そしてこの手紙の最後に彼は、自分の名前を堂々と署名した。

書き終わると、この手紙を蟇目の矢[手紙などを入れる為に中を空洞にした鏃。やじり]に入れ、城を出て山の麓を回り、密かに平氏方の陣へと射込んだのである。

(届け!
 平氏の総大将の許にーーっ!!)
との思いを込めて。


「いっその事、あの城に総攻めを掛けたらどうでしょうか?」
と発言したのは侍大将の悪七兵衛景清だった。

この夜更け、これからの方針を決める重要な軍議の席での事である。

「それはまずい。この追討軍の最終的な目標は、義仲と頼朝、この二人を討ち果たす事にある。ここで総攻めなど掛けたらあの城は落とせても、兵らの損耗は大きいものになるだろう。そうなれば後の戦さに影響する」

と反対したのは大将軍の経正。
もっともな意見であるが消極的で、何の方向性も示していない。

と、
「それならば、軍を二つに分けるのはどうでしょうか?」

言ったのは侍大将の越中次郎兵衛盛嗣。

「と言うと?」
総大将の維盛が訊くと、

「あの城に対し三万騎振り分けます。が、この軍勢はこのまま城を見張らせているだけで良いのです。
もし敵が城から出て来ても三万騎あれば充分我らが勝てるでしょう。そして一方の主力、七万騎は北陸を先へ進軍し、義仲と雌雄を決する。どうです?」
盛嗣が言うと、

「それは良いな!次郎兵衛どの!」

真っ先に賛成したのが悪七兵衛景清。

「ふむ。その手もあるか・・・」

と考え込んだの忠度であった。
が、その時、

「総大将維盛様!これを!」

と維盛の郎等が、蟇目の矢とその中に入っていたと思われる手紙を持ち、本陣へ駆け込んで来た。

「何事だ」
維盛が応じると、

「これを見て下さい!」
と郎等は手紙と矢を差し出して来た。

維盛は手紙に眼を通すと、驚きを隠せない様子で、手紙を忠度に渡した。

次々とこの手紙が読まれて行き、ここに居る全員が読み終わると、

「これは何かの罠なのか?」

維盛が誰にともなく問う。

「いや。先ずは試してみた方が良い。明朝、もし水が引いていなければ、先程盛嗣が言っていた様に軍を二つに分ければ良いし、水が引いていれば城に攻撃を掛けるだけだ。どうやら城の中に味方が居るらしいからな」

と、忠度がいう。

「では盛嗣、景清。郎等を使い堤と堰を切れ。明朝になり水が引いていたら、お前達に攻撃の先陣を取って貰う」

総大将維盛が指示すると、

「はっ!」「はっ!」

盛嗣、景清の二人は答えた。


「夜の内に全軍に攻撃の準備を整えさせておく。ただし静かにな。敵に気付かれてはならん」

忠度が言い、盛嗣、景清は頷きつつ本陣を出て行った。密やかに。

月が沈んで行く。薄明かりの中、夜が少しずつ明けて行くのを感じながら、平氏方の兵達は出陣の準備を終え、号令が掛かるのを静かにじっと待っている。

昨日までは湖の様に水をたたえていた目の前の光景が、今は、浅い川の様な光景にまで激変していた。

「どうやら手紙に書かれていた事は本当だった様だ」
忠度が言うと、

「では盛嗣、景清に伝えろ。先陣はお前達に任せた、とな」

追討軍総大将維盛が郎等に指示した。

「これより出撃する!昨日までの水はもうどこにも無い!水が溜まっている様に見える所も全て浅瀬だ!心配せずに進軍しろ!」

盛嗣が叫ぶ。
それを受けた景清も叫んだ。

「あの城を落とす!行くぞ!」

「おおおーーーーーーっ!!!」

平氏方の軍勢役一万騎が、燧ケ城に向かい突撃して行った。

☆ ☆

 どれ程の時間、放心していたのか判らなかった。平氏方がこちらに突撃して来るのを自分の眼で見ていてさえ、何か現実の事とは思えなかった。
だが、心臓の鼓動が速くなり、身体が危機を教えてくれた。これは現実である、と。

「防戦の用意をしろ!矢戦さだ!兵らは矢倉で敵を阻止しろ!」

仁科盛家が最初に叫んだ。
その声に、この場に居た武将全員が、はっ、と我に返り、

「城門にも兵を配置させておけ!」
宮崎も叫ぶ。

「閂を掛けろ!絶対に城門を開けるなよ!」

藤島が指示すると、郎等らが駆け回り、一気に城内が慌ただしくなった。

「まさか、水を抜かれるとはな」
富樫仏誓が呟く。

「しかし、こうなったらからには籠城して敵を迎え撃ち、義仲様が来るまで時間を稼ぐだけです」
落合兼行が一同に向かって言う。

皆、大分落ち着いて来たらしい。

「だな。もとより籠城は覚悟の上だ」
石黒がニヤリと笑いながら応じた。

「よし!これから忙しくなるぞ!」
斎藤太が勢いを付けた。

と、
「やる事は一つだ。敵を城内に入れない事。これだけだ」
林光明が冷静に全員に向かって言う。


「おおっ!!」


燧ケ城の軍勢も迎撃の用意が整ったのである。


「射よーーーーっ!」

矢倉の上から宮崎が叫ぶと、一斉に矢が平氏方に向かい放たれた。更に、

「射よーーーーっ!」

斎藤太も叫んだ。戦さが始まった。一時は茫然自失の北陸勢であったが、何とか持ち直し戦っている。
水堀[湖]が無くなったのは痛いが、籠城する事は最初から決定していた事なので、気持ちを切り替えるのは速かった。そして、籠城している有利さもあってか、平氏方に対し互角以上に戦っていた。


(そろそろだな)



彼はようやく時機[チャ〜ンス!]が来た事を悟った。彼は郎等を二人呼び寄せ小声で、

「お前は、俺の手勢を半分引き連れて城門に向かえ。そして城門の閂を外して門を開けろ」

「はっ」
続けてもう一人に、

「お前は俺と共に城の本陣へ向かう。もちろん手勢の半分を連れてな」
「はっ」
指示した。
そして彼らは二手に別れ歩いて行く。一方は城門へ。もう一方は城の本陣へ向かって。


「ん?」

本陣の前にある矢倉の上で敵に矢を射掛けていた稲津新介が、最初に異変に気付いた。
敵の騎馬武者達が一方向に向かって駆け出しているのである。とは言え後退している訳では無い。こちらに向かって進軍しているのである。城の城門の方向に向かって。
だが、城門の防備は硬いし、集まって進軍していれば矢に集中して狙われてしまうのだ。敵の平氏方の意図が判らず、横にいる林光明の顔を見ると、林も新介を見返しながら厳しい表情のまま、訝しんでいる。

「林どの。あれは一体どういう・・」

新介が言いかけた時、

「!」「うあっ!」「ぐっ!」「!」

矢倉の上の新介や林の周りに居た郎等達が倒れた。その身体には矢が突き立っている。と、矢倉の柱や板に矢が突き立った。

敵の平氏方からの矢では無い。その矢は背後から、つまり城内から射られたのであった。

一瞬、何が起こったか判らず、新介は後ろを振り向こうとした時、横に居た林が、


「新介どの!伏せろ!」

と新介に覆い被さって来た。


同時刻。
「次郎兵衛どの!門が開いたぞ!俺が先に突入する!」
景清が馬上で叫んだ。

「判った!先陣は悪七兵衛に任せた!私も直ぐに軍勢を引き連れ、お前の後に続く!」

盛嗣が大声で応じると、景清は不敵な笑みを浮かべて盛嗣に流し眼をくれた後、太刀を抜き、


「この悪七兵衛景清に続けーーーーっ!」


部隊の先頭に立ち、燧ケ城の城門に突っ込んで行った。



「何!敵が城内に入って来ただと!城門が破られたのか!」

宮崎が、報告して来た郎等に大声で訊くと、

「いえ!
敵に破られた訳ではありません!
私は城門を固めていた部隊に居ましたが、城内より矢を射掛けられました!
後ろから矢を射掛けられ部隊はほぼ全滅!
そして我らに矢を射掛けて来た者らは閂を外し、城門を開け、敵を城内に引き入れています!」

郎等が悲痛に報告した。


「裏切り、か!!」

宮崎は眼の前が真っ暗になった様に感じた。


敵の平氏方の侵入をゆるした燧ケ城の北陸勢は混乱した。しかも味方である筈の兵らから矢を射掛けられたのだ。

当然、混乱するだろうが、危険な状況だ。
混乱した兵達は同士討ちをしてしまう恐れが出て来たのである。
が、各隊の武将達が何とか兵の混乱を静める事には成功し、同士討ち、という最悪の事態だけは食い止める事が出来た。

だが、そうしているうちに、敵の平氏方は城門から次々と城内に入り込んで来る。
北陸勢は次第に、城の山側へと追い詰められて行った。

「ははははは!お前達の敗けだ!
もう平氏方は城内に入って来ているんだからな!
この城は落ち、平氏方が勝ったんだよ!どうだ?降伏するか?
降伏するなら平氏方に口を利いてやっても良いぞ?
この平泉寺長吏斎明がな!ははははは!」

矢を構えた手勢に護られ、城の本陣で斎明は大声で嗤いながら、北陸の諸将達を侮辱した。

これは驚くべき事である。ある程度は何でもアリの、この内乱の時代においてすら、一軍の総大将自らが戦闘中に敵に内通し、敵に寝返り、味方を裏切る、などという事をやってのけたのは、この平泉寺長吏斎明以外には居ないのだから。




この斎明の嘲笑を聞いた稲津新介は、最初、
(斎明どのが・・・裏切り・・・
 馬鹿な・・・
 そんな馬鹿な事が有るか!)
と思った。

新介にとって斎明はいとこにあたるのである。謂わば親戚だ。だが、斎明は事実、嘲笑っているのである。北陸の諸将らを、ハメられた愚か者共と馬鹿にし、見下し、侮蔑して。

(おのれ・・・斎明・・・赦さん!
 おのれ!おのれ!)

新介は肚の底から何かが込み上がって来た。
物陰に伏せていた新介だったが、四肢に力が加わり、全身が震えて来た。怒りであった。

と、
「おのれ・・・おのれ!」
斎明に対する呪詛が口から洩れる。

無意識に右手が太刀の柄にかかっていた。新介は斎明に斬り掛かるつもりで、身体を起こそうとする。

と、
「新介どの!今は堪えろ!」
林光明が新介の肩を掴み、力尽くで伏せさせた。
続けて、
「奴の言う通り、この燧ケ城は間も無く落ちる!我らは敗けた!ここでの戦さはな!だが我らは降伏などしない!」
林が真剣な眼で新介を見詰めている。

新介はその眼を見ながら、肩に置かれた林の手が強く握り締められているのを感じつつ、

「では一体どうすれば!」
喚いて訊き返す。
と、
「この城を棄てる!
城内にいる味方の軍勢を出来るだけ集めてな!
そして北陸各地の城や砦を拠点にして徹底的に戦う!
平氏の奴ら相手にな!」

普段冷静な林光明が珍しく語気荒く語り掛けていた。林も激怒しているのは当然であったが、その怒りを必死に抑え込んでいるのが、新介にも解った。林は、感情に流され激発する事無く、後の勝利の為には、今は総てを耐え忍ぶ、という覚悟を持って語り掛けているのである。

それを感じた新介は、
(この人は強い。この人はまだ敗けていない)
思った。

と、新介の怒りが少し収まった。全て収まった訳では無いが。

「では新介どの。手分けして城内の味方を逃がすとしよう。城の山側の城門から撤退する。これを城の各将や兵達に伝えて回る。いいか?」

林が普段通りの冷静さに戻り言った。

「はい!」
新介は応じ、二人は混乱する城内へと消えて行った。味方を逃がす為に。


こうして燧ケ城は落城した。戦闘の結果では無く、裏切りによって。
効果的な裏切りであった事は間違いない。何しろこの城を築城する時に仕切っていた者が裏切ったのだから。
そして、この城での籠城戦の総大将が敵に内通していたのだから。

その者の名は平泉寺長吏斎明。彼はその生涯において、二度の裏切り行為を働いた。

一度目は前回、平氏を裏切り、平氏を敗北させた。
そして二度目、今回は北陸勢を裏切り、北陸勢を敗北させた。

しかも必ず戦闘中の戦場で裏切るのである。その時の味方を。

彼は、常に自分だけは上手く世間を渡っているつもりなのである。まあそう思ってしまうのも無理は無い。何せ平氏方は、今回の勝利に気を良くしたのか、斎明の前回の平氏に対する裏切り行為を不問にし、あろう事か、斎明は平氏に忠節を尽くした、として褒め称えたのであった。

一方、北陸勢はこの混乱の中で多大な犠牲を払いつつも、主だった武将達は一人も欠ける事無く、落城寸前の燧ケ城から撤退する事に成功した。

だが、一大拠点であった燧ケ城を失った事で、単に不利になっただけで無く、後手に回ってしまった事の本当のキツさ、辛さ、困難をこれから経験する事になるのであった。

何故なら、彼ら北陸勢は、敵に先手を取られ、また敵の平氏方より兵の数も少なく、何より時間を稼ぐ事が出来なかったのだから。

この時、義仲は軍勢を率い越後国府[新潟県]から、越前[福井県]へと出陣した。

だが、燧ケ城が落城し、北陸勢が平氏方追討軍に敗北した事を、義仲はまだ知らされていない。


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