その時 木曽殿の動きは #2
解説
C O M E N T A R Y
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大河ドラマ「鎌倉殿の13人」に合わせ義仲陣営を「説明」
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【監修】義仲館P 西川かおり
孤児・木曽義仲の支援者
父を討たれた孤児・義仲には少なからず支援者がいました。その一人が諏訪社(現在の諏訪大社下社)大祝・金刺盛澄です。
諏訪大社というと、大きな丸太に男たちがまたがり、山から落とす「木落し」の場面をニュース映像などで見たことがあるという人が多いかもしれません。「御柱祭」という大変歴史の古い祭りで、木曽義仲が信濃にいた時代も行われていたといいます。
古代の日本では律令制度に基づく政治が行われていましたが、その集大成ともいえる古代法典が927年に完成した『延喜式』です。その中には政治にまつわる様々な細則が記録され、重要な全国各地の神社も書かれています。
諏訪大社は「南方刀美 (みなかたとみ) 神社二座」と書かれ、信濃一之宮として信濃国でもっとも格式の高い神社とされています。
いつから神社があったのかははっきりしませんが712年に編纂された「古事記」のなかに諏訪大社に関わる記述が出てきます。
建御名方神は父神・大己貴命 (おおなむちのみこと=大国主命) の第2子で、高天原の使者からの国譲りの要請に1人抵抗して科野国洲羽海 (しなののくにすわのうみ) に逃れて、封ぜられた。
諏訪大社には建御名方刀美(たけみなかたとみ)神が祀られています。もともと建御名方神は出雲にいました。ところが大和朝廷から支配が及んできました。建御名方神は戦いを挑み、転戦して信濃まで逃れ来た…という内容になります。
諏訪地方にひっそり残っていた伝承によると、諏訪大社では建御名方神の思いを忘れず、いつか朝廷を倒したいと願っていたというのです。そのため都の軍事貴族・源氏の孤児である木曽義仲が信濃に逃れてきたことをチャンスととらえ援助をすると決めたともいわれています。
室町時代になってまとめられた諏訪大社の縁起「諏訪大明神絵詞」の中には「義仲は下社・大祝の金刺盛澄の婿となって一女をもうけた」という記述があります。また吾妻鏡の中でも「金刺盛澄が義仲を援助していたため、鎌倉幕府に捕らえられた」と記述されており、諏訪大社が義仲を支援していたのは歴史的にも裏付けられています。
現代では神社というと「祈りの場」というイメージが強いのですが、義仲の時代は大きな寺社であるほど、祈りと政治と軍事を合わせ持つ存在でした。特に諏訪大社は「軍神」として都にも知られていて、のちに諏訪神党と呼ばれることになる武士団を持っていました。神事で狩猟を行うことから、大祝の金刺盛澄自身が弓馬の名手でした。
諏訪大社ゆかりの武士団の中心人物は手塚光盛で、金刺盛澄の兄弟とも甥ともいわれています。平家物語によると義仲最期の5騎には手塚光盛と手塚別当が含まれていて、諏訪大社と義仲の関係の深さがうかがえます。
略年譜
H I S T R Y
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義仲をたどる
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●久寿元年(1154年) 誕生
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●久寿2年(1155年)8月16日
大蔵合戦で父を討たれ、信濃へ
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〇中原兼遠に養育される
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●仁安元年(1166年) 元 服
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〇諏訪社に婿入りし、娘が生まれる
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〇承安3年(1173年)?
嫡男・義高生まれる
漫 画
C O M I C
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4コマ漫画「木曽義仲の基礎知識」より
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