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義仲館
2021年1月4日 10:17
泉四郎高家石川県金沢市北陸(加賀)武士 富樫氏富樫次郎家経の弟とされるが、富樫系図には高家の名が載っていない。「平家物語」「源平盛衰記」に登場する泉氏は越中武士と並んで表記されており同一人物かも不明だが、「義仲軍に参戦した北陸武士の泉氏」候補としてデータを置く。
2021年1月5日 10:16
板津石川県小松市御館町・能美市根上北陸(加賀)武士 斎藤氏郡家庄は石川県能美市根上町にあり加賀武士・板津氏が管理する荘園。現在の小松市と能美市根上地区を中心に広がっていた。板津氏は林氏の一族で斎藤氏。板津介成景は倉光次郎成澄の兄にあたる。国衙在庁官人の介の地位を利用して、国衙周辺から広範囲にわたって荘園開発を行っていたという。義仲軍勢には弟たちを参加させ、自らは動かなかった。
2020年12月25日 15:57
井家次郎師方石川県河北郡津幡町字中橋 井家庄北陸(加賀)武士井家庄は長講堂領で、津幡氏本拠地。源平盛衰記に「倶梨伽羅山へ向かう平家の軍勢は、加賀国井家・津播多から森本まで連いた」とあり、この地域が平家の進軍路にあたっていたことがわかる。井家師方最期の地は「根上松古戦場」として整備されている。■根上がり松の奮戦~井家次郎師方の最期 燧合戦から転戦した北陸武士たちがせめてもの抵抗を企
2021年3月12日 15:37
佐見本拠地不詳北陸(越中?加賀?)武士富山県朝日町石川県小松市佐美町高野本の燧合戦、源平盛衰記の平家を追い落とす安宅の戦いで林・富樫に続いて書かれている。越中国三位荘を本拠とする武士で富樫一門という説があるが、加賀に佐見という地名があり、どちらか確証を得ない。
2021年3月12日 15:34
北陸合戦で林・富樫に次いでよく登場する。源平盛衰記には「ひきた」とルビがあり、疋田氏をさすとみられる。
2021年1月4日 10:40
富樫次郎家経・入道仏誓・新三郎家員石川県金沢市高尾1丁目北陸(加賀)武士 斎藤氏家経と仏誓が同一人物ではないかという説もある。越前斎藤一族で、林氏に次いで常に記されているのが富樫氏になっている。富樫郷の範囲は野々市市の北東から、金沢市高尾町辺りまでとされている。高尾山に城山・古城などがあり、燧合戦の敗戦の後、北陸武士が平家に攻められ転戦していたが、林と富樫がたてこもり落とされたという城は
2021年1月4日 13:33
倉光次郎成澄・成氏石川県白山市倉光北陸(加賀)武士。義仲にしたがって上洛した。倉光成澄は白山市の日吉神社・貴船社・菅原社を尊崇していた。三社は明治時代に合祀されて日吉神社にある。倉光兄弟には平家物語「瀬尾最期」に逸話がある。 倉光成澄は倶利伽羅合戦のとき、平家の武将・妹尾義康を捕らえた。妹尾は優れた武将だったため義仲は殺さずに軍に加え、成澄の弟・成氏に預けた。妹尾は義仲に従ったふり
2021年1月4日 15:05
林六郎光明北陸(加賀)武士石川県野々市市新庄(北陸鉄道乙丸駅1・3㎞17分)「兵範記」前掲条・同月七日条などによると、林光家はかつて比叡山に訴えられて捕らわれ、同年八月九日鳥羽殿(現京都市伏見区)金剛心院建立供養で赦免されたものの、叡山衆徒の重ねての訴えにより翌九月に再び拘禁された。「平家物語」の諸本には木曾義仲方に呼応して平家方と戦った林六郎光明がみえる。林氏の本拠地林郷は白山
2021年3月15日 10:05
石川県津幡町
2021年3月15日 09:45
石川県金沢市太田
2021年3月15日 09:38
石川県金沢市入江
2021年3月12日 15:50
成合石川県加賀市篠原北陸(加賀)武士か?倶利伽羅合戦の際、志雄山へ向かった軍勢の中に信濃武士と混じって唐突に記されており、成合氏という武士がいたのかも不明。「成合」という地名は、源平盛衰記に頻出している石川県加賀市付近の地名だが、地図の通り川や池が多い地域で、現在場所が確定していない。仮に加賀武士としてデータを置く。
2021年3月12日 15:41
石川県金沢市安江町(安江保)北陸(加賀)武士富樫家経の外戚の甥。燧合戦に敗北し北陸武士が転戦していた時、安宅から越中に向かう途中馬を射られて落馬した。
2021年3月12日 14:55
疋田二郎俊平(利平)・小太郎俊弘石川県金沢市疋田町?北陸(越前)武士。斎藤氏燧合戦で名が見える。「加賀志徴」によると金沢市に居館跡があるという。疋田系斎藤氏の本領は越前国坂井郡坪江郷疋田(福井県金津町付近)と考えられているため、俊平の時代に金沢に移住していたかは不明だが、「尊卑文脈」によると妹が金沢市に本拠地がある富樫二郎の妻と書かれているため、当時から進出していた可能性も十分にある。