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伝承の館(群馬編)

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記事一覧

米無山

義仲の残党は渋峠を越えて上州に逃れてきたが、頼朝の軍勢が巻狩をしていて山中に隠れた。その後二手に分かれ、樋口の子孫がおとりとなり米無山で頼朝の軍勢と戦ったという。

群馬県吾妻郡嬬恋村大字干俣 米無山

石津

樋口の一族は米無山で頼朝軍勢と戦った。生き残った人々は本白根の強羅伝いに石津へ落ち延びた。この一族は小宿村常林寺の竜頭の松の丘に道場を構え、諸国から来る修行者に武術を教え、さらに後に馬庭に道場を移したという。

群馬県吾妻郡嬬恋村大字今井

弦ヶ池

樋口の子孫が弓の弦を切って沈めたという池。

群馬県吾妻郡嬬恋村

矢筈神社

樋口の一族が矢筈の丘に集まり、武具を埋めて池に弓矢の弦を切り沈めて本白根の強羅沿いに石津に落ち延びたという。頼朝の巻狩が終わった後、樋口一族は矢筈に集まり、命を落とした仲間を供養して神社を建てたという。

群馬県吾妻郡嬬恋村

木曽三柱神社

義仲の遺臣が1184年に義仲の三男義基・四男義宗とともに、沼田伊予守を頼ってこの地に来た。義仲の遺品を塚に納め、信州筑摩郡の岡田・沙田・阿礼の三神を移し、塚の上に社殿を建て箱田神社と称したのが始まりだという。神体を箱に収めて逃れ来た時、土地の人に問われて「箱だ、箱だ」と答えたのが地名になったという伝説がある。

群馬県渋川市北橘町箱田777

箱田城跡

義仲の子・義基が住んだという城。義仲の遺臣が沼田伊予守家国を頼ってきたという。1713年ごろには今井新左エ門が住んでいたが、兼平の子孫かは不明。木曾三社神社の伝説に今井・根井・高梨らが住んだとあり、城山山下には今井姓が多く存在している。

群馬県渋川市北橘町下箱田606

入山村

義仲軍勢の落人伝説がある。他にも平家・源氏の落人伝説もある。草津谷の一部で、湯本氏領であった。

群馬県吾妻郡中之条町大字入山

乙母村

今井四郎兼平の郎党夫婦が今井氏の幼童と落ち延びた媼の居所にちなむという地名。

群馬県多野郡上野村大字乙母

乙父村

今井四郎兼平の郎党夫婦が今井氏の幼童と落ち延びた翁の居所にちなんだ地名。一説では古くは乙母村と一村で遠西村と称したという。

群馬県多野郡上野村大字乙父

武具脱の池

義仲の家臣・細野・山本は樋口一族と別れた後、白根山付近を逃げ、物の具の池で武具を沈めた。

群馬県吾妻郡草津町大字草津

三原庄

海野幸氏の吾妻郡の西部を中心に所在した庄園。「吾妻鏡」建保4年(1216)10月5日条に「上野国三原庄」がみえる。三原庄は1193年に頼朝の行った三原の狩の場所でもある。

群馬県吾妻郡嬬恋村大字三原

馬庭念流道場

樋口兼光の10代子孫・兼重が念流を創始した相馬義元の高弟となり、その孫高重が1492~1501年ごろ馬庭に移住し新当流を修めたという。その後樋口定次が念流の8代を継承し「馬庭念流」となった。伝来する念流関係文書168点と道場が群馬県指定史跡となっている。

群馬県高崎市吉井町馬庭80

木曽三社神社

義仲の遺臣が祀った神社。1184(元暦元)年創立。木曾義仲の死後、その遺臣今井・高梨・町田・小野沢・萩原・諸田・串淵らが、義仲が尊崇した信濃国筑摩郡の岡田・沙田・阿礼の三社の神体を奉じ、神託によってこの地に移し祀ったと伝えられる。

群馬県渋川市北橘町下箱田甲1

弓池

お蘭の方は樋口一族と別れ、細野三友之助、山本とともに白根山を登り、弓の弦を切って弓が池に沈めて逃げたという。

群馬県吾妻郡草津町大字草津