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義仲戦記37「廻天への架け橋」

「この先、鵠沼・茅ヶ崎・平塚それぞれ各所に五〇〇〇騎ほど集結が完了しているとの報告が入りました。全て頼朝様の御指図通りに進行しております」

「うむ」

当然だ、と言わんばかりに鎧兜で身を固め、悠々と馬を進めている源頼朝は、報告した梶原平三景時に眼を向ける事無く短く答えた。


寿永三年[一一八三]
閏十月五日早朝。

頼朝は二万五〇〇〇騎を従え鎌倉を出発した。
そしてこれから進軍して行く過程で各所に集結させた兵を加えると、全軍約4万騎を超える大軍勢を擁しての堂々たる出陣であった。

目指すは京。

頼朝は朝日を照り返して煌めく海の水面の向こうに見える江ノ島を見るとも無く眼に入れながら、背筋を伸ばし静かに息を吐き出すと、


「景時。出陣に遅れた者はいたのか?」

彼にだけ聞こえる様に小声で頼朝は問う。

「若干その様な不心得者がいた、と報告があり、既に侍所別当和田義盛に名を調べるよう指示しておきました」

頼朝の馬に己れの馬を並ばせる様に近付けつつ、景時も小声で答える。
頼朝は左前方の江ノ島から視線を外す事無く、

「それで良い。詳細は後程、和田義盛から報告を受ける」

「はっ」

呟く様な頼朝に景時は短く応じると、さり気なくあるじの馬から離れ、郎等を呼び付けると、

「侍所別当和田義盛に伝えろ。今夜本陣に参れ、とな」

「はっ!」

命じられた郎等が馬を駆けさせて行く。その蹄の音が遠去かって行くのを感じながら、景時は馬上から海に浮かんでいる様に見える江ノ島に眼をやる。
この弁財天がおわす突き出た島を眺めるうちに、

(義仲討伐の為、北陸へと出陣した平氏方追討軍は近江琵琶湖の竹生島の弁財天へ戦勝祈願に詣でたとか・・我らの軍勢の中にも江ノ島の弁財天に同じ事を祈願した者も多数いるだろう・・まったく神々の戦さ、とはこの事を云うのであろうが双方とも同じ神に戦勝祈願したところで、勝つのはどちらか一方のみ・・果たして神は誰を勝者に選ぶだろうか・・我ら鎌倉の頼朝様か。それとも我らが討伐に向かう義仲か。はたまた平氏や他の者なのか・・・)

景時は馬に揺られながら、徹頭徹尾、現実主義者である彼らしくも無く、この様な事を考えていた。が、ふとそんな己れを苦笑と共に笑い飛ばす。

(どうやら私はこの度の出陣に不安を覚えているらしい・・だからこそ先程の様なラチも無い事を考えてしまうのか・・
であれば、頼朝様もその様な不安を感じておられるかも知れん・・・)

景時は、前を進む頼朝の背にそっと眼をやる。

その頼朝も先程から、じっと江ノ島を見遣り、いつまでもそこから眼を離そうとはしなかった。




「はあ?」

と誰も口に出した訳では無い。

が、全員がそう言いたそうな、いや、そう思っている事を表情で表現し、眼は大きく見開き、瞬きすら忘れ、唖然として義仲を見詰めていた。

何を告げられたのかを全員が理解した次の瞬間、彼らは己れが感じた疑問と不満、整理し難い感情を一気に噴出させた。

あぁ?何だとぉいやもう一度仰って下さ京に帰還すると聞こえ一体どう言う事なのでちょっと落ち着きなさ冗談じゃね京で何かが起こったに違い待てすると平氏はどうなるん法皇の心変わりに付き合っ行家の奴がまた何か大体平氏追討ってのが今回しかし兼光が書いて寄越す程の事俺らは今から戦さに撃っ公卿らの画策という事もとにかく話しを聞ようやくここまで来たってるさい節刀を賜った以上はうるさい京の貴族連中だまれ邪魔する事し黙れ!義仲さまの決とは


「黙れーーーっ!!」

ぴた。

と皆は一斉に口を噤む。
瞬時に沸騰と冷却を経験した本陣に、海辺の漣の音が寄せては返して行った。

皆が叫び声のした方向に眼をやると、そこには義仲では無く、立ち上がり肩で息をしながら鬼の形相で一同を睨み付けている今井兼平がいた。どうやらキレたのは義仲では無く兼平であったらしい。

はぁはぁと肩を上下させていた兼平は呼吸を鎮め、どすんと床几を腰を下ろす。と同時に、

「とにかく義仲様の話しを聞きましょう。いいわね」

巴の声が本陣に響いた。
束の間でも感情を爆発させていた諸将達は、打って変わって落ち着き払い無言で首肯くと義仲に眼をやった。

義仲は兼平と巴に感謝の視線を送ると、一転して厳しい眼で一同を見渡し穏やかに話し始めた。

「突然の命令で皆を混乱させてしまった。済まない。だが、私は先程命じた事はすぐさま実行しなければならん、と思っている」

義仲は先ず諸将達に詫びると、命令を繰り返す。

「平氏に対する軍事行動は一切を白紙に戻し、我らはこれより急ぎ京に帰還する」

念を押す様にあらためて命令された諸将達だったが、その各々の胸の内には何か納得し難いもやもやが曇り空の雲の様に蟠っていた。
しかし義仲の眼を見ると、既に決断した者の靭さを帯びた両の瞳が静かに諸将達の視線を受け止めていた。

と、
「そりゃあ義仲様の命令ならどんな事でも従いますがね。だからと言って皆が納得してる訳でも無いんですよ」

突然、覚明がいつもの様にへらへらと発言した。
続けて、

「だってそうでしょう?
これから平氏との決戦って時にイキナリ今までのナシ、これから京に戻りましょ、じゃ誰も納得なんかしませんて」

一同の心の内を代弁した。と言うよりも覚明が一番納得していなかったのだろう。へらへらを装ってはいる覚明だが、その眼は真剣そのもので義仲や諸将達を睥睨していた。

義仲に対するあまりの口の利き方に兼平が何か文句を言おうとしたのを、冷たい刺す様な視線で黙らせた覚明は、義仲に向き直ると、

「説明。してくれます、よね?」

低く響き渡る押し殺した声で詰め寄った。

「解った。これを読んでまだ納得出来無い事があれば、反対してくれて構わない」

義仲は落ち着き払い京からの書状を覚明に差し出す。
覚明はそれを引ったくる様に手にすると、一度義仲と視線を交わした後、書状に眼を落とした。

ぴーんと張り詰めた空気の中、諸将達は固唾を飲んで覚明を見ている。と、覚明の肩が、いや、書状を掴む両手が徐々に震え出している。しかも覚明の口からは呻きにも似た独り言が洩れ出ていた。

「・・・何だとぉ・・・鎌倉が・・・しかもこのままだと・・・
京に・・・畜生・・・」

ぐしゃ。
覚明は読み終えると同時に書状を握り潰していた。

「覚明。まだ納得出来んか?」

義仲が静かに尋ねる。

その眼は同情する様な、何か痛ましいものでも見詰める様なものだった。

「・・・いえ。これじゃあいっぺん京に戻るしかありませんねぇ・・・
取り乱してしまい、申し訳ありませんでした」

覚明は溜め息と共に素直に詫びた。義仲は眼を閉じて頷くと、一同に向き直り話し始めた。

「京の樋口兼光の報告では、先月十月一四日、後白河法皇が宣旨を発した。
この中で鎌倉の頼朝が正式に官職を復されたという事だが、この頼朝の勢力範囲として関東・東山道が彼のものとして認められた、らしい」

「!」

全員、言葉が無かった。

義仲が実効支配する上野国「群馬県]は関東に位置し、本国と言って良い信濃国[長野県]は東山道に含まれる。
つまり法皇や朝廷は、義仲の支配を全く認めない、という事になるのである。二の句が継げないでいる諸将達に義仲は続ける。

「しかし何故か、後日十月二三日になり、上野と信濃は私に賜る、と方針を撤回したらしいが、北陸道はこれには含まれていない」

少しだけ安心した諸将達の耳に、またも不愉快な事が告げられた。
義仲は東山・北陸両道での武家の棟梁なのである。しかも平氏方追討軍の侵攻を阻み、これを撃退したのも義仲なのである。それを認めない、とはどういう事なのか。

「この北陸道に関しては、頼朝がその支配権をを朝廷に強く望んだ、という事らしい」

「「「「はあ?」」」」

今度は口に出た。
それもほとんどの者の口から。

鎌倉の頼朝が北陸と何の関係があるというのか。大体、先の平氏方追討軍にしても、義仲勢が敗れ去っていたとしたら、次は関東の頼朝が討伐される筈だったのである。それすら阻んでやったというのに礼を言うならともかく、その北陸道を寄越せ、とは。

「一応、朝廷は北陸道の支配権を頼朝に認める事は無かったらしいが、その頼朝に朝廷は上洛[京に上る事]を強く命じた、という」


「「「「?」」」」


頼朝が京に来る?何しに?諸将達の顔はそう言っている。

「今回の宣旨に対する御礼、という形をとるらしいが、兼光の探ったところどうやら私を討伐する為に軍勢を引き連れてくる、との事だった」


「!!!」

極め付き、であった。

今、義仲から告げられた事は全て驚くべき事であったが、これは最大の驚愕であった。


「待って下さい!それでは」


兼平が顔を蒼白にして叫ぶ。
と、

「ああ。兼平の想像通り、こいつは法皇と頼朝が朝廷を介して裏で手を結んだ、って事の明らかな証拠だろうな」

覚明が眼を細めて冷たく言い放つ。

「一体、何故・・・
その様な事に・・・」

呟く兼平に覚明が言い添える。

「理由なんか何だっていいんだ。例えば京の治安回復の遅れ、でもいいし、平氏追討の過怠、でもいい。

だが一番の理由は、天皇の後継問題に口出しした事、コレだろうな。

法皇や公卿の連中はソコだけは自分達の領分と思っていたから、そろそろ義仲様が煙たくなっていたところに今回、平氏追討の名目で京から鬼を追い払う事が出来たのさ。

で、ヤツらは鬼のいぬ間になんとやら、義仲様が京を留守にしている間に、出来るだけの事をしたって訳だ。鎌倉の頼朝と裏取引して奴を担ぎ出す為に」

「・・・」

兼平は奥歯を噛み締め、身体を震わせながら怒りと理不尽に耐えている。
だが、諸将達誰もがこの様な溢れ出しそうになる感情と闘っていた。


巫山戯るな!


この一言の言い尽くせる程単純なものでは無かったが、彼らの胸中に渦巻いていた言葉はこれであった。

「我らがいたずらにここで時を費やせば、西からは平氏、東からは頼朝に挟まれ、進退窮まってしまう恐れすらある。そこで、今は平氏に対する時では無く、東から来る者に対処する時である、と判断した」

義仲は一同を落ち着かせる為に、普段通り穏やかに告げた。
「それに何やら行家ドノも貴族の間を頻繁に動き回っているらしいぜ」

覚明は自分でくしゃくしゃにしてしまった書状の皺を伸ばし、丁寧に折り畳みながら付け加えた。

「あァ?行家だァ?あの自称大将軍にナニが出来ンだよ!」

小弥太がイラついて応じた。

「兼光によると、一旦京から出て行った俺らを二度と京に入れない為に、義仲様の上洛を差し止めるべく公卿らに働きかけている、とか?」

「ちッ!あの野郎!ま、アイツはドコにいたってくだらねェ事しかやらねェけどな!」

舌打ち混じりに小弥太は吐き捨てる。

「そぉよね。ならこれ以上彼らに滅茶苦茶にされない様に京に戻らなきゃ。
そぉすれば悪企みも少しは止む事になるでしょう。それとも今後の為に彼らにキツ〜くお灸を据えてみるってのもありっちゃありですケド」

戦う美少女が半分本気で歌う様に物騒な事を言うと、皆の顔に笑みが浮かんだ。

義仲も笑顔を見せていたが、その笑顔の薄さ、言い換えれば無理に笑顔を作っている事に巴は目敏く気が付くと、その義仲の心を慮った巴には切ない気持ちが溢れ出して来る。

法皇や朝廷、公卿らや頼朝のやり口は皆を驚かせ怒らせたが、一番その事に衝撃を受け、憤っているのはやはり義仲本人なのであるから。

悪意に耐え、怒りを押し殺して、穏やかな笑みを浮かべる義仲に、巴は限り無い愛おしさを感じると共に、総大将として感情を抑制させている姿を見ては立派だと思うが、その事に限り無い哀しさと痛ましさを感じてもいた。

と、
「義仲様!平氏方から使者が参っております!その者は書状を携え、事もあろうに和睦の使者だ、と申しております!」

本陣に駆け込んで来た郎等の報告は、驚くべきものであった。

一体、今日この本陣でどれだけ驚かされた事だろう。

しかも義仲すら、この報告には一瞬呆気に取られていた程であるから、諸将達にとっては正に驚天動地の報告、だったのである。

驚く、という事に慣れる事は無い、と痛感した一同であった。



「書状の内容は了解した。が、一度、平氏一門の責任ある立場の者と話し合わねばならない。
それでこそお互い信頼を勝ち得る事が出来る、と思うが」

書状を読み終えた義仲は、平氏からの使者である家人に話し掛けた。

「我らの総帥宗盛、軍事総司令知盛の両名もその様に申しておりました。
付きましては我ら一門から高位の者を二名、こちらに参らせる、との事」

平氏の家人伊賀平内左衛門家長は落ち着き払って答えると、ひたと義仲に視線を送る。

「伊賀平内左衛門家長。其方は新中納言知盛どのの乳母子と申されたな。であれば其方の言葉は知盛どのの言葉に同じ。平氏一門の言葉として信用しよう」

視線を柔らかく受け止めていた義仲が穏やかに答える。

続けて、
「それではこちらも大将を二名、平氏方に参らせる事としよう。
だがこの二名は謂わば人質であり、実際に話し合いを行うのは私と、こちらに参る平氏一門の者、という事になるが、それで良いか」

「はい。宜しいと存じます。それでは私はこれより一門の許に立ち戻り、一門を代表する二名の者を伴い再び船で参ります。
そちらも二名の大将と郎等を一人船に乗せ、我らの船が見えたら漕ぎ出して下さい」

「海上で、其方とこちらの郎等が船を乗り換え、お互いの本陣に案内させるのだな」

「その通りに御座います。
では、私はこれより立ち返ります」

平氏の家人伊賀平内左衛門家長は、無駄口など叩かずに用件を済ませると、船を漕ぎ出して行った。

こうして義仲勢と平氏一門は和睦への第一歩を踏み出す事となった。
それは追い詰められた者同士が、手を取り合う事にも似ていた。生き延びる為に。

だが、この両者を追い詰めた者らは、未だこの事を知らないでいる。
この一点が、追い詰められた義仲勢と平氏一門が持つ最大ので利点でもあった。

「「では行って参ります」」

楯親忠と手塚光盛は声を揃えて義仲に挨拶し、郎等と共に船に乗り込んだ。
平氏方に送る一時的な人質として義仲は、四天王楯と弓の巧手光盛を指名したのであった。

自分が行くつもりでいた小弥太は若干、いや、相当悔しそうにしているのを尻目に、船は海上を滑る様に進んで行く。程無く、平氏方より来た船と落ち合うと、停止した船の上で義仲方の郎等と平氏の家人平内左衛門家長が乗り換える様子が伺えた。
と、二叟の船は擦れ違い、それぞれが目指すところへと滑り出して行く。

「左馬頭源義仲です。
お初にお眼に掛かる」

平氏一門の代表者二名を本陣に招き入れた義仲は、この場に同席する麾下の武将達を紹介すると、先ず自分から名乗った。

陣幕に覆われた本陣の中には、今井兼平・根井小弥太の四天王の二人と巴御前・大夫坊覚明が義仲と共に出迎えていた。

「私は薩摩守平忠度[清盛の一番下の弟]。
こちらは私の甥、越前三位平通盛[清盛の三番目の弟教盛の長男]。
この度は私共平氏よりの申し出を受けていただき、御礼の言葉も無い」

忠度が代表して名乗ると床几に腰を掛ける。
平氏方から訪れた二人の大将軍は出迎えていた兼平・小弥太・覚明に眼をやる。と、巴御前に眼を移したところで、しばし眼を止めた。

忠度は表情を変える事無くそのまま義仲に眼を移したが、通盛は多少驚いた様な表情を浮かべた。
噂には聴いていた義仲勢の女武将という存在を初めて眼にしたのであろう。

「今回の平氏方より齎された和睦の提案に付き、私の見解を述べさせていただく」

挨拶もそこそこにいきなり義仲が切り出す。
忠度・通盛はじっと義仲を凝視し、次の言葉を待つ。

「我らは全面的にこれを受け入れ、平氏との長年に亘る抗争に終止符を打つ第一歩として、この和睦案を心から歓迎したい」

義仲の宣告に通盛は目許を綻ばせた。が、

「畏れながら。義仲どのは我ら一門を追討、討伐すべく西海へおいでになられた筈。院[後白河法皇]より直接、節刀を賜った事も承っている」

忠度は厳しい表情で疑問を質す。

「であれば我ら一門との和睦は、院の命令並びに朝廷の方針に背く、という事。
先程のお言葉は我ら一門にとってはこの上無く嬉しく、また歓迎すべきものであるが、我らと独断で和睦を結ぶとなると、朝廷にとっては義仲どのも叛徒に与する者と見做される事となろう。そのあたりはいかがお考えか」

「忠度どのの慧眼、畏れ入る。
だが我らはもう既に院や朝廷にとって討伐すべき対象となりつつある」

義仲の答えに忠度・通盛は瞠目した。

忠度は素速く義仲麾下に武将達に眼をやると、微笑みを浮かべている図抜けて可愛らしい女武将以外は、三人が三人とも苦い表情となっている。

何もそこまで言わずとも、とでも言いたそうな。


「どう言う事なのです?」

落ち着き払った忠度が先を促す。

「鎌倉の頼朝が近々、軍勢を引き連れ上洛する、との報告を受けている。これは院と頼朝が組んで、私を討伐する為に仕組んだ事だ」


「!」


忠度は一瞬、息が詰まった。
義仲が今、口にした事は義仲自身にとって悪材料である筈だ。何も正直に報せる必要など無い。
交渉の席で自分から弱みを見せるなど、忠度には考えられなかった。しかも、京や東日本の政治的・軍事的状況がそこまで切迫した事になっている事も、忠度を驚愕させていた。

冷や汗が首筋を伝っていくのを感じた忠度の耳に義仲の声が響く。

「今回、私が追討に赴いている間に、京と鎌倉に於て両者が何らかの合意に達し、この様な事になったのであろう。
それは京を去り不在となった者がどの様に扱われてしまうかは、其方ら平氏一門の者には説明するまでも無い、と思うが」

静かに見詰める義仲に、気圧されるまいと忠度は試す様に言葉を返す。

「我が一門がこの三ヶ月、身を持って経験いたした事に御座れば。
しかしお話しを伺ったところ、我ら一門は義仲どのと和睦するより、其方を討ち果たした方が、今後何かと有利に事が運んで行く、と思わないでもありませんが?」

「確かに。その様に運ぶ可能性もあろう。そうお考えであれば遠慮無く我らに対し戦さに撃って出られても良い。だが、この事は肝に銘じていていただきたい。
先ず、我らに敗北する可能性。
次に、我らに勝利した後、頼朝と雌雄を決する時に敗北または勝利する可能性。

これらの裏側には常に院と朝廷の公卿らが関与している事実。そして、これら総ての事柄をこれから其方ら平氏一門のみで凌いで行かなければならない、という事も」

明晰に義仲は畳み掛けた。と、

「お待ちを」

通盛が初めて口を開いた。
幾分、緊張気味に発言する。

「我らが義仲どのに攻め掛かるというのは別にして、今、言われた事を裏返せば頼朝や院・朝廷に対抗するに、これからは我ら一門が単独で対して行くのでは無く、義仲どのは我らと協力してこれらと対抗して行く、という風に聞こえたのですが」

「私は先程、この和睦が成立すれば平氏との抗争に終止符を打つ第一歩、と申し上げた。
これは戦さを回避する為の一時的な方便では無く、その後の事も考えての言葉です。私はこの和睦成立の後、我らと平氏が共に手を携え、院・頼朝・朝廷に対抗し、両者協力してこの難局を乗り越えて行くしか平氏と我らの生き残る道は無い、と考えます」

通盛は返答を聞くと、息を呑んで忠度と眼を見交わした。

和睦の成立はあくまで関係改善の第一歩に過ぎず、義仲の本当の目的が平氏との共闘関係の樹立にある事を、二人は瞬時に理解した。

しばし視線のみで遣り取りした平氏の二人は同時に首肯くと、

「心にも無い事を申し上げた不作法。許されよ、義仲どの」

忠度は一転して穏やかな眼になると詫びた。

それを受けた通盛が言葉を添える。

「元より我ら一門から言い出した事。和睦を受け入れていただいた事に感謝いたすと共に、こちらが思ってもみなかった共闘の申し入れまで」

「実にめでたい。私見ですが、おそらく総帥宗盛も総司令知盛も、義仲どのと共に闘って行く事に反対はなさるまいよ」
笑顔で忠度が請け負うと、通盛もまた大きく頷いている。
「礼はこちらから申す事。ここで私から平氏一門に対して約束いたす。以後、私や麾下の武将達が平氏に対して弓を引く事は無い、と」

破顔した義仲が重大な事に宣言した。

これは平氏一門に対する不可侵宣言なのである。余りの事に唖然としている平氏の二人に対し、義仲は続ける。

「今後の協力関係の詳細は書状での遣り取りとなりましょうが、一つだけ私から条件があります」

条件、と聴いて平氏方の二人は反射的に表情を引き締めた。

「何、大した事では御座らん。我らが今、合意に達した和睦の事と、これからの共闘関係の事。この二点は出来るだけ他に洩らさぬようにして欲しい、という事です。秘密、という訳では無いがその方がお互い動き易かろうし、院や朝廷、頼朝に対してもなるべく隠しておいた方が、今後何かあった時には有効なのではないか、と」

義仲の言葉に、硬い表情を緩めた忠度は、

「同感ですな。院や朝廷を出し抜く事が可能となるのに加え、その方が何かとやり易い。一門の者や家人達にはこの事を報せねばならんが、兵達には殊更言うべき事でも無かろう」

同意すると、通盛も複雑な表情で続けた。

「確かに兵らや家人の中にも、昨日までの敵に対して感情的に納得し難い者もいる事でしょう。だが、それは義仲どのの麾下の武将や兵らも同じ事と思うが・・・」

通盛はちらりと、義仲の傍に控える兼平・小弥太に視線を送る。と、

「貴方がたは北陸で、私どもは水島で、お互い一敗血に塗れておりますから」

兼平が静かに発言すると、皆、戦さに散った者達を想い浮かべる様に沈痛な面持ちとなった。

平氏方の忠度と通盛は、北陸道の戦いでは前戦指揮官として出陣しており、義仲勢にしても、大将三名を喪った水島の戦いはほんの数日前に起きた事として記憶に新しい。

それぞれが心の中に複雑なものを抱え、戦没者に対して何か忸怩たる思いを感じていたその時、

「戦さで亡くなった者達に対して、私達生きている者が出来る事って、一つだけですよね。義仲様」

場違いとも思える明るい弾んだ声で戦う美少女は初めて発言した。

皆はその声につられる様に巴御前に視線を集めた。しかし巴は既に義仲を見詰めている。
と、

「その通りだ。巴」

義仲は穏やかに応じると、平氏方の二人を交互に見ながら言う。

「戦没者や戦さの混乱に巻き込まれて生命を落としてしまった者達に報いる術はただ一つ。生き残った私達は先に逝った者達の想いを受け継ぎ、少しでも国や制度を今よりもマシなものにする為に努力する事。これしか無い」

より良い国にしなければならない、的な綺麗事とか、倒れるまで前進しなければならない、的な戯言を言われていたら平氏の二人は多少、義仲の事を胡散臭く思った事だろうし、信用も表面的なものになっていたかも知れない。
だが、少しでも国や制度を今よりはマシなものにする為に努力する、と言った義仲の言葉の内に、図らずも彼の本心の一端が滲み出ている事を感じ取った忠度と通盛は、信頼するに足る人物として昨日までの敵の総大将と眼を合わせいた。



 誰もが、貴族であれ僧侶であれ武士であれ民衆であれ、少しでもマシな国や制度となるよう願っているのである。

 そこには本来、敵も味方もある筈が無い。

 であれば、過去の事情や経緯がどうあれ、この単純でいて複雑な一点を目標として目指し、合意し共に協力して行く事は不可能では無い筈である、と義仲は暗に主張しているに等しい

 そして平氏の忠度と通盛は、この義仲の主張に全面的に同意していた。



「義仲どのの心根とその想い、しかと受け取りましたぞ。この上は我ら平氏からも約束いたす。和睦成った今より、我ら平氏一門が義仲どのの軍勢に対し弓を引く事は無く、共に協力しあって今の難局を乗り越えて行きましょう」

薩摩守忠度が和睦の成立と、今後の共闘について合意した事を告げた。

今度は義仲が眼を見開き少し驚きつつ言う。

「忠度どの。一度、屋島に持ち帰り一門の皆様と話し合われる前に、その様に明言されて宜しいのか」

「はい。総帥や総司令からは、一門の為になる事であれば私達二人が独断で決しても良い、と全権を託されております。御心配には及びません」

越前三位通盛が晴れやかに応じた。
義仲麾下の武将達も笑顔で首肯く。

「では」

と忠度筈床几から立ち上がると、

「良き土産を携えて一門の許に戻れます。一刻も早くこの良き報告を一門の皆にお知らせしたい」

軽く頭を下げつつ言った。

「この書状をお持ち下さい。
我らが今、この場で合意し約定した事を記してあります。そちらの一門の総帥、内大臣宗盛卿に宛ててあります」

涼しい顔で覚明が書状を差し出す。
彼は義仲の秘書でもあるが本来の仕事は祐筆なのである。書状を秒殺で記す事など覚明にとっては容易く、まさに面目躍如といった感じであった。

忠度はにこやかに書状を受け取る。が、次の瞬間には怪訝そうな顔で、眼の前の僧侶を見ている。通盛も、そんな忠度を不審に思いながら僧侶に眼をやる。

と、
「まァコイツの事は合意した今となっちゃあ許してやるしかないんすよ。忠度どの、通盛どの」

小弥太が意地悪そうに話し掛ける。

と、
「ああっ」

通盛が何かに気付くと、小さく驚きの声を上げた。その様子を見て小弥太はニヤリと口許を歪めると、まだ怪訝そうにしている忠度に向かい、

「清盛どのが御存命の折、興福寺辺りのクソ坊主が畏れ多い事を書いて逆鱗に触れた事があったでしょう?
そん時のクソ坊主頭コイツっすよ」

「小弥太、お前ね。名前変えたんだから判りゃしないのに何でバラすかな」

「俺も義仲様を見習って何事も正直にいこうと思ってなぁ。
隠し事は良くねぇぜ覚明」

二人の遣り取りを呆気に取られた様に見ていた忠度は、ようやく事情を理解すると苦笑しつつ、

「あの時の興福寺の僧侶であったか。行方をくらませたとは聞いていたが、まさか義仲どのの祐筆になっておるとは・・・」

呆れた様に通盛と顔を見合わせた。と、

「いい加減にしろ!客人の前だぞ!」

兼平が、彼にしては抑え気味に割って入る。

「いいじゃない。もう私達の間には平氏とか源氏とかってだけでいがみ合う事は終わったんだから。
そうですよね?忠度サン、通盛サン」

煌めく笑顔で押し切った戦う美少女に同意を求められた二人は、じっと見詰められて幾分どぎまぎしながらも笑顔で首肯く。

義仲はこの様な遣り取りを微笑ましく眺めていたが、床几から立ち上がると平氏方の二人に近寄り、

「我らはこれより急ぎ都に戻らねばなりません」

告げると、

「上洛して来る頼朝に対処する為、ですな」

忠度が表情を引き締めて応じた。

「それと、院や朝廷にこれ以上、勝手な事をさせない為に」

通親も付け加えた。
義仲は首肯くと、

「そこで今後の平氏との連絡の為に備前国三石の宿に郎等らを置いて起きます。そちらからの書状はこの郎等らに渡して下さい。我らからの書状もこの郎等らに届けさせます」


「「解りました」」


平氏の二人は同時に答えた。

「これは指示では無いのですが」
義仲は前置きすると続ける。

「我らがここより去った後、そちらが備中・備前と勢力を回復させるのは構いませんし、これは当然の事と思います。が、播磨となると話しは別となります。播磨には福原がある。平氏が福原にまで勢力を盛り返したとなると、院や朝廷が動揺し、再び追討礼などを発する恐れがあります」

「考えられる事です。我ら一門とて慎重に行動しますが、万一その様になった時は?」

通親が、もっとも、と言う感じで応じる。

「再び追討令が発せられたとしても、私は出陣などいたしません。
代わりに私の麾下の武将の誰かを向かわせます。であれば戦さになる事は無いでしょう。
この者には私の書状を託し、貴方がたに届けさせます。それが適わなければ我らとは別の誰かが向かう事となりましょうが、そこは心配しておりません。我ら以外の者であればその軍勢は少なく、容易にこれを撃退する事が出来るでしょう」

「その通りですな。そうなれば我ら一門が迎え撃つだけの事」

忠度が眼に力を込めて答えた。

「遅くとも今年の年末には貴方がたが福原を取り戻す事が可能となります」

事も無げにさらりと義仲が告げると、忠度と通盛は絶句した。
程無く、

「・・・今年の年末
・・・その様に早い時期に・・・」

通盛が恐る恐る呟く。

「このまま行けば来年の二月、いや、一月には平氏一門の皆様の念願も叶う事となりましょう。私はそのつもりでいます。」

「・・・我らの念願・・・」

「・・・京への帰還、という事でしょうか。義仲どの・・・」

通盛がうわ言の様に呟き、忠度が念を押す。
義仲が力強く頷いて見せると、

「これ以上、幼き主上に不自由をお掛けする訳には参りません。その日が一日も早く訪れる為に、共に力を尽くして参りましょう」

義仲の力強い言葉に、忠度と通盛は真剣な眼になり無言で頷く。その平氏の眼は正に武将の眼であった。

義仲は最後にこう告げた。

「平氏一門が主上を伴い帰還する事を、私は京でお待ちしております」


「これより我らは急ぎ京に立ち返る。が、志田義憲どのに頼みたい事がある」

平氏方の忠度・通盛が義仲勢の許を辞して程無く、平氏へと派遣していた楯と光盛が戻って来たところで、義仲は全軍に対し京への即時帰還を命じた。

それに伴い指名された志田義憲は、心得ています、とでも言いたげに、

「兵を二〇〇〇程、出して下されば徴発した船を元の持ち主に返還させる事に時間を掛けずに済みましょう」

義憲は頼み事を先回りして答えると、義仲は破顔し、

「頼みます」
依頼した。

後始末を託すに足る人物がいる、というのは幸福な事である。義憲は約八〇〇叟を上回る徴発船の返還業務を快く引き受けた。

「では数日のうちに京へと戻る!出発!」

義仲は号令を掛けると、見送る志田義憲に目礼を返し、備中児島半島玉野の本陣を跡にした。

一刻も早く京へ。
陰謀渦巻く京へと戻る為に。



 こうして義仲に命じられた平氏追討は、表面から見る限り不首尾に終わった。

 院と頼朝による義仲包囲網も確実に狭まって来ている。
 しかし義仲はその包囲網を突破する為の奇策に撃って出た。それが追討の対象である平氏との和睦、共闘である。
 西に出陣した義仲は、水島で大き過ぎる代償を払ったものの、それ以上の成果を得る事に成功した。
 こうして世は、後白河・頼朝の連合と、義仲・平氏による枢軸との政治的・軍事的な相剋の段階へと移り変わって行く事になる。


 義仲に対して一歩先んじたつもりの院と頼朝ではあったが、彼らはまだ、その義仲が平氏と手を結んだ事を知らない。