見出し画像

義仲戦記4「越前武士の苦悩」1181年9月

(私はどうしたら良いんだ。このままで良いのか?
 いや・・・しかし・・・)


 彼は思い悩んでいた。しかしいつまでも悩んでいる訳にもいかない。
ここはもうすぐ戦場になるのである。
しかも既に出陣し、状況は進行しているからだ。
焦っていた。
だが彼は踏ん切りがつかない。まだ決められない。それは重大な事だから。

 彼はそんな様子を外に見せる程、愚かではなかったが、そんな彼の思い惑う心の内を見抜いていた者がいた。その者は冷静に彼の事をじっと観察していた。何故ならその者も、一人では決めかねていたし、何より彼と同じような事を考えていたのだから。ただし、その者は彼とは違い、別に思い悩んでいた訳では無い。つまりこの二人は同じ事を考えていながら、その理由と目的は全く違っていたからであった。

 八月十五日、つまり横田河原の合戦からちょうど二カ月後。都では重要な事が決定された。決めたのは平宗盛。父清盛の跡を継ぎ平氏の惣領[トップ]となってから半年程、宗盛が平氏の全てを決定していた。

その一つは、城長茂を越後守に任命した事。
もう一つは藤原秀衡を陸奥守に任命した事。

 あれ?ちょっと待って、城長茂ってこの前、横田河原で義仲にぼろ負けしたのに何で?と思うだろう。宗盛が城長茂を越後守に任じたのは、もしかしたら『越後で城長茂は勢力を回復している』という都に届いた噂を信じたからかもしれない。いや、信じたかったのだろう。そうだったら良いな、との希望的観測のもとに。だが、この噂は完全なデマであったのだ。

 とは言えこの決定は考え無しの滅茶苦茶なものでは無い。おそらく宗盛としては城長茂を越後守に、藤原秀衡を陸奥守に任命する事で、北陸の義仲と関東の頼朝を背後から脅かし、都から追討軍を派遣する事でこの二人を滅ぼす、という壮大にして、絵に描いた餅、とでもいうべき計画があったのだろう。
 しかし城長茂は、平氏の為に何かしたくても何か出来る状況では無く、藤原秀衡は、何をしたいのか判らないが、これまた平氏の為には何もせずに宗盛の計画は破綻する事になるのだが。



「遂に来やがったな!」


平氏方が軍勢を派遣した報せが入った時、根井小弥太[四天王の一人]は、待ってました、とばかりに言った。

続けて、
「信濃[長野県]の依田城に居る義仲様に連絡しておけ!
我ら根井大弥太行親[小弥太の父]、小弥太率いる一二〇〇騎はこれから加賀[石川県]を出て越前[福井県]に出陣し、平氏方の軍勢と一戦交える、と!」

指示を受けた郎等が出て行こうとするのをとどめて、根井大弥太行親は、

「小弥太。一つ忘れているぞ。北陸の諸将にも連絡を付けておけ」

「平氏の軍勢派遣の事なんて、とっくに知ってると思うけどな。
まぁいい、一応親父の言う通りにするか。

宮崎[越中の武将]、
石黒[越中の武将]、
林[加賀の武将]、
富樫[加賀の武将]、
津幡[加賀の武将]、
斎藤[加賀の武将]の各将にも連絡しておけ!
それから全軍出陣の用意!」

小弥太が命じ、郎等らが馬を駆り伝令に走る。
 ここ加賀に駐屯している義仲勢根井軍本陣にも、出陣前の慌ただしさが支配していた。いよいよ北陸での戦いが始まるのである。


☆ ☆


「意外に少ないな。見た感じ一千騎ってところか」

 平氏方の軍勢を見つつ、小弥太が馬上で呟いた。
 ここは加賀と越前の国境付近。根井大弥太行親率いる一二〇〇騎の軍勢は、越前に入った所で敵平氏方の先頭部隊を発見、進軍を停止させそこに布陣していた。

と、
「新しい報告が入りました!」

そう言って馬を近付けて来たのは林六郎光明[加賀の武将]。

続けて、
「どうやら、先に都を出た平経正率いる五〇〇騎の軍勢は若狭[福井県]に駐屯している、との事です!」

それを聞いた大弥太行親は、
「そうですか。では今、目の前にいる軍勢は平通盛が直接指揮している一千騎、という事ですな」
言うと、

「いや。平通盛は越前国府に残り、あの軍勢は家人の平内兵衛尉清家が率いているとの事です」
林光明が答えると、

「ああ?総大将が来て無ェのか?何だよ。義仲様を追討する、とか何とか言ってたわりには、ヤる気無ェな」
小弥太が正直な感想を述べた。

それを聞いた大弥太行親は、
「いや。平氏方も少しは色々考えているらしいぞ」
言った。

林光明が
「どういう事です?」
と問う。
と、

「それはな。平氏方にとって若狭だけは手放さない、という本心の現れなのだよ。最悪、越前までは我らに奪われてもいいが、若狭は死守する、という事だ」
大弥太行親が答える。

「若狭、、、港か?」
小弥太が訊いたところで、

林光明が、
「そうか!山陰地方[但馬、因幡、伯耆、出雲、石見。現在の兵庫県、鳥取県、島根県]との船での交通を確保しておきたいのですね、平氏は!」

「その通り。だから今のところは我々が若狭に手を出さなければ、平氏方も大軍を送ってくる事は無い、という訳だな」
大弥太行親が言った。

「なら話しは早え。目の前の奴等に勝ちゃ言いだけの事だ。そうすりゃ取り敢えず越前までは完全に義仲様の勢力圏になる、とこう言う訳だな?親父」
小弥太が言う。

「そうだ。」
大弥太行親が答えた。

と、そこで林光明が、
「その今回の追討軍の事でお話しがあります。
実は私と富樫入道仏誓どので、秘密に動いていた事があります」

大弥太と小弥太は視線を一瞬合わせたが、

「どの様な事でしょうか。聞かせて下さい」

大弥太行親が穏やかに言った。



☆ ☆ ☆


(確かに今の北陸での情勢は、平氏には不利に動いているように見える・・・が、だからと言って・・・)


 彼はずっと悩んでいる。悩んでいるうちに時は経過し、気が付いてみれば彼は義仲追討の軍勢に合流していたのである。


(私は一体どうしたら・・・)


 思考の無限ループに嵌まってしまっている。彼の懊悩は深い。彼は別に優柔不断という訳では無いし、何かを選び取る事が出来無いような愚かな人物でも無い。彼は一言で言うと、真面目、なのである。彼の人生におけるモットーはおそらく、誠実に生きる、という事なのであろう。である以上、彼がこれまで従ってきた平氏を見限り、新たに義仲勢に付く、という事は、状況がどうであれ彼の中では、裏切り、または日和見、なのである。これは彼が個人的に一番するべきではない最低の行為、だと思っている事だ。そんなにヤならヤんなきゃいいじゃん、という訳にもいかないので悩んでいるのである。

 事の始まりは平氏の追討軍の派遣。越前国の在庁官人[役人]である彼、稲津新介実澄のもとにも平氏方から出陣の要請が来たのだ。これまで通りであるのなら悩む事無くこれに応じていただろうが、今は状況が変化しているのである。
 ここ一、二年の間に北陸諸国にも反平氏の機運が高まり、役人を追放したり、運んでいた荷物を差し押さえたりと、妨害工作が激しくなっていたのだ。そんな時に、トドメ、とばかりに登場したのが源義仲であった。義仲が横田河原の合戦で四万騎以上の平氏方に勝利した時、北陸諸国の豪族達は義仲を武家の棟梁と認め、一斉に従った。だが稲津新介は自分ルール[誠実に生きる為には、裏切らない!日和らない!]があるので、この時義仲には従っていない。だが、心は揺れているのであった。  
 新介は先の平氏方に対する妨害工作があった時、一緒にはやらなかったが、止めもしなかった。見て見ぬふりをした。それが証拠である。
 しかも今までの相当強引な平氏のやり方には、在庁官人として新介は心の中では反対していたのであった。
 とは言え、出陣の要請が平氏方からあった以上、心が定まらないままに出陣の準備をしていると、稲津新介のもとに客人が訪ねて来た。加賀から二人の武将がやって来たのである。

「稲津新介実澄どの。今まで貴方も平氏のやり方には反対しておっただろう。今こそ義仲様や我らと協力してこの北陸道から平氏を追い出す好機[チャ~ンス!]が来たんだ。我らと共に平氏と戦おう。頼む!」

と熱く語ったのは富樫入道仏誓。
これに続いて、

「いや。稲津新介どのは誠実な御人と聞いている。今、この場で我らに協力するか否かの答えを訊こうとは言わん。良く考えてくれ。
しかし考えている時間がそう多くは無いのは、判っているだろう?」

冷静に、諭すように言ったのは林光明。

新介はいきなり二人に言われて驚いていた。いやそれ以上に、来るべきものが来た、と感じていた。自分がこれからどうするのか、何かを選び、何かを決めなければならないところまで来てしまったのだ。

 何も言えず考え込んでいる新介であったが、当然の事だ。人に言われたからと言って、決められる事では無いのだから。

様子を見ていた林光明は、

「新介どの。我らはこれで帰るが、自分の心に聞いてみてくれないか。我らや、誰かに言われたからでは無く、自分の心にな。
その結果、平氏方に付こうとも我らは貴方を恨んだりはしない。それでは失礼する。仏誓どの、行こう」

言いつつ、早々に席を立ち二人は帰って行った。
 そしてその日から今日まで稲津新介は、このまま平氏方に付くか、それとも義仲に寝返るか、で思い悩んでいるのである。て言うか、彼は自分ルールの裏切らない!日和らない!に恥じない為にはどうすれば良いのかを、いつまでも考えていたのである。自分自身の心に問いかけながら。


☆ ☆ ☆ ☆


 行く手に敵の軍勢が見えた。およそ一二〇〇騎はいるだろう。味方より二〇〇騎は多い。が数からすれば互角と言っていい。
 遂に、ここ北陸道でも戦さが始まるのである。
 稲津新介は結局、迷ったままこの日を迎えてしまった。敵の姿を目の当たりにした時、新介の動揺は頂点に達した。心臓バクバクであったが、必死にそれを押し隠していた。だが、事ここに至った以上は、このまま平氏方に付いて戦うしか無い、と思ってはいる。そう心に言い聞かせようとしている新介であった。が、(しかし、これで良いのだろうか・・・)この思いが消えない。どうしても消えない。叫びたくなるのを堪えつつ馬上で頭を振ると、兜と鎧が擦り合わされて、がしゃがしゃと音を立てた。

と、
「新介。どうしたんだ?先程から見ていたのだが落ち着きがないな」
声をかけた者がいる。

新介は、はっと我に返り、声のした方を見ると、
「斎明どのか・・・」

新介に声をかけた者は、平泉寺長吏斎明[有力寺社の平泉寺と白山神社を中心とした僧兵団の僧兵]。新介のいとこにあたる人物であった。その斎明が馬を近付けながら、

「何か気にかけている事でもあるのか?話してみろよ、この拙僧にだけ」

と囁くような小さな声で言った。

「何でもないですよ。斎明どの」

新介は答えた。無理をして笑顔を作って。

と、その時、
「稲津新介実澄!大将の平内兵衛尉清家様がお呼びだ!今から本陣まで付いて来い!」

叱り付ける様にして、平氏の郎等が新介を呼びに来た。呼び捨てにされた。しかも随分と偉そうな郎等の言い様であった。が、悩みを抱えている新介は、そんな事には構っていられない心境だったので、

「分かりました」
素直に応じ、馬で郎等に付いて行った。

「はっ?」

新介は一瞬、何を言われたのか判らなかった。
すると目の前にいる武将がイラつきながら、

「お前に言っているんだ稲津新介!聞いていなかったのか!」
怒鳴った。
て言うかキレている。

「いえ。聞いてはいますが。しかし、、、」
新介が答えると、

「しかし、では無い!いいか!元々この越前は平氏の知行国だったんだぞ!なのに我ら平氏の役人が追放されるのを、指を咥えて見ていただけとは!
お前ら在地の役人がしっかりしていないから、こんな事になったんだ!
だから汚名返上の機会を与えてやる、と言っているんだ!」

上から目線でキレまくっているこの武将、彼が平内兵衛尉清家。つまり平氏の家人で、この軍勢の大将である。

清家は続けて、
「今こそ!これまでの平氏の恩に報いる時だ!お前ら越前衆は我が軍の先頭に立ち、敵に突撃し平氏に対する忠誠を示せ!」

言い放った。
 ここまで言われた時、新介はこいつ[大将清家]の言いたい事が初めて解った。要は、平氏にとって気に入らない今の状況は、全て越前の在庁官人が何もしなかったからであり、その責任を取れ!という事らしい。だが、義仲が戦さに勝った事、北陸諸国の豪族達が義仲に付いた事、そして北陸の平氏の知行国が皆、義仲に味方した事などは、新介ら越前の在庁官人のせいでは無い。だがそんな事はこいつ[大将清家]も分かっているのだろう。分かった上で、全てを新介ら越前衆に押し付け、何とかしろ!と駄々を捏ねているのである。

新介は、
(何て事だ。酷い事になった。つまり我ら越前衆だけで敵に勝ってみせろ、という事なんだな)
暗澹たる気分になった。

と、
「お前ら越前衆は死ぬ気で戦え!いや!死んでも構わん!分かったか!」
清家が怒鳴って念を押した。

その時、稲津新介は呼吸が止まり視界が白くぼやけた。

怒りだ。
怒りが喉までせり上がっていた。
しかも怒りで呼吸が止まったのは初めての事であった。
当然だ。死ね、と言われたのと同じだからだ。

 ふと気付くと手や足の指が握り締められていた。怒りで震えはしなかったが、全身に力が込められていたのである。
新介は鼻から静かに息をはき出し、

「解りました。良く解りました」
怒りを押さえ込んで答える。

「では行け!」

当たり散らすかのように清家は、怒鳴りつつ命じた。

「はい」
新介は踵を返し本陣を出た。
その時の新介は本陣に入って来た時とは別人の様であった。
彼はもう思い悩んではいなかった。
目付きが違う。
何か吹っ切れたような表情で、馬に乗ると自分の部隊へと戻って行った。

馬上で、
(私は決めた。自分の心に聞いて決めたんだ!)

稲津新介実澄は長い懊悩から解き放たれた。彼は遂に決断したのであった。


☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆


「親父はこの軍勢の総大将だ。後方の本陣でゆっくり戦さを見ているといい。先陣は俺と林光明どの[加賀の武将]が出るぜ。
それでいいか?林どの」
根井小弥太[四天王の一人]が発言する。

「勿論です。先陣とは光栄ですよ」
林光明が穏やかに答えた。

「解った。では先陣の林どのと小弥太には、三〇〇騎を率いてもらう」

総大将らしく根井大弥太行親[小弥太の父]が指示した。

「そして富樫入道仏誓どの[加賀の武将]と宮崎長康どの[越中の武将]は本陣で私と一緒にいてくれ。何せ私達信濃衆[長野県]は北陸の地勢に詳しくは無いからな」
大弥太行親が言うと、

「判りました。北陸の事ならお任せ下さい。なぁ宮崎どの」

「ああ。その通りだ、仏誓どの」

と、富樫と宮崎は応じた。


「石黒光弘どの[越中の武将]、津幡隆家どの[加賀の武将]、斎藤太どの[加賀の武将]は、二〇〇騎ずつ率いてくれ。そして私が本陣本隊三〇〇騎を率いる」

大弥太行親が指示すると、
石黒、津幡、斎藤太の三人は驚きつつも、

「はっ!」「はっ!」「はっ!」

答えた。
三人はまさかいきなり軍勢を任せてもらえるとは思っていなかったので、嬉しさを隠しきれずに答えた。

人間は、自分が信用されていると感じると嬉しいものだし、自分が認められていると感じると素直に実力を発揮するものである。時には実力以上の力を出す事も。こういう事を知っていて、当然の様に実行しているのは、さすが根井大弥太行親[義仲の軍事的後見人]であった。ダテに歳は喰っていない[小弥太談]。



 加賀[石川県]と越前[福井県]の国境付近で大弥太行親率いる一二〇〇騎の義仲勢根井軍と、平内兵衛尉清家率いる平氏の軍勢一千騎が睨み合っていた。義仲勢は軍議を終えて各々の武将が、自分の任された部隊へと馬を走らせた。ここに戦闘の準備は整った。開戦へのカウントダウンが始まったのである。

(まるで世界が急に明るくなったようだ)

稲津新介実澄は思っていた。

(悩みが晴れるとは、こういう事なのか。いや。単に肚を括って、覚悟が出来たからなのかもしれない)

ここ数日間、ああでも無いこうでも無いと悩んでいたのが馬鹿らしく思える程、今の新介の心は軽くなっていた。思わず笑みがこぼれる、だがここは戦場である。新介は馬上で自分の両頬を軽く叩き、深呼吸した。と、空が蒼い。なんだかいつもより鮮やかに蒼く感じる。

新介は自分の部隊に戻ろうとしていると、
「本陣での話しは何だったんだ?新介」
馬を近付けて訊いてきた者がいた。平泉寺長吏斎明[平泉寺を中心とする僧兵団の僧兵。新介のいとこ]である。

「私ら越前の者が先陣を任されたんですよ。斎明どの」

「そうであったか・・・」

「これから直ぐに出陣の命令が出るでしょう。私が一五〇騎程引き連れて先頭に立ち撃って出ますから、斎明どのは残りの一五〇騎の越前の者達を率いて下さい。お願いします」
新介が明るく言い、軽く頭を下げた。

「新介どの、悩んでいた様に見受けたが、今はそうでは無いな。一体どうしたんだ?」
斎明が目聡く訊く。

「そんな事無いですよ」
新介はとぼけて言った。
彼は自分の悩みを他人に相談しようと思った事も無いし、今は悩み自体が無くなっているからだ。


と、
「実は相談したい事があるんだ」
斎明が言った。

「何です?」
「それがな」
と、ここまで言った時、


「出陣だ!稲津新介以下越前衆は先陣を切って敵に突撃しろ!」


先程のエラそうな平氏の郎等が、怒鳴りつける様に命令して来た。

「済みません斎明どの。私は行きます」
新介が詫びつつ馬を急がせると、

「新介どの!待ってくれ!話したい事が」
と斎明が引き止めようとした。が、

「早く行け!稲津新介!」
郎等がキレた。
更に逆上して、
「お前も越前衆だろ!愚図愚図しないでとっとと出陣しろ!」

斎明も怒鳴りつけられた。恨めしそうな目付きで郎等を見た斎明。だがまた怒鳴られては堪らないので馬を返し、自分の部隊へ戻って行った。が、何故か今度は斎明の様子がおかしい。斎明は事実、焦っていた。新介を巻き込む最後の機会を奪われたから。

(ああ・・・拙僧は一体どうしたら・・・)

まるで先程までの新介の悩みがうつったかのように、思い悩む斎明であった。

「越前勢第一陣!出撃する!」
稲津新介が叫ぶ。

「おおーーーーー!!」

鬨の声を上げ、新介以下一五〇騎の軍勢は馬足を速めた。

同時刻。
「平氏方が出て来たな。よし!奴らを迎え撃つぞ!出撃!」

平氏方の様子を見ていた小弥太が叫ぶ。
と同時にこちらも、

「おおおーーーーー!!!」

応戦する為に、根井小弥太率いる三〇〇騎の軍勢も出陣した。この軍勢の中で、

「稲津新介どの・・・貴方は平氏に付いたのか・・・だが、それが新介どのの心の答えならば、仕方が無い」
林光明が哀しそうに呟いた。
だが、その呟きは誰の耳にも届かなかった。そして小弥太と共に林光明も出撃して行った。

同時刻。
(ヤッバ!始まっちゃったよ!戦さ!)

馬上で先に出撃して行った新介率いる一五〇騎の軍勢を眺めつつ、斎明は気が気でなかった。

(次は拙僧が出なきゃならん。ああ、どうしよ)
彼は馬の鞍に跨がり、貧乏揺すりをしていた。馬にとっては堪ったものではない。
と、
(まぁこうなったら是非も無い。拙僧だけで敵に寝返るとしよう。拙僧が率いる一五〇騎の兵を手土産にな)
斎明は決断した。
速い。
と同時に貧乏揺すりも止まった。
そう、斎明も新介と同じ事で悩んでいたのである。が、新介は誠実に生きる為にはどうしたら良いか、で真面目に悩んでいたのに対し、斎明は生き残る為には寝返りだろうが何だろうが実行するべき、と思っているので本来悩む必要は無かったのだが、斎明は一人で寝返る度胸が無い小心者だったから、誰かを巻き込んで寝返ろうとしていたのである。世に言う、赤信号みんなで渡れば恐くない、この名言を地で行く人物なのである。
 斎明は新介を巻き込んで敵に寝返るつもりだったが、その話しをする前に戦さが始まってしまったので、彼は仕方無く、自分一人で寝返ろうと決めたのであった。

(だが、いつ寝返ったらいいんだ?時機[タイミング]が難しいぞ・・・)

斎明は新たな問題に直面していた。いつの間にか貧乏揺すりが復活している。

「皆!私から話しが有る!そのまま馬を走らせながら聞いてくれ!」

新介が馬上で叫んだ。

今、この部隊一五〇騎は、敵の先頭目掛けて馬を駆けさせていたが、新介は馬足を少し緩めて兵達に向い、

「私は先程、本陣で平内兵衛尉清家から、越前衆は死んで平氏の恩に報いよ!と命じられた!
こんな命令をする者には恩も無ければ、こんな命令に従う義理も無い!
従っている者達に死を命じる者は主君では無い!
私は今より平氏を見限り、眼の前にいる義仲勢に加わる!皆はどうする!」

大声で訊くと、

「我らも稲津どのと共に義仲に付く!」

「死んでたまるか!いや!平氏に殺されてたまるか!」

「我ら越前の者達は今より義仲に従う!」

と兵達は口々に叫んだ。
最後に、

「稲津どの!我ら全員、稲津どのと共に行く!」

と新介の横に馬を付けている武将が言った。

「藤島助延どの!有難う!」

新介は以前から顔見知りの藤島右衛門尉助延[越前の武将]に礼を言い、頭を下げた。
続けて、

「では後は総てこの私に任せてくれ!皆は馬足を緩めこのまま少しずつ前進!私が一人で義仲勢の先頭部隊の将と話しを着けてくる!解ったか!」

「おおおーーーーー!!!」

新介は単騎で駆け出す。
そして振り向きながら、

「藤島どの!兵達は貴方に任せた!お願いします!」

言いつつ馬を思いっきり駆けさせた。


「何だ?一騎だけ前に出て来るな?」
小弥太が最初に気付いた。
と、敵の先頭部隊の前進速度も先程よりも遅くなっている。

(何か様子が変だ・・・)

小弥太は、
「少し馬足を緩めろ!」
軍勢に命じた。

「あれは・・・!
あれは稲津新介どのです!
もしかしたら・・・小弥太どの!
ここは私に任せてくれませんか!」

林光明が言うと、

「ああ。林どのと富樫どのが前に言っていたアレか。秘密で動いていたとかいう。解ったよ。ここは林どのに任せる。だが、進軍は止めないぜ」

小弥太が面白そうに言う。

「有難い!では!」
と、林光明は礼を言い、これまた単騎で駆け出して行く。
稲津新介に向かって。

☆ ☆ ☆

「ん?一騎討ちでもやるのか?」

成り行きを遠くで見ていた平内兵衛尉清家が首を傾げて言った。

ここは平氏方の本陣。
味方の先頭から一騎、駆け出したと思ったら、敵からも一騎出て来たのである。

と、
「まぁいい。それよりも第二陣の越前衆も出させろ!急げ!」
清家が怒鳴った。

「はっ!」
郎等が駆け出して行く。


「新介どの!稲津新介どの!」
林光明が叫びながら駆けて来た。

と、
「林どの!私達越前衆はこれより平氏を見限り、義仲勢に加わります!」
新介が答えた。

新介の表情は明るい。林光明も表情を緩めつつ馬を近付けた。

そして穏やかに、
「心に聞かれたか?新介どの」
訊いた。

「はい」
新介も穏やかに答えた。


「では今より共に戦おう!
新介どの!」
林光明が満面の笑みで力強く叫んだ。


「なんだぁ?」

斎明は眼を疑った。第二陣として越前衆一五〇騎を率いて出撃していた斎明は、目の前で起きている事に驚いていた。先頭の新介率いる一五〇騎の軍勢が、敵の先頭部隊と合流し、あろう事かこちらに向かって進軍して来たのである。

(何だよ!新介、お前も最初から寝返るつもりだったのかよ!早く言えよな!そういう事は!)

少し腹が立った斎明だったが、

(でもまぁ、これでやり易くなったからいいか。新介に続いちゃえばいいだけだからな)

ニヤリと嗤いつつ斎明は、
「稲津どのが平氏を見限った!我らも稲津どのに倣い、これより平氏を見限り、義仲勢に合流するぞ!」

叫ぶと軍勢の速度を落とさせ、前進させた。この第二陣の部隊でも、平氏を見限る事に反対する者は居なかったようである。


「一気に叩く!突撃ーーー!!」


小弥太が叫び、部隊を突撃させた。本陣を出る時に三〇〇騎だった先頭部隊は、新介と斎明の部隊の越前衆を加え、その数は倍の六〇〇騎となっていた。対する平氏方は全軍で七〇〇騎に減り、一方義仲勢は全軍で一五〇〇騎に増えていた。この戦場での勝敗は、この一度の突撃で決まった。


「退け!退けェーーーーー!!!」



平内兵衛尉清家が怒鳴っている。そして怒鳴りながら馬に乗り、逸早く逃げ出した。と、横を見ると、郎等が一騎従っていた。そう、あのエラそうで横柄な郎等であった。

その郎等が、
「全く越前の奴らは信用出来ません!卑怯者だらけです!」
愚痴っている。

清家もそれに同調し、
「本当だな!今回退却しなければならなくなったのは全部、越前の奴らのせいだ!責任は全て奴らに有る!」

自分の事は棚に上げ、同じく愚痴りながら怒鳴っている。やはりこいつら[清家とエラそうで横柄な郎等]は何があっても人のせいにしたがるらしい。いや、人のせいにしてしまうような者達であった。それはさて置き、たった一度の突撃で、約二〇〇騎以上の兵を討たれてしまった平氏方の残兵約五〇〇騎は、退却と言うよりも、逃げ出す、と言う感じで総大将平通盛の居る越前国府に退いて行った。


「追撃の手を緩めてはならん!越前国府から平氏方を追い出すまでは、追撃に追撃を重ねろ!だが出過ぎてはいかん!そう小弥太に伝えろ!」

本陣で指揮している大弥太行親が郎等に命じた。

続けて、
「本陣も進軍する!
 全軍、出発するぞ!」

と、小弥太率いる六〇〇騎の先頭部隊を追うように、大弥太行親率いる九〇〇騎の軍勢も速度を上げ進軍した。


「平通盛様!一刻も早く国府から退かれた方が良いと思います!敵の義仲勢は直ぐにもここ越前国府に攻め寄せて来るでしょう!我々が退却している時にも、常に後ろから攻め掛かって来たのです!どうか一刻も早く御退き下さい!」

総大将平通盛の前で頭を下げて言い募っているのは平内兵衛尉清家。
小弥太らに追い回され、やっとの思いで越前国府に帰り着いたものの、迎撃の準備などまるでしていなかった総大将通盛に、退却を促していたのである。

と、
「ここを出るのは良いが、どこへ行けばいいのか?」
何とも呑気に通盛が言った。

これでも総大将なのである。
そんな通盛を見て清家は、怒鳴りつけたくなったが、ぐっと堪え、

「敦賀城[現福井県敦賀市]まで退き、そこに入城しましょう!」
必死で言った。

すると、
「良かろう」
通盛は答えた。
が、急いでいる様には見えなかったので、清家は更に、

「急げ!敦賀城まで退く!急げ!急げ!」

部下達に怒鳴りつけながら命じた。本心ではやはり総大将通盛に対して怒鳴りつけてやりたかったが。ともあれ平氏方は越前国府を出て、敦賀城に移ったのである。



 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆


 北陸で戦闘が始まったのが九月六日、そして三日後の九月九日には越前国府から退いた平氏方が籠城する敦賀城に到着していた義仲勢であった。

 そして更に三日が経った本日九月十二日。

「どうか私にやらせて下さい!
 敦賀城は私が落として見せます!」
新介が言った。

 敦賀城を囲んで布陣している義仲勢根井軍本陣。軍議の席での事である。根井大弥太小弥太親子、林、富樫、宮崎、石黒、津幡、斎藤太、藤島、斎明と、北陸の諸将が勢揃いしている中で稲津新介が発言したのである。

これを聞いて、
「ここまで言ってるんだから、新介どのに任せたらどうだ?親父」
小弥太が言う。

と、
「有難うございます!小弥太どの!では今から私が行って」
新介が今にも飛び出して行きそうになる。

「まあ待ちなさい。稲津新介どの」
我々が何かしなくても、どうせあの城はすぐに落ちますよ。おそらく数日中には」
大弥太行親は断言した。穏やかに微笑みを浮かべて。

と、
「まぁ焦って逃げ込んだあの城に、食糧とかの蓄えなんか有る訳無ェからな。でも平氏方が出て行くのを何もしないでボーッと待ってるだけってのもどうよって話しだ」
小弥太が大弥太行親に向かって言う。

「その通りです!やはりここは私に!」

「まあまあ、よく聞いて下さい、新介どの。
必ず平氏方は退却して行くのです。わざわざこちらから攻め掛けて、損害を増やす事も無いでしょう。
兵や将の生命は替えがきかないのですから。
それに、今は私がこの軍を指揮していますが、本来は義仲どのの軍なのです。義仲どのがここで指揮していたのなら、やはり将兵の生命の事を考え、こうするでしょう」

大弥太行親が表情を引き締めて言った。

それを聞いていた新介は、不意に、胸に何かが込み上げて来た。
思わず涙が溢れそうになっている自分に驚きつつも必死で堪えていた。


思えば平氏方の大将、平内兵衛尉清家からは、

「お前ら越前の者達は死んでも構わん!」

と、自分達越前の者を虫けらか何かの様に言われ、また扱われていたのだ。

(将兵の生命は替えがきかない)


人間として、武将として、そして大切な味方として扱われている事に、新介は思いっきり素直に感動していた。

と、
「そうだな。義仲様ならそう命じるだろうな。新介どの、ここは聞き分けてくれ。俺からも頼む。な」

新介に向かい、小弥太が頭を下げた。更に驚いた新介だったが、

「解りました」

何かに満たされ、答えるのが精一杯であった。

本陣の雰囲気は温かいものに変わっていた。
しかし、そんな小弥太と新介の遣り取りを冷たい目で見ている者が、この場にいたのもまた事実であった。



 九月十二日。その日の夜、総大将平通盛率いる追討軍は敦賀城から退却した。いや、やはり逃げ出したのである。ここに敦賀城は落城した。そして源義仲に対して行われた一回目の追討軍は、何も出来ずにここに敗北したのである。

みんなにも読んでほしいですか?

オススメした記事はフォロワーのタイムラインに表示されます!