その時 木曽殿の動きは #12
解説
C O M E N T A R Y
――――――――――――――――――――――――――――――
大河ドラマ「鎌倉殿の13人」に合わせ義仲陣営を「説明」
――――――――――――――――――――――――――――――
【監修】義仲館P 西川かおり
北陸武士の参陣
横田河原合戦の勝利は義仲にとって大きな成果をもたらしました。
1 官軍と戦い都に認知される
横田河原合戦は、都での官位を持ち平清盛に賊軍追討を命じられた城氏との戦です。そのため戦の経過は簡略で勘違いが含まれていても都に伝えられ、文献に書き残されました。義仲の名が確かに歴史に刻まれた瞬間でした。歴史学では同時代の記録に残らない限り「実証できない」の一言で軍記物などの記述は軽んじられてしまうため、この勝利は信濃国にいた義仲の存在証明ともいえるのです。
2 北陸武士が集結
信濃国は平家の支配を受けず、その政権下においても比較的平穏な情勢が続いたと考えられます。しかし、北陸の諸国は直接平家に支配され、もともと地域に根を張っていた武士たちや寺院と、対立が生まれました。
「平家物語」の序盤に描かれる安元事件が象徴的な出来事です。これは加賀国に派遣された役人が白山神社の涌泉寺を焼き払ったため、僧兵たちが延暦寺僧兵の協力を得て朝廷に強訴したというものです。当時の地方寺社には地元武士の子弟が要職についていることが多く、この事件も寺による強訴というだけでなく、広く地元勢力の反感が平家に向けられていた表れです。しかし北陸には平家に対抗出来る旗印となる人物がおらず、不満と不安が高まっていました。
義仲が横田河原合戦で平家と繋がりが深く越後平氏を名乗る城氏に勝利したことで、北陸の武士たちの期待が一気に義仲に集中しました。また、富山県の武士・石黒、宮崎の本拠地は八条院領で、挙兵前から信濃国の武士と何らかの繋がりがあったかもしれません。また義仲の父が一時期赴任していた能登は北陸で最も早く反平家の動きが起こりました。
越前は都に近く、当初平家に味方していましたが、情勢を見て義仲側に参戦しました。そこには真っ先に義仲のもとにはせ参じた加賀武士が越前武士と同じ「越前斎藤氏」を名乗る一族だったことも影響しています。
略年譜
H I S T R Y
―――――――――――――――――
義仲をたどる
―――――――――――――――――
久寿元年(1154年) 誕生
|
久寿2年(1155年)8月16日
大蔵合戦で父を討たれ、信濃へ
〇中原兼遠に養育される
|
保元元年(1156年)7月11日 保元の乱
海野ら信濃武士団は後白河法皇方(源義朝・平清盛など)に参戦
平正弘は敵対する崇徳上皇方(源為義など)に参戦
|
平治元年(1160年)12月9日 平治の乱
ほとんどの信濃武士が参戦せず
|
●仁安元年(1166年) 元 服
|
〇諏訪社に婿入りし娘が生まれる
|
〇承安3年(1173年)?
嫡男・義高生まれる
|
治承3年(1179年)
仁科氏・覚園寺(大町市)千手観音開眼供養
善光寺(長野市)炎上
|
治承4年 (1180年)
4月
以仁王の挙兵
9月7日
市原の合戦
義仲依田城(上田市)へ
9月11日
菅冠者自刃
|
10月13日
義仲上野国へ。上野国府周辺の混乱をおさめ、
父・義賢の家臣を味方に加える。
その際に様々な武士への安堵状を作成したのか、
北信濃の武士・藤原資弘への下文が現存する
|
12月24日
義仲信濃へ戻る
|
養和元年(1181)年
4月15日
義仲、笠原行連に安堵下文発給
|
6月13・14日
横田河原の合戦