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伝承の館(岡山・兵庫・広島編)

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地蔵院

地蔵院

義仲の三男・義重と太夫坊覚明が30余人を率いて1184年にこの地に落ち延びた。1185~90年ごろ寺が開かれたという。享保元年(1716)川尻字覚明島から現在地に移転した。

広島県尾道市向島町川尻 向島町

浄運寺

浄運寺

山吹御前は室津で友君と呼ばれ、遊女として暮らしていたという。 讃岐に流罪になった法然が浄運寺に立ち寄った際、その教えを受け出家し、浄運寺には法然、友君の像がある。

兵庫県たつの市御津町室津168

少林寺

少林寺

臨済宗相国寺派少林寺は1331(元弘元)年茂賀山城(滋賀県彦根市)の城主・小林渡之助宗政治が木曾(源)義仲父子三代の菩提を弔うため、義仲の父義賢が地頭であった当地に一宇を建立したと伝えられている。

兵庫県丹波市春日町朝日

満願寺

兵庫県川西市満願寺町7−1

 源満仲が多田に本拠を置いた時、満願寺に帰依し、末子が出家したのち一時当寺に居住したという。
 満願寺文書によると源頼朝は満願寺に対し寺内での武士の狼藉を禁止し、源家先祖ゆかりのある地で、武家祈祷所として祈祷の忠を励むよう要請しているという。写しだが寿永二年(一一八三)一二月一〇日の日付があり、まだ義仲が都で勢力をもっていた時期のため様々な意味で検討を要する文書といえ

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山口庄

義仲によって1183(寿永2)年8月に山口庄を本拠とする武士・山口家任は本領を安堵された。もともと山口庄は山口家修の所領で源頼義から拝領したものだったが、平家に奪われていた。山口家任は義仲が敗れると義経に従ったようだが、文治3年に源頼朝の面前で源頼義の下文を見せて、これまでのいきさつを語ったところ許されたという。

兵庫県朝来市山口

温泉庄(ゆのしょう)

温泉庄(ゆのしょう)

義仲に関わる古記録に登場する。「寿永2年(1183)、平季広とその子季長が木曾義仲と共謀して当庄を義仲の所領と称し、運上途中の年貢雑物以下を押取り、庄庫を追捕し、納米等を運び取った」(後白河院庁下文案)として庄官等から訴えられている。

兵庫県美方郡新温泉町

妹尾

岡山県岡山市南区妹尾

両児神社

両児神社

義仲の中国地方出兵の際戦場となった。神功皇后ゆかりの御太刀、鏑矢、朕懐石3品の宝物を持つ神社で、戦の前に地中奥深く隠したので奪われる事を免れたが、150年たった後宝物を地中から取り出した処、長年の月日の為、朽ち損なわれていたという。その宝物は現在境内の戌亥の方位に御太刀を御神体とした御太刀神社が末社としてお祀りしてある。

岡山県倉敷市松島943

可真郷

妹尾合戦で義仲は、兼康の造った福輪寺の防御施設に行手を阻まれた。しかし可真郷の住人惣官頼隆の案内で鳥岳を回り佐々の井より兼康の立籠る「佐々か迫」を攻めたという。

岡山県赤磐市稗田857-3

和気渡

妹尾合戦で義仲軍勢は和気渡を渡り、可真郷に入った。

岡山県和気駅

万寿庄

妹尾合戦で勝利を収めた義仲軍勢は、八島へ向かうために万寿庄に勢ぞろいしたという。

岡山県倉敷市北浜町1-40

板倉

妹尾合戦で妹尾兼康は本拠地を板蔵城におき、板倉河で倉光次郎成澄を打ち取ったという。

岡山県岡山市北区吉備津1108

津島村

妹尾合戦で、義仲軍勢を迎え撃つため妹尾兼康は福りうじに縄手を掘り切って逆茂木を引いた。福りうじは津島村の中にあった。

岡山市津島本町